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第3話 重なった痛み

 吉田のスマートフォンの表示は、7月5日だった。


 1週間前に、戻ってる……?


 美月は戸惑いながらも、パスワード入力画面を開いた。暗証番号の入力を求められる。美月は、考えることなく番号を押すと、すぐにロックが解除された。

 知らないはずの番号だった。しかし、先ほど名前を知ったときと同じように、吉田自身なのだから知っていて当然だと納得した。


 美月はまず、日付が正しいかどうかを確かめるためにブラウザを開いた。検索窓に「今日の日付」と入力する。表示されたのは、「2026年7月5日」。


 同じだ――どうなってんの……?


 困惑しながらも、今度はメッセージアプリを開いた。そして、最後にやり取りしていた人物との画面を表示する。


「冤罪だとわかってた。みんなもそう思ってる。訴えるなら協力するから」


 その文を読んだ瞬間、また吉田の記憶が映像として鮮明によみがえった。



 社長と、面談室でテーブルを挟んで向かい合っている。


「少しの間、在宅勤務してもらうことになりました。私も、他の社員も、疑っているわけじゃないですからね」



 憤懣が胸に渦巻き、美月は息苦しさを覚えた。自分の記憶ではないはずなのに、尊厳を踏みにじられたような屈辱感が広がっていく。記憶として頭に映し出された映像は鮮明なのに、なぜこんな感情が湧き上がるのかまでは分からなかった。美月は気持ちを切り替えようと深呼吸し、これからどうすべきかを考えた。


 スマートフォンは見つかった。けれど、このままここで過ごすことになるのだろうか。


 考えたくないのに、そんな悲観的な思いが頭をよぎる。しかし、もしそうだとしたら、こんな汚い場所で過ごせるはずがない。美月は、もやもやした気持ちを振り払うように、再び掃除に取りかかった。


 床のゴミを片づけ終えると、家具にたまったほこりを乾拭きし、掃除機をかける。洗剤を使って床と家具を拭き上げ、服やタオル、シーツを何度かに分けて洗濯した。水回りを磨き、冷蔵庫の中も整理する。ベランダの砂埃も、ほうきとちりとりで掃き取った。掃除をしているうちに、先ほどの嫌な気持ちはいつの間にか消えていた。


 ひと通り片づけ終えた美月は、ソファに腰を下ろし、もう一度、吉田のスマートフォンを開いた。電話帳やメッセージを確認する。だが、自分との接点は見つからなかった。美月はスマートフォンから目を離し、横になってそっと目を閉じた。そして、そのまま眠ってしまった。



 美月は目を覚ました。

 寝ぼけ眼に映る自分の身体は、まだ吉田のままだ。外は暗くなっており、スマートフォンを見ると、時刻は夜の7時過ぎだった。美月はゆっくりと体を起こす。すると、先ほどの掃除で出た大量のゴミ袋が目に入った。美月は立ち上がり、ゴミ袋をいくつも抱えて部屋を出た。


 24時間ゴミ出しできるのに、なんでこんなに溜まるんだろう。


 そんなことを考えながらエレベーターに向かって歩いていると、エレベーターの扉が開いた。

 中から現れたのは、ニセ美月と――健人だ。健人は、美月の恋人だ。ニセ美月の恋人も、同じく健人なのかと美月は驚いた。

 二人がこちらに向かって歩いてくる。突然の出来事に焦り、胸に緊張が走った。


 普通に挨拶すればいい。


 そう分かっているのに、鼓動は強くなる。美月は心を落ち着けようと、小さく息を吐いた。

 やがて、二人が目の前まで近づいた。ニセ美月は美月を見て、心底嫌そうな顔をしている。その表情を見て、美月は悟る。こっちの吉田もまた、同じようにニセ美月に嫌われているのだと。あまりにも露骨な態度に、かえって可笑しさが込み上げた。そのおかげで、わずかに落ち着きを取り戻した美月は、「こんばんは」と穏やかに声をかけた。

 ニセ美月は、その挨拶に明らかに動揺した。いつも無視してくる隣人の男性が、突然、愛想よく挨拶をしてきたのだ。ニセ美月は返事もできず、戸惑ったように小さく会釈すると、健人とともに自分の部屋へ戻っていった。


 美月は、エレベーターに向かって歩きながら、ニセ美月が浮かべた嫌悪の表情を思い出していた。


 ――ひどい顔だったな。自分って、あんなふうに見えてたんだ。


 客観的に見た自分の姿に、美月は可笑しさと不気味さを覚えた。さらに、健人への怒りがじわじわと込み上げてきた。


 ――健人、浮気してたんだよなぁ……この健人もしてんのかなぁ……。


 美月は、健人の浮気が発覚したあの日のことを思い出した。



「ごめんって言ってるじゃん」


 健人が、面倒くさそうに言い放つ。

 美月と健人は、美月の家の玄関で言い争っていた。


「何、その言い方! 悪いと思ってないよね」


 美月の目は赤く、頬には涙の跡が残っている。

 健人は不貞腐れた表情のまま、何も言わずに玄関のドアを開けた。


「ちょっと!」


 美月は声を張り上げたが、健人は振り返ることもなく、そのまま家を出て行った。

 ドアが閉まったあと、部屋には沈黙が残る。美月は行き場のない苛立ちを抱えたまま、部屋の中を落ち着きなく歩き回った。やがて耐えきれず、スマートフォンを手に取り、玄関を出る。

 すると、隣の部屋の前で、吉田がちょうど鍵を開けているのが目に入った。一瞬、視線が合う。だが、吉田は何も言わず、そのまま部屋に入っていった。

 美月は健人を追いかける気力を失い、自分の部屋へ戻った。健人が浮気をしたはずなのに、なぜか罪悪感が込み上げてきた。



 ――なんで、こっちが罪悪感を感じなきゃいけないの


「ふざけんな」


 ゴミ捨て場に袋を置くと同時に、そんな言葉が思わず口をついて出た。思いのほか大きな声で、自分でも驚く。周りに聞かれていないかと慌てて辺りを見渡した。幸い、周囲には誰もいない。美月は胸をなでおろした。


 部屋に戻ると、ようやく空腹だったことに気づく。美月は片づけのときに見つけた財布を手に取り、コンビニへ向かった。



 社長と面談室で、テーブルを挟んで向かい合っている。


水島(みずしま)さんから申し出がありました。吉田さんに体を触られたと話しているのですが――」


「はぁ?」


 少し気まずそうに話す社長の言葉を遮るように、当惑と怒りを含んだ声を上げる。


「吉田さんの話も聞かせてもらいたいのですが……まずは、こちらの質問に答えてください。水島さんの話した内容については、その後にお伝えします」


 頭の中が真っ白になり、不安が一気に込み上げてくる。



 美月は、ベッドの上で目を覚ました。

 嫌な夢の余韻が残り、胸の奥に不快感が広がっている。


 ――あの女のせいで……


 美月は、また吉田の記憶の一部を思い出していた。怒りがじわりと込み上げて来る。夢の内容は、美月の記憶には存在しないものだった。怒りも、憎しみも、本来は美月のものではない。なのに、吉田の記憶に胸は締めつけられ、怒りが身体を満たしていく。美月は、自分の記憶のように水島のことを思い出した。


 水島は、吉田と同じ部署で働いていた女性社員だ。

 数か月前、水島は「吉田から性的被害を受けた」と会社に報告した。だが、吉田にその自覚はなかった。仕事以外でのやり取りは一切なく、接点らしい接点も思い当たらない。吉田にとって、それは完全な冤罪だった。

 調査が終わるまでという理由で、吉田は在宅勤務を命じられ、結論が出ないまま3か月が過ぎた。調査が進むにつれ、水島の話には細かな食い違いが目立つようになった。決定的な証拠は見つからず、被害があったと断定することもできない。


 結局、事態は「何かの勘違いだったのではないか」という曖昧な結論のまま、収束していった。すると水島は「これ以上、問題にするつもりはない」と言い残し、逃げるように会社を辞めていった。ほどなくして、職場復帰することになるが、吉田は休職を選んだ。

 疑いは晴れたが、社員の中には、何もなかったとは思っていない者もいるだろう。そんな中で働くことは、吉田にはとても耐えられなかった。胸には、取り除くことのできない澱だけが残った。


 ――あのクソ女


 吉田がこの数か月で味わった悲劇と怒りが、一気に美月の内側から噴き出した。しかし、怒りに呑まれた中で美月の意識は、ふいに自分の問題へと引き戻された。

 美月はベッドに横になったまま、顔の前に手をかざす。そこにあったのは、吉田の、ぼてっとした手だけだった。


 ――戻ってない


 苛立ちに任せて体を起こし、枕をつかむ。そして、それを壁に何度も叩きつけた。


「ふざけんな!」


 吉田と美月の記憶と感情が絡み合い、境目を失って噴き出した。誰に向けた言葉なのか、怒りの矛先はもう曖昧だった。

 しかし、その怒りは長く続かなかった。代わりに押し寄せてきたのは、どうしようもない絶望感だった。美月は動きを止め、うなだれる。


 そのとき、ひとつの考えが頭をよぎった。

 もしかすると、ニセ美月の中身が、吉田になっているのではないか。確かめなければならない。


 美月はベッドからサッと降り、居間へ向かった。

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