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巡り逢ひて*其の九


 菊乃は感情的に振る舞う紫を幼いと気に病んでいるけれど、祖母である彼女もまた、相当な感激屋だ。こういう祖母に育てられたから紫が感情豊かに成長したのか、あるいは菊乃の血筋がもともと情緒の忙しい人たちなのか、その辺のことは分からないけれど、この祖母と孫はよく似ている。

 祖母に褒められて嬉しそうな紫は、そのままのテンションで「そうだ!」と声を上げた。


「葵さま! ゆかりね、犬君と仲直りできたよ!」

「まぁ、それは良かったですね。どのようにお話しされたのですか?」

「えっとね。葵さまからお聞きしたお話を犬君に教えたの。『人と仲良くするには、相手が嫌だと思うことじゃなくて、相手に良いなと思ってもらえることをするのが大切なの。犬君、さっきは怒っちゃってごめんね』って」

「上手に説明できましたね。それに、自分から謝れて、とてもご立派です」

「だって、ゆかりだったら、いつまでも怒ってる人と、仲良くしたくないもん。それに、怒ってるからって遊ばないって意地悪言う人とは、ゆかりも遊びたくないから。――自分が悪いと思ったら謝りましょうって、前に読んだ本に書いてあったよ?」

「その通りです。やはり紫様は、とても物覚えがよろしいですね」


 手放しの賞賛に紫はくすぐったそうな表情で笑い、興奮したのか身を乗り出してくる。


「それでね。ゆかりがそうやって謝ったら、犬君も『私も、ゆかりさまの大切な雀を逃してしまって、もうしわけありませんでした』って謝ってくれたの! 『これからはゆかりさまを見習って、仲良くしてもらえるように頑張ります』って言ってくれたから、『じゃあ仲直りしましょう』ってお返事した!」

「なんて素晴らしい仲直りでしょう。きっと、紫様と犬君は、これからもっと仲良くなれますよ」

「うん! ゆかりもそう思う!」


 にこにこ笑った紫は少し考えてから、「葵さま、お近くへ行っても良いですか?」と尋ねてくる。断りなく他人の近くへ寄るのは無作法だという教えを、頑張って思い出したのだろう。

 その素直な仕草が可愛らしく、思わず満面の笑みになりながら、葵は大きく頷いた。


「もちろんですとも。どうぞ」

「はい!」


 良い子のお返事をし、いざり寄って来た紫は、葵の手をぎゅっと握って。


「葵さま、ありがとうございました。犬君と仲直りしたらね、他の子もみんな笑って、犬君と遊ばないって言ってたときより、ずっとずっと楽しく遊べたの。ゆかりを楽しくさせてくれて、ありがとう!」

「どういたしまして。ですが、一つだけ申し上げますと、犬君と仲直りできたのも、他の子たちと楽しく遊べたのも、わたしの力ではなく、紫様が頑張られたからですよ。わたしは、紫様が頑張れるように、ほんの少しだけ紫様のお心へ水を注いだに過ぎません。感謝のお言葉はありがたく受け取りますが、何よりもまず、ご自分のことをしっかり褒めてあげてくださいね。もちろん、お祖母様にもたくさん、たくさん、褒めて頂いてください」

「……ゆかり、頑張った?」

「えぇ、とても。紫様は、本当に良いお子でいらっしゃいます」


 瞳を潤ませた紫は、やはりそろそろ眠いのか、ぴたりと身体を預けてきた。


「……紫様? どうされました?」

「んー……? あおいさま、すごくおやさしい匂いがして、落ち着くの……」

「……そろそろお眠いのではありません?」

「ねむく、ない……」


 言いながら、紫は葵の腕に手を回し、ぎゅうと抱きついてくる。小納言が慌てて紫を引き離そうと腰を浮かせかけたのを、視線だけで「大丈夫」と留め、葵はそっと体勢を変えて紫と向き合うように座り直した。

 そのまま、とんとんと一定のリズムで、紫の背を叩く。


「眠いなら、お眠りになって良いのですよ」

「……ねむく、ないの」

「あらあら。まだ寝たくありませんか?」

「…………ん」


 微かに頷いた紫は、とても入眠直前とは思えない力で、葵の腕にしがみついて。


「……だって。ねたら、あおいさま、いなくなっちゃう……」


 ただでさえ絆されかけていた葵の心をド直球で射抜く、健気さしかない呟きを落としてきた。


(……ダメだ。これは、もう、無理だわ)


〝概ね平安時代〟なこの世界の人々は、基本的に陽が昇ると同時に起きて、陽が沈むと完全なオフになる、超朝方の生活をしている。他所の家へお邪魔するときも同様で、日の出と一緒に起床し、まだ薄暗いうちにお暇するのが普通なのだ。

 とはいえ太陽基準で動いているのは大人だけで、長い睡眠時間が必要な子どもは、大人ほど厳格に日の出日の入りのサイクルに合わせてはいない。そのため、訪問先に子どもがいる場合、客は子どもが寝ているうちに帰っている。この賢い姫君は、〝祖母を訪れた客人は、朝起きたら居ない〟ことを、経験則として知っているのだろう。


(そもそも、光のときに分かってたことじゃない。いくらわたしが〝この世界〟に思うところあって、未来で大切なものを奪うかもしれない存在に勝手な恐怖を抱いていたって、そんなこと、〝今〟を生きている目の前の〝子ども〟には、何の関係もないって)


 あの小さな桐壺の庭で、膝を抱え孤独に震えていた幼子と、邂逅したときから。

 葵が知っている『源氏物語』を理由に、精一杯の〝今〟を生きる小さな命から目を逸らすのは、自身が最も忌み嫌う、〝子ども〟に対する不誠実な振る舞いに他ならないと。


(……周囲からの愛を上手に受け取れず、愛を求めて泣く、この子が。わたしと関わって、周りからの愛に気付いて、自分を上手に愛せるようになる、なら。関わらない理由なんて、ないのよ)


 ――たとえ、その先の道に、葵を絶望へ突き落とす未来が、待っていたとしても。


(今、この子の手を取らない方が。きっとわたしは、後悔する)


〝葵の上〟が足を踏み入れるはずがなかった北山で、〝光源氏〟が興味を欠片も示さなかった〝若紫〟と巡り逢い、その心の内に触れた。

 これが葵の運命(さだめ)なら……待っているかもしれない絶望ごと、愛してみせようではないか。


「……大丈夫、ですよ」


 諦念と決意は、一瞬。

 押し寄せた怒涛の感情の波を意思の力で抑え、葵は紫を、優しく、ぎゅっと、抱きしめた。


「菊乃様にお願いして、紫様がお目覚めになるまで、こちらで待たせて頂きます。お目覚めになったら、またお話ししましょうね」

「……ほんとう?」

「申しましたでしょう? わたし、嘘はつきません」

「うん……」


 安心したのか、頷くが早いか紫の瞼は落ち、ややあってすうすうという寝息が聞こえてくる。客人を迎えるという、ただでさえいつもと違う環境の中、怒涛の感情に翻弄され続けたわけだから、当人が思う以上に疲れていたのかもしれない。


「き、北の方様、申し訳ございません……!」


 オロオロしながら平伏する小納言へ、葵は吹っ切れた笑顔で首を横に振る。


「姫君のお好きにさせてあげてほしいとお願いしたのはわたしです。こちらこそ、客人の身でありながら、図々しくもお家の内々へ踏み込むような真似を繰り返したご無礼、お詫び申し上げますわ」 

「とんでもない……!」


 首を横に振る小納言へ、そろそろ眠りが深くなり、腕の力が緩んできた紫を預ける。さすが乳母なだけあり、十歳前後の紫は重いだろうによろけることなく抱き上げて、彼女は静かに下がっていった。

 二人を見送ってから、改めて菊乃へ視線を向けると、彼女はどこか縋るような、それでいてもの寂しげな、なんとも言えない色の瞳で、葵をじっと見つめていた。


「……菊乃様?」

「葵様。本当に、姫が目覚めるまで、居てくださるのですか?」

「ご迷惑でなければ……」

「迷惑など、あろうはずもございません。姫が、出会ったばかりの方へあれほど懐くのは、初めてなのです。目覚めた際に居てくだされば、どれほど喜ぶことでしょう」

「ならば、お作法とは外れますが、明日の朝、お外が明るくなるまで、こちらにお邪魔いたしますね」


 菊乃へそう告げ、葵は背後を振り返って、楓に光への伝言を頼む。『原作』では何故かこの庵に一晩泊まっていたし(初対面の『僧都』や『尼君』に姫を引き取らせてほしいと頼み込む不審者と化し、当然ながら断られていた)、翌日も結局陽が高くなるまで北山にいた描写があるから、おそらく問題はないだろうけれど。


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いずれは養女にして引き取るコースになりそうだ
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