第1話 私とわたし
竹内美月は、息苦しさを感じて目を覚ました。身体が、これまでに感じたことのないほど重く、だるい。
少し前に30歳になったばかりだが、20代の頃には感じたことのない重さだった。年齢ひとつで、ここまで変わるものだろうかと美月はぼんやり考えた。仕事に行かなければ、と思う。だが、その重さには逆らえない。美月は再びまぶたを閉じた。眠ることもできず、意識は覚醒と眠りの狭間を漂う。
そんな中、ふと不快なにおいが鼻をついた。それは、二日ほど髪を洗わなかったときの頭皮のにおいを、さらに濃く煮詰めたような臭気だった。その臭いに思わず顔をしかめる。体のだるさと、まとわりつくようなにおいのなか、「仕事に行かないと」という言葉が頭の中をぐるぐる回る。なかなか起き上がれない。
数分が経ち、やがて美月は、起きることをやっと決意した。まぶたを重くしたまま、身体をゆっくり起こし、ベッドの縁に座る。あくびをしながら伸びをすると、滲んでいた視界が少しずつはっきりしてきた。そして、美月は気づく。
ここは自分の部屋ではない。
恐怖が一気に押し寄せる。美月は息を呑み、周囲を見回した。遮光カーテンのせいで薄暗い。だが、自分の部屋ではないことだけははっきり分かった。美月は立ち上がろうとして、前かがみになった。そのとき、視界の端に、膝の上に置いた自分の手が映る。背筋に冷たいものが走った。視線を落とし目を凝らす。
それは、美月の手ではなかった。毛だらけの太ももの上に、ぼってりとした大きな手が乗っている。脚はごつごつしていて、その上にのしかかるように腹が張り出していた。
何が起きているのか、まったく理解できない。心臓が早鐘を打ち、不安が胸いっぱいに広がる。恐怖をこらえながら、美月はゆっくりと立ち上がった。カーテンを開けようと一歩踏み出す。その瞬間、足に何かが触れ、カラン、と乾いた音を立てて床を転がった。心臓が跳ねあがる。だが、それに構っている余裕はない。
美月は窓に近づいた。カーテンに手をかけ、サッと開ける。窓の外には、見覚えのある景色が広がっていた。美月は急いで窓を開け、顔を出す。夏の熱気が一気に肌にまとわりついた。雲ひとつない青空が広がり、まぶしいほどの陽光が降り注いでいた。それを目にしただけで、恐怖がわずかにゆるむ。美月は辺りを見渡した。自分の部屋から見える景色と、ほとんど変わらない。
ここは――同じマンションなのだろうか。
美月は部屋の中へと身体を戻し、室内を見回した。ベッドが一つ置かれ、それが空間の大半を占めている。床には、脱ぎ捨てられた服やプラスチックの容器、ビールの空き缶などが散乱していた。さっき足に当たったのは、ビールの空き缶だった。
――私の部屋と似てる。
この部屋は、美月の部屋とほとんど同じ造りだった。壁紙や広さも変わらず、ドアも同じ二枚引き戸だ。20センチほど開いたその隙間から、奥の様子が見えている。きっと居間だろう。美月は、部屋を出ようとドアへ向かった。だが、ふいに気分が悪くなり、再びベッドの縁に座り込んでしまう。この気持ち悪さには、覚えがあった。二日酔いのときの、あの不快感だ。両腕を太ももの上に置き、前かがみになる。そのまま目を落とすと、やはりそこには毛深い男性の脚があった。自分の手を眺めてみる。明らかに、いつもの手ではない。前に突き出た腹に、恐る恐る触れてみる。指先の感触が、確かに腹へと伝わった。
これは自分の体……?
頭の中が真っ白になり、呼吸が荒くなる。めまいに襲われたが、横になる気にはなれない。座ったまま、必死に息を整える。
ここにはいたくない。
何が起きているのか、確かめなければ。
揺らぐ足元をこらえながら、美月は立ち上がり、ドアへ向かった。引き戸の隙間からそっと中を覗く。薄暗いが、居間だということは分かった。人の気配はない。美月は引き戸を開け、そっと居間に足を踏み入れた。
床に落ちているものを踏みつけながら窓へ近づき、遮光カーテンをさっと開ける。すぐに振り返り、室内を見渡した。この部屋も、先ほどいた部屋と同じようにゴミだらけだ。造りは美月の部屋とよく似ている。エアコンの位置も同じ。間取りも同じ1LDKだ。ここが同じマンションであることは、もはや疑いようがなかった。
では、ここは誰の部屋なのか――いや、それどころではない。
美月には、もっと無視できないことがあった。自分の姿だ。美月は洗面所へ向かった。引き戸をゆっくり開ける。洗面所に足を踏み入れた瞬間、鏡に自分の姿が映った。その姿を見て、美月は愕然とした。
鏡の中にいたのは、40代くらいの男性だった。服装はTシャツに短パン。太っているわけではないが、腹が少し前に出ている。腕も脚もごつごつとしていて、美月よりも毛が濃い。
美月は右手を上げた。鏡の中の男性も、同じように右手を上げている。身体を左右に揺らす。男性も寸分違わず、同じ動きをした。さらに美月は、自分が好きな女性アイドルのダンスを踊ってみた。鏡の中で、中年の男性が同じ動きをしているだけだった。
……これ、私?
ショックで頭の中が真っ白になり、思考が追いつかない。美月は、めまいに襲われた。ふらつきながら洗面台に身体を預け、洗面器の縁に前かがみで手をつく。呼吸を整え、顔を上げて、再び鏡を見る。そこで、美月はあることに気が付いた。
鏡に映っているのは、美月の隣の部屋に住んでいる男性の姿だった。
美月は頬に触れ、髪をつかんで引っ張ってみた。指先には確かな感触があり、強く引くと痛みが走った。理解の範囲を超えている。頭が追いつかない。美月は、混乱したまま洗面所を飛び出し、玄関へ向かった。ドアを開け、廊下に顔を出す。むっとした熱気と共に、そこには見慣れた空間が広がっていた。
美月が目を覚ました男性の部屋は、二階の廊下の一番奥にある角部屋だ。右隣が、男性の姿になる前の美月の部屋で、その先に二部屋続き、突き当たりにエレベーターがある。やはりここは、美月の住んでいるマンションだった。
美月は廊下に出て、自分の部屋へ戻ろうとドアに近づいた。ドアノブに手を伸ばした、その瞬間。部屋の中からガタガタという音が聞こえた。美月は慌てて、男性の部屋へ戻る。
覗き穴から隣の部屋を覗くが、よく見えない。ドアを少しだけ開け、隣の部屋の様子をうかがった。
ガチャッ、と音がして、隣の部屋のドアが開いた。ドアの向こうから現れたのは、ひとりの女性だった。
美月はその姿に目を丸くした。
――私だ。
その姿は、美月だった。




