後編
「蓼原」
小さく名前を呼んでみる。だが起きない。
あたしは、蓼原の無防備な腹の上を跨いで、そのまま乗っかる形で蓼原を見下ろした。体重はかけず、床についた両膝で身体を支えて。
薄暗かった視界が慣れて蓼原の顔をはっきり確認できるようになった。
蓼原のシャツのボタンを、上からひとつひとつ外していく。脱がしやすい服で良かった、と考えて笑ってしまった。オトコみたいな発想だ。差し詰め蓼原は寝込みを襲われる可哀想な女の子か。でも、違いない。あたしは今、蓼原の寝込みを襲っている。
「蓼原」
んん、と声をもらしもぞもぞ動いたが、起きない。
ボタンをすべて外し終え、Tシャツの下の素肌に触れた。蓼原の肌は熱かった。こちらに熱が移ってしまいそうなほど熱かった。引き締まって、かたいお腹、裾が乱れてお臍の穴が見えた瞬間、かっと身体が熱くなり、そんな自分にまた笑いがこぼれた。自嘲する。
今更何を恥ずかしがってるんだ、これからもっと恥ずかしいことをしようとしてるくせに。
あたしは着ていたカットソーを脱いで、近くに放った。これも今日のために選んだ、あたしが普段着てる服よりもはるかに女の子らしい一着だったが、蓼原は気付かなかっただろうなぁ。
今あたしが着ているのは短パンとキャミソール、下着だけになる。
あたしのしていることは間違っている。
分かってる!
でも嘉川に蓼原が別れたことを聞いてから、違う、蓼原が彼女と上手くいってないってことを知ってから、あたため続けてきた計画だった。何度も悩んだ。でも、一度思いついたこの最低な思いつきは、頭から離れていくことがなかった。
あたしはそれに理性と良心で抵抗し続けることをやめた。
蓼原の腕を縛っておこうか少し悩んだが、やめた。全力で抵抗されたら、その時は終わりにする。潔く、この恋を終わらせよう。
「蓼原、起きて」
起きて。あたしを見て。
蓼原のくちびるに、くちびるを寄せた。
寄せようとした。
でも、臆病なあたしにはできなくて、結局頬にキスを落とす。
それだけでも心臓が痛いくらいに高鳴って、どうしようもない。悪いことをしているというのに、舞い上がるほど幸せな気分と罪悪感が半々。
あたしより太い、形の良い顎のラインを手で撫で回しながら、蓼原がいつのことだったか弱いと言っていた、耳朶に触れる。
蓼原は、起きない。
蓼原との想い出が、たくさんの泡が次々と水面に浮かんでくるように、脳内で通り過ぎて行く。
○○○○○○○○○○○○○○○
初めて隣同士の席になった時、よろしくな、って笑った顔
授業中に話しかけてきた、思わず噴き出してしまって、2人揃って先生に怒られた。ゴメンと謝ってきた申し訳なさそうな顔
先生に頼まれた辞書の片付けを1人で全部しようとしたあたしに駆け寄ってきて、女の子だろ、って半分以上持ってくれた時、初めて女の子扱いされて、変な気分になった。
二股とかありえない、ムリ、あんたなんか嫌い
そう言った時なんでもないような顔で、でも俺は立花が好きだよ、って言ってきて、驚いた。
そういうところが嫌い!とムキになったら、蓼原は笑ってた。
体育祭で捻挫した時、それに一番に気付いて、無理すんなバカ!って怒られて、それから保健室のテントまで背負ってくれた。
そのことを他の男子からからかわれても、気にした風もなく、接してくれるから、あたしだけが意識してるみたいで恥ずかしかった。
テストの赤点回避のために勉強を教えてくれと泣きついてきてくれたのが、頼られてるみたいで嬉しかった。
赤点を無事免れたら、さすが俺の立花だぜって人の気も知らないで調子良く肩を回してくるから、照れてるのをバレないようにするのに必死になった。
お前と同じ高校を受験しようかなーって蓼原が何気無く言った時、どれだけ嬉しかったか。
同じクラスになれた時は、嬉しそうな顔を見せてくれて。
蓼原くんと立花さん付き合ってるの?
と聞かれて、違えよ親友だよ!って同意を求められた時の、嬉しいような悲しいような、微妙な気持ち
修学旅行は同じ班で回れて楽しかった。
好きな人ができた、と、あたしにだけ打ち明けてくれた時の、蓼原の照れた顔と、足元がガラガラと崩れ落ちて行くような心地、最悪の気分
毎日のように恋愛相談をしてきた。やっぱり立花は頼りになるなって無邪気に笑うから、あたしの気も知らないで、って泣きたくなった。
家に帰ってから、蓼原の恋が成就する前に好きだと言ってしまおうか、と悩み続けた日々。
覚悟を決めたその次の日に、蓼原が幸せいっぱいの笑顔で、告白してOKされた!!って抱きついてくるから、あぁ、終わった、ってすごく後悔した。
それでも想いを断ち切ることができず、悩んだ末に同じ大学を受験した。
いつまであたしは蓼原を想い続けるのかと自分で自分を嗤いながら、それでもいいかなと一番の友人の座に居座り続けた3年間。
申し訳なかった。蓼原があたしに思っているのと同じ感情を返すことができなくて。蓼原があたしの気持ちに気付いた時、いったいどんな顔をするんだろうかと想像しては、苦しくなった。
でも、幸せだった。なんでもないことで笑って、時には喧嘩もしたりして、仲直りして、また笑って。
蓼原の側にいれて、すごく楽しくて嬉しくて、幸せだった。
○○○○○○○○○○○○○○○
……これ以上のことを、しようと思っていた。蓼原の上で裸になって、蓼原のズボンを脱がして、ひとつになってくっついて。
しかしいざ意識のない蓼原の上に乗っかってシャツのボタンを外してお腹や首や耳を撫でただけで、そういう経験のないあたしは、もういっぱいっぱいになっていた。
何をやってるんだろう、あたし。
熱にうかされたように蓼原とどうにかなることだけを考えていたけれど、今やすっかり冷めて、違う意味で自分がしようとしていたことの恥ずかしさに身体が熱くなった。
ーーだからあたしはダメなのだと、ハイエナがあたしを詰る。
これまで後悔してきたんでしょう?
悩んで悩んで悩んだ結果、蓼原を取られてしまったこと。
想いを告げられずにズルズルとここまで来たこと。
今まで散々蓼原の相談を聞いてやってたじゃない。少しくらい迷惑かけたって罰は当たらないわよ。
ここまで来たというのに尻込みするというの?覚悟を決めたんじゃなかったの?
ーーそうだよ。すごく、後悔した。
想いを募らすだけで行動に移さない自分を変えたいと思った。ズルくてもなんでもいいから、蓼原にあたしのことをちゃんと見て欲しかった。
…正直あたしを苦しめた分だけ、蓼原にも苦しんで欲しい、なんて酷いことも心の隅で考えたりした。
でもやっぱり、こんなやり方は間違ってるよ
蓼原に対しても、そしてあたしの長年胸の奥で育ててきた恋心に対しても、不誠実だ。
身体の関係に持ち込んで、本懐遂げようなんて、そんなの今までと変わらないじゃない、蓼原に面と向かって告白するのを怖がっているだけじゃない!
後悔し続けた7年間だったけど、苦しかったし悲しかったけど、それ以上に楽しかった、幸せだった。
蓼原が弱ってるところにつけ込んで告白する、ってそれだけでズルイやり方かもしれないけど、でもきっと蓼原は、あたしが真摯に想いを差し出した分だけ、何らかの答えをちゃんと返してくれるだろう。
怒られ、軽蔑されるかもしれないけど、元の関係には戻れないかもしれないけど。
でもあたしは、ちゃんと、言うよ。
ハイエナはもう何も言わなかった。
蓼原が起きる気配は一向にない。鈍感め。それともあたしの触り方がヌルかったのかな?
こんなんで蓼原を襲おうとしてたなんて、ほんと、ばかみたい。
「蓼原、蓼原!起きて!」
ぺちぺち頬を軽く叩いたり揺さぶったりすると、やっと蓼原はうっすら目を開いた。
「んんー?なんだよ立花……って、そのカッコ…?」
「ごめん、蓼原」
あたしは神妙な顔で謝ると、蓼原は慌てた様子で目をこすりながら起き上がろうとする。が、あたしが上に乗っかっているせいでうまく起き上がれず、床に頭をぶつけていた。
「おま、俺たち、その、えっ?」
寝起きだからかうまく口が回らないようだった。
「蓼原、よく聞いて。」
あたしは吐きそうなほどの緊張を抑えて、蓼原の顔の横に両手を突いてじっと蓼原を見下ろした。蓼原も困った顔であたしを見ている。
さぁ、言え。言うんだ!
「あなたのことが、好き、」
「ずっとずっと、好きでした。」
蓼原はポカンとしている。
口は半開き、嘘だろとでも言うように、あたしを見ている。
「ごめん、蓼原」
「……なんで、謝るんだよ」
蓼原の顔が見れなくて、あたしは目をつぶった。目の奥がじわじわと熱くなってきた。
「だって、蓼原が苦しんでる時に、こうして、つけ込むような真似して、」
「あたし、蓼原を襲おうと思ったのよ」
「慰めでもなんでもいいから、彼女の代わりに、抱いてもらおうと思ったの」
「蓼原はあたしのこと大事な友達だって思ってくれてたのに、あたし、」
ついに耐え切れなくなって顔を両手で覆う。
情けない、こんな、自業自得だ、なのに、あたしはやっぱり、蓼原に嫌われたくなかった、覚悟を決めた筈だったのに、蓼原を前にしたら跡形もなく掻き消えてしまった。
いろんな感情がごちゃごちゃになって、涙が止まらなかった。
「ごめんなさい…!!」
みっともない、蓼原もきっと戸惑っているだろう、告白して泣くなんて、しかも蓼原の上でとか、めんどくさすぎるわあたし、
蓼原の上から退こうと腰を上げようとして
「陵」
蓼原に初めて呼ばれた下の名前、驚きすぎてあたしの身体は動きを止めた。蓼原の大きな手が、あたしの腕を掴んでいる。
蓼原は無言で起き上がった。腹の上に乗っていたあたしの身体は後ろに傾いたが、蓼原に腕を掴まれたままだったから倒れることはなく、起き上がった蓼原の太ももの上に落ち着いた。
心の中は落ち着くどころか、疑問と恐怖で満ち溢れていたけど。
「えーと…まず、その、」
…………え?
ていっという気の抜ける掛け声と共に、手刀で脳天をチョップされた。
ちょっと痛いけど、それは時々冗談でかましてくるのと同じ強さで。
予想外すぎるまさかの行動に涙も止まり、あたしはポカンと、まぬけな表情で、蓼原を凝視した。
「人が寝ている間に服を脱がしたり脱ごうとしたりしてはいけません。俺が相手だから良かったものの、手酷く扱われても仕方ないことをお前はしたんだからな。自分の身体をもっと大事にしろ、安売りすんな!」
「…………うん。ごめんなさい…」
「おー。2度とするなよ。つうか、お前がこんなバカな真似するとは思わなかったわ」
言葉の内容とは裏腹に、呆れたような声、頭を撫でる手つきと眼差しは優しくて、止まりかけた涙がまたぶわりとにじむ。
こんな状況で、説教してくれるなんて、優しすぎるよ、蓼原。
「あー…それと、だな」
来た、とあたしは身を固くさせる。
「びっくり、した。お前が俺のこと好き、とか」
「……うん」
「お前、隠すのうますぎだろ、全然、気がつかなかったわ。いや、今言いたいのはそういうんじゃなくて」
蓼原はあーうー唸りながら視線を横に逸らしたり上に逸らしたりして悩んでいたが、少しして、覚悟を決めたようにあたしを見つめて口を開いた。
「正直今は、次の恋愛とか、考えられない。……けど、好きだって言ってくれて、嬉しかった。……ありがとう、立花」
…………本当に、優しすぎるよ、バカ
……さらに惚れさせてどうすんのよぉ
そう内心で詰ったつもりだったが、ぜんぶ声に出ていたらしい。
緊張からの解放と、ちゃんと気持ちに真摯に答えてくれたことへの喜びと、いろいろごちゃごちゃになって、涙が止まらないあたしに、蓼原はとても困っている。
バカっていうなバカ、などと言いながら、ためらいがちに、あたしの背中を撫でてきた。
「……今は無理だけど、ちゃんと、考えるから、立花のこと」
「……うん、そうしてくれると嬉しい。待つのには自信あるから」
「……つうか、ずっと好きだったっていつから?」
「……中3の時から」
「…………マジ?」
「……マジ。……ゴメンね、ずっと黙ってて。……気持ち悪いでしょ」
「いや、そんなことねぇよ!嬉しいというか、その、こっちこそいろいろゴメン。立花の気も知らねえで相談持ちかけたりして」
「そんな!あたしは、あたしだけに蓼原が相談してくれて、嬉しい気持ちもあったから!ホントに!」
「そ、そっか…。」
お互い照れまくっているのがおかしくて、最後には2人とも笑っていた。
「ねぇ、蓼原。」
「あたし、あんたにフられても、またこうしてバカみたいに笑い合えたらいいな。
前みたいにとはいかないかもだけど、ちょっと時間をおかないとムリかもしれないけど、あんたとは爺さん婆さんになっても、仲良く笑っていたいんだよね」
調子の良い願い事だ。
あれだけあれこれ悩んでいたのが嘘みたいに、あたしの気持ちは雲ひとつない青空のように、晴れ晴れとしている。
長年ひとりで抱え込んできたものから、ようやく解放されたからだろうか。
告白してしまったら今までの関係には戻れないと思い込んでいたけれど、蓼原はあたしが思っていた以上に寛大で、あたしとの友情だけではなく、あたし自身も大切に想ってくれていた。気付くことができた。
あたしが蓼原にしようとしていたことは最低なことで、最後まで実行に移さなくて本当に、本当に良かったと思うけど、告白して良かった。
蓼原のこと、好きになって、好きで居続けてよかった。
スッキリした気持ちで笑いかけるあたしに、蓼原はどこかぎこちなく、でも確かに笑って、力強く頷いた。
「あーもしもし蓼ちゃん?ちょっ、もー朝早くにそんな怒鳴るなようっさいなー……え?立花に余計なこと教えるなって?いやぁ俺もまさか以前冗談で言ったことをマジで実行するとは思わないじゃん?……まぁでもいつまでも報われない恋をしてる立花見るの、俺としても辛かったしさ。周りを見れば蓼ちゃん以外にも男がいるってそろそろ気付いて欲しかったし。……この際だから言うけどさ、その気がないなら邪魔するなよな。これまでも立花を紹介してっての適当に断ったりしてただろ?……立花には合わない男だったって?そんなの蓼ちゃんの勝手な思い込みだろ?立花の親父じゃないんだからさぁ。とにかく!フるなら早くフれよ。傷心の立花を慰める日をずっと待ってんだからさ。……あっ切れた。……まぁ、せいぜい悩めよ蓼ちゃん。俺も、諦めるつもりはないし……邪魔させてもらうけどね…ふぁああ…ねむ…、…立花に電話しよ」
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ありがとうございました!