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第9話 エモーション

 美月はニセ美月に引っ越しの挨拶の品を渡すと、そのまま歩き出した。

 マンションの玄関を横目に、たまに行く近くのカフェへ向かう。5分ほどで店に着き、扉を開けると、店内はほぼ満席だった。

 さらに、店内にいるのは女性客ばかりで、20代の若者が多いように見える。美月は一瞬ためらったが、今さら引き返すのも気まずく、恥ずかしさを抱えたまま席に座った。この居心地の悪さは、吉田の感情が混ざっているせいだろう。


 美月はテーブルの上に置かれた限定メニュー表を手に取った。そこに書かれていたのは夏限定の「ウニと海鮮のパスタ」。普段なら選ばないような、少し値の張るメニューだった。しかし、美月は迷うことなくそれに決めた。それは、自分を励ます為なのか。それとも、吉田の胃袋が内側から主張してきたのか。

 ふと、美月は自分の中に残る吉田の記憶や感情が、どれほどのものなのか気になった。どこまでが自分で、どこからが吉田なのか。境目は曖昧だ。だが、考えたところで答えは出ない。美月はすぐにその思考を切り上げた。

 ただ一つ確かなのは、あれほど嫌っていた隣人吉田への憎しみが消え、代わりに同情が芽生えていることだった。冤罪をかけられ、尊厳を踏みにじられた。壊れないほうがおかしい。そして今、美月は吉田自身でもある。胸の痛みは、他人のものではなく、自分の傷になっていた。


 そんなことを考えていると、店員が水を運んできた。美月はそのタイミングで注文を伝える。注文を終えると、再び店内のざわめきが耳についた。女性たちの弾むような笑い声が、やけに近く感じる。美月は視線をテーブルに落とし、少しでも目立たないように背を丸めた。もちろん、そんな事をしたところで身体の大きさは何ひとつ変わらない。逃げるようにスマートフォンを手に取ると、マージゲームを開いてせっせと指を動かした。



 職場の近くを歩いている。

 見慣れた通りのはずなのに、すべてが淡く、薄いもやがかかっている。

 周囲の音は重く沈み、自分の足音さえ聞こえない。

 その静けさの中、前方に水島が不意に現れた。


 その姿を見た瞬間、煮えたぎるような怒りがこみ上げてきて、頭の奥が熱くなる。

 怒鳴りつけてやりたい。平手打ちの一つでも叩き込んでやりたい。

 だが、足が動かなかった。


 ここで何かすれば、叫ばれる。また「触られた」と言われる。また、あの視線を向けられる。


 不安で息苦しくなる。


 水島はゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。

 すれ違いざまに睨みつける。

 だが、水島はまったくこちらに気が付かない。

 そのまま水島を目で追い、去っていく背中に憎悪のまなざしを向ける。

 するとそのとき、背後から誰かに声をかけられた。

 振り向くと、そこには健人が立っていた。


「もう終わったことだから。蒸し返さないで」



 最悪の目覚めだ。

 吉田を陥れた水島。浮気男の健人。二人の顔が、夢の余韻として脳裏にこびりついている。

 美月は、不愉快さを吐き出すようにふぅと息を吐き、ベッドから身体を起こした。健人の浮気にも腹が立つ。だがそれ以上に、吉田が受けた冤罪に心が痛んだ。


 吉田も大変だったんだな。


 騒音で迷惑をかけられ、あれほど憎んでいたはずなのに、今は責める気になれなかった。嘘のセクハラ報告で濡れ衣を着せられ、会社に居づらくなり、引きこもる生活。そして、理恵――

 美月の中に、また一つ吉田の記憶がよみがえった。元妻と離婚した理由。それは、元妻の不倫だった。中学生の娘は、母親のもとに残ることになった。

 吉田はその記憶を奥に押し込めていたのだろう。それが今、美月の中にひょっこり顔を出した。また一つ、嫌な記憶が増えてしまった。


 美月は立ち上がり、カーテンを開けた。窓の外の眩しさに目を細める。通りには、仕事へ向かう人々が歩いていた。男性はチノパンやスラックスに半袖のワイシャツやTシャツ。女性はスカートやパンツスタイル、ブラウスにワンピース。色も形もさまざまだ。


 女性のほうが、やっぱりファッションの幅が広いんだな――。


 美月は、胸の重さとは裏腹に、そんなどうでもいいことを考えていた。心が、この状況から目を逸らそうとしているのかもしれない。それともこれは、吉田の感覚なのだろうか。行き交う人々を眺めているうちに、ふいに切なさがこみ上げた。自分も、あの中の一人だった。

 早く元の生活に戻りたい。いや、戻りたくない。怖い。

 美月の中の二つの思いが、ぶつかり合った。


 美月はため息をつき、窓から離れた。ベッドメイクを簡単に済ませると、スマートフォンを手に寝室を出る。そのまま台所へ向かい、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した。グラスに注ぎ、一気に飲み干す。空になったグラスを置き、ペットボトルを冷蔵庫へ戻した。


 台所を出た美月は、居間のソファにどすんと身体を沈めた。スマートフォンを操作し、フォトギャラリーを開く。

 そして、その中の動画をタップした。画面には、夜道を腕を組んで歩く健人と水島の姿が映っている。

 昨夜、美月は健人のあとをつけた。前回と同じように、浮気現場を撮影したのだ。楽しそうに笑い合う二人を見つめるうち、ふと、黒い感情がよぎる。


 どうせループするんだから、あいつらを一回くらい殺したって……。


 冗談とはいえ、馬鹿げた考えだ。美月は動画をとっさに止め、スマートフォンを横に放り投げた。

 胸の奥がざわついて、じっとしていられない。立ち上がり、部屋の中をうろうろと歩き回る。何をしても落ち着かなかった。


 ――あんな男のことより、元に戻る方法を考えろ


 美月は自分に言い聞かせる。必死に、もやもやした気持ちを振り払おうとした。だが、心は静まらなかい。美月は着替えをすると、そのまま家を出た。


 あてもなく商店街を歩く。通りにはそこそこ人がいて、遅めの通勤者や、買い物に向かう年配者が行き交っていた。人の流れに押されるようにして、いつのまにか最寄り駅まで来てしまった。壁際に立ち止まる。


 これからどうしよう。帰ろうかな――いや、家にいても鬱々とするだけだ。


 美月は迷いを振り払うように、改札へ足を向けた。


 電車がホームに滑り込み、ドアが開いた。思っていたより車内は混んでいる。美月は一瞬ためらったが、後ろから押されるようにして足を踏み入れた。車内には女性の姿が目立つ。胸に不安が広がった。座席は空いていない為、端に立ち、吊り革を握る。

 落ち着かない。

 昨日行ったカフェも女性ばかりだったが、あのときの居心地の悪さとはまるで違う。今は周囲の視線が、刺さるように感じられた。


 誰も見ていない。


 頭ではわかっているが、周囲の女性たちが全員、自分に敵意を向けているように感じた。水島のあの軽蔑した顔が、ふいに頭に浮かぶ。緊張で汗がじわりと滲んだ。美月はポケットからハンカチを取り出し、額を拭った。止まれ、と心の中で強く願う。しかし、意識すればするほど汗が噴き出してきた。少しでも落ち着こうと、周囲に気づかれないよう、小さく呼吸を整える。だが、その仕草すら気持ち悪がられているのではないかと考えてしまい、余計に息が詰まった。


 美月は次の駅で電車を降りた。改札を抜けると、すぐに自動販売機で水を買う。キャップを外し、勢いよく口をつけた。だが、焦って飲み込んだせいで水が気管に入り、むせてしまう。咳き込む拍子に水滴が飛び散り、足元を濡らした。美月は慌てて周囲を見渡し、誰もいないことを確かめて、小さく息をついた。その直後、安堵と入れ替わるように情けなさが込み上げてくる。美月は深く息を吐き、蒸し暑い空気の中を家へ向かって歩き出した。



 何もできないまま、7日目になってしまった。美月は、特に何もせずただソファにだらりと横たわっていた。


 また1週間前に戻されるのか。また掃除をやり直さなければいけないのか。


 まだそうと決まったわけでもないのに、戻された後のことばかり考えて、気分は沈む一方だった。

 美月は何の気なしにスマートフォンを手に取った。画面に表示された時間が目に入る。そろそろ、ニセ美月と健人の喧嘩が始まる頃だった。特にこれといった作戦が思いついたわけではないが、美月はとりあえず廊下に出て待ってみようと考えた。ゆっくりと身体を起こし、気だるげに立ち上がる。玄関へ向かい、寄りかかるようにしてドアを開け、そのまま廊下へ出た。

 内廊下の窓から街の明かりを眺めていると喧嘩の声が聞こえてきた。


「何、その言い方! 悪いと思ってないよね」


 ニセ美月の、怒りに震えた声だ。

 やがてドアが開き、ニセ美月の部屋から健人が出てくる。

 健人は廊下に立つ美月に気づいたが、挨拶もせず、苛立った様子で横を通り過ぎた。


「ちょっと待って」


 美月は、健人の背中に声をかけた。

 声に出してから、自分の行動に驚く。胸の鼓動が一気に早まった。

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