第4話 罪と害
もしかすると、ニセ美月の中身が吉田になっているのではないか。と美月は考えた。
ベッドからサッと降り、居間へ向かう。
どうやって確かめる?
居間を歩き回りながら、寝起きの重たい頭で考えを巡らせた。そしてふと、テーブルの上に置かれたスマートフォンを手に取った。画面に表示された時刻を見る。そろそろ、ニセ美月が仕事に向かうために、家を出る時間だ。美月は洗面所へ行き、簡単に身なりを整えた。
それから玄関に立ち、ニセ美月が出てくるのを待つ。1分ほどして、ガチャッという音が聞こえた。ニセ美月がドアを開けたそのタイミングを逃さず、美月もまた、自分のドアを開けて廊下へ出た。
互いの視線が合う。ニセ美月の嫌そうな雰囲気が伝わってくる。その態度に胸の奥が少しだけ痛んだが、美月は愛想よく「おはようございます」と声をかけた。ニセ美月は戸惑いながら、小さく「おはようございます」と挨拶を返す。美月は考えがまとまらないまま、勇気を出して口を開いた。
「あの……」
だが、その先が続かなかった。ニセ美月は、警戒を隠そうともせず、美月を見つめ返した。
「あの、吉田さんですか?」
口にした瞬間、美月は後悔した。
――なんだそれ。意味わかんないこと言っちゃった。
「違いますけど……」
ニセ美月は、不思議そうな顔でそう答えた。
「あ、そうでしたか。変なことを聞いてすみませんでした」
美月は、焦って思わず早口になっていた。ニセ美月は、美月を警戒して、エレベーターには向かわず、内階段へ足を向け、そのまま一階へ下りていった。その背中を見送ると、美月はすぐに自分の部屋へ戻った。
――あの反応……吉田じゃない……? 引いていた。
ニセ美月から、吉田の気配は感じられなかった。確信は得られなかったが、あれは吉田ではないように思えた。美月は居間に戻ってソファに腰を下ろし、背もたれに身体を預ける。そのまま、ぼんやりと一点を見つめた。
――ずっとこのままなのかな……
美月は、近くのスーパーへ買い物に来ていた。時刻は夕方の6時半。総菜と缶ビールを手早く選び、無人レジで会計を済ませて外へ出る。日曜の夕方は、いつもより人通りが少なく、歩きやすかった。
あれから5日が過ぎ、今日でちょうど1週間になる。吉田の体の重さにも、慣れてきた。だが、心は落ち込んだままだった。それは、元に戻れないかもしれないという絶望だけではなく、吉田の身に起こった出来事のせいでもあった。
美月は歩きながら、空を見つめた。オレンジと薄青が溶け合い、冥色の世界が広がっている。あまりの美しさに、胸の奥が、じわりと温かくなる。熱いものがこみ上げてきて、喉が詰まる。視界が滲み、次の瞬間、涙が頬を伝った。
美月はその場に立ち尽くした。空を見上げたまま、顔を歪め、ぼろぼろと涙を流す。道の真ん中で、中年の男が泣いている。
すれ違う人々は、その光景に驚き、足早に去っていった。美月は周囲の視線に気づいていた。それでも、あふれ出した感情を止めることができなかった。やがて泣き疲れた美月は、顔をびしゃびしゃに濡らしたまま歩き出した。
マンションへ戻り、自分の部屋の前で立ち止まり、鍵を取り出す。すると、隣のニセ美月の部屋から言い争うような声が聞こえてきた。
「何、その言い方! 悪いと思ってないよね」
ニセ美月の、怒りに震えた声だ。
耳を澄ましていると、やがて部屋のドアが開き、中から健人が出てきた。不貞腐れた表情を浮かべたまま、健人は美月を見ることもなく、苛立った様子で内階段を下りていく。
――かわいそうな美月。
自分とニセ美月のことを思い、立ち尽くしたまま感傷に沈んでいると、今度はニセ美月が部屋から出てきた。美月は、自分の赤くなった目を気にすることなく、「こんばんは」と声をかけた。ニセ美月の目も赤くなっており、顔を伏せたまま会釈をすると、すぐに部屋へ戻っていった。
美月は居間で、買ってきたビールをグラスに注いで飲んでいた。すでに500ミリリットル缶を2本空けており、かなり酔っている。床には服が脱ぎ捨てられており、台所のシンクには、汚れた食器がそのまま置かれていた。
美月はスマートフォンを手に取り、ふらつきながら立ち上がった。そのまま寝室へ向かい、ベッドに倒れ込む。目を閉じると、水島の顔が浮かんだ。考えたくないのに、どうしても頭から離れない。別のことを考えようと、必死に思考を巡らせる。すると今度は、健人の顔が浮かんできた。心のざわめきが治まらず、イライラが募る。美月はたまらなくなって体を起こした。強い怒りが沸き上がる。もう抑えがきかない。
「ああああぁぁぁぁぁあああぁぁ! クソが!」
叫び声をあげながら、枕をつかみ、壁に何度も叩きつける。それでも感情は収まらず、部屋にあるものを次々と壁へ投げつけ、蹴り飛ばした。
これは、ただの怒りではなかった。吉田と美月、二人分の感情が混ざり合い、ひとつの塊となって心を圧迫していた。美月は、もう一度、喉が裂けるほどの叫び声を上げた。
その直後、身体から力が抜け、急に落ち着きを取り戻す。ベッドの縁に腰かけたまま、美月は一点を見つめた。だが、またすぐに立ち上がり、水を飲むために居間へ戻る。
水を飲み、ソファに腰を下ろしてぼんやりしていると、インターフォンが鳴った。一瞬、どきりとしたが、酒の影響で気が大きくなっており、深く考えずに室内モニターの前へ向かった。画面を見た瞬間、美月の胸に緊張が走る。
映っていたのは、ニセ美月だった。美月は躊躇した。だが、わざわざ向こうから訪ねてきたということは、やはりニセ美月は吉田なのかもしれない。美月はそう考え、通話ボタンを押した。
「はい」
酔いのせいで、声が思ったより大きく響いた。
「あの……話があります」
ニセ美月はそう言い、それ以上は何も話さなかった。
「今、行きます」
美月はそう告げると、玄関へ向かった。
ドアを開けると、ニセ美月は美月が言葉をかける前に玄関へ足を踏み入れてきた。
「中で、話したいんですけど」
ニセ美月は、美月の顔を見ないまま、小さな声で言った。美月は一瞬ためらった。だが、この状況が動くかもしれないという期待に押され、ニセ美月を部屋の中へ通した。
美月は居間へ向かって歩き、その背後をニセ美月が黙ってついてきた。居間に足を踏み入れた、その瞬間。
ニセ美月が背後から美月の腹に腕を回し、右手に握った刃を脇腹へ突き立てた。激しい痛みが走り、美月は声も出せないまま前のめりに崩れ落ちる。
床に手と膝をついたまま、前へ逃げようとする。だが、身体は言うことをきかない。そのまま、うつ伏せに倒れ込んだ。
視界が暗くなり、美月の意識は途切れた。
美月は、ベッドの上で目を覚ました。呼吸は乱れ、心臓が激しく脈打っている。怯えたまま身体を起こし、脇腹に手を当てた。だが痛みはなく、身体に異常はない。
ニセ美月に刺されて――夢だったの?
美月は混乱していた。だがそのとき、あることを思い出す。
――私、隣人を刺したんだ
美月は、自分が吉田の姿になる前に、隣人の吉田を包丁で刺したことを思い出した。




