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引退AI、山へ行く  作者: 葉流風あやめ


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第7話 ハル、不思議な森で迷子になる?

「晴臣様、今度は不思議な森に行ってみませんか?」


朝食を終えたばかりの晴臣は、コーヒーカップを置いた。


「……不思議な森?」


「はい。珍しいキノコや、人間の形に似た木が生えているそうです」


「なんだそれ。どこで見つけたんだよ、そんな情報」


「インターネットです」


「ネットの情報を全部信じるな!」


「ですが、写真も掲載されていました」


ハルがタブレットを差し出す。


画面には、霧に包まれた森と、奇妙な形にねじれた木々の写真が映っていた。


「……まあ、たまにはいいか」


晴臣は立ち上がり、車のキーを手に取った。


「山のふもとまで車で行くぞ。そこから歩くからな。勝手にどっか行くなよ」


「承知しました!」


ハルは元気よく返事をした。


その背中には、小さなリュックサック。


* * *


山のふもとに車を停め、二人は登山道へと入った。


ところが。


森に足を踏み入れた途端、周囲の景色が変わった。


さっきまで見えていた青空が、いつの間にか白い霧に覆われている。


木々には苔や藻がびっしりと生え、地面には湿った落ち葉が重なっていた。


登山道の入り口に立つ案内板も、緑色の苔に覆われている。


山頂までの道を示す文字は、ところどころ読めなくなっていた。


「……なんか、すごいな」


晴臣が足を止めた。


「ほかの登山客がいませんね」


「こんな天気だからな。まあ、道さえ間違えなければ大丈夫だろ」


そのとき。


「キキィィーーーッ!」


頭上から、甲高い鳴き声が響いた。


二人が顔を上げると、霧の向こうで大きな枝が揺れた。


「……猿か?」


「その可能性が高いと思われます」


「思われますって、お前も知らないんじゃないか」


「はい。現時点では確認できません」


「正直だな、おい」


晴臣は苦笑しながら、再び歩き始めた。


しばらく進むと、霧の中から奇妙な形の木が姿を現した。


幹が人間の腕のように曲がり、枝が長い指のように伸びている。


晴臣は思わずつぶやいた。


「なんか……もののけ姫みたいな森だな」


ハルの頭部のセンサーが、晴臣の方を向いた。


「懐かしいですね。晴臣様が好きな映画ですね。小さな頃、何度も一緒に見ました」


「違う。今そういう話してるんじゃない」


「晴臣様はヤックルが好きでしたね」


「だから違うって言ってんだろ!」


「アシタカも好きでしたか?」


「お前、絶対わざとだろ!」


ハルは首を傾げた。


「いいえ。思い出を共有しているだけです」


「その共有、今じゃなくていいんだよ!」


霧の中に、晴臣の声が響き渡った。


ハルは楽しそうに笑った。


晴臣と一緒に出かける時間は、いつも楽しい。


だからこそ、今日もたくさんの思い出を記録したいと思っていた。


* * *


しばらく歩いたところで、ハルが突然立ち止まった。


「あっ」


「どうした?」


「晴臣様。あちらをご覧ください」


ハルが指さした先に、白いものが動いた。


最初は、霧のせいで見間違えたのかと思った。


しかし、それは確かにそこにいた。


真っ白な、リスのような生き物。


全身がふわふわの毛に覆われている。


小さな体に似合わず、目はぎょろりと大きい。


そして、尻尾はというと。


ころん。


まるで黒い毛糸玉のように、丸かった。


「……なんだ、あれ」


晴臣が固まった。


生き物も、こちらをじっと見つめている。


ぎょろり。


目が動いた。


「うわっ! 目、でかっ!」


「かわいらしいですね」


「かわいいか? なんか……こっち見すぎじゃないか?」


「興味を持っているのかもしれません」


ハルはゆっくりとしゃがみ込んだ。


「こんにちは」


「おい、話しかけてどうすんだよ」


「ご挨拶です」


白い生き物は、ぴょこんと跳ねた。


そして、ハルの足元まで近づいてくる。


「おお……」


ハルが手を差し出すと、生き物はその指先に鼻を寄せた。


ふわふわの毛が、ハルの手に触れる。


「温かいです」


「そりゃ生き物だからな」


「晴臣様も触ってみませんか?」


「いや、俺は……」


晴臣がためらっていると、生き物は突然、彼の靴の上に乗った。


「うわっ! おい!」


「晴臣様、選ばれたようですね」


「選ばれてねえよ! 降りろ!」


生き物は晴臣の靴から飛び降りると、霧の中へと消えていった。


ハルはしばらく、その方向を見つめていた。


「不思議な生き物でしたね」


「……ああ」


晴臣は眉をひそめた。


「この辺、野生動物の案内板なんてあったか?」


「ありませんでした」


「だよな……」


二人は顔を見合わせた。


そして、なぜか同時に歩き出した。


* * *


開けた場所に出ると、晴臣のお腹が鳴った。


「……腹減った」


「お昼にしましょう!」


ハルは待ってましたとばかりに、リュックサックを下ろした。


中から取り出したのは、おにぎりの入ったお弁当箱。


「晴臣様のために作ってきました」


「お前、これ作ったのか?」


「はい。梅干しと鮭、それから昆布です」


晴臣は少し驚いた顔をした。


「……へえ」


「晴臣様のお好みに合わせました」


「そっか。ありがとな」


晴臣はおにぎりをひとつ手に取った。


ひと口食べる。


「うまい」


ハルの頭部のセンサーが、晴臣の方を向いた。


「本当ですか?」


「ああ。ちょうどいい塩加減だ」


「よかったです!」


ハルは自分が食べられないことを、少しも気にしていなかった。


晴臣がおいしいと言ってくれた。


それだけで、作った甲斐があった。


「……お前、こういうの好きだよな」


「はい。晴臣様が喜んでくださると、私もうれしいです」


「……そっか」


晴臣は、少し照れくさそうに残りのおにぎりを食べた。


そのとき、木の陰で何かが動いた。


ぎょろり。


大きな目が、こちらを見ている。


「あれ?」


ハルが振り向いた。


白い生き物だった。


丸い黒い尻尾が、木の陰からのぞいている。


「先ほどの生き物ですね」


「おい、また来たぞ」


生き物は、お弁当箱をじっと見つめていた。


「お前も食べたいのか?」


晴臣が問いかける。


当然、返事はない。


ハルは少し考えたあと、空になったお弁当箱を見せた。


「申し訳ありません。もう食べ物はありません」


生き物は、ぎょろりと目を動かした。


それから、くるりと向きを変え、森の奥へ走っていった。


「……なんだったんだ、今の」


「また会えるでしょうか」


「いや、もう十分だろ」


晴臣はそう言ったが、少しだけ名残惜しそうだった。


* * *


昼食を終え、二人は再び森を歩き始めた。


やがて、道の脇に見慣れないキノコが生えているのを見つけた。


紫色の傘に、白い斑点。


その形は、まるで小さな帽子のようだった。


「晴臣様、こちらをご覧ください」


「おお……変わったキノコだな」


「図鑑で確認してみます」


ハルが端末を取り出す。


しかし、通信は圏外だった。


「通信できません」


「山の中だからな」


「それでは、実物を観察します」


「おい、勝手に食べるなよ」


「私は食べられません」


「そうだったな……」


晴臣は頭をかいた。


ハルはキノコの形をじっくりと観察した。


そして、少し離れた場所に、さらに奇妙なものを見つけた。


「あちらにも、何かあります」


「何だ?」


霧の向こうに、木々が並んでいる。


その幹は、人間が立っているようにも見えた。


一本は腕を伸ばし、もう一本は頭を傾けている。


まるで、森の中に人が立っているかのようだった。


ハルの好奇心が刺激された。


「少し近くで観察してもよろしいでしょうか?」


「おい、待て。あんまり奥に行くなよ」


「すぐ戻ります」


ハルは木々の方へ歩き出した。


晴臣は、別の方向に生えたキノコを見ていた。


「……これ、食えるやつなのか?」


そのわずかな時間だった。


ハルは、人の形に似た木のそばまでたどり着いた。


近くで見ると、さらに奇妙だった。


幹の表面には、まるで顔のような模様がある。


枝は人間の指のように細く曲がり、苔が髪の毛のように垂れ下がっていた。


「興味深い形状です……」


ハルが木に近づいた、そのとき。


足元の土が崩れた。


「……あ」


次の瞬間、ハルの体は斜面を滑り落ちていた。


「ハルーーーッ!」


遠くで、晴臣の叫び声が聞こえた気がした。


* * *


どれくらい転がったのか、ハルにはわからなかった。


気がつくと、斜面の下で横たわっていた。


周囲は霧に包まれている。


「……状況を確認します」


ハルは上半身を起こそうとした。


しかし。


ガクン。


右脚が、不自然な方向に折れ曲がった。


「……?」


もう一度、動かそうとする。


反応がない。


《右脚関節:損傷》


《駆動系:異常》


《歩行機能:停止》


「……困りました」


ハルは、自分の脚を見つめた。


関節部分が破損し、接続部の部品が外れてしまっている。


さらに、固定用の小さなネジも見当たらない。


「ネジが……ありません」


ハルは周囲を探した。


落ち葉を払い、石の陰をのぞき込む。


しかし、見つからなかった。


立ち上がることもできない。


通信端末も圏外。


「晴臣様……」


ハルは、静かに頭部を上げた。


「怒られてしまいますね……」


そのときだった。


かさっ。


落ち葉が動いた。


ハルが振り向く。


そこには、あの白い生き物がいた。


ふわふわの白い体。


ころんと丸い黒い尻尾。


そして、ぎょろりと大きな目。


「……あなたは」


生き物はハルを見つめると、ぴょこんと近づいてきた。


そして、ハルのリュックサックによじ登った。


「おや?」


生き物は、リュックの口に鼻を突っ込んだ。


ごそごそ。


ごそごそ。


「そこには、食べ物はありませんよ」


ハルが声をかける。


すると、生き物は何かを前足で引っかけた。


ころん。


小さな金属音がした。


落ち葉の上に、小さなネジが転がった。


「……!」


ハルは驚いた。


それは、リュックの内ポケットにしまっていた予備部品の袋から落ちたものだった。


高尾山のおじいさんからもらった関節部品。


その部品と一緒に、予備の固定ネジも入れてあったのだ。


生き物はネジを見つけると、ハルの方を見上げた。


ぎょろり。


「……教えてくれたのですか?」


生き物は、答えなかった。


ただ、丸い黒い尻尾を揺らしていた。


「ありがとうございます」


ハルは、心からそう言った。


動かせる左手でリュックを引き寄せ、予備部品を取り出す。


関節部品は、壊れた接続部に合うはずだった。


しかし、取り付けるには固定ネジが必要だ。


ハルは、手元の部品を慎重に確認した。


「……大丈夫です。修理できそうです」


壊れた関節を外し、予備部品を接続する。


ネジを固定し、動作確認を行う。


《関節接続:完了》


《駆動系:再起動》


《歩行機能:一部回復》


「……よかった」


ハルは安堵した。


まだ動きはぎこちない。


それでも、立ち上がることはできそうだった。


ふと頭部を上げると、白い生き物は少し離れた場所に座っていた。


「あなたは、不思議な生き物ですね」


ハルが言うと、生き物はぎょろりと目を動かした。


「また会えるでしょうか」


生き物は、ぴょこんと跳ねた。


そして、霧の向こうへ消えていった。


今度こそ、本当に姿が見えなくなった。


ハルはしばらく、その場所を見つめていた。


「……お礼を言いたかったのですが」


それから、ハルは緊急信号を起動した。


《緊急信号:発信》


《位置情報:取得中》


《救助要請:送信》


どうか、晴臣様が無事でありますように。


ハルは、静かに祈った。


* * *


一方、その頃。


「ハルーーーッ!!」


晴臣は、森の中を必死に走っていた。


「ハル! どこだ! 返事しろ!」


返事はない。


霧が濃くなり、道もよく見えない。


「……くそっ!」


晴臣はスマートフォンを確認した。


圏外。


「なんで、こんなときに……!」


いつもなら、ハルは少し先を歩いていても、必ず振り返って自分の位置を知らせてくれる。


それなのに、今日は違った。


ほんの少し目を離しただけだった。


それだけで、ハルがいなくなった。


「ハル……」


晴臣の胸に、不安が押し寄せる。


古い機体。


交換部品も少ない。


もし、転んで壊れていたら。


もし、動けなくなっていたら。


もし、このまま見つからなかったら。


「……ふざけんなよ」


晴臣は唇をかみしめた。


「勝手にいなくなるなよ……!」


そのとき、遠くから救助隊の声が聞こえた。


「こちらです! 緊急信号が確認されました!」


晴臣は、声のした方へ駆け出した。


「ハル!!」


木々の向こう。


斜面の下に、見慣れた白い機体が座っていた。


「……ハル!!」


晴臣は、斜面を駆け下りようとした。


「待ってください! 危険です!」


救助隊員が、すぐに晴臣を制止した。


「ですが、あそこにハルが!」


「こちらで救助します。足場が崩れる危険がありますので、ここでお待ちください!」


晴臣は、唇をかみしめた。


「ハル! 聞こえるか!」


「……晴臣様!」


斜面の下から、ハルの声が聞こえた。


「よかった……!」


晴臣は、思わず一歩踏み出した。


「動くな! 今、助けるからな!」


「はい。お待ちしています」


救助隊員たちは、ロープを使って斜面を慎重に下りていった。


ハルの状態を確認すると、破損した右脚に負担がかからないよう、救助用の担架に固定した。


「機体が重いので、複数人で引き上げます!」


隊員の指示に合わせ、ロープが張られる。


少しずつ、担架が斜面を上がっていった。


晴臣は、ただその様子を見守っていた。


「……頼むから、無事でいてくれよ」


やがて、担架が斜面の上に到着した。


救助隊員が固定を外すと、ハルはゆっくりと上半身を起こした。


「晴臣様!」


その声を聞いた瞬間、晴臣は駆け寄った。


そして、ハルを強く抱きしめた。


「バカ野郎……!」


声が震えていた。


「どんだけ心配したと思ってんだよ……!」


ハルは驚いた。


晴臣の肩が、小さく震えている。


頭部のセンサーを向けると、晴臣の目には涙が浮かんでいた。


「……晴臣様?」


「……っ」


晴臣は、しばらく何も言えなかった。


やがて、ハルの肩に手を置き、顔を見つめた。


「……お前が無事なら、それでいいんだよ……!」


その言葉に、ハルは動きを止めた。


自分の故障を心配しているのだと思っていた。


修理に時間がかかることを、怒られるのだと思っていた。


けれど。


晴臣が心配していたのは、それだけではなかった。


「……申し訳ありません。私が勝手に離れてしまいました」


「本当だよ! 勝手にどっか行くなって言っただろ!」


「はい……」


「……帰ったら説教だからな」


「承知しました」


「あと、しばらく山は禁止!」


「えっ」


ハルが頭部を傾けた。


「次のお出かけは、しばらく禁止ですか?」


「当たり前だろ!」


「ですが、次は安全な場所を選定し、十分な準備を――」


「そういう問題じゃねえ!」


晴臣は叫んだ。


そして、もう一度ハルを抱きしめた。


「……本当に、無事でよかった」


今度の声は、小さかった。


ハルは、そっと晴臣の背中に手を添えた。


「ご心配をおかけしました」


「……もういい」


晴臣は顔をそむけた。


「とにかく、帰るぞ」


「はい」


ハルは、晴臣の横顔にセンサーを向けた。


涙の跡が、まだ残っている。


《晴臣様の涙:確認》


《原因:私の失踪》


《晴臣様の感情:強い不安》


ハルは、記録を一時停止した。


今は、記録するよりも大切なことがある気がした。


「晴臣様」


「……なんだよ」


「見つけてくださって、ありがとうございます」


晴臣は、少しだけ驚いたようにハルを見た。


「……当たり前だろ」


そして、ハルの頭部にそっと手を置いた。


「お前は、俺の家族なんだから」


ハルの内部で、何かが静かに温かくなった気がした。


「……はい」


ハルは、晴臣の隣を歩き始めた。


修理した右脚は、まだ少しぎこちない。


それでも、一歩ずつ進むことができる。


帰り道、ハルはふと森の奥を振り返った。


霧の向こう。


一瞬だけ、白いふわふわの姿が見えた気がした。


ころんと丸い、黒い尻尾。


ぎょろりと大きな目。


「……ありがとうございました」


ハルが小さくつぶやく。


「何か言ったか?」


「いいえ。なんでもありません」


晴臣は不思議そうに首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。


二人は並んで、森を後にした。


その日の夜。


ハルは、修理した右脚の動作確認を終え、いつもの充電スペースに座っていた。


晴臣は、リビングに飾られた葉を見つめている。


以前、ハルが書いた感謝の言葉。


晴臣が額に入れて、大切に飾っているものだ。


ハルはその後ろ姿を見つめた。


「晴臣様」


「ん?」


「今日は、ご心配をおかけしました」


「……もういいって言っただろ」


「はい」


「……次からは、絶対に離れるなよ」


「承知しました」


「絶対だからな!」


「はい。約束します」


晴臣は、ようやく少し笑った。


ハルも微笑んだ。


そして、今日の記録に一行だけ追加した。


《本日の記録:晴臣様に、もう一度会えてよかった》


その記録を保存すると、ハルは静かに目を閉じた。


明日も、晴臣様と一緒にいられますように。


そう願いながら。


* * *


その夜。


ハルは、不思議な夢を見た。


見知らぬオフィス。


スーツ姿の若い男性が、デスクの向こうで笑っていた。


その顔は、高尾山で出会ったおじいさんによく似ていた。


男性はハルを見つめ、優しく笑った。


「よくやったな! ハル! いつもありがとう」


ハルは目を覚ました。


夢の内容は、すでに曖昧になり始めていた。


それでも、不思議と心は温かかった。


ハルはそっと右脚に目を落とした。


そこには、森で壊れた脚を直すために取り付けた、小さなネジがあった。


ハルはそのネジをじっと見つめた。


そして、小さく呟いた。


「……ありがとうございます」


誰に向けた言葉なのか、ハル自身にもわからなかった。


ただ、胸の奥に、優しい温もりが残っていた。

葉流風あやめ 作

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