『メルク』ツァルナの香り⑧
アルレスィアが着替えを持って、”神林”の一角にやって来た。深夜ならば集落のお風呂に入る事も出来るけど――それ以外の時間になると、アルレスィアは利用する事が出来ない。
今まで気にした事はなかったようだけど、今日だけは絶対に入りたいのだろう。旅の中で野宿する事もあるだろうからと、どうしてもお風呂に入りたくなった時の為に教えた簡易お風呂を実践してみるらしい。
”森”の中だから、見晴らしが良いという訳ではないけど――開放的な空間での入浴を楽しんで欲しいと思っている。しかし、そうもいかないようだ。
「……」
『さっきの事を気にしてるのかな?』
「軽率だったと、思っています。ですが、私は――」
『私は嬉しかったよ。きみが、きみ達が、私が抱えた事を赦してくれたように、私も咎めたりしないさ』
「……はい」
満面の笑みとまではいかなかったけれど、少しだけはにかんでくれた。独善的な怒りと、アルレスィアは自戒してしまっている。だけどアルツィアは、本当に喜んでいるのだ。
いくら”巫女”になる覚悟をしているとはいえ、ルイースヒェンは今でも”巫女”で、イェルクまで居た。集落の者達の反応は私達にとっても予想外だったけれど、軽率ではあったのだろう。だけど、アルレスィアの気持ちを大切にしたい。この経験はきっと、きみの成長に繋がる。
「お母様達は、大丈夫でしょうか」
『きみの計画が功を奏している。エルタナスィア達ときみは無関係なのだと強く印象付けているから、集落の者達はルイースヒェンに従ったままだよ。二人には手を出さないようにしている』
ルイースヒェンも、その線引きだけはしっかりしているようだ。二人も責めるように、イェルクだけは唆しているけれど――ルイースヒェンがそれとなく止めている。アルレスィアの孤立維持を選んでいるのだろう。
『イェルクが苦手みたいだね』
「……あの人の感情が、苦手なだけです」
怒りや憎しみ、嫌悪に嘲笑といった物は分かりやすい。だからアルレスィアは、ルイースヒェンの事は苦手という訳ではないのだ。だけどイェルクは違う。強い怒りと侮蔑を向けながら――哀れと、憐憫を向けてくる。アルレスィアにはそれが、気持ち悪く感じたのだろう。
偽りの過去にしがみ付き、自分の想像の中でしか生きる事が出来ない者の思考は――妄執と妄信は、今のアルレスィアには理解出来なかった。何故自分が哀れみを受けなければいけないのか、困惑を通り越して嫌悪している。
『イェルクは騒いでいるけれど、ルイースヒェンが落ち着かせている。ルイースヒェンもエルタナスィア達には手を出さないように命令しているから、大丈夫だよ』
世界に、”神林”に向いていたルイースヒェンの憎悪はアルレスィアに集中してしまったが……アルレスィアも、それは望むところみたいだ。
「お母様達が無事なら……こちらに集中しても、良いですね」
『ああ。迎えに行こう』
アルレスィアの身嗜みが整ったので、湖に向かう。不安はあったけど、あの子はしっかりと”森”に行く気持ちを高めていってくれている。
『それじゃあ、暫く待っていておくれ』
「はい!」
この笑顔を曇らせないために――あの子に触れられる事を、願うとしよう。
アルツィアさまが、忽然と姿を消しました。いつも感じている――アルツィアさまが居るという、漠然とした感覚がなくなったように感じます。これから、かの世界から巫女さまがやって来るのですね。
(嗚呼――どのようなお方なのでしょう)
アルツィアさまはそれを教えてはくれませんでした。今日の楽しみとして取っておいてくれていたのでしょう。分かっているのは、私と同じくらい特異な力を持っているという事と――戦う力をすでに有しているという事です。
(王子様というのは、もしかして――)
同じく、”巫女”候補なのですから、女性なのは間違いありません。ですが私は、凛々しいお姿を想像してしまっています。
(仲良く、なれるでしょうか)
私のような嫌われ者が、友達など作る事が出来るのか……不安です。ですが、アルツィアさまは仲良くなれるだろうと……言ってくれました。私はアルツィアさまを信じています。
(顔は、大丈夫でしょうか)
湖に近づき、自分の顔を見てみました。随分と久しぶりに、自分の顔を見た気がします。お母様にそっくりな顔。少し丸みがありますが、目鼻立ちは似ています。ただ、髪と目の色が――少し、くすんでいるようです。
(お化粧とか、必要でしょうか)
やり方を知らない自分がやっても、余計に酷くなるだけでしょう。しかし、酷い顔です。自信の欠片すら見えません。
「……」
まだ、掛かるのでしょうか。自分を見詰め直せば直す程、自信がなくなっていきます。
(もっと、自信をつけてからでも……)
いえ……いいえ。私は、逢いたいです。失望、されるかもしれませんが……世界を救うという気持ちと決意は、本物です。
「……アルツィアさま。遅いですね――」
今日には、絶対に逢いたいと……私の胸に空いた大きな穴が、私を飲み込もうとしています。何故かは分からないのですが、これからやって来る巫女さまが埋めてくれると、私は思っているようでした。
あの子が家を飛び出し、”神の森”に向かっている。夜の町を歩くのは初めてだからだろう。小さい音にびっくりしながら一気に駆け抜けているようだ。
『……』
人前では絶対に見せない姿だけど、あの子の本当はそこにある。誰も知り合いが居ない向こうに飛ばされて、本当に大丈夫なのかという不安は今でもアルツィアの中にあるのだ。
『だけど――アルレスィアが、居る』
初めて逢う二人だけど、友達になれるだろう。それに――あの子達は運命に選ばれた子達だ。魂から惹かれ合っている。
『さて――入る事が出来たようだね』
鍵が掛かっているはずの”神の森”の入り口。そこが、ある男によって開け放たれていた。”神の森”があの子を受け入れる為に、『結界』を緩めたのだろう。いくら弱った『結界』とはいえ、このような勝手が許されるはずがない。
その証拠に、あの子が入った瞬間――『結界』が強まった。今の”神の森”に入れるのは、あの子と”巫女”だけだろう。
『”神の森”は受け入れている。私と気持ちを同じにしていると感じるが――』
(問題は、運命がどちらに傾くか……だ)
七歳の頃、アルツィアは連れて行こうと考えた後――止めた。その時は自分の意思で止めたけど、私が止めずとも七花が止めただろう。つまり運命は、あの時ではなかった。では、今回は?
『……考えるのは後』
”お役目”の為に、少しでも早くあちらの世界に馴染ませてあげたいと思っている。アルレスィアの為でもあるが、アルツィアの都合も入っている。あの子に説明する時間を取りたいから、急いだ方が良い。
”お役目”の準備に、早すぎるという事はないはずだ。アルツィアは湖の縁に立ち、待った。
『これは……』
”神の森”にある核樹が、花を咲かせている。季節でもないのに、力が弱っているのに――歓迎するように、咲き誇っているようだ。アルツィアが核樹の様子に驚いていると、後ろから足音が近づいてきた。
「凄い……光ってるように、見える。あの時よりもずっと――だれ?」
『来たか』
誰? と赤い少女は首を傾げたけど――私が見えている訳ではないようだ。私ではなく――向こうの、白い少女を見ているのかもしれない。
『私は、見えていないのか』
アルツィアの心に、不安が過る。しかしやって来た赤い少女は湖に近づいてきた。湖に居る、アルツィアの傍まで。
『……掴めるのなら、いけるだろう』
アルツィアは赤い少女の手を掴み、引き上げた。少女はふわりと浮かび――湖の中央に向かって進んでいく。自分が浮いている事に、少女ならば『恐怖』や驚きに慌てるかと思ったけど……少女は、別の事を呟いた。
「やっと……逢える――」
『嗚呼、あの子もそう想って――』
「ダメぇぇぇぇ!!」
透き通り、世界から剥がれようとしていた赤い少女を――七花は掴んだ。いや、掴めてしまった。
『……』
「七花、さん……?」
七花の腕に抱かれ、赤い少女は目を見開いている。何が起きたのか分からないといった表情を浮かべた後――少女は、目を閉じていった。
『……まだ、その時ではなかったのかな』
アルツィアが自分の手を見ている。手に、赤い少女の感触が残っていた。しっかりと掴めたけれど……七花が少女を掴んだ瞬間、離さなければいけないと思ってしまったのだ。
『どんな事が起こるか分からないし、ギリギリまで、待つしかないのかもしれないな……』
眠る直前、少女は私の姿と声を認識出来ていた。起きた後、夢だったと思ってしまいそうだけど……あそこまで認識出来ているのなら、少女もまた運命の子なのだろう。その確証は得られたけれど――連れて行くのはまだ先らしい。
『――ああ。あの子に、何て説明すれば良いのだろう』
まだ、先になってしまうのか。アルレスィアが悲しんでしまう。どう説明すれば良いのか、分からない。私は初めて――娘に糾弾される親の気持ちを、理解した。
じっと、その場から動いた様子もなく――アルレスィアは湖の縁から中を覗き込んでいる。
『アルレスィア』
「!」
勢いよく振り向く事はなかった。多分、私と一緒にあの子が居ると思っているのだろう。だけど――気配が無いと気付いたアルレスィアは、恐る恐る振り向いた。
『どうやら、まだその時じゃなかっ――』
「どうして……」
怒っている。もっと大声で責められる覚悟をしていたけれど――アルレスィアは、ただただ涙を流して……どうして、と繰り返していた。
「ずっと、待って――今日、だから……っ待って……どうし、て――」
どんな酷い目に合おうとも、過酷な道を選ぼうとも……アルレスィアは感情と思考を分離させる事はなかった。だけど、今――感情に思考が、追いついていない。アルツィアを怒れば良いのか。それで解決するのか。今まで待っていた時間は何だったのか。耐える事が出来ていたのは、今日を夢見ていたからなのに、と――座り込んだまま、流れる涙で水たまりを作っていた。
『こればっかりは、私の力だけでどうこう出来る物じゃなかった』
期待だけ持たせる結果になって、すまない。マナの流れ、充足感。世界の状況と二人の感情。どれもが共鳴し合い、今しかないと思っていたのだ。だけど――世界は選んではくれなかった。アルツィアは、焦っていたのだろう。
「巫女さまが、拒否を――」
『それは違う』
あの子も、涙を流していたのだ。この時を待ちわびていたと、アルツィアは感じとっている。存在意義と、証明を……あの子も求めているのだから。拒否どころか、あの子は……抱き着いてでもアルツィアを離さないという意志を見せていた。
「では……まだ、耐えないといけないのですね……」
『アルレスィア……』
今まで辛くとも、泣き言らしい泣き言を言葉にしなかったアルレスィアが……俯き、言葉を選べずにいる。
『……』
今日がダメだっただけで、次がある。あの子がこちらに来るのは、今日確信に変わった。だけどそんなのは、今のアルレスィアを傷つけるだけだろう。アルレスィアは今日、逢いたかったのだ。
ルイースヒェンの怠惰を全員が知っているのに、それを糾弾する自分の方がおかしいと言わんばかりの反応をされた。イェルクに至っては訳の分からない感情をぶつけてくる。町民の何人かは認識を改めたようだけど、畏れるばかりで「同じ”人”」とは見てくれないだろう。
久しぶりに大勢の前に出て、色々な感情を見てしまったアルレスィアは――今までどれだけ辛かったのか、孤独と苦痛を思い出している。
「……ぁ」
”森”の歓迎も、終わってしまった。あの子が、”森”から運び出されたのだろう。
「今日は……帰ります……」
『……分かった』
力を感じさせない足取りで、アルレスィアは家へと帰っていった。食堂での出来事を、両親に尋ねられたけど――謝るように頭を下げたアルレスィアは、自室に入っていく。その後姿が、孤立を選んだ時と重なったのだろう。両親はアルレスィアの腕を掴んだけれど……涙の痕を見て、手を引いた。
翌朝、また無視されるのではないかと……両親は戦々恐々としていたけれど――。
「おはようございます。お父様、お母様」
「っお、おはよう。アリス」
「うむ……。その、昨日は――」
「申し訳ございません。少々、取り乱してしまいました。巫女様の件も、軽率だったと反省しています。二人に危害が加えられる事はないので、ご安心ください」
「それは、気にしておらん。アリスは……大丈夫、なんだな?」
「はい。お騒がせしました」
ぺこりと頭を下げ、アルレスィアは何時ものように家を出て行った。挨拶もしっかりしてくれたし、事情の説明もしてくれた。あの時とは違うと、ゲルハルトはほっと安心している。だけどエルタナスィアは――家から離れていくアルレスィアの背中を、心配そうに見ていた。
「おはようございます。アルツィアさま」
『ん……ああ、おはよう。アルレスィア』
「昨日は、申し訳ございません。アルツィアさまも、頑張ってくれたというのは……分かっていたのですが……」
『いや。結果が伴わなければいけない事もある。昨日がそれだった』
過程も大事だと思っている。だけど――結果が良くないといけない事の方が多いというのは、真理だろう。アルレスィアの為にあの子を連れて来たかった。その為に全力を出したけど、無理だったのだ。それを言ったところで、アルレスィアの傷を癒せる訳ではない。
『これからも観察を続ける。やはり、あの子が”巫女”になってからじゃないと無理なのかもしれない』
「候補というだけでは、ダメなのですね」
『そのようだ』
昨日は、私を認識出来る確証を得る事が出来た。特別な力も、確かな物だろう。だけど、「”巫女”になった」という結果が必要なのかもしれない。とりあえず……こちらの動向と合わせて、観察を続けるしかないようだ。
『慰めでしかないと思うけど、集落の状況も動いている』
「そのようですね。少し視てみましたが、隠れる必要がないくらいには、なっているようです」
集落の者達が見せた掌返しに、アルレスィアがため息を零している。流石のアルツィアでも、ここまで露骨だと呆れてしまう。ここから更に、アルレスィアを取り巻く環境は変わっていくはずだ。
それこそ――派閥とすら言えなかった集団私闘は終わり、ルイースヒェン派とアルレスィア派に分かれる前兆も見えている。とはいえ、再び質素な生活に戻りたくないと思っている者達ばかりだ。表立って動いてくれる事はない。表を歩けるようになるだけでも、息苦しさは軽減されると思うけど。
『派閥なんてどうでも良いと思うけど――きみが何れ導く事になる子達だ』
「はい。しっかりと、覚えています」
蟠りを全て取り除く事は出来ない。一度生まれた不信感を解消する事も、一筋縄ではいかないだろう。アルレスィアが集落の者達を信用出来るようになるまで、そしてその逆も、か……まだまだ時間がかかる。だけど――その一歩を、集落の者達も踏み出した。
複雑に絡み合っていた糸は解け、編み込まれていく。アルレスィアの努力が、忍耐が、道を作り出そうとしているのだ。
『きみとの約束を破ってしまった。私に何か出来る事があれば言って欲しい』
「……では、あちらの世界の事を、教えてください。アルツィアさまから教わった医療分野は、向こうの物ですよね?」
『ああ。それで良いのならいくらでも――』
ああ、そうか。きみは――あの子の事を知りたいんだね。だけど知りたくないとも思っている。知ってしまえばより求めてしまうし――何よりも、自分だけ先に知るのはいけないと思っているのだろう。
だけど、少しなら――それとなく教えるのは、良いかもしれないな。
『花言葉を知っているかい、アルレスィア』
「え? は、はい。そういう物があるというのは、一応」
『向こうにもそれがあってね。例えばサクラという花には純潔という意味がある』
「サクラとは、どういうお花なのでしょう」
『私の髪の色に似た花をつけるんだ。こちらの核樹と同じみたいな感じだね』
似た花としては、フルドゥジエかな。ツァルナも似ているといえば似ているが。
『こちらにも花言葉はある。だけど向こうには、石や星――果ては日にちにも意味をつけるんだよ』
「星は、空で光っている物ですよね。日にちにも、とは……?」
『そうだね。例えば二月一四日とか――』
向こうの話をしながら、その中にあの子の好きな物を散りばめていこう。例えば花。例えば星。例えば歌やダンス。教えられる事は多い。出逢いは一度だけだ。それを最高の物とする為に、知りたくないという気持ちも理解している。
だけど交流するのなら、知っていた方が良い事もあるだろう。アルツィアが教えた事をどう活用するのか。それはきみ次第だよ、アルレスィア。
一日に一つ、向こうの世界の事を教えて貰えるようになったアルレスィアは――昨日の悲しみを乗り越え、再び”巫女”になる為に動き始めた。まずは集落を出歩く事にしたようだ。狭い集落だけに、昨日の出来事は全員が知る所となっている。
『七:三だね』
「……そう、ですね」
会話をするか迷ったようだけど、返事をする事にしたようだ。食堂で感じた通り、信じる人が三割程になっている。元々二人だけだったのだから、三割になった事は大きな進歩と言えるだろう。
『明確な指針が在る訳じゃない。どうすればここから増やせるのか。それも、きみ自身の宿題だね』
「はい。アルツィアさま」
両親に信じて貰うのとは、勝手が違う。話せば信じてくれるという物ではない。だから――これからは行動も必要になってくる。まだ”巫女”じゃないから、”巫女”の真似事をしても意味はない。
エレノラの時を思い出してみるのも良いだろう。あの時は、失敗談として記憶しているかもしれないが――きみに出来る事は、沢山あるはずだ。
『食堂が空くようだね。エルタナスィアに連絡をしても良いかもしれない』
「! すぐに連絡します」
イェルクが再び来られなくなり、食堂の空き時間も増えた。料理の練習を再開した事で、エルタナスィアとの会話もずっと増えていっている。その中でアルレスィアは、正論だけで人と会話出来ない事を学んでいった。
正論は必要だ。正しい事を行うのなら、必須と言えるだろう。だけど――正論だけの会話では、封殺してしまう事もある。円滑な会話を目指すなら、多少の緩みも必要なのかもしれない。
アルレスィアは柔軟さを覚えていった。だけど――許せない物はある。ルイースヒェンをイェルクと一緒くたに考えてしまうようで、正しく視る事が出来ないようだ。
ただ、それも仕方のない事だろう。ルイースヒェンはアルレスィアの事を、他の皆と同じように「”人”とは違う」存在と見ているが――アルレスィアはルイースヒェンを、”巫女”として見ている。
”巫女”なのにどうしてとアルレスィアから言われても、ルイースヒェンにはぴんと来ない。だから――ズレてしまう。アルツィアの事もあって、感情的になってしまうアルレスィアには……ルイースヒェンに歩み寄る事は、他の者達の何倍も難しい事なのかもしれない。
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