巡り逢ひて*其の六
ハラハラした様子の菊乃へ目線だけで微笑みかけ、無言で「気にせず任せてほしい」と伝えつつ、葵は穏やかに紫へ語りかける。
「周りの人に〝礼儀正しい〟と思ってもらうとはどういう意味か、分かり難いですか?」
「……うん」
「そうですね。では、紫様にも分かり易いよう、喧嘩なさったという犬君という子を例にしましょうか」
身近な人物の名が出てきたからだろう。紫がこれまでとは違う、はっとした顔で葵を見てくる。
「犬君?」
「はい。紫様は犬君に怒って、『遊びたくない』と仰ったそうですが、それはどうしてですか?」
「だってね。犬君、ゆかりが大事にしてた雀の子を逃しちゃったの。逃げないように、ちゃんと籠に伏せておいたのよ。それなのに、勝手に籠を開けちゃって」
「まぁ。それは、とても嫌な思いをなさいましたね」
「うん。だから、もう、犬君とは遊ばないの」
「また、嫌な思いをしたくないからですか?」
「そう!」
大きく頷いた紫へ、葵も穏やかに首肯を返して。
「今の紫様と同じように、自分を嫌な気持ちにさせる人とは一緒にいたくないと、多くの人は思います。〝礼儀〟とは、接する相手を嫌な気持ちにさせないように、これまで生きてきた大人たちが考えて積み重ねてきた、人付き合いの決まりのようなもの。〝礼儀正しい〟と人から思ってもらうとは、〝この人は相手を嫌な気持ちにさせないようにお気遣いができる〟――つまり、是非とも親しくお付き合いしたいと、初めて会った人にも感じてもらえる人になる、ということなのです」
葵の言葉を頷きながら聞いていた紫は、次第に表情を明るく輝かせていく。子どもが子どもなりに考え、「分かった!」と瞳を煌めかせる瞬間が、前世も今世も、葵は大好きだ。
特に紫は素直な分、リアクションも大きい。顔を輝かせたまま、彼女は勢いよく身を乗り出してきた。
「お祖母様が、お作法のお勉強を頑張るようにと仰るのも、人前で無作法をしては、見ている方を嫌な気持ちにさせてしまうから?」
「えぇ、そうですよ。お作法がきちんとしている人と無作法な人とだったら、紫様とてきちんとしている人と、お友だちになりたいでしょう?」
「お歌や楽器の手習をするのも?」
「上手なお歌をもらって嫌な気持ちになる方はそういらっしゃいませんし、美しい音色は人の心を癒します。もちろん、単純にお歌や楽器が好きで、上手くなりたくて練習なさるのも、それはそれで良いことですわ」
「お勉強やお手習だけじゃなくて、好きなこともして良いの?」
「当たり前ではありませんか。わたしとて夫ある身ですが、ありがたいことに自身のやりたいことを、自由にさせてもらっています。学は己の身を助け、遊興は心を豊かにするという言葉の通り、しっかりお勉強して、手習して、好きなことも思う存分楽しんでこそ、人は健やかに大きくなれるのですよ」
何度も頷きながら、食い入るように葵の話を聞いていた紫は、いよいよ葵の眼前まで近づいて。
しかし、はっと気づいて少し離れると、先ほどとは異なりきちんと姿勢を正して、葵の前に座り直した。
「――あらためて、ご挨拶させてください。お初にお目にかかります。わたくし、兵部卿宮が娘にございます」
「ご丁寧な挨拶、誠に痛み入りますわ。藤原左大臣が娘にして、源中将が妻の、葵と申します。どうぞお心易く、お呼びくださいませね」
「……わたくしは、紫と呼ばれております。わたくしの名もお呼び頂ければ、嬉しく存じます」
「はい、紫様。これからどうぞ、よろしくお願いいたしますね」
「! ――はい、葵さま!!」
満面の笑みになった紫は全身で「褒めて褒めて」と訴えてくる。教わった通り、上手に挨拶できた自覚があるのだろう。どことなく自慢げに、彼女は葵の反応を待っていた。
(……本当に、可愛らしい子だわ)
紫と接すれば接するほど、こんな幼子を(自分好みの女に調教できそうだという下衆な理由で)妻にと望んだ『光源氏』にドン引きするけれど、確かにこの子の愛らしさは人を惹きつける。『光源氏』があと五歳若ければ、あの垣間見のシーンも微笑ましい一目惚れだなと穏やかな心地で読める、かもしれない。
「……とても上手にご挨拶できましたね。今のお振る舞いであれば、礼儀正しい、ご立派な姫君でいらっしゃると、多くの方から感じて頂けるでしょう」
「――っ、はい!!」
ぱあぁっと光弾けるような満面の笑みとなった紫は、今度こそ、葵に抱き付かんばかりの勢いで、一気に距離を詰めてきた。
「ねぇ、葵さま。ゆかり、本当に上手だった? 上手にご挨拶、できてた?」
「わたしは嘘で褒めたりしませんよ。本当に、とてもお上手でしたとも。紫様は人の話をしっかり聞けて、覚えも驚くほど早くて、素晴らしいわ。賢い方でいらっしゃるのね」
「ゆかり、かしこい?」
「えぇ。紫様ほど賢い方であれば、あらゆる学びをしっかりとご自分のものにして、好きなことも目一杯楽しんで、素敵な大人になれるでしょう」
「うん!」
にこにこと、心の底から嬉しそうに笑う紫。思わずその頭へ手を伸ばし、撫子にするように軽く撫でると、紫は嫌がるどころかより一層喜色を深め、葵にぴとりとくっついてきた。少し言葉を交わしたとはいえ、自己紹介したばかりの他人の子相手に、あまり推奨はされない距離である。
祖母である菊乃は不快に思っていないだろうか――そう不安になり、彼女を見ると。
「ふ……っ、う、ぅ……」
「き、菊乃様!?」
正面に座っている菊乃は、脇息に凭れた体勢のまま、懐紙で目頭を抑えつつ、ほとんど無音声で涙を流していた。周囲の女房たちも涙ぐみ、特に紫を追いかけてきた女房は、衣で顔を覆い、激しく肩を震わせている。
葵が声を上げたことで紫も祖母の様子に気付いたのか、目を丸くして葵から離れ、祖母の膝へ飛びついた。
「おばあさま!? どうしたの? どこか痛いの、苦しいの?」
「……ぃいえ、いいえ。違いますよ、紫」
そっと懐紙で目元を拭いた菊乃は、涙で潤む瞳に深い愛情を乗せ、孫娘の頬へ手を当てた。
「私も、女房たちも、嬉しいのです。あまりに嬉しくて、涙が止まらないのですよ」
「……嬉しいのに、泣くの?」
「人は、悲しいときばかりでなく、嬉しいときにも涙が出てくるものなのです。……だから、心配なさらないで」
「おばあさま……」
「――紫。葵様に、よくよくお礼を申し上げなさい。葵様は本来、このように寂れた山奥へお越しになる御身ではいらっしゃらないのです。主上の妹宮様が嫁がれた左大臣家の総領姫であり、主上の寵愛深い源氏の中将様から〝唯一の妻〟と重んじられておいでの、血筋も、身上も、この上なく尊い姫君なのですよ。葵様のご身分であれば、私どものことなど打ち捨てておいても当然のところ、これほどまでに細やかなお心遣いを頂けるとは……我々の身には有り余る、ありがたいことなのですからね」
滔々と言われたが、それほどまでにありがたがられることをした覚えは一切ない。招かれた先に病人がいれば、一言お見舞いを申し上げるのは当たり前の礼儀で、そこに小さな子がいれば、相手の様子を見ながらではあるが、ちょっとした話し相手にくらいは誰でもなるだろう。身分が相当に高い点だけはどうしようもないが、現代日本を生きてきた記憶と感覚を色濃く宿している葵は、〝高貴な血筋〟のありがたみがイマイチイマニくらい、理解できていないのだ。菊乃が言った「葵様のご身分であれば、私どものことなど打ち捨てておいても……」の部分など特に、「いやぁ、身分がどうであろうと、近くにいる病人と子どもスルーするとか、人として最悪では?」と思ってしまう。




