〝運命〟との邂逅*其の六
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朝靄の中に浮かぶ花霞も絶景であったが、夕暮れの光が山桜の霞で散らされる様もまた、どこか現実離れした美しさがある。
そんな風景の中を、葵は光と二人、手を繋いでゆっくり歩いた。
「葵、足は痛くない?」
「これくらい歩いただけじゃ、そこまで痛くはならないわ」
ゴム底の靴に慣れ親しんだ〝前世〟を持つ葵にとって、〝概ね平安時代〟を生き抜く上で真っ先に慣れなければならなかったものの一つ。それが、外歩き用の〝沓〟である。形としては現代日本の下駄や草履に近いそれらは、当然のことながら、長歩きにはまるで向いていない。それでいてシンプルな機能美を備えているからこそ、千年の時を越え、令和の世にも生き残っている。要するに、『アーカイブ』知識で改良しようにも、限界があったものの一つでもあったのだ。
(さすがに、南米アマゾンの奥地が原産のゴムを、〝概ね平安時代〟の日本で入手しようとか、無理ゲーにも程があるしね……)
某石器時代から文明再興ファンタジーでも、ウルトラ科学チートな主人公が原産地まで行かなければ採取できず、代替品をクラフトするにも限度があった素材、それがゴムだ。人間の体重が地面に伝わる衝撃を、わずか数センチの厚みで著しく軽減させられる物質など、そうそう手軽に作れるものではない。こればっかりは、新しいものを生み出すより、現在あるものに自身を適応させた方が早かったのだ。
結果、葵は〝前世〟の記憶が蘇ったときから、お役立ちグッズを発明する傍ら、積極的に邸の庭を歩き回ってきた。ある程度自由に外出できるようになってからは、大通りで毎日開かれている市を長時間見て回るなどして、この時代の沓に足を慣らしてきたのである。
……と、そんな詳細な説明を光にするわけにはいかないけれど。
「山へ行くことは、最初から分かっていたもの。道が悪くても足が疲れにくいように、板が厚めの沓を履いているから」
「そんな靴があるの?」
「発明ってほどではないけれど、少しでも歩き易い沓ができないか、試行錯誤はしてるのよ」
「へぇ。さすが葵だね」
感心してくれる光には申し訳ないが、千年先までほとんど形が変わらない実用品の機能美に手を加える部分などほとんどなく、自己申告したとおり、せいぜい沓板を厚くするか、少しでも衝撃を吸収し易い素材で沓板を作るか程度の創意工夫しか、今のところはできていない。布や動物の皮を使って簡易的なスニーカーを作ることも考えたけれど、あの手の靴は履き手の足にピッタリ沿うものでないと、逆に歩きづらいのだ。下駄や草履のようにシンプルな形のものが、時代を超えて人々に愛されるのは、やはりそれ相応の理由があるとしみじみ思ったものである。
「葵が歩くのを苦としないなら、予定通り、下の僧坊を見て回ろうか。京とはまた違った風情が楽しめるだろうから」
「紀伊守のお屋敷へ行ったときも思ったけれど、光って本当に、流行りとは少しズレた風流が好きよね」
「流行に乗ることも嫌いではないよ。ただ、流行は大勢の人が支持して真似るから流行になるのであって、そうすることで結局、皆が同じような趣を愛でてしまう。そうなると真新しさがなくなって、当初感じた新鮮さや良さが薄れてしまう心地にはなるかな」
「あ~……それは、分かるかも」
今世とは違い、あれほど娯楽が飽和していた〝前世〟でさえ、一旦流行ると一定数がそれに乗っかり、ムーブメントとなっていた。娯楽の少ないこの〝世界〟であればなおさら、流行を追うことそのものが、人々にとっては重要なイベントだ。どこかで流行った何かが社会現象化していく様は、もしかしたら〝前世〟以上かもしれない。
光はその社会的身分上、どちらかといえば流行を追う側ではなく、作る側の人ではあるけれど。自分の何気ない行為が、いつの間にか〝趣深い〟とされ、貴族たちがこぞって真似していく中に居続ければ、冷めた気分になってもおかしくはないだろう。そういった流行から離れたところで暮らす人が、自由にのびのびと、己の好きな趣を愛でている様を見て回りたいという気持ちも、何となくだが理解はできる。
(〝前世〟でも、流行に乗って旬作品のメジャーカプ二次を読んでるうちに、「私って本当にこういうカプが好きだったっけ?」って気持ちになって、別カプとか別作品を漂流してみるとかあったもんねぇ)
せっかく京から離れた場所までやって来たのだ。光の体調も問題ないようだし、彼の気晴らしに付き合うのも悪くはない。
……僧坊が建ち並ぶ辺りを散策するということは、必然的に、『若紫』を垣間見る可能性もぐんと高くなるけれど。もしも『原作』そのままの展開となり、光が彼女に心惹かれてしまったら、そのときはもう、そういう運命だったと受け入れるしかない。幸い、『若紫』は『葵の上』の死因に直接関係する存在ではないのだから、葵が変に介入しなければ良いだけの話だ。
「そうね。こんな機会滅多にないし、少し歩いて回りましょう?」
内心を笑顔で綺麗に覆い、光に手を取られたまま、葵はゆっくり山道を下る。光と話しながら歩いていると、思いの外すぐに、目的地である僧坊の集落へと到着した。岩屋からはかなり下の宝に見えたが、高さの関係からそう感じただけで、実際の距離はそれほどでもなかったらしい。
夕刻の集落は物静かで、花びらが舞い踊る中、それぞれの庵に住む僧侶たちが思い思いに創り上げた庭が立ち並ぶ様は、それだけで充分な見応えがあった。庭の造りも様々で、木々や花々を整然と植えているものもあれば、庭に堂々と野菜の畑を作っているもの、樹木が主だが、そのほとんどが食べられる実をつけられる、実は食い気に染まったものなど、歩いているだけで面白い。高貴な貴族女性の常として、実はあまり他所へお呼ばれすることがない(父と夫の身分上、宴やら何やらの会などは、招く側であることがほとんどである)葵は、こういった機会でもなければバリエーション豊かな庭を見る機会など光以上になく、いつの間にか純粋に楽しんでいた。
「あっ、ねぇ、光、見て。あちらのお庭には、鶏小屋があるわ」
「本当だ。飼っているのかな?」
「鶏を自宅で飼えば、毎朝新鮮な卵が食べられるものね。経済的だわ」
「……そうかもしれないけれど、出家した身で卵って食べて良いのかな?」
「えっ、ダメなの?」
〝前世〟の精進料理でも、卵料理は普通に出てきたと思ったが……あぁでも、別の地方から出てきた友人が、「精進料理に卵なんて」とカルチャーショックを受けていたから、もしかしたら正式にはダメなのかもしれない。無精卵から新たな命が生まれることはないから、と軽く考えていたけれど、動物性の食物であることに変わりはないわけだし。
暇があれば後で『アーカイブ』に関連知識がないか検索しよう、と思いつつ、葵たちはそのまま小道をぐるりと回っていく。
「葵は知識豊富なようで、実は時々、びっくりするようなことを知らないよね」
「出家した方々が口になさる食物については、詳しく知らなくて……」
「お寺で法要して、そのまま泊まったことはないの? そういう場合、食事に精進料理が振る舞われるはずだけれど」
「あるにはある、けど……出先で食べるものにそこまで注意は払っていないし、最後にお寺で法要したのなんて、何年か前のご先祖様の何回忌だかが最後よ。食事の内容までは、さすがに覚えてないわ」
「お盆の法要は? 毎年やっているよね?」
「毎年やっているし、お盆にはお盆の膳が出てくるけれど……確かにお盆の膳に、お肉とかお魚は使われてなかったわね。そっか、あれって精進料理だったんだ」
言われてみれば確かに、と腑に落ちる葵に、光が呆れたような、どこかホッとしたような笑みを浮かべている。




