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第6話 不仕合わせ

 美月は、朝、ベッドの上で目を覚ました。ゆっくりと身体を起こす。身体の重さ、二日酔いのようなだるさ、不快なにおい。だが、それにももう慣れてしまっていた。それに、自分の身に起きた異変に比べれば、たいしたことではない。

 薄暗い部屋の中、自分の身体が視界に入る。それは、やはり吉田のものだった。

 ベッドから降り、足元に気をつけながら窓へ向かう。カーテンを開けると、すでに見慣れた景色が広がっていた。

 居間へ行き、散らかった服の下からスマートフォンを見つけて手に取る。画面に表示されていた日付は、7月5日だった。


 また時間が戻っている。


 予想はしていたため、大きな驚きはなかった。それでも、胸の奥に重い失意が広がる。

 美月はソファに腰を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。


 昨日は、ニセ美月に刺されることはなかった。それなのに、また戻されてしまった。


 寝起きで冴えない頭を無理やり働かせる。だが、いくら考えても答えは見つからない。思考は空回りするばかりだった。

 美月は何となくスマートフォンを手に取り、画面に目を落とした。表示された時刻を見て、ふと現実に引き戻される。ニセ美月の出勤時間が、近づいていた。


 特に何か考えがあったわけではない。それでも、美月は習慣のように立ち上がり、玄関へ向かった。

 ドアを開けて廊下に出ると、真夏のもわっとした空気が全身にまとわりついた。暑さに顔をゆがめ、内廊下の窓へ歩み寄る。遠くの景色を、ぼんやりと見つめた。外の明るさが、二日酔いであろう頭にじんと響いた。

 そのとき、ガチャッという音がして、ニセ美月が部屋から出てきた。


「おはようございます」


 少し距離はあったが、美月は声をかけた。いつも挨拶などしない相手からの言葉に、ニセ美月は明らかに戸惑った様子を見せる。美月は、部屋の鍵を閉めるニセ美月に、さらに愛想よく言葉を重ねた。


「今日も暑いですね。熱中症に気をつけてください」


 突然話しかけられたニセ美月は、不信感をにじませた目で小さく「はい」と返すと、そのまま内階段へ向かい、足早に下りていった。

 その反応はもっともだった。吉田はこれまで、美月の挨拶を無視してきた。この世界で、ニセ美月も同じように無視されてきたのだろう。そんな相手から、挨拶だけではなく、普段ならあり得ないほど丁寧な言葉をかけられたのだ。不信に思われても仕方がない。

 そう思いながらも、美月の胸の奥にはかすかな痛みが残った。これは美月自身の感情なのか、それとも吉田のものなのか。判別がつかないまま、美月は静かに部屋へ戻った。


 居間に戻った美月の心は、寝起きのときよりもわずかに前を向いていた。ニセ美月の反応に少し傷つきはしたものの、声をかけたことで何かが変わるかもしれないという期待が芽生えた。

 根拠はない。

 だが今の美月にできることは、それくらいしかなかった。話すようになれば、元に戻るためのヒントが得られるかもしれない。あるいは、それが答えそのものなのかもしれない。不安の中に、小さな前向きさが芽生えていた。


 しかし、1週間で仲良くなれるものなのだろうか。普通に考えれば、無理だ。

 ニセ美月の顔には、はっきりと不信感が浮かんでいた。

 それに、きっと臭いもひどかったに違いない。


 美月はそう思い、Tシャツの襟元をつかみ、前に引っ張って体臭を確かめた。汗とわきのにおいが立ちのぼり、思わず眉間にしわが寄る。他人の立場なら、もっと強く感じただろう。美月は、さっき声をかけたことを少し後悔しながら、ふと視線を上げた。ゴミだらけの部屋が、視界に飛び込んでくる。見渡し、思わずため息が漏れる。また片づけなければならないのかと思うと、あまりにも面倒で苛立ちが込み上げてきた。美月は「あ゛ぁ゙……」と小さく、文句のようなうなり声を漏らした。


 床に落ちていた服を乱暴につかみ、部屋の隅へ投げ飛ばす。投げた勢いで手が太ももにぶつかった。痛みは大したことなかったが、それが妙に情けなくて、泣きそうになる。

 美月はいら立ちを隠そうともせず、まるで誰かに見せつけるように不貞腐れた態度で掃除を始めた。一見やる気がなさそうにも見えるが、その様子とは裏腹に掃除ははかどり、片づけはどんどん進んでいく。あっという間に部屋を整え、そのまま洗濯を回してシャワーを浴びた。すべて済ませると、美月はようやく一息ついた。


 ソファに腰を下ろし、ニセ美月と仲良くなるための作戦を考える。今日、話しかけるチャンスは、ニセ美月が仕事から帰ってくるときだけだ。だが、何と声をかければいいのか分からない。頭をフル回転させてみるものの、これといった案は浮かばなかった。美月はスマートフォンを手に取り、ネットで検索を始めた。

 しばらくして、ひとつの情報が目に留まった。それを読み進めるうちに、ある考えが頭に浮かぶ。


 これならいけるかもしれない。


 美月はすぐに立ち上がり、準備を整えて部屋を出た。



 数時間後。すでに日は落ち、あたりは薄暗くなっていた。

 美月は、手提の茶色い紙袋を抱え、マンションの周辺をうろつきながら、ニセ美月が仕事から帰ってくるのを待った。帰宅のタイミングで部屋から出れば待ち構えていたように思われ、警戒されるかもしれない。そう考え、帰りが一緒になるよう、偶然を装うことにしたのだ。


 少しして、ニセ美月と恋人の健人が並んで歩いてくるのが見えた。美月は二人の少し後ろを歩き、玄関で自然に居合わせる距離を保つ。二人がエントランスのオートロックを開けて中へ入るのを確認し、そのあとに続いて中へ入った。

 美月の緊張が一気に高まる。美月はタイミングを見計らい、緊張でわずかに声を上ずらせながら二人の背中に「こんばんは」と声をかけた。ニセ美月と健人は、その声に反応してすぐに振り返る。ニセ美月は戸惑った顔をしながらも、少し遅れて「こんばんは」と返した。


「あの、これ……引っ越しの挨拶で。もう4か月くらい経っちゃいましたけど……」


 美月はそう言って、紙袋を差し出した。中には、肌や環境に優しい食器用洗剤と、スポンジ、布巾のセットが入った箱が入っている。

 そのとき美月は、紙袋の一部が色濃く変わっていることに気づいた。汗で湿っていたのだ。まずいと思ったが、もう引っ込みがつかない。緊張で、背中に汗がじんわりとにじんでくる。


 ニセ美月は迷うように紙袋を見つめていたが、微妙な空気に耐えかねたのか、「ありがとうございます」と小さく言って、それを受け取った。

 美月は会釈すると、すぐにその場を離れ、内階段を駆け上がった。足早に部屋へ向かい、ドアを開けて中に入る。夏の蒸し暑さと緊張で顔が熱い。ふう、と一息ついた瞬間、額の汗が流れ落ちた。


 居間に戻り、ソファに腰を下ろす。


 ニセ美月はひどく警戒しているようだった。今さら引っ越しの挨拶など、やはり不自然に思われただろう。少し前に進めたような達成感と、自分のやり方は間違っていたのではないかという後悔が入り混じり、美月の心は複雑だった。


 自分は何をしているのだろう。


 ふと、むなしさが込み上げてきた。

 何かをする気力も湧かず、美月は吉田のスマートフォンを手に取った。ぼんやりと画面を眺めていると、マージゲームのアプリが目に留まる。美月は、吉田になる前の習慣のまま、それを開いた。同じようなマージ系のアプリは、以前から自分のスマートフォンにもいくつか入れていた。何もしたくないほど疲れ、眠れない夜を繰り返す日々のなかで、こういうゲームがちょうどよかった。

 複数のマージゲームを次々と開いては閉じ、無心で指を動かした。それを繰り返しているうちに、時刻はいつの間にか夜の11時を過ぎていた。さすがに飽きてきた美月は、ゲームをやめてスマートフォンをソファにぽんと置く。そして立ち上がり、ベランダへ出た。


 行き交う人々を眺めていると、健人が歩いているのが目に入る。


 他の女のところへ行くのだろうか。


 そう考えた途端、美月の胸の奥に怒りが湧き上がった。それと同時に、ひとつの考えが浮かぶ。美月は部屋へ戻り、キャップとマスクをつけ、スマートフォンを手にして家を飛び出した。内階段を駆け下り、そのままマンションの外へ出る。遠くに見える健人を追い、気づかれない距離を保ちながら後をつけた。

 やがて健人は、あるマンションへ入っていった。そこは健人の家ではないことを美月は知っていた。美月は浮気相手の家だと考え、建物の陰に身を潜めて、しばらく張ってみることにした。


 20分ほどが過ぎた。

 待っているあいだ、健人が浮気している場面ばかり想像してしまい、胸の奥がざわついて落ち着かない。いつ出てくるとも分からない状況に、美月はいら立ち始めていた。

 もう帰ろうかと思い始めたそのとき、マンションの中から健人と若い女性が出てきた。美月は不愉快さの中に、やっと出てきたことへの安堵を覚えた。

 女性は若く、小柄でかわいらしい雰囲気だった。その愛らしさは、美月の胸の奥に小さな嫉妬を住み着かせた。黒髪のロングヘアに、オフショルダーのブラウスという装いが、なおさら若さを際立たせている。

 二人はマンションの前に立ち、何やら話をしている。

 美月は女性の顔をまじまじと見た。その瞬間、吉田の記憶が反応した。


 その女性は、吉田を陥れた水島だった。


 さらに、その顔が今度は美月自身の記憶を刺激した。胸の奥で何かが引っかかる。だが、すぐには思い出せない。散らばっていた断片を手繰り寄せる。記憶が少しずつ形になっていく。そしてそれは、やがてはっきりとした輪郭を持ち、鮮明によみがえった。


 彼女は、美月の会社の後輩だった。

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