第5話 再演
美月は思い出した。自分が吉田の姿になる前、隣人の吉田を包丁で刺したことを。その事実に、恐怖が一気に込み上げ、身体が小刻みに震えた。
布団を握りしめ、息を整える。やがて気持ちが落ち着くと、美月はベッドの縁に腰かけた。
身体はひどく重く、だるい。不快なにおいが漂い、胸の奥がむかついた。美月は、重たい身体を抱えるようにして、ゆっくりと立ち上がった。カーテンを開けようと一歩踏み出したとき、足に何かが当たり、カラン、と乾いた音を立てて床を転がった。
――もしかして
カーテンを開ける。窓の外には、吉田の部屋から見える景色が広がっていた。視界の端に映る自分の身体は、吉田のものだ。床にはゴミが散らかり、ビールの空き缶が転がっている。美月は、すぐに居間へ向かった。
居間はゴミだらけで、脱ぎ捨てられた服があちこちに落ちている。美月は迷いなく、テーブルのそばに落ちていたTシャツを拾い上げた。さらに、その下からのぞいたビニール袋をどけると、スマートフォンが現れた。美月はそれを手に取り、画面を点けた。
表示された日付は、7月5日。美月は息を呑んだ。時間が、また1週間前に巻き戻っていた。
力なくソファに腰を下ろす。
美月は、ぼんやりした頭で状況を整理した。
昨日、ニセ美月に刺され、意識を失った。
そして今また目を覚まし、なぜか1週間前に戻っている。
さらに、自分はこの身体になる前、隣人の吉田を刺していた。
胸に、重いものが沈んだ。だが、考えなければならない。考えなければ、ずっとこのままだ。胸の重さを振り払うように、必死に頭を働かせる。
そういえば――。
美月はあることを思い出した。ニセ美月の1週間の行動は、吉田になる前の自分と同じだ。そして、その行動を見るかぎり、ニセ美月の中身は吉田ではないと思われた。
では、なぜ1週間前に戻されたのか。
吉田が刺されて、それから……。
ある疑問が浮かぶ。
あのあと吉田って死んだの?
自分と吉田がその後どうなったのか、まったく思い出せない。考えようとするほど、頭の奥が鈍く痛んだ。ソファの背にもたれ、思い出せないまま、美月はぼんやりと向かいの壁を見つめた。
そのとき、ふと時間の感覚がよみがえった。そろそろ、ニセ美月が出勤する頃だ。美月はハっとして身を起こし、立ち上がった。
玄関へ向かう途中、洗面所に立ち寄り、鏡の前に立つ。分かっていたはずなのに、そこに映る吉田の姿を見て、美月はわずかに動揺した。だがその一方で、前回ほどの動揺がないことに気づき、慣れていく自分に恐怖を感じた。
美月は重い気分のまま玄関へ向かい、ドアをわずかに開けた。廊下に気配がないことを確かめながら、隣の部屋の様子をうかがう。すぐにガチャッという音がして、隣の部屋からニセ美月が出てきた。その姿を見た瞬間、昨夜の出来事が美月の脳裏によみがえった。
恐怖が一気にせり上がる。美月はドアを閉め、慌てて鍵をかけた。
荒くなった呼吸を抑えようと、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。何度か繰り返すが、恐怖はなかなか消えない。刺されて倒れる瞬間が、執拗に頭の中を巡った。
美月は乱れた気持ちを抱えたまま居間へ戻った。散らかった部屋が視界に飛び込んでくる。また片づけなければならないと思うと、苛立ちまで込み上げてきて、気分はますます悪くなった。美月はソファにドスンと身体を沈め、背もたれに身を預けて目を閉じた。
それから40分ほどが経った。体調が少し落ち着くと、美月はすぐに部屋の片づけを始めた。シンクに溜まった食器を洗いながら、なぜこんなことになってしまったのかという疑問が、頭の中を巡る。
もしかしてあの後、吉田が死んでしまい、その罰を受けているのだろうか。
このまま、ここから一生出られなかったら――。
不安が胸の内に広がる。さらに、刺したことへの罪悪感が、じわじわと美月を追い詰めた。美月はその感情から逃げるように、無心で手を動かし続けた。
ひと通り部屋を片づけ終えると、美月はソファに腰を下ろし、短く息をついた。部屋はきれいになった。だが、これからどうすればいいのかは分からない。美月の頭は、依然として混乱したままだった。
このまま1週間が過ぎれば、またニセ美月が殺しに来るのだろうか。
そう考えたとき、ひとつの疑問が浮かぶ。
ニセ美月は、なぜ自分を殺しに来たのか。
美月は先週の出来事を思い返した。特に問題なく過ごしていたはずだ。昨夜は、ニセ美月が健人と喧嘩をしていた。廊下で軽く挨拶を交わし、そのあと買ってきたビールを飲んだ。そして、美月は、自分の最悪の行動を思い出した。
酒に酔い、感情が爆発して大声を上げ、物に当たり散らしていた。その音は、部屋中に響き渡っていた。あれが引き金になったのだろう。ニセ美月の中で、かろうじて保たれていた理性が限界を超えたのだ。
さらに、美月は思い出す。吉田になる前、彼を刺したあの日も、同じようなことが起きていた。あの日、心はとっくに限界だった。そこへ吉田の騒音が追い打ちをかけた。だが、本当に憎かったのは健人、そして美月の上司だ。それでも、刺したのは吉田だった。もちろん、吉田への恨みはあった。ただその衝動は、一番近くにいた相手へ向かってしまった。
ニセ美月も同じ状況だった。なら、今度は騒がなければいい。美月はそう結論づけた。だが、それで本当に元の身体に戻れるのだろか。この先も、この日々を繰り返すのではないかという不安が、美月の胸の奥にじわじわと広がっていった。
美月は、吉田の苦悩も抱えたまま、不安な1週間を過ごした。そして気づけば、ニセ美月がやって来るはずの時間が、すぐそこまで迫っていた。
美月は落ち着かないまま部屋の中を歩き回る。意味もなく玄関に立ち、隣の部屋からニセ美月が出てこないかと耳を澄ませた。
そうして落ち着かないまま過ごすうちに、前回ニセ美月が来た時間から、すでに30分が経過していた。彼女はまだ現れない。
やはり、騒音を出したことが引き金だったのだろう。美月はそう確信し、待つのをやめた。もう少し様子を見てから判断してもよかったのかもしれない。だが、これ以上張りつめた気持ちに耐えられそうになかった。そう思って気持ちを切り替えた途端、緊張がふっと緩み、ビールが飲みたくなった。
美月は台所へ向かい、冷蔵庫から500ミリリットルの缶ビールを取り出した。食器棚からグラスを取り、居間のローテーブルに置く。ローテーブルとソファの間に腰を下ろし、ビールをグラスに注いで一口飲んだ。冷たいビールが身体の中を通り、こわばっていた身体が少しずつほぐれていく。酔いが回るにつれ、先ほどまでの緊張が嘘のように、気持ちがゆるんでいった。
美月は缶ビールを一本飲み干すとシャワーを浴び、その後はソファに身を沈め、スマートフォンを眺めながら時間を過ごした。
何度も眠気に襲われたが、美月は眠らなかった。夜中の12時を過ぎると、何が起きるのかを確かめたかったからだ。睡魔に意識を持っていかれそうになり、ビールを飲んだことを少し後悔しながら、美月はただ時間が過ぎるのを待った。だが、部屋にじっとしているだけでは、さすがに眠気に抗えそうにない。美月は気分転換も兼ねてベランダに出て、道を行き交う人々をぼんやりと眺めた。
時刻は午後10時。
仕事帰りや、酒を飲んできた人々が、まばらに通りを歩いている。車通りもそれなりにあり、車から漏れる音楽や、救急車のサイレン、若者たちのはしゃぐ声が夜の街に響いていた。普段なら煩わしく感じることもある音だ。だが今の美月は、その雑音に安心感を覚えていた。
そのとき、大きな声で楽しそうに話す男性の声が聞こえてきた。美月はベランダから少し身を乗り出し、真下を覗き込む。歩道には、楽しそうに会話しながら歩く二人組の会社員の姿があった。酔っているせいか、声がやけに大きい。
――あの人たちは、私の話を聞いたら、何と言うだろう。
美月は、誰でもいいから話を聞いてほしくなった。自分に起きた出来事を一人で抱え込むことが、急につらくなったのだ。そんな思いが胸にあふれ、切なさに押されるようにして、美月は思わず「おーい」と声をかけてしまった。
だがすぐに我に返り、慌てて身を引っ込める。美月は自分のバカな行動を責めながら、そっと部屋の中へ戻った。
時刻は深夜11時59分。
眠気は消え、頭は冴えていた。美月は緊張で息を呑み、スマートフォンの画面を見つめる。だが、12時まであと数秒というところで、耐えがたい眠気が襲ってきた。
美月は抗う間もなく、そのまま気絶するように意識を失った。




