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引退AI、山へ行く  作者: 葉流風あやめ


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第3話 ハル、山小屋で習字を習う

 朝。


 御影家のリビングには、柔らかな日差しが差し込んでいた。


 壁には有名画家の絵画が飾られ、棚には高級な美術品が並んでいる。


 その中に、ひとつだけ変わったものがあった。


 高級な額に収められた、一枚の葉っぱ。


 葉には、少し不揃いな文字でこう書かれていた。


 ――晴臣様、いつもありがとうございます。


 千葉のキャンプ場で、ハルが晴臣に贈ったものだった。


 晴臣はリビングを通りかかると、何気ないふりをして足を止めた。


「……よし」


 葉っぱに異常がないことを確認し、満足そうにうなずく。


 その背後から、ハルが声をかけた。


「晴臣様」


「うわっ! なんだよ!」


「その葉っぱを、毎朝確認されているのですね」


「確認なんかしてねえよ! たまたま目に入っただけだ!」


「そうですか」


 ハルは額を見上げた。


「大切にしてくださって、ありがとうございます」


「べ、別に! お前がくれたもんだから、捨てるのも変だろ!」


「はい。私は嬉しいです」


「……もういいから、朝飯にするぞ!」


 晴臣は逃げるようにキッチンへ向かった。


 ハルは、その後ろ姿を静かに見送った。


 そして、額の中の葉っぱをもう一度見つめた。


「……次は、もっと上手に書きたいですね」


 ***


 朝食を終えると、ハルは晴臣の前に立った。


「晴臣様。お願いがあります」


「今度はなんだよ」


「習字を習いに行きたいのです」


「……習字?」


「はい。先日のキャンプで、晴臣様に葉っぱをお渡ししました」


「ああ、あれな」


「私の文字は、あまり上手ではありませんでした」


「別にいいだろ。気持ちは伝わったし」


「ありがとうございます。ですが、私はもっと美しい文字を書きたいのです」


 ハルは少し考えてから、続けた。


「今後も晴臣様に感謝をお伝えする機会があると思いますので」


「……そっか」


 晴臣は、少しだけ表情を緩めた。


「いいんじゃねえの。習えば?」


「ありがとうございます。教室はすでに見つけてあります」


「お、ちゃんと調べたのか」


「はい。山の中にある、小さな書道教室です」


「……山の中?」


「日曜日だけ開講しているそうです」


「なんで習字のために山まで行くんだよ!」


「自然豊かな環境で、心を落ち着けて文字を書くことができます」


「街にも習字教室くらいあるだろ!」


「こちらの先生の指導方針に興味を持ちました」


「どんな指導方針だよ……」


 ハルは、調べてきた情報を読み上げた。


「『書道は全身で書く。筆に魂を込めろ』とあります」


「……なんか怪しくないか?」


「体験教室を予約しました」


「もう予約したのかよ!」


「本日の日曜日です」


「今日!?」


「はい。晴臣様のご予定も確認済みです」


「俺も行くことになってんの!?」


「初めての場所ですので、同行していただけると心強いです」


 晴臣は深いため息をついた。


「……わかったよ。付き合えばいいんだろ」


「ありがとうございます、晴臣様」


「ただし、変な修行とか始まったら帰るからな!」


「承知しました」


 ハルは素直にうなずいた。


 晴臣は、その素直さがかえって不安だった。


 ***


 昼過ぎ。


 ふたりは車を降り、山道を歩いていた。


 木々の間から春の日差しが差し込み、鳥の声が聞こえてくる。


 道の先には、古びた木造の山小屋が建っていた。


 入口には、小さな看板が掛かっている。


『日曜書道教室』


「……本当に、ここにあるんだな」


 晴臣は看板を見上げた。


「はい。住所も一致しています」


「住所が一致してても不安になる建物ってあるんだな……」


 ハルは扉の前に立ち、丁寧にノックした。


 コンコン。


「こんにちは。体験教室を予約したハルと申します」


 しばらくすると、山小屋の扉が勢いよく開いた。


「よく来たな!!」


 ふたりの前に現れたのは、白いひげを蓄えた老人だった。


 年齢は七十代ほどだろうか。


 しかし、その体格はとんでもなかった。


 太い首に、丸太のような腕。分厚い胸板に、盛り上がった肩。


 袖をまくった腕には、鍛え上げられた筋肉が浮かんでいた。


 晴臣は思わず一歩下がった。


「……先生?」


「そうだ!! わしが先生だ!!」


 老人は豪快に笑った。


「さあ、入れ!!」


「は、はい」


 晴臣は、なぜか面接を受けに来たような気分になった。


 山小屋の中には長い机が並び、半紙や筆、硯が整然と置かれていた。


 壁には、力強い筆文字の作品がいくつも飾られている。


 老人はふたりに座るよう促すと、一本の筆を手に取った。


「書道は全身で書く!! 腰を据えろ!! 筆に魂を込めろ!!」


「……習字って、そんなスポーツだったか?」


 晴臣が小声でつぶやいた。


 ハルは真剣にうなずいた。


「興味深いご指導です」


「お前も真に受けるな!」


 老人は晴臣の声など気にせず、筆を構えた。


「まずは基本だ! 筆を持ってみろ!」


「はい!」


 ハルは丁寧に筆を受け取った。


「筆先だけで書こうとするな。腕全体を使え!」


「承知しました」


「よし! では、一本線を書いてみろ!」


 ハルは半紙に向かった。


 すっ。


 筆が動いた。


 しかし、線の途中で墨が広がり、思ったよりも太い線になった。


「……難しいですね」


「最初はそんなものだ! 何度でも書け!」


「はい!」


 ハルは真剣に練習を始めた。


 線を引き、筆を止め、また書く。


 普段なら瞬時に文字を表示できるハルにとって、思いどおりに筆を動かすことは、いつもとは違う体験だった。


 文字は、ただ正確に出力すればいいわけではない。


 筆圧によって太さが変わり、少しの動きで線の表情が変わる。


 ハルは、何枚も半紙を使って練習した。


「先生。筆の動きによって、文字の印象が変わるのですね」


「そうだ!! 文字には書いた者の心が表れる!!」


「心、ですか」


「そうだ! うまく書こうとするだけではいかん! 何を伝えたいのか、それを考えろ!」


 ハルは、しばらく黙って筆を見つめた。


 何を伝えたいのか。


 答えは、もう決まっていた。


 ***


「では、最後に好きな言葉を書いてみろ!」


 先生の声に、ハルは頭部を上げた。


「好きな言葉、ですか?」


「そうだ! 自分が大切にしている言葉でいい!」


「……承知しました」


 ハルは新しい半紙を用意した。


 筆に墨をつけ、姿勢を正す。


 隣では、晴臣が腕を組んで見守っていた。


「……おい、ハル」


「はい、晴臣様」


「変なこと書くなよ」


「変なこと、とは?」


「いや……なんでもねえ」


 晴臣は、なぜか嫌な予感がしていた。


 ハルは半紙に向き直った。


 一文字ずつ、ゆっくりと筆を動かす。


 晴臣。


 可愛。


 書き終えると、ハルは筆を置いた。


「できました」


 晴臣は半紙を見た。


 そこには、堂々とした筆文字でこう書かれていた。


 ――晴臣可愛。


「…………」


 数秒の沈黙。


 晴臣の顔が、みるみる赤くなった。


「ハル、お前ええええ!」


「はい、晴臣様」


「やめろーーー!!」


 山小屋に晴臣の叫び声が響き渡った。


 先生が腕を組み、作品をじっくりと眺めた。


「うむ!!」


 晴臣は、先生を振り返った。


「うむ、じゃないですよ! 先生も何か言ってください!」


「力強い字だ!! 気持ちがこもっている!!」


「そこじゃないんです!!」


 先生は満足そうにうなずいた。


「愛情のある、実にいい言葉だ!!」


「先生まで何言ってんだよーーー!!」


 ハルは不思議そうに首をかしげた。


「先生。こちらの文字は、上手に書けていますか?」


「うむ! 最初にしては見事だ!!」


「ありがとうございます」


 ハルは嬉しそうに頭を下げた。


「晴臣様を大切に思う気持ちを、表現できたと思います」


「だから、そういうことを堂々と言うな!」


「しかし、先生からもお褒めいただきました」


「褒められたのは字だろ! 内容じゃねえ!」


「先生は、愛情のある言葉だとおっしゃいました」


「聞こえてたよ!」


 先生は豪快に笑った。


「よし! その作品は持って帰れ! 大切にしろよ!」


「はい!」


「飾っておくといい!!」


「その必要はありません!!」


 晴臣が即座に叫んだ。


 ハルは作品を丁寧に丸めた。


「ありがとうございます。大切に保管します」


「お前も言うなーーー!」


 山小屋には、先生の笑い声と晴臣の叫び声がいつまでも響いていた。


 ***


 帰り道。


 晴臣は、ずっと不機嫌そうな顔をしていた。


「……ったく。なんであんな言葉を書くんだよ」


「晴臣様が大切だからです」


「……っ」


 晴臣は一瞬、言葉に詰まった。


 しかし、すぐに顔をそむけた。


「……そういうことを、さらっと言うな」


「承知しました。今後は、もう少し控えめな表現にいたします」


「いや、そういう問題じゃ……」


 晴臣はため息をついた。


 ハルは、手に持った作品を大切そうに抱えていた。


「晴臣様」


「今度はなんだよ」


「こちらの作品を、家に飾ってもよろしいでしょうか?」


「……好きにしろよ」


「ありがとうございます」


「ただし、客が来るリビングには飾るなよ!」


「承知しました」


 ハルは素直にうなずいた。


 晴臣は、少しだけ安心した。


 しかし、その直後。


「玄関に飾ります」


「もっとダメだろ!!」


 晴臣の叫び声が、また山道に響いた。


 ***


 その夜。


 ハルは自室の机に、習字の作品を広げていた。


 隣には、幼い晴臣が描いてくれた絵の記録画像が表示されている。


 曲がった線で描かれたハル。


 そして今日、自分の手で書いた文字。


 どちらも、決して完璧ではなかった。


 けれど、ハルにとっては大切なものだった。


 幼い晴臣は、絵を描いてくれた。


 大人になった晴臣は、葉っぱを額に入れて飾ってくれた。


 ならば自分も、もっと上手に文字を書けるようになりたい。


 いつか、伝えたい言葉があるから。


 ハルは作品を見つめた。


「……習字は、楽しいですね」


 そして、学習記録を保存した。


《学習記録:習字》


《新たな目標:美しい文字を書く》


《大切な人:御影晴臣》


 ハルは、また新しいことを学びたくなった。


葉流風あやめ 作

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