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引退AI、山へ行く  作者: 葉流風あやめ


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第4話 ハル、空を飛ぶ

 翌週の休日。


 御影家のリビングでは、晴臣がソファに座ってコーヒーを飲んでいた。


 その向かいで、ハルがタブレットを操作している。


「晴臣様。本日は、そば打ち体験に行きたいと思います」


「……そば打ち?」


「はい。自分でそばを作り、食べることができるそうです」


「お前、食べられないだろ」


「はい。しかし、作ることは可能です」


「……まあ、そうだけど」


「その後、パラグライダーを体験する予定です」


 晴臣は、飲みかけのコーヒーを置いた。


「待て待て待て。そば打ちの後にパラグライダー?」


「はい」


「なんでそんなに予定を詰め込むんだよ!」


「一日を有効に活用するためです」


「休日ってのは、ゆっくりするためにあるんだよ!」


「晴臣様は、先日も休日にお仕事をされていました」


「……うっ」


「その前の休日も、会社の資料を確認されていました」


「わかった! わかったから!」


 ハルは満足そうにうなずいた。


「では、出発しましょう」


「……ちなみに、パラグライダーってどんなやつだ?」


「人間が大きな布を使って空を飛ぶスポーツです」


「それくらい知ってるよ!」


「晴臣様も飛行されますか?」


「……考えとく」


「承知しました。二名で予約してあります」


「お前、俺の返事を聞く気ないだろ!!」


 ハルは首をかしげた。


「予約時には、晴臣様も参加されるとおっしゃっていました」


「それは、お前が勝手に予約するからだろ!」


「では、今回はご一緒していただけるということで」


「……くそっ!」


 晴臣はコーヒーを飲み干し、立ち上がった。


 こうして、またしてもハルに連れられた休日が始まった。


 ***


 午前。


 ふたりが到着したのは、茨城県土浦市にある「小町の館」だった。


 自然に囲まれた施設では、そば打ち体験ができる。


 受付を済ませると、係の人が笑顔で迎えてくれた。


「本日はよろしくお願いします。初めてですか?」


「はい。私は初めてです」


 ハルが丁寧に答えた。


「こちらの方は?」


「晴臣様です」


「いや、俺のことは俺が答えるから!」


 晴臣は小さくため息をついた。


「初めてです。よろしくお願いします」


 案内された体験室には、そば粉や水、こね鉢、麺棒などが用意されていた。


 その隣の席に、ひとりの女性が座っていた。


  春らしい淡い色の服に、柔らかなダークブラウンの髪。毛先には自然なカールがかかり、明るいブラウンの瞳が優しく笑っていた。


 飾らない雰囲気で、どこか親しみやすい女性だった。


 手元のそば粉を見つめながら、少し困ったように笑っている。


「こんにちは。そば打ち、初めてですか?」


 女性が晴臣に声をかけた。


「あ、はい。初めてです」


「私もです。なんだか難しそうですね」


「……そうですね」


 晴臣は、少しだけ姿勢を正した。


 いつもなら初対面の相手とも自然に話せるはずなのに、なぜか言葉が続かない。


 女性はくすっと笑った。


「私、小春っていいます」


「……御影です」


「御影さん。よろしくお願いします」


「こちらこそ」


 晴臣は、ほんの少しだけ耳を赤くした。


 その様子を、ハルは見逃さなかった。


「晴臣様」


「なんだよ」


「顔の温度が上昇しています」


「黙れ!」


 小春が不思議そうに振り向いた。


「えっ、熱があるんですか?」


「違います!」


 晴臣は慌てて答えた。


「……あ、いや。大丈夫です」


「そうですか。よかった」


 小春は安心したように笑った。


 晴臣は、また少しだけ顔を赤くした。


 ハルは静かに記録した。


《新規人物:小春》


《晴臣様の反応:通常時と異なる》


《原因:調査中》


 ***


 そば打ち体験が始まった。


「まずは、そば粉に水を加えていきます。少しずつ混ぜてくださいね」


 係の人の説明に従い、ハルは正確に水を計量した。


 さらさらとしたそば粉に水を加え、指先で丁寧に混ぜていく。


「水分量は適切です。均一に混合します」


「ハル、お前、仕事みたいに言うなよ」


「作業ですので」


「そば打ちを楽しめよ!」


 その隣では、晴臣が悪戦苦闘していた。


「……あれ? これ、全然まとまらないんだけど」


 粉が指にくっつき、手のひらにも広がっている。


 小春が隣から覗き込んだ。


「ふふっ。私もです」


「なんか、思ったより難しいですね」


「そうですね。もっと簡単だと思ってました」


 ふたりは顔を見合わせて笑った。


 晴臣は、少しほっとした。


 ところが、その直後。


「晴臣様。水を加える速度が速すぎます」


「先に言えよ!」


「先ほどから申し上げております」


「聞こえてねえんだよ!」


 小春は楽しそうに笑った。


「御影さんって、ハルくんと仲がいいんですね」


「……ハルくん?」


「はい。お名前、ハルさんですよね?」


「ハルです」


 ハルは丁寧に頭を下げた。


「晴臣様には、幼少期よりお仕えしております」


「へえ! ずっと一緒なんですね」


「はい。晴臣様は小さな頃、とてもかわいらしく……」


「ハル!」


 晴臣が鋭い声を出した。


「余計なことを言うなよ!」


「まだ何も申し上げておりません」


「その先を言うなってことだよ!」


 小春は、口元を押さえて笑った。


「御影さん、小さい頃もかわいかったんですね」


「いや、まあ……普通ですよ」


「晴臣様は幼稚園で、私の絵を描いてくださいました」


「ハルーーー!!」


「画用紙いっぱいに、私を描いてくださいました」


「だから言うなって!」


 小春はとうとう声を立てて笑った。


「素敵ですね。家族みたい」


 その言葉に、ハルは一瞬だけ動きを止めた。


「……家族、ですか」


「はい。長い時間を一緒に過ごしてきたんでしょう?」


 小春は、当たり前のように微笑んだ。


「きっと、大切な存在なんですね」


 ハルは、静かにうなずいた。


「はい。晴臣様は、私にとって大切な方です」


 晴臣は、何も言わなかった。


 ただ、そば粉のついた手を見つめながら、小さく笑った。


 ***


 やがて、生地をまとめる工程に入った。


 ハルは両手を使い、一定の力で生地をこねていく。


「均一な圧力をかけます」


「お前、やっぱり機械みたいだな」


「私はロボットですので」


「そういう意味じゃねえよ」


 ハルは生地を丸くまとめた。


 表面はなめらかで、形も整っている。


 係の人が感心したように声をかけた。


「お上手ですね!」


「ありがとうございます」


 ハルは満足そうにうなずいた。


 一方、晴臣の生地は少し歪んでいた。


「……なんで俺のだけ、こんな形なんだよ」


「御影さん、私のも似たようなものですよ」


 小春が自分の生地を見せた。


 こちらも、少し不格好だった。


「ほんとだ」


「一緒ですね」


 ふたりは笑い合った。


 ハルは、その様子を見つめていた。


《晴臣様の笑顔を確認》


《小春様との会話時、笑顔の頻度が上昇》


《原因:調査中》


 ハルは、さらに記録を追加した。


《小春様との再会:推奨》


「ハル、何を記録してるんだ?」


「そば打ち体験の記録です」


「……ふうん」


 晴臣は疑うように目を細めた。


 しかし、ハルは何事もなかったかのように麺棒を手に取った。


 ***


 昼前。


 打ちたてのそばが茹で上がり、ふたりの前に運ばれてきた。


「おお……!」


 晴臣は目を輝かせた。


「自分で作ったそばって、なんかうまそうだな」


「はい。自分で作ると、達成感がありますね」


 ハルはそばを見つめた。


 食べることはできない。


 けれど、晴臣が楽しそうにしている姿を見ることはできる。


「いただきます!」


 晴臣はそばを口に運んだ。


「……うまい!」


 小春も一口食べて、笑顔になった。


「おいしいですね!」


「ですね!」


 晴臣は、いつもより少し楽しそうだった。


 ハルは、その様子を見ていた。


「晴臣様。味はいかがですか?」


「うまいよ。お前も食べられたらよかったのにな」


 ハルは一瞬、晴臣の方へセンサーを向けた。


「ありがとうございます。お気持ちだけで十分です」


「……そうか」


 晴臣は少しだけ目を伏せた。


 すると、小春がハルに声をかけた。


「ハルくん、そば打ち楽しかった?」


「はい。非常に興味深い体験でした」


「よかった。今度は、何をしてみたいの?」


「午後は、パラグライダーを体験する予定です」


「えっ! パラグライダー?」


 小春の目が輝いた。


「私も午後、飛ぶ予定なんです!」


「本当ですか?」


「はい! 空を飛ぶの、ずっとやってみたくて」


 ハルは、晴臣の方を向いた。


「晴臣様。小春様も参加されるそうです」


「……聞こえてるよ」


 晴臣は、なぜか背筋を伸ばした。


 ハルは首をかしげた。


「晴臣様も、ぜひ楽しんでいただきたいです」


「……ああ。そうだな」


 晴臣は小春を見た。


「午後も、よろしくお願いします」


「はい。楽しみですね!」


 小春は、にっこり笑った。


 晴臣の顔が、また赤くなった。


 ハルは静かに記録した。


《午後の活動:パラグライダー》


《同行者:御影晴臣、小春》


《晴臣様の反応:引き続き調査中》


 ***


 午後。


 ふたりは、パラグライダーの体験施設に到着した。


 広い空の下、色とりどりのパラグライダーが風を受けて広がっている。


 遠くには、霞ヶ浦を望む景色が広がっていた。


「……本当に飛ぶんだな」


 晴臣は、少し緊張した様子で空を見上げた。


「はい。人間の飛行体験として、非常に興味深いものです」


「お前は楽しそうだな……」


「はい」


「俺は、ちょっと怖いんだけど」


「晴臣様は、先ほど参加するとおっしゃいました」


「小春さんもいるからな……」


「はい?」


「いや、なんでもない!」


 ハルは首をかしげた。


 インストラクターがやってきて、装備や安全に関する説明を始めた。


「今日は風の状態を確認しながら、インストラクターと一緒に飛んでいただきます。説明をよく聞いて、合図に従ってくださいね」


「よろしくお願いします!」


 小春は元気よく返事をした。


 晴臣も、慌ててうなずいた。


「よ、よろしくお願いします」


 ハルは装備を確認し、説明を真剣に聞いていた。


「安全確認、完了しました」


「ハル、お前、怖くないのか?」


「恐怖を感じる機能はありますが、現在の数値は低いです」


「数値で言うなよ!」


 小春がくすくすと笑った。


「ハルくん、頼もしいですね」


「ありがとうございます」


 ハルは丁寧に頭を下げた。


 晴臣は、なぜか少しだけ胸を張った。


「……まあ、こいつは昔からこんな感じです」


「御影さんも、ハルくんのことをよく知ってるんですね」


「……そりゃ、長い付き合いですから」


 晴臣は照れくさそうに笑った。


 ***


 いよいよ、飛び立つ時間がやってきた。


 まずは小春がインストラクターと一緒に準備を始めた。


 風を受けて、パラグライダーの翼が大きく広がる。


「それでは、行きますよ!」


 合図に合わせて走り出すと、ふたりの体がふわりと地面から離れた。


「わあああ! すごい!」


 小春の明るい声が空に響いた。


 晴臣は、その姿を見上げていた。


「……すげえな」


「はい。順調に上昇しています」


「実況しなくていいから!」


 ハルは空を見つめていた。


 風を受けて、翼がゆっくりと揺れている。


 人間は、こんなふうに空を飛ぶことができるのか。


 ハルは、その景色をしばらく見つめていた。


「……私も、飛んでみたいです」


「……は?」


 晴臣はハルを振り返った。


「お前、飛べないだろ?」


「はい。飛行機能はありません」


「じゃあ、なんで言ったんだよ!」


「飛行体験に興味があるためです」


「興味だけでどうにかなるもんじゃねえよ!」


 ハルは少し考えた。


「……残念です」


 その声は、いつもと同じ穏やかなものだった。


 けれど、晴臣は一瞬だけハルを見つめた。


「……まあ、また別の方法を考えればいいだろ」


「別の方法、ですか?」


「ドローンに乗るとか……いや、無理か」


「人間用のドローンは、搭乗可能な機体でなければ危険です」


「わかってるよ!」


 晴臣はため息をついた。


「……帰ったら、何か調べてみる」


「ありがとうございます、晴臣様」


 ハルは、嬉しそうにうなずいた。


 ***


 次は、晴臣の番だった。


「……よし」


 晴臣は深呼吸した。


「行ってくる」


「はい。お気をつけて」


「お前、なんでそんなに落ち着いてるんだよ!」


「晴臣様は、インストラクターと一緒に飛行されます。安全説明も受けています」


「そうだけどさ……!」


 小春が着地して戻ってきた。


「御影さん、すごく楽しかったですよ!」


「……本当ですか?」


「はい! 景色がすごくきれいで、風も気持ちよくて!」


 小春は、目を輝かせて話した。


「御影さんも、ぜひ飛んでみてください」


「……そうですね」


 晴臣は小春の笑顔を見て、覚悟を決めた。


「行ってきます!」


 合図に合わせて走り出す。


 風が翼を押し上げた。


 足元の地面が遠ざかっていく。


「うわあああああ!」


 晴臣の叫び声が、空に響いた。


「御影さん、楽しんでくださいねー!」


 地上から小春が手を振っている。


 晴臣は慌てて手を振り返した。


「……おおおお!」


 眼下には、緑の大地と遠くまで広がる景色。


 風が頬をなで、青空がどこまでも続いていた。


 怖い。


 けれど、それ以上に――気持ちがよかった。


「……すげえ」


 晴臣は、思わずつぶやいた。


 地上に戻る頃には、顔いっぱいに笑顔が広がっていた。


「……やばい。これ、めちゃくちゃ楽しいな!」


 小春が笑った。


「でしょう?」


「はい! また飛びたいです!」


「ふふっ。よかった!」


 ハルはふたりを見つめていた。


《晴臣様の笑顔を確認》


《小春様との会話時、笑顔の頻度が上昇》


《パラグライダー体験:成功》


《本日の満足度:高》


 そして、最後にひとつ追加した。


《小春様との再会:強く推奨》


 ***


 帰り際。


 小春が晴臣に声をかけた。


「御影さん。今日は楽しかったですね」


「……はい。ありがとうございました」


「また、そば打ちとか、こういう体験に来ませんか?」


 晴臣は、一瞬だけ言葉に詰まった。


「……え?」


「私、こういうの好きなんです。ひとりで参加することも多いんですけど、誰かと一緒だともっと楽しいですね」


「……そうですね」


 晴臣は、少し照れくさそうに笑った。


「また、ご一緒できたら嬉しいです」


「はい!」


 小春は笑顔で手を振り、帰っていった。


 晴臣は、その後ろ姿をしばらく見つめていた。


「……いい人だったな」


「はい。小春様は、明るく親切な方でした」


「……お前、聞いてたのかよ」


「はい。すぐ近くにおりましたので」


「……そうかよ」


 晴臣は少しだけ笑った。


 ハルは、晴臣の方へセンサーを向けた。


「晴臣様」


「なんだよ」


「小春様と、またお会いしたいですか?」


「……っ!」


 晴臣は、勢いよく振り向いた。


「な、なんでそんなこと聞くんだよ!」


「再会を推奨する記録が作成されました」


「勝手に記録するな!」


「晴臣様は、小春様とお話しされているとき、普段より笑顔が多くなっていました」


「……うるさい!」


 夕暮れの空に、晴臣の叫び声が響いた。


 ハルは、いつもの穏やかな声で答えた。


「はい。また小春様にお会いできたらいいですね」


 晴臣は、もう何も言わなかった。


 ただ、ほんの少しだけ口元が緩んでいた。


 ハルはその表情を、静かに記録した。


《本日の記録:そば打ち、パラグライダー》


《新規人物:小春》


《晴臣様の新たな笑顔:確認》


《明日も、楽しみです》


 ハルは、夕焼けに染まる空を見上げた。


 自分はまだ、空を飛ぶことはできない。


 けれど、晴臣と一緒に見た景色は、またひとつ増えた。


 そして、晴臣にも新しい出会いが生まれた。


 ハルは、そのことを嬉しく思っていた。


葉流風あやめ 作

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