暴君との対面
景安の声だ。聞こえてきた位置から考えるに、彼は馬車のすぐ脇を警護しているらしい。
『ツェツェグちゃんも、主上のお怒りに触れなきゃいいけど。いい子だから、殺されてほしくないな……。でもあの主上の傍で、一生怯えて生きるのも可哀想だよなあ』
外の様子がどうしても気になり、馬車の窓にかけられた分厚いシルクの垂れ幕をそうっと開ける。そして視界に飛び込んできたそれを見て——口を覆った。
茜色の瓦屋根を持つ荘厳な殿舎がそびえる手前には、巨大な通りが左右に広がっている。官服や武官服を着た男たちが行き交うそこに、血生臭い光景が広がっていた。
磔台に縛り付けられた十名ほどの男たち。それぞれの足元には血だまりができている。衣服が不自然に破れているのは切り付けられているからだろうか。よく見れば、片足や片腕がないものもいる。馬車は少し離れた場所を通行しているが、それでも肉の腐る嫌な匂いがした。
「止まれ!」
切羽詰まった景安の声に、馬車は突然停止する。窓の外を見るために立ち上がっていたツェツェグは、前方につんのめり、馬車の扉から外に飛び出した。
「うわ、と、と」
御者が慌てて抱き止めてくれたおかげで、転倒は免れた。だが。
「全員拱手の姿勢をとれ! 頭を上げるな!」
ふたたび叫んだ景安の声に驚きながら、周囲の真似をして頭を落とし、拳を顔の前で合わせる。
様子を窺おうと目線だけ上げたところで——ツェツェグは瞠目した。
視線の先。陽の光を受け銀色に輝く長髪を風に靡かせ、こちらへ向かって歩いてくる男がいる。
息を呑むほどに美しいその容姿に、ツェツェグは釘付けになった。
濃紺に錦糸の刺繍が入った漢服に、胸には豪華な龍の刺繍。左右の髪を頭上でまとめ、かんざしのようなものを挿している。恵まれた体躯をしており、身長も周囲より頭ひとつ分大きかった。
——もしかして、あれが。
鋭い眼光、灰色の瞳、意志の強さを表すキリリとした眉。
ここまで左右対称の整った顔は見たことがない。刑場に不似合いな麗人は、側近を連れてまっすぐに磔台の前に歩いていく。
ツェツェグがいる馬車から、銀髪の男が立つ場所までは一丈(約三メートル)ほど。だが一里先まで見通すことのできる目を持つ彼女には、はっきりとその姿が見えていた。
『鉢合わせするなんて今日はついてない』
『頼むから早くいなくなってくれ、生きた心地がしねえ』
おそれや怯えがそのまま声となったような心声が、頭の中を満たす。この場に居合わせた人間たちが感じている緊張感と、一糸の視線でさえも自分に向かないようにと祈る心声が、視線の先の人物が誰かを教えてくれる。
——あれが蓮の皇帝、昊然。
『あの不気味な銀の髪。到底人とは思えない』
『暗殺を試みようにも、あらゆるところに目がきくのが忌々しい。蓮は果たしてどうなってしまうのか』
『白澤の叡智を授かったなどとは言うが。それを引いても残忍なあの性格では、そのうち大きな反乱が起きるぞ』
——白澤の、叡智?
昊然は最も年嵩らしき男が吊るされている前で立ち止まると、薄く笑みを浮かべ、男の顔を覗き込む。
「妙な気を起こさなければ、このような目には合わなかっただろうに。……ああ、もうお前はダメだな。喋れそうもない」
虫ケラを見るような目を罪人に向けると。昊然は体勢を落とし、腰に佩いた長剣に手をかける。
「……! 無礼を承知で失礼致します」
直後、後ろから景安の大きな両手が伸びてきて、ツェツェグは視界を覆われた。
『これから妃になろうって女の子に、なんてものを見せんだ、あのお人は』
耳に届く、大きな石の塊が地面に落ちるような音。
その音を聞いて、あの男が絶命したのを悟った。
「さあ、一人死んだぞ。叛乱の首謀者を吐かねばもう一人殺すことになろう。どうする?」
まるで歌うようにそう言ったのが聞こえ、背筋に悪寒が走る。
「そうか。まだ話さぬか。では次は目を抉り出そう。いや、はらわたを引き摺り出すか。なぜこのような愚かな真似をした? 誰に唆された?」
「この……化け物が……」
かすれるような、風にもかき消されてしまいそうな儚い声が、そう言葉を紡ぐ。
——ちょっと、何を。今反論なんてしたら。
緊張からか、手には汗をかいていた。目に映していなくとも、状況がありありとわかる。それほどにこの場の空気は凍てついていた。
「白澤の叡智など嘘だ。……お前はきっと、鬼の子の血を注いだんだ……そうでなければ、こんな残酷なことができるはずない」
「ほう」
「先帝を殺したのもお前なんだろ。ご病気だったなどと信じられるか……東宮殿下を殺したのも。命令に従わぬ官を殺したのも……。血も涙もない化け物め。国のため、民のため……お前のような化け物は、死んで然るべき……」
無情な沓音が、命を賭して言葉を述べる男の方へと向かっていく。
——だめ、やめて……!
弱々しい呻き声と、命の散る音が、無残にもその場に響き渡る。
「おい、何か言ったか? ああ、もうしゃべる口がないか、残念なことだ」
『暴君が。残虐趣味の狂人という評判に偽りはないらしいな』
馬車の御者席にいた大風の使者、バートルが舌打ちをした。
ツェツェグは動揺しながらも、口元を引き結ぶ。
「ありがとう、景安さん」
未だ目元を遮る優しい武官に、ツェツェグは極力小さな声で囁く。
「いや、まだ目を向けちゃいけません。とてもじゃないけどこれは」
ふるふると柔く横に首を振り、そっと彼の両手を外す。
生首が散らばる惨状を目の当たりにすれば、胃を焼くような不快感が喉までこみ上げた。覚悟はしていても、やはり気持ちは追いつかない。だが。
——苦しくても、辛くても。この場で起こったことを見ておかなければ。私はこの暴君に妃として嫁ぐのだから。
自分は、人質としてここに送り込まれてきた。自分の命は捨てられたと同義であると理解している。だができることなら、生き延びて——この場所で、自分の生きる希望を見つけたい。
そのためには、この暴君のことを少しでもよく知らねば。
すると偶然か否か、銀髪の君の視線が、ツェツェグのそれとぶつかった。
灰色の瞳に宿るのは、猜疑心と猛烈な怒り。
何人とも寄せ付けぬ圧迫感を纏い、殺意を孕んだ瞳がそこにはある。
時間としてはほんの一瞬の間。絡んだ視線はすぐさま解かれ、袖を返した皇帝は従僕を連れて殿の中へと戻っていく。
『き、肝が座っているのか、それとも無謀なのか……』
背後に立つ景安の呟きを聞いて、ツェツェグはようやく息をついた。




