第8話 超
美月は朝、ベッドの上で目を覚ました。
サッと起き上がり、居間へ向かう。そして脱ぎ捨てた衣類の下から、雑にスマートフォンを取り出した。画面には、7月5日と表示されている。もうこのループに慣れたために、特に驚く様子はない。ため息をつき、再び戻ってきた身体のだるさを引きずるように、ソファへ体を沈めた。
あれはニセ美月だった。
自殺か事故かはわからないが、車に撥ねられ、助からなかったのだろう。そして、また戻された。1週間経ったからではない。まだ2日目だった。つまり、死んだからリセットされたのだ。さらに、美月の中でもう一つの記憶が浮かび上がった。それは、美月が吉田を刺してしまったあとのこと。
美月は、あのあと自殺をしたのだ。
なんで一気に思い出させてくれないんだ!と、美月は憤りを感じた。小出しに記憶を送りつけてくる自分の脳に、苛立ちが湧く。とにかく、自分は吉田を刺して、自殺した。美月は、この事実にショックを受けた。しかし、落ち込んでいる暇はない。また新しい1週間が始まってしまったのだから。
美月はふと部屋を見渡して、深くため息をついた。
またこの汚い部屋を掃除しないといけないのか……
目の前に広がる光景に気力を吸い取られたかのように、がくんとソファの背にもたれた。しばらく天井を見つめたあと、無意識にスマートフォンへ手を伸ばす。マージゲームを開き、惰性で指を動かし続けた。ただ時間が過ぎていく。そろそろニセ美月の出勤時間だが、美月は構わずゲームを続けた。
いくつかのマージゲームを1時間ほど遊び、喉が渇いたため中断して立ち上がる。
台所へ行き、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した。キャップを開け、そのまま口をつける。冷たい水が喉を通ると、ぼんやりしていた頭が少し冴え、気持ちもさっきより落ち着いてきた。美月は、この1週間をどう過ごすべきか考え始めた。
最初の1週間の終わりに、美月はニセ美月に刺された。その直後、ニセ美月は自殺したのだろう。そして美月は、再び1週間前へと戻された。
次の1週間は、目立った出来事は起きなかった。しかし日付が変わる瞬間、美月は突然意識を失い、再び戻されている。このことから、ニセ美月の死だけが条件ではなく、1週間が経過すると自動的に戻される可能性がある。だが一方で、夜中の12時直前に偶然ニセ美月が死んだだけとも考えられた。
もし1週間経過すれば強制的に戻されるのだとしたら、今のところ打つ手はない。だが、ニセ美月の死を回避するだけなら、まだ希望はあった。
とはいえ、ニセ美月を救うのはそう簡単なことではない。監禁――そんな発想が一瞬よぎる。人を刺しておいてこんなことを言うのもおかしいが、そんなこと怖くてできない。
残された道は一つ。ニセ美月の心を救うこと。
美月はそう決心し、台所を出た。
なんだか急に、やる気が湧いてきた。美月は再び、部屋の掃除に取りかかることにした。
まずスマートフォンを手に取り、吉田のミュージックアプリを開く。プレイリストには海外のヘヴィメタルがずらりと並んでいた。自分のものとはまったく異なる選曲に、思わず興味を引かれる。美月は一番上の曲をタップした。ドラムのハイハットのカウントから始まり、重いギターのフレーズが割り込んでくる。
美月は聴いた瞬間、この曲を気に入った。それは、ただ単に新鮮だったからなのか。それとも、記憶の奥に残る吉田の嗜好が反応したのか。理由はわからない。
ともかく、その曲に背中を押されるように、美月は掃除に取りかかった。
まず窓を開け、換気をする。次に、台所の下の収納からゴミ袋を引っ張り出した。部屋に響くギターのリフに合わせ、頭を揺らしながら手早くゴミを袋に放り込んでいく。曲が変わり、テンションがさらに上がった。
床に脱ぎ捨てられた服を手に取る。
「ゔらぁ!」
美月はそれを居間の隅へ投げ飛ばした。もう半分、やけだった。今後のことは何も浮かばない。だがそれは、考えられないのではなく、今は考えたくないだけなのかもしれない。とにかく美月は、目の前の掃除に集中した。
やがて掃除を終えると、美月は洗面所へ行き、服を脱いだ。それを洗濯機に放り込み、スタートボタンを押す。本日3回目の洗濯だ。美月はそのまま、浴室へ入ってシャワーを浴びた。普段なら、洗濯機を回している間は水圧が弱くなるため、シャワーは浴びない。だがこのときは、洗濯が終わるのを待てなかった。気持ちが妙に高ぶっている。
それだけではなく、一度でも動きを止めれば、途端に何もかもが面倒になってしまいそうだった。きっとソファに沈んでマージゲームを始めてしまうだろう。
浴室から出ると、美月はさっと身体を拭き、洗濯が終わる時間を確認した。あと20分以上もある。美月は服を着ながらどうしようかと考えた。落ち着かないまま、洗面所を出て台所へ向かう。
冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、三口ほど飲んで、また冷蔵庫に戻した。水を飲むと、高ぶっていた頭がさらに冴えた。
ふと、吉田になる前にやっていたストレッチをしてみようという考えが浮かぶ。いや、やっていたのはもっと前だ。パワハラで心が壊れる前。精神的に病んでしまってからは、何かをする気力が湧かず、やめてしまっていた。美月は居間へ行き、ローテーブルをずらして場所を確保すると、カーペットの上に座った。
まずは開脚からだ。ゆっくりと両足を広げていく。
「……いたたたた」
痛みから顔が歪む。
股関節があまりにも硬く、90度くらいしか開かない。膝も曲がっている。美月は仕方なく、片足を折り曲げてゆっくりと行うことにした。静かに体を前へ倒し、伸ばした脚の上に上半身を預ける。
「ヴぅぅぅうぅぅぅ」
出っ張ったお腹がつかえて苦しい。風船から空気が抜けるような、情けない声が漏れた。ゆっくりと、反対の脚も伸ばす。次のストレッチを始める頃には、すでに汗がにじんでいた。
それでも続けること20分。雨に打たれたのかと思うほど、汗だくになってしまう。以前の美月なら、ストレッチ程度でここまで汗をかくことはなかった。だが、それがかえって爽快に思えた。タオルで汗を拭いていると、ちょうど洗濯が終わる音が聞こえてきた。
美月は洗面所へ行き、洗濯機から衣類を取り出す。洗面所の物干しに洗濯物を干し終えると、そのまま服を脱いで、もう一度シャワーを浴びた。数分で出て、さっと身体を拭く。さすがに疲れを感じてきたが、気持ちはずっと異常な高揚感で満たされていた。
美月は服を着て出かける準備をし、家を出た。前回同様、引っ越しの挨拶という名目で渡す手土産を買い、足早に家へ戻った。
それから数時間が経った。
美月はソファに横になり、スマートフォンでゲームをしている。先ほどの高揚感は完全に消え、気分は少し沈んでいた。ふと画面の隅の時刻に目がいく。そろそろニセ美月が帰ってくる時間だ。美月はだるそうに立ち上がり、テーブルの上の財布を手に取り、ポケットに押し込んだ。それから部屋の隅へ向かい、積んであったゴミ袋と、ニセ美月への手土産が入った紙袋を持つ。そして、大儀そうな足取りで家を出た。
マンションのエントランスを抜けて外へ出たそのとき、少し先を歩くニセ美月と健人の姿が目に入った。美月は気づかないふりをして、そのままゴミ捨て場へ向かう。ゴミ捨ての扉を開け、中に袋を放り込んでもまだ二人は美月の位置まで来ていなかった。美月は無駄に袋の向きを変えたり、奥へ押し込んだりして時間を稼ぐ。
――何やってんだ、私
自分の行動があまりにも不自然で、美月は思わず笑いそうになる。するとそのとき、美月の後ろをニセ美月と健人が通り過ぎた。美月は、慌てて二人の背中に「こんばんは」と声をかけた。
二人は足を止めて振り向く。ニセ美月は一瞬戸惑い、それから小さく挨拶を返した。
「あの、これ。よかったらどうぞ。引っ越しの挨拶が遅れてしまって、すみません」
美月はそう言って、手土産の入った紙袋を差し出した。前回とは違い、美月の声は落ち着いていた。思ったより自然に言葉が出たことに、内心ほっとする。ニセ美月は一瞬ためらうように視線を落とした。それから小さく礼を言い、ゆっくりと手を伸ばして紙袋を受け取った。本心では歓迎していないことが、そのわずかな間から伝わってくる。
ニセ美月は会釈し、健人とともにマンションの中へ入っていった。
美月は二人の背中を見送りながら、自分がおかしな行動をしていなかったか振り返った。特に不自然なことはしていないはずだ。だが、ゴミ出しの最中だったことだけが少し引っかかった。ゴミ出しの直後に渡されたものなど、受け取る側からすればあまり気持ちのいいものではなかったかもしれない。とはいえ、大きな失敗はしていないはずだ。
それ以上深く考えないことにして、美月はそのまま歩き出した。




