第10話 ファンファーレ
「ちょっと待って」
美月は、健人の背中に声をかけた。声に出してから、自分の行動に驚く。胸の鼓動が一気に早まった。 健人は振り返り、美月に怪訝そうな目を向ける。
美月はポケットからスマートフォンを取り出し、素早く操作して浮気現場の動画を再生した。そして、勢いよく健人に歩み寄り、画面を突きつける。健人は一瞬目を見開き、すぐに顔を曇らせた。目の奥に苛立ちが浮かんでいる。
「なんで浮気したの? いつから? 健人、浮気する奴のことゴミって言ってたじゃん」
抑えていた感情が、堰を切ったようにあふれ出した。
健人は戸惑ったように眉をひそめ、美月の顔を見た。その表情は、美月がこれまで見たことのないものだった。動揺と苛立ちが入り混じり、目の奥にはほんのわずかな不安が浮かんでいる。見知らぬ中年男性に名前を呼ばれ、まるで彼女のような口調で詰め寄られているのだ。そんな顔になるのも無理はない。
「別れたかったなら、浮気する前に言ってよ!!」
美月は泣き出しそうな顔でそう言い、さらに一歩、健人に近づく。健人は、「は? 意味わからん」と吐き捨てるように言い、美月から離れた。そして警戒するように距離を取り、内階段へ歩いて行った。
「待って!」
美月は激情に駆られ、混乱したまま健人を追いかけた。内階段の踊り場で追いつき、反射的に後ろから健人の腕をつかむ。健人は驚いて、美月の手を乱暴に振りほどこうとする。だが、美月の力は思った以上に強く、簡単には離れない。
苛立った健人は美月に前蹴りを叩き込み、ようやく腕を引きはがした。美月は蹴られた衝撃で、背中から壁にぶつかった。痛みで顔がゆがみ、うぅ、と苦しげな声が漏れる。
だが、興奮状態の美月は止まらない。すぐに体勢を立て直し、今度は背後からタックルするように健人に抱きついた。
美月は、自分でも何をしているのかわからなかった。気持ちは異様に高ぶり、怒りと妙な爽快感に支配されていた。しかしそれは、美月一人の感情ではなかった。裏切られた吉田と美月、二人分の恨みであった。健人は必死に美月を振り払おうと、身体を左右に激しく揺らす。美月も負けじと、しがみついた。
だが、健人が身体を激しく揺らした拍子に、体勢が崩れる。二人の位置が入れ替わり、美月だけが階段側へと押し出された。身体が宙に浮いたと思った直後、重い衝撃が背中を駆け抜ける。美月の身体は階段を転げ落ち、一つ下の踊り場で止まった。
全身を強く打ちつけ、顔が苦痛に歪む。足音が、ゆっくりと近づいてくる。美月はうつ伏せのまま顔を上げた。視界の端に、健人の姿が映る。健人は美月の顔を思いきり踏みつけた。
「っ……!」
一つ上の踊り場から、声にならない悲鳴が聞こえてきた。
健人が顔を上げる。そこにはニセ美月が立っていた。青ざめた顔で、階段下を見下ろしている。健人は、慌てた様子で弁解した。
「いや、こいつから喧嘩売ってきたんだって」
ニセ美月は「救急車……」と呟くと、手に持っていたスマートフォンを操作し、緊急通報をかけようとした。そのときだった。美月はうつ伏せのまま肘をつき、震えながらゆっくりと上体を起こした。
「私も……妻に浮気された。だから……あなたの気持ちわかる」
美月は口元に血をにじませ、膝をつき、よろけながらも立ち上がろうとした。だが、視界がぐらりと揺れ、息がうまく吸えない。それでも美月は、痛みに耐えながらニセ美月を見上げた。ぼろぼろの身体の奥には、まだ消えていない小さな炎が残っていた。
「他の人のために自分を消費しないで。自分の人生を――」
言い終える前に、美月の身体から力が抜けた。床にどさりと崩れ落ち、そのまま意識を失った。
美月は、ベッドの上で目を覚ました。
寝ぼけた頭で、またやり直しか、とうんざりする。次の瞬間、頭の奥にずしりとした重さを感じ、顔から全身へと鋭い痛みが走った。小さくうめき声が漏れる。呼吸が荒くなり、身体も思うように動かせない。
そのとき、部屋の引き戸が開く音が耳に届いた。美月は、音の方へゆっくりと視線を向ける。そこに立っていたのは、看護師だった。
「あ、起きられました?」
看護師は、仰向けのままガーゼと包帯に覆われた美月に、穏やかな声をかけた。
美月は、ここが病院で、まだ今日が終わっていないのだと気づいた。病室内は薄暗く、フットライトの明かりがやさしく部屋を照らしている。
美月は肘をつき、身体を起こそうと試みた。その動きに気づいた看護師が、手早く手元のリモコンを操作し、ベッドの背を上げる。美月は小さく息を吐き、その背に身を預けた。
「あの、今何時ですか?」
美月の問いに、看護師はポケットにクリップで留めたナースウォッチを手に取り、時間を確認した。
「えーっと……今は、夜中の11時59――あっちょうど12時に――」
言い終わる前に、美月の意識はすうっと遠のいていった。
美月は、またベッドの上で目を覚ました。
あくびをしながら、ゆっくりと身体を起こす。ベッドの端に腰かけ、だるさから俯いた。そして、自分の脚を見て、息を呑む。
「……戻ってる」
遮光カーテンのせいで部屋は薄暗い。だが、視線の先にあるのは細い女性の脚だった。吉田のごつごつした脚ではない。胸がざわつき、鼓動が速くなる。
美月は勢いよく立ち上がり、カーテンを開けた。窓の外に広がっていたのは、間違いなく美月の部屋から見える景色だった。とはいえ、吉田の部屋から見た景色とさほど違いはない。
美月はゆっくりと両手を前に差し出した。指が細い。関節も、爪の形も、どこか頼りない。吉田の、ごつごつと骨ばった手ではなかった。
――私の手だ
そう思った瞬間、胸の奥が熱くなる。
だが同時に、美月の中で小さな疑念が顔を出した。今まで自分の手を、こんなふうにじっと観察したことがあっただろうか。これは、本当に自分手なのだろうか。その疑念を今すぐ払拭したくて、美月は足早に居間へ向かった。
居間に足を踏み入れると、見慣れた景色が広がっていた。木製のテーブルと椅子のセット。二人掛けのソファ。
床には脱ぎ捨てた服が、だらしなく散らばっている。そこは紛れもなく、美月の部屋だった。
美月は、壁際に立てかけられた姿見に、ためらうように近づいた。それからそっと鏡を覗き込む。鏡の中にゆっくりと現れたのは、自分――美月だった。肩までのストレートヘアーに、寝不足で疲れ切った目元。完全に、自分だ。吉田の毛深い脚も、前にせり出した腹も、そこにはない。
張りつめていた気持ちが、ふっと緩む。美月は、安堵から大きく息を吐いた。だが、その直後だった。ある考えが頭をよぎり、背筋が冷たくなる。
――もし、今が吉田を刺した後だったら。
恐怖と不安が一気に押し寄せてくる。
美月は日付を確かめようと、スマートフォンを探して部屋を見渡した。テーブルの上やソファの上にはない。
焦りだけが増していく。
そのとき、ふと寝室の光景が浮かんだ。美月は寝室へ駆け込み、枕元のスマートフォンをつかむと、乱暴にケーブルを引き抜いた。
画面を見ると、日付は7月5日。吉田を刺す1週間前だった。美月は、安堵し一気に気が抜けて、ベッドの縁に腰を落とした。
いったい、今までの日々は何だったのだろう。
戻れたということは、ニセ美月は、きっと自殺しなかったのだ。だが、疑問は残る。あの世界はどこで、あの場所にいたニセ美月と健人は、いったい何だったのか。
しかし、考えても答えは出なかった。美月はそれ以上考えるのをやめた。
気持ちが落ち着いたせいか、今度は現実の問題が押し寄せてきた。仕事のことだ。
美月は、手に持ったスマートフォンをさっと操作する。
「おはようございます。竹内です。体調悪いので休みます――はい。失礼します」
通話を切ると、美月はスマートフォンを握ったまま、シーツの上に腕を投げ出した。
いつもなら、多少体調が悪くても無理して出勤していた。休んで嫌味を言われるのが怖かったからだ。でも今は、そんなことはどうでもよかった。休むことに、何のためらいもない。まるで生まれ変わったかのように心がすっきりと軽い。
だが実際には、状況は何ひとつ変わっていなかった。健人とのことも何も解決してはいない。それでも、美月の気分は晴れやかだった。今なら日本一周だって、勢いでやってしまいそうな気さえした。
さて、今日は何をしようか。断捨離でもしようか。それとも転職サイトを開いて、仕事でも探してみるか。
――いや、まずはいつも通り過ごそう。
美月はベッドから身体を起こし、寝室を出た。
昼過ぎ。
美月はスーパーへ行くために、出かける支度をしていた。肩掛けのバッグを手に取り、玄関に向かう。廊下に出ると、すぐ隣の吉田の部屋が目に入った。ドアを見つめながら、ひとつの思いが浮かぶ。
今なら変えられる。戦う準備はできている。
今の美月は、まるで世界の命運を背負う戦士のように勇ましい心持ちだった。そのとき、ドアの向こうで物音がした。ほどなくしてドアが開き、吉田が顔を出す。
「こんにちは」
美月は、胸を張るように挨拶した。
吉田もすぐに挨拶を返す。
「こんにちは――あの舌打ちはしてないです」
了




