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第2話 新たな事実

 隣の部屋のドアが開き、女性が出てきた。その姿は、美月だった。隣人の男性になる前の、自分自身の姿。美月はパニックに陥り、反射的にドアを閉めた。その音に気づいたのか、女性が一瞬こちらを振り返る。だがすぐに視線を外し、エレベーターのほうへ歩いていった。

 美月は、女性の姿をもう一度確認しようと、ドアをわずかに開けた。女性はエレベーターを待ちながら、廊下の窓から外を眺めている。その横顔は、どう見ても美月だった。体形も、肩までのストレートヘアーも、髪の揺れ方さえ同じだ。


 あれは誰?

 本物は私だよね――。


 そう思った瞬間、自分の存在が揺らいだ。美月は、エレベーターを待つ美月を否定するように、その女性を「ニセ美月」と呼ぶことにした。


 ニセ美月がエレベーターに乗ったのを見届けると、美月は玄関から出て、自分の部屋――今はニセ美月の部屋へ向かった。ドアの前に立ち、緊張しながらノブを下げて引く。

 だが、開かない。そりゃそうだ。鍵をかけて出ていくに決まっている。美月は諦めて、隣の男性の部屋へ戻った。


 部屋に戻ると、美月は洗面所へ向かい、再び鏡を覗いた。そこに映っているのは、やはり隣人の男性の姿だった。

 わけの分からない状況に呆然としていると、突然尿意に襲われた。美月はすぐにトイレへ向かう。パンツを下げ、便座に座った。


 これは、このままでいいんだよね。

 これをこうして……。


 どうすればいいのかは、なぜか分かった。少しの戸惑いと、小さな羞恥が胸にじんわりと滲む。室内に、小さく水の音が響いた。

 美月はトイレを出て、再び洗面所へ向かった。そして手を洗いながら、ぼんやりと考える。


 わけが分からない。

 なんで、隣の男に。あんな迷惑なクソ野郎に。

 あの男はいまどこにいるの? ニセ美月みたいに、どこかにもう一人いるの?

 この部屋に帰ってくるの?


 どれだけ考えても答えは出なかい。不安で胸がむかむかし、また気分が悪くなってきた。美月は居間のソファに腰を下ろした。

 ソファの背に体を預けると、ふと今日が何日なのかが気になった。しかし日付を確かめたくても、スマートフォンがどこにあるのか分からない。探そうにも、胸のあたりがむかつき、身体が思うように動かなかった。それに、この汚い部屋では見つけ出すまでに時間がかかりそうだ。美月は、あきらめて目をつぶった。



 マンションの廊下を歩いている。

 前から、隣人の男性が歩いてきた。


「こんにちは」


 挨拶をする。だが、男性は返事をせず、そのまますれ違っていった。もやもやした気持ちのまま2、3歩進んだところで、背後から乾いた音がした。


 ―ちっ。


 耳を疑う。足を止めて振り返る。


 男性は、カバンの中を探り、鍵を取り出しながら、何事もなかったかのように廊下の奥へ向かっていった。



 少し眠っていたのか、美月はふと目を覚ました。背もたれに預けていた身体を、ゆっくり起こす。だるさはまだ残っているが、さっきよりはいくらか楽だった。だが、嫌な夢のせいで気分は少し不快だ。


 夢に出てきたのは、隣人の男性だ。いまは自分自身でもある。

 隣人の男性は、5か月ほど前に美月の隣へ引っ越してきた。最初の2か月は何事もなかった。だがある頃から、壁を叩く音や叫び声が聞こえるようになった。夜中に突然響くこともあれば、一日に何度も続くこともあった。

 美月は管理会社に相談した。だが対応は注意書きの張り紙だけで、状況は何も変わらなかった。美月は、他の部屋の住人は、どう思っているのだろうかと考えた。男性の部屋は端にあり、隣は美月の部屋しかない。下は駐車場だ。苦情が出るとすれば、上の階くらいだろう。それを確かめるため、美月は再び管理会社に連絡した。


 担当者の話では、男の部屋の真上は現在空室だという。さらに、美月の部屋の真上の住人からも、特に苦情は入っていないらしい。それを聞いた美月は、かえって気が重くなってしまった。警察に連絡することも考えた。

 だが、そこまでして逆恨みされたらと思うと怖くて踏み切れなかった。


 問題は、騒音だけではなかった。夢で見たとおり、共用部ですれ違っても無視され、舌打ちされたこともあった。そうしたことが積み重なり、隣人への嫌悪は少しずつ膨らんでいった。

 さらにその頃、美月は職場でも追い詰められていた。上司の姿と隣人の姿が、次第に重なって見えるようになった。


 美月は、じわりと喉の渇きを覚えた。だるそうに立ち上がり、ぼんやりした頭のまま台所へ向かう。すると、台所の手前の壁際に置かれたウォーターサーバーが目に入った。中身を覗くまでもなく、空であることがわかる。それなのに、なぜか目が離れない。

 用はないはずだ。見ていると、何かを忘れているような気がしてくる。だが考えても思い出せず、美月は台所に入り、冷蔵庫を開けた。中には、2リットルのペットボトルの水が3本入っていた。そのうちの1本を手に取り、キャップを回す。かちり、と小さな音がした。未開封なのかどうか確信は持てなかったが、喉の渇きには耐えられず、美月はそのまま口をつけ、ごくごくと水を飲んだ。冷たい水が、乾いた喉を一気に潤していく。

 ペットボトルを冷蔵庫に戻すと、美月は居間へ向かった。


 まずは今日の日付を確かめなければならない。美月はスマートフォンを探そうと、テーブルの上に積み上がったゴミをどかした。しかし、スマートフォンは見つからない。部屋を見渡してみたが、あたりはゴミだらけで、すぐに見つかりそうもなかった。探すより、片づけたほうが早い。美月はそう判断し、掃除をしながらスマートフォンを探すことにした。


 窓を開け、空気を入れ替える。むっとした熱気が流れ込んできたが、それでも室内にこもったにおいよりはましだった。美月は、開けられる窓をすべて開け放った。

 それから、洗面台、台所の収納を順に覗く。ゴミ袋、洗剤、スポンジ。掃除用具はひと通り揃っている。居間の隅には、ワイヤレスの掃除機が立てかけられていた。美月はすぐに掃除へ取りかかった。美月はまず、部屋に散らかったゴミをゴミ袋に入れていった。


 テーブルの周辺を片づけていると、床に一枚のはがきが落ちているのが目に入った。拾い上げ、何気なく目を通す。ウォーターサーバー会社からの通知だった。宛名には「吉田英嗣(よしだひでつぐ)」とある。隣に住んでいた男性の名前だ。今は、自分の名前でもある。初めて知る名前だったが、美月はそれを見ても、特に違和感を覚えなかった。美月はそのはがきを捨てようと、ゴミ袋に入れかけて手を止めた。


 そうだ――解約したんだ。


 記憶が、ふいに浮かび上がる。元妻の理恵と離婚してここへ引っ越してきたとき、ウォーターサーバーだけは持ってきた。けれど使わなくなり、結局解約したのだった。美月は小さく息を呑んだ。自分の中に、隣人だった男性――吉田の記憶がある。

 しかし、よく考えればおかしなことではない。今の自分は、吉田なのだから。美月はその感覚を受け入れるように、はがきをテーブルの隅にそっと置いた。


 再び片づけに戻り、床に落ちていたTシャツを拾い上げる。その下にはコンビニのビニール袋があった。袋を手に取ると、スマートフォンが姿を現した。美月はそれを素早く拾い上げ、電源ボタンを押す。画面が点灯して、日付が表示された。


 7月5日。


 昨日は、11日だったはず。1週間前に、戻ってる……?

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