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第7話 蠢く

 その女性は、美月の会社の後輩だった。

 3年前、美月の会社に事務員として入ってきて、一年ほどで辞めている。仕事以外で遊ぶほど仲が良かったわけではないが、よく一緒にランチに行っていた。

 健人への恨みが、美月の中で一気に膨れ上がった。そこへ、吉田の水島への怒りが流れ込み、感情は激しさを増した。偶然とは思えない再会に、興奮と混乱が渦を巻く。


 やがて二人は腕を組みながら、美月のいる方向へ歩き出した。高ぶっていた感情は、二人がこちらへ向かってくるのを見た瞬間、別の緊張へと変わる。美月は慌ててスマートフォンの動画アプリを開き、録画ボタンを押した。真正面は不自然になるため、少し低い位置に構える。撮影していることが悟られないよう、操作しているふりをしながらカメラを二人へ向けた。

 そのまま進んですれ違う。二人は、こちらを気にすることなく、そのままどこかへ歩いていった。美月は二人の背中を睨みつける。後ろから蹴り飛ばしたい気持ちを押さえ、深く息を吐いた。

 いつまでもここに立っていても仕方がない。美月は近くのコンビニへ向かって歩き出した。


 店に着くとペットボトルのお茶を買い、イートインスペースの隅の椅子に腰を下ろした。キャップを開けてひと口飲む。冷えたお茶が喉を通り、緊張で火照った体をゆっくりと冷ましていく。


 美月は先ほど撮影した動画を確認した。画面の中には、腕を組んで歩く二人の姿が、はっきりと映っていた。美月は唇を噛み、込み上げる悔しさを押し殺しながら、証拠を残すために手を動かす。まずスマートフォンに写真印刷用のアプリをインストールし、登録を済ませる。動画の一部をスクリーンショットし、コピー機で写真をプリントした。機械音とともに吐き出された一枚を手に取る。そこには、疑いようのない光景が鮮明に写っていた。証拠を手にしたという奇妙な高揚と、胸の奥を鈍く刺す痛みが、同時に広がった。


 家への帰り道、美月の胸に疑問が浮かんだ。

 以前、社長から水島の性被害について報告を受ける吉田の記憶の夢を見た。そして目覚めたあと、美月の中に吉田としての水島の記憶がよみがえった。あのとき水島は、あくまで吉田の記憶の中の人物だった。だが本当は、美月自身も水島を知っている。

 それなのに、浮気現場で水島の姿を見るまで、そのことを思い出せなかった。なぜ、そんなことが起こるのだろうか。吉田の記憶と自分の記憶が混ざり合い、輪郭が曖昧になっているのだろうか。それとも、吉田が辛い過去を拒絶しているせいで、記憶そのものが歪んでいるのか。

 歩きながらいくつもの可能性を考えた。だが、答えが出るはずもない。美月は疲労感に襲われ、考えるのをやめた。


 マンションに戻ると、美月はニセ美月の部屋のポストの前に立った。周囲に誰もいないことを確かめ、プリントした写真をそっと投函する。特に達成感もなく、本当にこれで良いのかという迷いだけが心に残った。


 部屋に戻り、いつものソファに腰を下ろす。だが落ち着かず、すぐに立ち上がった。いつものように、部屋の中を歩き回る。行ったり来たりしながら、頭の中で何度も先の展開を組み立てた。


 これで浮気が発覚して、喧嘩になる。

 そのあと、廊下で偶然を装って声をかけ、少しずつ警戒を解かせる。

 そして――その先は?


 そこまで考えたところで、道筋が途切れた。行き詰まった美月は虚しさに襲われ、そのままソファにどすんと腰を下ろした。



 会社のデスクに座っている。

 今日も仕事が回ってこない。

 社内チャットを開く。グループから外されたままだ。


 隣の席の同僚が、小声で話しかけてきた。


「……部長に『あの人に仕事振らないで』って言われてる」


 怒りと悲しみが一気に押し寄せる。

 立ち上がり、オフィスを出る。

 廊下を歩いていると、向こうから部長が歩いてきた。


「お疲れさまです」


 部長は視線も向けず、そのまま通り過ぎていった。



 美月は朝、ベッドの上で目を覚ました。

 嫌な夢のせいで、気分は最悪だった。だが、その内容は夢というより、実際に起きた出来事そのものだった。思い出したくもない記憶が、頭の中に蘇る。


 無視が始まったきっかけは、あの飲み会だった。付き合いで参加した会社の親睦会だ。

 席に着いてしばらくすると、部長が隣に移ってきた。そして平然と、「女ってほんと使えないよな」や「田中さんは20点。永野さんは35点」など、女性社員を値踏みするような言葉を口にして笑った。美月は嫌悪感を覚え、愛想笑いも、うまく相槌を打つこともできなかった。それが気に入らなかったのだろう。露骨に機嫌を悪くし、次の週から陰湿な言動が始まった。


 毎日、辞めようと思いながら過ごしていた。だが、なかなか言い出せず、心だけが削られていった。そんな日々を思い出すと、会社に行かなくていい今の状況は、少しだけ救いに思えた。

 けれど、実際には状況が良くなったわけではなかった。吉田も、かなり深刻なところまで追い詰められている。たぶん、前より厄介だ。

 その時、ふとあることが頭をよぎった。


 ――昨日の写真を、ニセ美月はもう見ただろうか


 美月はベッドから起き上がり、居間を抜けて洗面所へ向かった。顔を洗い、歯を磨き、着替えを済ませて玄関へ向かう。ドアノブに手をかけたが、美月は開けるのをためらった。


 夜中に入れたんだし……まだポストは見てないよね


 そう考えて手を放し、居間に戻ってソファに腰を下ろす。

 だが、落ち着かない。やはりニセ美月の反応が気になり、美月は再び玄関へ向かった。そっと廊下に出る。何でもない顔をして窓の外を眺めながら、耳だけを澄ませた。

 しばらくして、ニセ美月が部屋から出てきた。


 美月は愛想よく「おはようございます」と挨拶をした。ニセ美月はどこか不審そうな顔で挨拶を返し、そのまま仕事へ向かっていった。その背中を見送り、美月も部屋に戻った。


 目は腫れていなかった。浮気写真を見ていたなら、目が腫れるほど泣いていたはずだ。


 美月は、ニセ美月がまだ写真を見ていないのだろうと考えた。


 今夜、ニセ美月が帰ってきて写真を見れば、きっと健人に電話をする。あるいは家に呼ぶだろう。そして喧嘩になり、部屋から飛び出してきたところで、「大きな音がしましたけど、大丈夫ですか?」と声をかける。


 美月はそんな作戦を考えながら、ソファに座りスマートフォンを手に取った。そのままマージアプリを開き、ぼんやりと指を動かす。だが意識はまったく別のところにあった。水島の顔が何度も浮かんでくる。


 人の彼氏を奪い、冤罪までかけるなんてとんでもない女だ


 美月は、悔しさと苛立ちで鼻息が荒くなっていた。

 だがふと、頭に別の可能性が浮かぶ。水島は健人に彼女がいることを知らなかったのかもしれない。もしそうなら、水島もまた騙されていただけだ。しかし、美月はすぐにその考えを振り払った。浮気の事情がどうであれ、冤罪を仕組んだことだけは事実だ。人を陥れ尊厳を奪う行為は、許されるものではない。

 美月はゲームをやめ、スマートフォンをソファに放り出した。

 落ち着かずに立ち上がるが、怒りの矛先は見当たらない。

 結局、また静かにソファへ腰を下ろし、スマートフォンを手に取った。



 ニセ美月の帰宅時間が近づいてきた。

 美月はベランダに出て、帰ってくるのを待った。コンクリートの腰壁越しに道行く人を眺めていると、遠くにニセ美月の姿が見えた。なんだか疲れた様子で、足取りも重い。その様子に、美月は会社での嫌な出来事を思い出し同情した。やがてニセ美月はマンションに着き、玄関へ入っていった。


 今、あの写真を見ているのだろうか。


 そう思うと、胸がちくりと痛んだ。

 一分も経たないうちに、ニセ美月がマンションから出てきた。スマートフォンを操作し、そのまま耳に当てている。健人に電話をかけているのだろう。表情は明らかに苛立っていた。その様子に胸が締め付けられる。

 ニセ美月は、電話を耳に当てたまま早足で歩き出した。美月はその背中を見つめていたが、迷った末に後を追うことにした。

 部屋へ戻ろうと窓を開け、室内に足を踏み入れた、そのときだった。何かがぶつかる鈍い音と、鋭いブレーキ音が響いた。美月は、まさかと思って振り返る。

 サンダルを突っかけ、慌ててベランダへ出た。慌ててベランダの腰壁から身を乗り出し、ニセ美月が歩いていった方角に目を凝らす。交差点を過ぎたあたりに、一台の車が停まっているのが見えた。その周囲には、すでに人だかりができている。事故だということは、なんとなくわかった。だが、ここからでは肝心の様子がわからない。


 美月は部屋に戻ると、すぐに家を飛び出した。内階段を駆け下り、そのままマンションの外へ出る。息を切らしながら、現場へ向かって走り出した。

 近づくにつれて、ざわめきがはっきりと耳に届いてきた。人だかりの奥が、あと少しで見える。焦りに背中を押されるように、足はさらに速くなる。

 やがて人混みの隙間から、血だらけで倒れている人の姿が見えた。


 あれは……。


 次の瞬間、視界がかすむ。頭がぼうっとして、力が抜けた。足がもつれ、美月は前のめりに倒れ込む。意識が遠のいていった。

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