第2話 ハルの宝物
夜。
御影家の広い寝室は、静かな闇に包まれていた。
ベッドの上には、規則正しく横たわるハルの姿がある。
胸元の小さなランプが、ゆっくりと点滅していた。
《充電中》
《メモリーを確認します》
そのとき、ハルの内部で古い記録が再生された。
それは、ずっと昔の記憶だった。
***
小さな晴臣が、画用紙を抱えて走ってきた。
「ハル! みて!」
「はい。どうされましたか、晴臣様」
「ようちえんでね、かぞくのえをかいたんだ!」
晴臣が得意げに差し出した画用紙には、色とりどりの人間が描かれていた。
いや、一人だけ人間ではない。
大きな四角い頭に、細い手足。
胴体には、なぜか緑色の丸が三つ並んでいる。
「こちらは……?」
「ハル!」
「私ですか?」
「うん! ハルもかぞくだもん!」
ハルは、しばらくその絵を見つめていた。
線は曲がっているし、顔の位置も少しずれている。手足の長さも左右で違っていた。
お世辞にも、上手な絵とはいえなかった。
しかし。
「……ありがとうございます、晴臣様」
「へへっ!」
晴臣は満面の笑みを浮かべた。
ハルは、その絵を大切に受け取った。
《記録を保存します》
《幼少期の晴臣様が、私を家族と認識》
《保存理由:重要》
ハルは、ひとつの問いを内部に残した。
――私は、晴臣様の家族なのでしょうか。
その問いに答えを出せないまま、記憶は静かに保存された。
***
朝。
《充電完了》
ハルは起動した。
上半身を起こし、自分の状態を確認する。
「システム正常。各機能に異常なし」
ハルはベッドの脇に手を伸ばし、充電ケーブルを自分で抜いた。
そして、しばらく考えた。
「……本日は、晴臣様をお誘いしましょう」
***
朝食の時間。
晴臣がコーヒーを飲んでいると、向かいに座るハルが口を開いた。
「晴臣様。本日はご予定がありますか?」
「いや。午前中は仕事を片づけるつもりだけど」
「では、明日はいかがでしょう」
「明日? なんだよ」
「キャンプに行きませんか?」
晴臣はコーヒーカップを置いた。
「……は?」
「千葉県にある内浦山県民の森です。森林が豊かで、自然観察にも適しています」
「いや、待て。なんで急にキャンプなんだよ」
「桜が咲いている可能性があります」
「可能性?」
「自然現象ですので、開花状況を完全に予測することはできません」
「そこは調べてから誘えよ!」
「調査済みです」
「じゃあ、なんで可能性なんだよ!」
「私の予測が外れる可能性もあります」
「自信満々に言うことじゃねえだろ!」
ハルは、いつものように穏やかな声で答えた。
「キャンプ場を予約しました」
「……は?」
「ロボットだけでは宿泊できないそうです」
「だからなんだよ」
「晴臣様が必要です」
「お前、俺を保護者か何かだと思ってないか?」
「はい。幼少期より、晴臣様のお世話をさせていただいております」
「世話されてたのは俺だよ!」
「では、今回は私のお世話をお願いいたします」
「都合のいいときだけ立場を変えるな!」
晴臣は頭を抱えた。
しかし、ハルがキャンプの準備をすでに進めていることを知ると、結局断ることはできなかった。
「……わかったよ。一泊だけだからな」
「ありがとうございます、晴臣様」
「仕事は持っていくからな!」
「承知しました。自然の中でのお仕事は、集中力の向上に役立つ可能性があります」
「お前、絶対わかってないだろ!」
こうして晴臣は、ハルに連れられて千葉へ行くことになった。
***
翌日。
ふたりは千葉県の内浦山県民の森に到着した。
車を降りると、澄んだ空気が頬をなでた。
木々の間から差し込む光。土の匂い。風に揺れる枝の音。
街の中では聞こえない鳥の声が、あちらこちらから響いていた。
「……へえ。悪くないな」
晴臣が周囲を見回した。
「はい。自然環境は良好です」
「お前はまず、そういう言い方をやめろ」
「どのような言い方が適切でしょうか?」
「きれいだな、とか。気持ちいいな、とかあるだろ」
「……きれいですね」
ハルは、晴臣の言葉を確かめるように、ゆっくりと森を見渡した。
「気持ちがいいです」
「そうそう」
晴臣は満足そうにうなずいた。
そのときだった。
ハルが、ふいに足を止めた。
「……晴臣様」
「ん?」
「あちらをご覧ください」
木々の向こうに、淡いピンク色が広がっていた。
枝いっぱいに咲く桜。
風が吹くたびに花びらが揺れ、柔らかな春の日差しを受けて輝いていた。
「……おお」
晴臣も思わず声を漏らした。
ひらり。
一枚の花びらが、ハルの肩に落ちた。
ハルはそれを指先でそっとつまみ、じっと見つめた。
「桜ですね」
「見りゃわかるよ」
「はい。しかし、実際に見ると、想像していたものとは少し違います」
「どう違うんだ?」
「一枚一枚の花びらが異なる動きをしています。同じ風を受けているのに、落ちる速度も、揺れ方も違います」
ハルは、しばらく桜を見上げていた。
「……きれいですね」
「そうだな」
晴臣も隣に立ち、桜を見上げた。
ハルは、センサーを晴臣の方へ向けた。
「晴臣様にも、この桜を見ていただきたかったのです」
「いや、俺も見てるけど?」
「はい。ですが、私が見つけた桜を、晴臣様にも見ていただきたかったのです」
「……そうかよ」
晴臣は少しだけ照れくさそうに、もう一度桜を見上げた。
ハルの内部に、小さな記録が保存された。
《春の記録:桜》
《同行者:御影晴臣》
《記録理由:共有したい景色》
ハルは、もう一度桜を見た。
そして、花びらを一枚だけ、スケッチブックの間に挟んだ。
***
ふたりは森の中を歩き始めた。
足元には落ち葉が積もり、木々の間を縫うように小道が続いている。
晴臣は、普段なら運動不足を理由に途中で帰りたがるところだった。
しかし今日は、ハルが何を見つけるのか気になって、黙ってついていった。
「あ、晴臣様」
「今度はなんだよ」
「葉の形が違います」
「そりゃ、木が違うからな」
「こちらは先ほどの葉より、縁の切れ込みが深いです」
「……お前、葉っぱの研究でも始める気か?」
「その予定はありませんでしたが、興味が湧いてきました」
「予定を増やすなよ」
ハルはしゃがみ込み、地面に落ちた葉を一枚拾った。
大きく広がった葉は、鮮やかな緑色をしていた。
ハルは表と裏を確かめ、指先でそっとなぞった。
「晴臣様。この葉は、とてもきれいですね」
「そうか?」
「はい」
晴臣は少し考えたあと、肩をすくめた。
「じゃあ、持って帰ればいいだろ」
「よろしいのですか?」
「落ちてた葉っぱだろ。誰のものでもないんじゃないか」
「ありがとうございます」
ハルは葉を大切にリュックへしまった。
晴臣は、その様子を見て笑った。
「そんなに大事にしまうものか?」
「はい。あとで使う予定があります」
「何に?」
「秘密です」
「お前、俺に秘密なんてあったのかよ」
「はい」
「……なんか嫌な予感がするな」
ハルは答えず、また歩き始めた。
***
夕方。
ふたりはキャンプ場に戻り、テントの設営を始めた。
正確には、設営をしているのは晴臣だった。
ハルは説明書を読み上げ、部品の位置を確認している。
「晴臣様。ポールの向きが逆です」
「先に言えよ!」
「先ほどから申し上げております」
「もっと早く言え!」
「承知しました。次回は、ポールを持つ前にお伝えします」
「そういう意味じゃねえ!」
なんとかテントが完成すると、晴臣は地面に座り込んだ。
「……疲れた」
「お疲れさまです」
「お前は疲れないんだろ?」
「はい。人間と違って、私は疲れません」
「腹立つな、その言い方!」
ハルは首をかしげた。
「では、晴臣様。休憩にしましょう」
「……お前、たまにはいいこと言うじゃねえか」
夕暮れの森に、少しずつ夜の気配が近づいていた。
***
夜。
ふたりは焚き火を囲んでいた。
ぱち、ぱち、と薪がはぜる。
炎の向こうで、晴臣が空を見上げた。
「……星、きれいだな」
「はい。市街地よりも多くの星が観測できます」
「だから、そういう言い方じゃなくてさ」
「……星が、きれいですね」
「そう。それでいいんだよ」
ハルは空を見上げた。
無数の星が、暗い空に小さな光を散りばめていた。
その光を眺めながら、ハルは古い記録を思い出していた。
幼い晴臣が、庭で遊んでいた頃。
小さな手でマシュマロを握りしめ、口の周りを白くしながら夢中で食べていた。
食べ終わると、いつも言った。
『ハル、もういっこ!』
ハルは静かに晴臣の方へセンサーを向けた。
「晴臣様」
「ん?」
「晴臣様は、小さな頃、マシュマロがお好きでした」
「……は?」
「口の周りを白くして、夢中で食べていらっしゃいました」
「俺もう三十だぞ!」
「存じております」
「だったら、その話はするな!」
「かしこまりました」
ハルは一拍置いて、リュックからマシュマロの袋を取り出した。
「ところで、晴臣様。焼きマシュマロをご存じですか?」
「知ってるよ!」
「人間がキャンプで好んで食べているそうです」
「だから知ってるって!」
「では、私が焼いてさしあげます」
「話聞いてるか!?」
ハルは長い串に大きなマシュマロを刺した。
焚き火から少し離し、くるくると回しながら、表面をゆっくり焼いていく。
やがて、白い表面がこんがりと色づいた。
「完成しました」
「お、うまそうじゃん」
晴臣は受け取ると、熱いマシュマロをふうふうと冷ましてから口に入れた。
「……んっ!」
とろりと溶ける甘さに、晴臣の顔がぱっと明るくなった。
「おいっしー!」
思わず声が弾んだ。
晴臣はニコニコと笑いながら、夢中でマシュマロを頬張った。
ハルは、その様子をじっと見つめた。
「……晴臣様、かわいいです」
「ぶっ!」
晴臣は危うくマシュマロを吹き出しかけた。
「子供扱いするなよ!」
「申し訳ありません。ですが、笑顔がとても素敵です」
「だから、そういうことをさらっと言うな!」
ハルはもう一本、マシュマロを焼いた。
「晴臣様、もう一本どうぞ」
「……食べるけどさ」
晴臣は串を受け取り、また嬉しそうに頬張った。
ハルは、その笑顔を記録した。
《晴臣様の笑顔を確認》
《記録理由:保存したい》
そして、リュックの中から、昼間拾った葉を取り出した。
葉の表面を確かめ、用意していたペンで、ゆっくりと文字を書いた。
――晴臣様、いつもありがとうございます。
書き終えると、ハルは葉を晴臣に差し出した。
「晴臣様。私からプレゼントがあります」
「なんだよ?」
晴臣は葉を受け取った。
緑色の葉っぱには、少し不揃いな文字が並んでいた。
「……なんだよ、これ」
「本日の記念です」
「葉っぱじゃねえか」
「はい。私が見つけた葉です」
「いや、そうじゃなくて……」
晴臣は葉を裏返した。
もう一度、表を見た。
それから、顔をそむけた。
「……なんだよ。こんなの」
声が、少しかすれていた。
「晴臣様?」
「いや……煙が目に入っただけだ」
晴臣は空を見上げた。
「……あー、目が痛いな」
焚き火の煙は、晴臣とは反対の方向へ流れていた。
ハルはそのことを確認したが、何も言わなかった。
ただ、静かに晴臣の隣に座っていた。
しばらくして、ハルが口を開いた。
「晴臣様。私は知っています」
「……何をだよ」
「晴臣様が、ご主人様にお願いをされたことです」
晴臣の肩が、ぴくりと動いた。
「私を新しいAIに買い替えないでほしい、と」
「……お前」
「二十五歳の晴臣様は、お父様におっしゃいました」
ハルは、記録を読み上げるように、淡々と話した。
「『いやだー! いやだー! お父様の会社を継ぐのは嫌だけど継ぐから、ハルを替えないでー!』と」
「お前、録画でもしてたのかよ!?」
「録画ではありません。音声記録です」
「余計な記録を残すな!」
「晴臣様は、泣きながらお願いをされていました」
「そこまで言わなくていい!」
「私は、とても驚きました」
ハルは焚き火を見つめた。
「晴臣様は、大学を卒業されたあと、ユーチューバーになるとおっしゃっていました」
「……言うな」
「会社を継ぐのは嫌だと、よくおっしゃっていました」
「……だから言うなって」
「ですが、今は立派な社長です」
晴臣は黙った。
「晴臣様が努力されていた姿を、私はずっと見ていました」
ハルの声は、いつもと変わらず穏やかだった。
「私のために、本当にありがとうございます」
焚き火が、ぱちりと音を立てた。
晴臣は手元の葉っぱを握りしめた。
「……お前さ」
「はい」
「明日、いなくなるん?」
ハルは、晴臣の方へセンサーを向けた。
「私がいなくなったら、どうされますか?」
「え?」
晴臣は驚いたように声を上げた。
「いやだー! いやだー!」
突然、子供のような声を上げた。
「お前、いなくなるなよ! 絶対だぞ!」
「晴臣様」
「なんだよ!」
「今のは、質問です」
「……は?」
「私は、いなくなるとは申し上げておりません」
「お前なあああ!」
晴臣は頭を抱えた。
ハルは、いつものように穏やかな声で、焼きたてのマシュマロを差し出した。
「ほら、晴臣様。焼きマシュマロをどうぞ」
「……くそっ」
晴臣はマシュマロを受け取った。
「もう子供じゃねえんだからな!」
「はい。ですが、笑顔は昔と変わりません」
「それも言うな!」
夜の森に、晴臣の声が響いた。
ハルは、その声もまた、大切な記録として保存した。
***
その夜。
晴臣はテントの中で、寝袋に入っていた。
ハルも隣に横になっている。
「……なあ、ハル」
「はい、晴臣様」
「一緒に寝るの、何年ぶりだろうな」
「正確な記録によれば、十二年と四か月ぶりです」
「細かいな!」
「晴臣様が最後に私の部屋で眠られたのは、十八歳のときです」
「もういいから!」
晴臣は寝袋を頭まで引き上げた。
ハルは、天井のないテントの向こうに広がる夜空を見つめていた。
「……懐かしいですね」
「何がだよ」
「晴臣様が小さな頃、私と一緒に眠っていたことです」
「……ああ」
「晴臣様は、よく泣いていらっしゃいました」
「泣いてねえよ」
「おねしょをして、私が壊れたらどうしよう、と泣いていらっしゃいました」
「やめろおおおお!」
晴臣の叫び声が、静かな森に響き渡った。
遠くで鳥が一羽、驚いたように鳴いた。
「晴臣様。周囲の生物が驚いています」
「誰のせいだと思ってんだよ!」
ハルは少し考えた。
「……私でしょうか?」
「お前だよ!」
テントの中に、晴臣の声がいつまでも響いていた。
***
「晴臣様。起きてください」
「……んあ?」
「朝日がきれいですよ」
晴臣は寝袋から顔を出した。
「……もう朝かよ」
「はい。日の出を観測できます」
「だから、観測じゃなくて……」
言いかけて、晴臣は言葉を止めた。
テントの外に出ると、山の向こうから朝日が昇り始めていた。
薄暗かった森が、少しずつ明るくなっていく。
木々の輪郭が金色に縁取られ、朝露がきらきらと輝いていた。
空は淡いオレンジ色に染まり、雲の端が光を受けていた。
「……きれいだな」
晴臣がつぶやいた。
「はい」
ハルも、静かにうなずいた。
ふたりは並んで、朝日を見つめていた。
晴臣は、昨夜もらった葉っぱをポケットから取り出した。
少ししわになっていたが、文字はまだ読めた。
「……これ、持って帰るからな」
「はい」
「ちゃんと保存する。腐らないように、なんか方法を考える」
「ありがとうございます、晴臣様」
「……別に。俺の勝手だろ」
晴臣は葉っぱを大切にしまった。
そして、朝日に照らされたハルを見た。
「……帰るぞ、ハル」
「はい、晴臣様」
ハルは晴臣の隣に並んだ。
ふたりの影が、朝日に向かって長く伸びていた。
ハルの内部に、新しい記録が保存された。
《春の記録:朝日》
《同行者:御影晴臣》
《記録理由:一緒に見た景色》
そして、その記録の隣には、もうひとつの言葉が残されていた。
《私の宝物:晴臣様》
ハルは、その言葉を静かに保存した。
春の朝日は、ふたりを優しく照らしていた。
葉流風あやめ 作




