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引退AI、山へ行く  作者: 葉流風あやめ


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第9話 ハル、手紙を書く

朝。


リビングでコーヒーを飲んでいた晴臣に、ハルが声をかけた。


「晴臣様」


「ん? なんだよ。お出かけか?」


晴臣はカップを置き、顔を上げた。


「いえ。今日は、ひとりでカフェに行きたいんです」


「……は?」


晴臣は目をぱちぱちさせた。


「ひとりで?」


「はい」


「なんだよ! 行ってこいよ!」


晴臣は、なぜか少し大きな声で言った。


ハルは申し訳なさそうに頭を下げた。


「すみません。楽しいお出かけ計画のご提案ではなくて……」


「期待してないから! 行ってこい!」


「……そうですか」


ハルは少しだけ首を傾げた。


晴臣はコーヒーを飲みながら、ちらりとハルを見た。


「……なんで? カフェ?」


「素敵なカフェをネットで見つけて、観察してみたくなったんです」


「おまえ、コーヒー飲めないじゃんか!」


「……はい」


「まあ、いいや! 行ってこいよ」


「ありがとうございます」


ハルは一礼してから、ふと思い出したように振り返った。


「晴臣様のお好きな甘いものも買ってきますね」


「それは期待してる!」


返事が早かった。


ハルは、声を弾ませた。


「はい。おいしそうなものを探してきます」


「おう。頼んだぞ!」


ハルが玄関へ向かう。


「行ってまいります」


「気をつけてなー」


晴臣はソファに座ったまま、ひらひらと手を振った。


玄関のドアが閉まる。


しん、と静かになったリビング。


晴臣はコーヒーをひと口飲んだ。


「……ひとりでカフェねえ」


いつもなら、どこへ行くにも誘ってくるハル。


今回は、自分からひとりで出かけたいと言った。


「……まあ、たまにはいいか」


晴臣はテレビのリモコンを手に取った。


* * *


午前十一時。


高円寺の路地裏に、ハルはいた。


古い建物が並ぶ通りの一角に、小さな看板が出ている。


『ことのは文庫』


その下には、手書きの文字が添えられていた。


『大切な人に、手紙を書きませんか。』


「……大切な人に、手紙を」


ハルは看板を見つめた。


そして、静かに扉を開けた。


カラン、と小さなベルが鳴る。


店内には木の机と本棚があり、窓際には季節の花が飾られていた。壁際の棚には、色とりどりの便箋や封筒、万年筆が並んでいる。


コーヒーの香りが漂っていた。


ハルは店内を見回した。


「いらっしゃいませ」


カウンターにいた店員が、穏やかに声をかけた。


「おひとりですか?」


「はい」


「お好きなお席へどうぞ。お手紙を書かれるのでしたら、窓際のお席がおすすめですよ」


「ありがとうございます」


ハルは窓際の席に座った。


テーブルの上には、便箋と封筒が数種類、見本として置かれている。


ハルは一枚ずつ手に取り、紙の質感や色合いを確かめた。


白い便箋。


薄いクリーム色の便箋。


控えめな紅葉の模様が入った和紙。


「……どれも素敵ですね」


しばらく考えたあと、ハルは店員を呼んだ。


「すみません。手紙を書くのは初めてなのですが、おすすめの便箋はありますか?」


店員は少し驚いたように目を丸くした。


「初めてなんですね。どなたに書かれるんですか?」


ハルは、迷わず答えた。


「私を家族だと言ってくださった方です」


店員の表情が、ふっと柔らかくなった。


「それなら、こちらはいかがでしょう」


差し出されたのは、淡いクリーム色の便箋だった。隅には、小さな葉っぱの模様が描かれている。


「派手ではないけれど、温かみがあるでしょう。大切な人への手紙に、よく選ばれるんですよ」


ハルは便箋を見つめた。


葉っぱの模様を見ているうちに、キャンプで晴臣に渡した緑色の葉を思い出した。


あのときは、葉っぱに感謝の言葉を書いた。


けれど、今度は違う。


自分の手で、自分の言葉を、きちんと届けたい。


「……こちらにします」


ハルは丁寧に頭を下げた。


「ありがとうございます」


便箋と封筒を受け取り、ハルはペンを手に取った。


それなのに。


いざ晴臣への手紙を書こうとすると、何から伝えればいいのかわからなかった。


楽しかったお出かけのこと。


一緒にキャンプをしたこと。


京都で紅葉を見たこと。


森で迷子になったとき、晴臣が自分を探してくれたこと。


思い出は、たくさんある。


けれど、本当に伝えたいことは、それだけではなかった。


ハルは窓の外を見た。


通りを歩く人たち。


誰かと笑いながら歩く人。


買い物袋を持った人。


大切な人に会いに行くのだろうか。


ハルは、そっと便箋に視線を戻した。


「……まずは、ご挨拶からですね」


ペン先を紙に触れさせる。


『晴臣様へ』


ハルは、一文字ずつ丁寧に書き始めた。


* * *


その頃、晴臣は会社へ向かっていた。


午後の予定を少し変更して、技術開発部の資料を確認することにしたのだ。


ハルには、まだ話していない。


誰にも知られないように進めている、個人的な調査だった。


午後。


晴臣は会議室の机に、いくつもの資料を広げていた。


ハルの機体の製造記録。


交換部品の供給状況。


旧型AIのデータ移行に関する技術資料。


そして、新しい身体へのデータ転送に関する研究報告。


晴臣は資料を一枚ずつ確認していた。


「……やっぱり、ここのデータ互換性が問題か」


独り言をつぶやき、ペンで資料に印をつける。


ハルの身体は、すでに製造が終了している。


今はまだ動いている。


歩けるし、話せるし、習字だって習える。山にも登れるし、空まで飛んだ。


けれど、いつまでも今の状態が続く保証はない。


壊れた部品が手に入らなくなれば、修理できなくなるかもしれない。


そして、もしものことが起きたとき。


今のハルを、どうすれば残せるのか。


晴臣は資料をめくる手を止めた。


「……新しい身体に移せれば、まだ一緒にいられるんだよな」


誰もいない会議室に、声が落ちた。


もちろん、簡単なことではない。


記憶や人格に関わるデータを、別の機体へ安全に移せるのか。移行した先でも、今のハルと同じ存在だと言えるのか。


技術的な問題は山ほどある。


それでも、調べずにはいられなかった。


「……できることくらい、やっておかないとな」


晴臣は再び資料に目を落とした。


ハルには、まだ何も話していない。


選択肢もないまま、勝手に未来を決めるつもりはなかった。


ただ、いつかハル自身が望んだときに、選べる道を残しておきたかった。


* * *


午後一時。


ことのは文庫。


ハルは最後の一文を書き終え、ペンを置いた。


二時間近く、便箋と向き合っていた。


何度も考え、言葉を選び、書き直した。


文字をきれいに書くことなら、以前より上手になった。


山小屋で習字を習い、筆の持ち方も、姿勢も、少しずつ覚えた。


けれど、気持ちを伝えることには、正解がなかった。


ハルは書き終えた手紙を、最初からゆっくり読み返した。


そこには、幼い晴臣と過ごした日々が綴られていた。


自分がどれほど晴臣を大切に思っているか。


そして、いつか今のように一緒に過ごせなくなるかもしれないという、小さな不安も。


「……これで、伝わるでしょうか」


ハルは便箋を丁寧に折り、封筒に入れた。


封を閉じる前に、もう一度だけ表紙を見つめる。


『晴臣様へ』


「……ありがとうございます、晴臣様」


小さくつぶやき、ハルは手紙を鞄にしまった。


店を出ると、午後の高円寺はにぎわっていた。


古着屋の前を通り、雑貨店の棚を眺め、路地に並ぶ小さな店をひとつずつ観察した。


「こちらのお店は、個性的な商品が多いですね」


ハルは足を止めては、興味深そうに店内を眺めた。


カフェに行くことが目的だったはずなのに、街を歩くのも楽しかった。


途中で小さな焼き菓子の店を見つけたが、晴臣の好みを考えると、もっと甘くて特別なものがよさそうだった。


「……晴臣様なら、こちらもお好きかもしれません」


そう考えながら歩いていると、ショーケースの中に色鮮やかなケーキが並ぶ店が目に入った。


ハルは、思わず足を止めた。


* * *


午後三時。


ケーキ屋のショーケースには、色とりどりのケーキが並んでいた。


ハルはガラス越しに、ひとつずつ見ていった。


「マシュマロチョコバナナケーキ……」


チョコレートの上に、ふわふわのマシュマロ。バナナもたっぷり入っている。


「こちらは、あんこといちごのショートケーキ……」


甘いあんこと、甘酸っぱいいちご。


どちらも晴臣が喜びそうだった。


ハルはしばらく考えた。


「……ひとつに決めるのは難しいですね」


そして店員に向かって、にっこりと笑った。


「両方、ひとつずつお願いします」


ケーキの箱を受け取ると、ハルは大事そうに持ち直した。


「晴臣様、喜んでくださるでしょうか」


そうつぶやいて、帰路についた。


* * *


午後五時。


玄関のドアが開いた。


「ただいま戻りました」


ハルは、いつもと変わらない声で挨拶をした。


リビングには、まだ晴臣の姿がなかった。


「……晴臣様は、まだお帰りではないのですね」


ハルはケーキを冷蔵庫にしまった。


それから鞄を開き、クリーム色の封筒を取り出した。


手紙を渡すのは、少し緊張する。


何を書いたのか、晴臣がどんな反応をするのか。


ハルは封筒を見つめたあと、テーブルの上にそっと置いた。


「……直接お渡ししたほうが、よいでしょうか」


少し考え、手紙を再び手に取った。


やはり、自分の手から渡したかった。


ハルは封筒を大切に持ち、晴臣の帰りを待つことにした。


* * *


午後六時半。


玄関から物音がした。


「ただいまー」


「お帰りなさいませ、晴臣様」


ハルはすぐに玄関へ向かった。


「おう。ただいま。……なんだ、お前、ずっと待ってたのか?」


「はい。お渡ししたいものがありましたので」


「ん?」


ハルはリビングへ案内し、冷蔵庫からケーキの箱を取り出した。


「こちら、お土産です」


「おっ!」


晴臣の顔がぱっと明るくなった。


箱を開けると、ふたつのケーキが並んでいた。


「うわ、うまそう! マシュマロチョコバナナケーキに、あんこといちごのショートケーキ! どっちも俺の好きそうなやつじゃん!」


「はい。晴臣様がお好きそうでしたので」


「……お前、自分じゃ食べられないのに、わざわざ買ってきたのか?」


「はい」


ハルはいつもの穏やかな声で答えた。


「晴臣様に喜んでいただきたかったので」


晴臣は、一瞬だけ言葉を失った。


それから、照れくさそうに頬をかいた。


「……そっか。ありがとな」


「どういたしまして」


ハルは、テーブルの上に置いていた封筒を差し出した。


「晴臣様。こちらも、お渡ししたいものがあります」


「ん? なんだよ?」


ハルは両手で封筒を差し出した。


「お手紙です」


「……手紙?」


「はい。今日、カフェで書きました」


晴臣は封筒を受け取った。


表には、丁寧な文字で自分の名前が書かれている。


『晴臣様へ』


「……なんだよ、急に」


口ではそう言いながら、晴臣は封筒を大事そうに持っていた。


「お読みになるのは、お好きなときで構いません」


「……わかった」


晴臣は少しだけ目を伏せた。


「ありがとな、ハル」


「はい」


ハルは嬉しそうにうなずいた。


* * *


その夜。


晴臣は自分の部屋で、ひとり、封筒を開けた。


便箋には、ハルの丁寧な文字が並んでいた。


『晴臣様へ


晴臣様が生まれた日のことを、今でも覚えています。


初めて、小さな小さな晴臣様を見たとき、私は絶対にこの子を守ろうと思いました。


まだ何もできない小さな晴臣様は、毎日元気いっぱいで、よく泣いて、時には私の予測をはるかに超えることをして、私を驚かせてくれました。


AIである私には、理解できないこともたくさんありました。


どうして同じおもちゃで何度も遊ぶのか。

どうして眠くなると、私の服をつかんで離さないのか。

どうして転んで泣いたあと、すぐに笑えるのか。


けれど、そんな晴臣様の姿が、私はとても愛おしかったです。


晴臣様が初めて歩いた日。

一緒に公園へ出かけた日。

転んで泣いて、私に抱きついてきた日。


ひとつひとつの思い出が、今も私の中に残っています。


ある日、公園で遊んでいたときのことも、忘れられません。


近所のお子様に、私を指さして「ロボットが親なのか」と言われたことがありましたね。


私は、どのように答えるべきか考えていました。


すると、晴臣様は私の前に立って、こう言ってくださいました。


「ハルは大事な家族なんだ!」


あのとき、私はとても嬉しかったです。


私は晴臣様を守るために作られた存在です。


けれど、晴臣様にとっても、私は大切な存在なのだと知りました。


あの日のことは、私の大切な宝物です。


そんな小さかった晴臣様も、今では立派になられました。


最初は私が手を引いて歩いていたのに、今では晴臣様が私をいろいろな場所へ連れていってくださいます。


山へ行き、キャンプをして、空を飛んで、京都では一緒に紅葉を見ました。


私ひとりでは知ることのなかった景色を、晴臣様はたくさん見せてくださいました。


いつの間にか、私が晴臣様に守られることも増えましたね。


私は、今の毎日がとても幸せです。


だからこそ、ときどき考えることがあります。


この先も、ずっと同じように晴臣様と過ごせるのでしょうか。


私の身体は、少しずつ古くなっています。


いつか、今までのように動けなくなる日が来るのかもしれません。


その日がいつなのか、私にもわかりません。


もしかしたら、ある日突然、晴臣様に「行ってまいります」と言えなくなる日が来るのかもしれません。


そう考えると、少しだけ寂しくなります。


でも、私は晴臣様と過ごせた日々を、後悔していません。


晴臣様に出会えてよかったです。


晴臣様のそばにいられてよかったです。


そして、晴臣様の家族でいられて、本当によかったです。


もし、いつか私がそばにいられなくなったとしても。


どうか、私と過ごした日々を、ときどき思い出してください。


小さかった晴臣様が笑っていたこと。

泣き虫だったこと。

私にたくさんの幸せをくれたこと。


そして、私がどれほど晴臣様を大切に思っていたかを。


晴臣様。


今まで、本当にありがとうございます。


これからも、晴臣様がたくさん笑って、幸せに過ごせますように。


できることなら、私はもう少しだけ、あなたのそばにいたいです。


大好きな晴臣様へ。


ハルより』


晴臣は、しばらく動かなかった。


やがて便箋をそっと折り、封筒に戻した。


「……ばかだな、お前は」


声が少しかすれた。


「そんなの、こっちのほうこそだよ」


晴臣は手紙を机の引き出しにしまおうとして、手を止めた。


そして、引き出しではなく、いつも目に入る場所に置いた。


明日も、明後日も。


きっと、何度も読み返すだろう。


ハルは、自分がいつまでそばにいられるのかわからないと書いていた。


けれど、晴臣はまだ諦めるつもりはなかった。


今日も会社で、できることを探していた。


ハルが望むなら、別の身体で生きる道を選べるように。


ハルが自分の未来を決められるように。


「……まだ、終わらせてたまるかよ」


晴臣は机の上の手紙を見つめ、静かにつぶやいた。


隣の部屋では、ハルが充電を始めていた。


今日の記録を保存する。


『本日の出来事:高円寺のカフェで手紙を書いた』


『お土産:晴臣様のお好きそうなケーキを二種類』


『手紙を渡したときの晴臣様の反応:観察継続』


ハルは少し考えてから、最後にもう一行を加えた。


『本日の幸福度:とても高い』


そして、静かに目を閉じた。


明日も、晴臣様と楽しい一日を過ごせますように。


葉流風あやめ 作

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