『若紫』の帖は進む*其の二
藤壺女御の話をする光は、様子のおかしい葵に気付いているのかいないのか、いつもと変わらずリラックスした雰囲気だ。
「主上はよく、『藤壺と桐壺は瓜二つなのだから、そなたも藤壺を母と慕い、仲睦まじく親しんでおくれ』と言うのだけれど、少し無理があると思わないかい? 仮に藤壺の方が母上と瓜二つだったとしても、入内当時、彼女は十四、五といったお年頃だったはずだよ。四つ五つしか離れていない姫君を〝母〟と慕うなんて、藤壺の方にも失礼だ」
「そ……そう、かしら、ね?」
「私はそう思ったよ。初めて引き合わされたとき、藤壺の方も主上に『この子を実の子とも思って親しくして欲しい』と言われて、相当に戸惑っていらっしゃるご様子だった」
「……お顔を、拝見したことがあるの?」
「あのときは私もまだ、元服前だったからね。藤壺の方に限らず、父上が女御様とお会いする際は、よくお供させられたものだよ」
当時を思い返したのか、光はやや渋い顔になる。
「父上は悪い方ではないけれど、何というか、私の扱いがとても極端だったとは思うね。いくら元服前とはいえ、女御方のご尊顔を真正面から拝せる位置に、血の繋がらない皇子を座らせるのはやり過ぎだ。私が葵から、女人への失礼にならない接し方を教わっていなかったら、元服しても平気で御簾の中に入ろうとする、浮ついた男になっていたかもしれない」
「あー……可能性は、高いかも」
「それどころか……私と離れ難いからと、随分大きくなるまで、女御方との閨のほど近くに、私の寝所を設けていた。大人になった今なら分かるが、男女の睦み合いは、幼い我が子とはいえ他人に見せるものではないよ」
「その辺は、宮中という場所しかご存知ない帝ならではの、感覚のズレかもしれないわ。女御方との〝夜〟を女房たちが見聞きしているのが普通で、女房たちの恋人との情事だって、夜に後宮を歩いていればやっぱり普通に見聞きするじゃない? 物心ついてからずっとそんな環境でお育ちになって、御位に就かれたわけだから」
「……だとしても、物心つくかつかないかくらいの年頃の子を、自身の閨のすぐ近くに寝かせるのは、話が違うと思うけど」
「それは、うん、非の打ちどころのない正論ね」
葵の〝前世〟の平安時代における性教育がどうだったのかは知らないが、この〝概ね平安時代〟では、女性は近しい同性の親族から夫を迎える年頃に、男は元服した頃合いで歳の近い親戚男性や友人から春本を教科書代わりに、それぞれ教わるのがスタンダードだ。まぁまぁませた子だと、創作物の〝そういう場面〟などからふんわり雰囲気を読み取り、教わる前に概要を知っていることもあるけれど、建前上はそういうものとされている。
――要するに、父親が女と睦み合う光景を寝物語にしていた光の養育環境は、この世界でも充分、とんでもないわけで。葵がそれを知らされたのは、何も知らない光が「素敵だと思う女人には口付けたら良い」くらいの感覚でいきなりキスしてきた少女時代だったが、知った時点で内心激怒しつつ、その日のうちに父左大臣へ告げ口し、光の寝所を桐壺固定にさせたことがある。
(そういえば今更だけれど、あのときは頭に血が上りすぎて、〝源氏の君のプライベートをわたしが詳細に知っている〟現実についての言い訳をすっかり忘れていたのよね。なのにお父様は一切わたしを疑わなかったから、たぶん、『神託』を得たとでも思われたのかしら)
「なぜそんなことを知っているのだ」という質問すらされなかった。記憶を取り戻した四つの頃から色々やり過ぎたせいか、父左大臣は葵の言葉を信じ過ぎる傾向にある気がする。信じてもらって困ることは何もないので、ここは『アーカイブ』様々という結論にでもしておこう。
――危うい環境の中、奇跡の如く真っ当に育った葵の夫は、自身の過去を思い返すほどに異常を実感しているのか、苦虫を一気に百匹噛んだくらいの渋面と成り果てた。そんな顔すら美しいのだから、なんというか、美形はすごい。
「ある年頃から、父上の夜のお供をすることはなくなったけどね。藤壺の方が入内された頃まであの状況が続いていたらと思うと、背筋が寒くなるよ」
「少なくとも、そんなことになったら、藤壺様は気まずいなんてものじゃないでしょうね……」
「父上は本当に、悪い方じゃないんだが……何というか、他者に対する気遣いが、たまにもの凄くズレるんだよね」
「……なんとなく、分かるかも」
相手は今上帝なので一応〝なんとなく〟をつけたが、心情としては〝分かりみ深し〟だ。正直、光が子どもの頃、肝心なところでポンコツ化していた原因の六割くらいは、帝としてはとてつもなく優秀なのに私人としてはやることなすことズレまくる、そんな父親の影響ではと勝手に分析している。
「そもそも、入内の経緯からして、藤壺の方にしてみれば面白くないんじゃないかな? 父上が藤壺の方を望まれたのは、彼女が亡き母上と瓜二つと聞き及んだからという話だけれど、どれだけ顔が似ていたって、藤壺の方は母上じゃないんだ。それなのに、昔死んだ妻と似ているなんて理由で、父親ほども歳の離れた男性に求められて、そう歳の変わらない男児を『我が子と思ってほしい』とか言われるんだよ? 葵だったらどう?」
「うーん……そもそもまず、その状況下じゃ絶対入内しないかなぁ……」
「聞いた話によると、藤壺の方も最初は、特に母君が随分と反対されたとかで、入内の話は消えかけたらしいけれどね。その母君が亡くなって、『娘同然の扱いをしよう』と申し入れてきた父上のお手を取ったそうだよ」
「若くして庇護者を失ったから、ってことよね? だとしても、入内はしないと思う。普通にどこかで働くか、貴族に売れそうなもの作って生活基盤を確保するわ」
「……京中探しても、そんなことが言えるのは葵だけだろうね」
苦笑しながら言った光の言葉に、楓が深々と頷いている。し、葵自身も言ってから、この回答はちょっと違うなと思った。
「まぁ、うん、わたしはたぶん、そうするけど。皇女の暮らしを享受していらした藤壺女御様が、母后様を喪い、別の庇護者をお求めになったことは、至極当然でしょう。『娘同然に』って申し出があったなら、余計にね。ただ――主上に対して不敬だけれど、『娘同然の扱い』と仰ったのなら、藤壺の方を女性としてお求めになってはいけなかったと思う」
「そうなんだよね……」
「藤壺女御様からしてみれば、『娘同然に』と仰った主上に閨で求められ、全く見知らぬ赤の他人の面影があるという理由で主上の愛と周囲の妬みを一身に受け、あまつさえ母親代わりまで求められるのよね……。入内前の女御様がどの程度宮中の状況をご存知だったかにもよるけれど、仮に全部承知した上で輿入れしたのだとしても、十五歳前後の女の子に、それはなかなかハードだわ」
「はぁど?」
「あ、ごめん。厳しい、辛い環境だってこと」
ついうっかり前世の言葉が出てしまったが、光もまた、葵がたまに使う知らない言葉は『異能』で得たものと理解してるらしく、意味を問われたことはあっても出所を聞かれたことはない。『アーカイブ』様々アゲインと同時に、『異能』が皇族の中で広く周知されている環境にも感謝である。
「そう考えれば、藤壺女御様が体調を崩されて、しばらくの間宮中から離れたいと思われるお気持ちも分かるわね……」
「本当に。藤壺の方は、いかにも皇女として大切に育てられたような、穏やかで気品ある女人だから、余計に宮中の空気は合わないことも多いだろうし」
「……光って、藤壺様と親しいの?」
「うーん……父上の手前、他の女御方より交流は多いと思う。何かといえば、私と藤壺の方を親しくさせようとするんだよ。母を亡くした私を憐んで、せめて母と似た人との仲を深めようと気を遣ってくれているんだと思う」
「それで……親しく?」
「親しい、というほどでもないかな。個人的なお付き合いはないし。父上が同席していらっしゃる場で、お互いに意識して、親しく見える会話を交わすくらいで」
さらりと答える光に気負いはなく、藤壺女御に対しても、話している以上の感情はないように見える。




