暴君への面通り
髪を結い直し、身なりを整えたツェツェグは、宦官の案内に従って回廊を歩いていた。
故郷の住居とはあまりに異なる建物の様子に、キョロキョロと視線を彷徨わせていれば。背後を歩くバートルに踵を蹴られる。
大風では長老も一般の民も、皆ユルトで生活していた。組み立て式の円形のテントに、細かい部屋割りなどはない。格子状の木材の骨組みに羊毛と布を被せた構造は単純で、無駄な装飾などはほとんどなく、移動に適した住居である。
蓮の建物は、至る所に豪華な装飾が施されていた。柱に刻まれた、まるで生きているような龍の彫刻、天井に鮮やかに描かれた朱雀の姿。回廊の途中で目にした中庭には、牡丹や芍薬などの植物が植えられ、見事に整えられている。
——綺麗だけど。息苦しい場所ね。
一度後宮に足を踏み入れた女は、外出を極端に制限される。皇帝の代替わりか、下賜される機会でもなければ、生涯をこの場所で終えるのだ。
その上仕える相手は血も涙もない暴君である。うっかり機嫌を損ねれば、あの罪人のように首を刎ねられてしまうだろう。
——私は役目を終えたら、本当にここから出してもらえるのかしら。
だが故郷に帰してもらえたとて、バートルの嫁になるのなら。この後宮の中で感じるのよりももっとひどい閉塞感の中で生きることになる。虐げられ続ける生活を想像し、自然とツェツェグの顔は下を向く。
ついに終点に辿り着いたのか、大きな扉の前で案内の宦官が足を止めた。小柄で、人間を無理やり子供の形に押し込めたような男は、両脇に控えた護衛が扉を開けると、入り口にかけられた薄布越し、恭しく暴君のいる方へと拱手をした。
「大風長老が孫娘、ツェツェグ・バヤルサイハン姫のご到着にございます」
直後、ふわり、と左右に開かれた薄布の向こう、灯火に照らされた部屋の中に、美しくも怜悧な空気を纏ったあの男がいた。
途端に体を縛られるような緊張がツェツェグを襲う。
見られている。心の中を覗き込まれるような、注意深く、疑り深い眼差しで。
——落ち着いて、手順通りに。
視線を下げ、しずしずと眼前に進む。教えられた通り、大股五歩ほど離れた位置で止まり、体勢を低くすると、震える両手で拱手の姿勢をとった。
「日の出国の天子にお会いできることに感謝いたします。ツェツェグ・バヤルサイハンでございます」
答えはない。
肌を刺すような緊張感の中、ぎい、と椅子の軋む音がした。
顔を上げることを許されねば、このままじっと耐えねばならない。
『牛……』
——え。
『今朝の、牛角の女。妃だったのか』
視線があったのは、気のせいではなかったのか。
『今度はみすぼらしい編み髪か。まあ、下級部族の娘ならこんなものか』
——なんなの、皆でよってたかって牛牛って。人の文化を馬鹿にして。
こんなことを言う相手がバートルなら、飛びかかって頬の一つ二つ張ってやるところなのだが。まだ胴体とは仲良くしていたい。ツェツェグは怒りをおさめ、穏やかな微笑を浮かべる。
「玉大商会、劉 翔宇が娘、劉 芷晴姫のご到着にございます」
後方からあの宦官の甲高い声がする。ほとんど足音をたてず、ツェツェグのすぐ隣までやってきた彼女が、ゆっくりと跪く気配がする。
「日の出国の天子にお会いできることに感謝いたします。劉芷晴でございます」
決められた文言を読み上げただけなのだが、不思議とツェツェグのそれよりも気品が感じられた。琴の音のような、少し低めの声には色気がある。
『こちらの方がいくらかマシか』
帝の心声が頭に響く。悔しいが同意せざるを得ない。横から姿を覗き見ることはできないが、華やかな香りから声色からも、妃として少しの隙もない様が窺える。
「遠方からご苦労」
『一緒に到着したのがこの田舎娘でよかった。これならきっと、陛下は私に目を向けてくださるわ』
琴のような心声。これは芷晴か。
——宮の中にいる下級妃とは違って、この子は野心がありそう。
怯えてばかりで宮の中に縮こまっている妃たちと比べれば、好ましいと感じた。田舎娘呼ばわりをされたのは気に食わないが。
しかし芷晴の自信は、次の言葉で踏みにじられた。
「もう下がってよい」
『女と話すくらいなら、残りの仕事に時間を割く方がいい。少しでも隙を見せれば、何をしでかすかわからない奴らばかりだからな』
昊然の心には、妃への興味など指先ほども存在しないようだった。
思わず、ツェツェグは視線だけで芷晴の表情を窺った。
「へ、陛下……!」
想いが堰を切ったように、芷晴が言葉を発していた。
興味なさげにすぐさま椅子から立ち上がり、この場を去ろうとしていた昊然の足が止まる。
——いくら寵愛が欲しくても、それはまずいのではないの?
周囲にいる官吏も、武官も、宦官も。顔色を青くしながら互いに視線を交わしつつ、昊然の顔色を窺っている。その場の静寂とは対照的に、忙しく思惑が交差する中。昊然が、口を開いた。
「ほう」
『面白い。この俺に向かって声をかけてきた妃はひさしぶりだな』
意外にも、昊然の心声は好奇心に満ちたものだった。
「なんだ、申してみよ」
「陛下は、とてもお疲れのようにお見受けします。当家が管理する茶畑から、良い茶葉をお持ちしました」
そこまで一気に言って、芷晴は上目がちに帝を見上げる。
透き通るような白いかんばせ。ふっくらとした頬に、年相応の愛らしいまなざし。彼女の姿は、同じ女であるツェツェグから見ても、可愛らしいと感じられた。
「そうか」
そう言ったきり昊然は黙り、しばしの逡巡の後、何も言わずに広間の奥へと消えてしまった。
昊然の姿が見えなくなると、芷晴は気を失い、その場に倒れ込んだ。離れて見守っていた侍女たちが彼女を介抱し、運んでいく。
『なんと無謀なことを……! もはやこの姫には御渡りは望めまい。それどころか』
『暴君に自ら意見するなんて。はあ、すぐさま流血沙汰にならなかったのが奇跡だ』
その場にいたものは皆、礼を欠いた芷晴には、近いうちに残虐な罰が与えられるだろうと考えたようだった。
だが、ツェツェグだけは確信していた。彼女の元に今夜、銀の君が訪れるであろうことを。




