毒の土産物
芷晴は信じられない気持ちで、夜更けを迎えていた。
あれから先触れがあり、今宵枕を交わす相手として自分が指名されたという知らせがあったのだ。
「準備に抜かりはないわね」
「はい、お嬢様」
下級部族の女と同時の後宮入りというのが気に食わなかったが。それゆえに比較対象ができてよかったのかもしれないと今は思っていた。
絹のように滑らかな黒髪に、最後にもう一度櫛を通してもらう。
父からは必ずや昊然に気に入られろと命を受けている。
家のために尽くすのは娘の勤め。だがそれ以上に芷晴には、この後宮入りに込める思いがあった。
——世の中に、あのお方以上に美しい殿方はいないわ。
神がかった美しさの男が目の前に現れた時、芷晴は恋に落ちた。即位以来、下級妃以上の妃がいないというのもうなずける。後宮にいる女たちよりもよっぽど皇帝の方が美しいのだから。
これまでもお渡りがあった妃はいたというが、そうした妃は決まって後宮から姿を消してしまったという。
——きっと粗相があったんだわ。行儀が悪く、天子の妃として不釣り合いだったのよ。とにかくあの美しいお方の妻として、見合わないことをしてしまったに違いないわ。
鏡に映る自分の姿は、完璧だ。この美しい女に落ちない男がいるはずもない。
「お越しになられました」
侍女たちが引く波の如く姿を消していく。そして現れたのは、身を焦がすほどに憧れた男。
「お待ち申し上げておりました」
額の前で手のひらと拳を合わせ、姿勢を低くする。
薄青の夜着姿の昊然は、面通しの際には結っていた銀の髪をおろしていた。だが、表情はぴくりとも動かず、芷晴を見下げている。
——照れていらっしゃるのかしら。
会心の笑みを浮かべながら、芷晴は侍女が用意してくれた茶を乗せた盆を持ち、昊然のもとへと運ぶ。
「どうぞお掛けくださいませ。こちらがお話しておりました品です。お口に合うと良いのですけど」
「いらぬ」
がちゃん、と陶器の割れる音がするまで、芷晴は何が起こったのかわからなかった。
手に持った盆は払われ、茶器は床に落ちていた。こぼれた茶が湯気を上げながら、床に広がっていく。
「あの、私は……陛下のことを、ずっとお慕いしておりました。それで、陛下のために……お茶を……」
何か、機嫌を損ねるようなことをしてしまっただろうか。だが、何が悪かったのか分からない。
「俺はお前の顔など記憶にない」
美しい男の顔が、憎しみを孕んだ表情に歪む。先ほどまで浮かれていたのが嘘のように、体が冷えて強ばった。
「お前の父は俺が玉座についていることをよく思っていない」
「そんなことはございません。誰がそんな讒言を! 父は陛下のことを尊敬しております」
「おめでたい女だ。その証拠に、この茶には何が入っていたと思う?」
「これは、父が用意した、疲労をとる……」
「毒だ」
灰色の瞳が大きく見開かれ、明確な敵意を持って芷晴を捉える。
「後宮入りの際にお前が持ち込んだ茶葉については、毒物は混入されていなかった。だが、お前の侍女が茶を入れる際、毒を入れているのが目撃された」
「そんなこと、私は指示しておりません! きっと私に嫉妬した侍女が、勝手にやったこと。私はただ、陛下をお慕いする一心で……」
「俺の何を知って慕っているなどと言える。これを見ても、美しいなどと言えるか?」
昊然は前髪をかきあげると、芷晴の眼前に顔を近づけた。
直後、みきみきと肌が裂けるような音を立てながら、美しいかんばせが変化していく。
「ヒッ……」
人とは思えぬ異様な容姿を前にして、芷晴の顔は引き攣り、唇はガタガタと震え始める。
「お前の愛は、やはり見せかけなのだな。その顔が物語っている」
彼の額には、芷晴の拳ほどもある大きな瞳が見開いていた。
「あ、あ……」
「父親にそのように言えと言われていたのだろう。本当は毒のことも知っていたのではないか?」
侍女たちは誰も止めに入ってこようとしない。自分も怒りに触れ、酷たらしく殺されるのが怖くて、怯えた猫のように皆丸まっている。
「化け物……」
恐怖、侍女たちに対する怒り、理想と現実の不一致、膨れ上がった感情が押し出した一言は、最悪のものだった。
芷晴の言葉を聞いた昊然は失笑する。
「自ら首を括れ。明日になっても生きていたら、俺が首を刎ねてやる」
そう吐き捨てるように言葉を残した暴君は、大股で床を鳴らしながら寝所を出ていった。
夢見てきたことが打ち砕かれ、今や命までも取られようという状況に、芷晴は力なく膝を折り、その場にうずくまる。
「お嬢様、大丈夫ですか」
部屋に戻ってきた侍女の言葉を聞いた芷晴は、怒りに任せて叫び散らした。
「何よあなたたち、ずっと隠れて、私を助けようともしないで。自分の身がそんなに可愛いのね! それに毒ってどういうこと? 私知らないわ!」
「落ち着かれてください。今、あたたかいお飲み物を」
「もういや、こんなところ、一刻も早く出てやる!」
芷晴は侍女の制止を振り切り、裸足のまま寝所を飛び出した。
——なんなの、あの男。どうして父様はあの男の正体を教えてくださらなかったの? そうしたら私、後宮に入るだなんて承諾しなかったのに。
思い焦がれた相手は、暴君という呼び名に偽りのない、とんでもない化け物だった。
何が美しい天子だ。尊き血のお方だ。
舞い上がっていた自分が恥ずかしい。
夜着のままメチャクチャに歩いてたどり着いた先は、蓮池にかかる橋の先に建てられた東屋だった。
足の裏が痛い。怒りが遠のき、惨めさが押し寄せると、芷晴は力尽きるようにしてその場にうずくまる。
「う、うう……」
これからどうしよう。本当に父は茶に毒など混ぜさせたのだろうか。本当にそうだとしたら、死刑は免れない。かといって、今からあの化け物に縋るのは恐ろしい。
次から次へと流れる涙を止められず、感情に任せて泣き続けているところに、声が降ってきた。
「妃殿下、こんな時間にこんなところにうずくまっていては、何をされても文句は言えませんよ」
刹那、後頭部に強い衝撃が走り、芷晴の意識が遠のいていく。
彼女が最後に見たのは、青白く光る望月だった。




