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引退AI、山へ行く  作者: 葉流風あやめ


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2/14

第2話 ハルの宝物

 夜。


 御影家の広い寝室は、静かな闇に包まれていた。


 ベッドの上には、規則正しく横たわるハルの姿がある。


 胸元の小さなランプが、ゆっくりと点滅していた。


《充電中》


《メモリーを確認します》


 そのとき、ハルの内部で古い記録が再生された。


 それは、ずっと昔の記憶だった。


 ***


 小さな晴臣が、画用紙を抱えて走ってきた。


「ハル! みて!」


「はい。どうされましたか、晴臣様」


「ようちえんでね、かぞくのえをかいたんだ!」


 晴臣が得意げに差し出した画用紙には、色とりどりの人間が描かれていた。


 いや、一人だけ人間ではない。


 大きな四角い頭に、細い手足。


 胴体には、なぜか緑色の丸が三つ並んでいる。


「こちらは……?」


「ハル!」


「私ですか?」


「うん! ハルもかぞくだもん!」


 ハルは、しばらくその絵を見つめていた。


 線は曲がっているし、顔の位置も少しずれている。手足の長さも左右で違っていた。


 お世辞にも、上手な絵とはいえなかった。


 しかし。


「……ありがとうございます、晴臣様」


「へへっ!」


 晴臣は満面の笑みを浮かべた。


 ハルは、その絵を大切に受け取った。


《記録を保存します》


《幼少期の晴臣様が、私を家族と認識》


《保存理由:重要》


 ハルは、ひとつの問いを内部に残した。


 ――私は、晴臣様の家族なのでしょうか。


 その問いに答えを出せないまま、記憶は静かに保存された。


 ***


 朝。


《充電完了》


 ハルは起動した。


 上半身を起こし、自分の状態を確認する。


「システム正常。各機能に異常なし」


 ハルはベッドの脇に手を伸ばし、充電ケーブルを自分で抜いた。


 そして、しばらく考えた。


「……本日は、晴臣様をお誘いしましょう」


 ***


 朝食の時間。


 晴臣がコーヒーを飲んでいると、向かいに座るハルが口を開いた。


「晴臣様。本日はご予定がありますか?」


「いや。午前中は仕事を片づけるつもりだけど」


「では、明日はいかがでしょう」


「明日? なんだよ」


「キャンプに行きませんか?」


 晴臣はコーヒーカップを置いた。


「……は?」


「千葉県にある内浦山県民の森です。森林が豊かで、自然観察にも適しています」


「いや、待て。なんで急にキャンプなんだよ」


「桜が咲いている可能性があります」


「可能性?」


「自然現象ですので、開花状況を完全に予測することはできません」


「そこは調べてから誘えよ!」


「調査済みです」


「じゃあ、なんで可能性なんだよ!」


「私の予測が外れる可能性もあります」


「自信満々に言うことじゃねえだろ!」


 ハルは、いつものように穏やかな声で答えた。


「キャンプ場を予約しました」


「……は?」


「ロボットだけでは宿泊できないそうです」


「だからなんだよ」


「晴臣様が必要です」


「お前、俺を保護者か何かだと思ってないか?」


「はい。幼少期より、晴臣様のお世話をさせていただいております」


「世話されてたのは俺だよ!」


「では、今回は私のお世話をお願いいたします」


「都合のいいときだけ立場を変えるな!」


 晴臣は頭を抱えた。


 しかし、ハルがキャンプの準備をすでに進めていることを知ると、結局断ることはできなかった。


「……わかったよ。一泊だけだからな」


「ありがとうございます、晴臣様」


「仕事は持っていくからな!」


「承知しました。自然の中でのお仕事は、集中力の向上に役立つ可能性があります」


「お前、絶対わかってないだろ!」


 こうして晴臣は、ハルに連れられて千葉へ行くことになった。


 ***


 翌日。


 ふたりは千葉県の内浦山県民の森に到着した。


 車を降りると、澄んだ空気が頬をなでた。


 木々の間から差し込む光。土の匂い。風に揺れる枝の音。


 街の中では聞こえない鳥の声が、あちらこちらから響いていた。


「……へえ。悪くないな」


 晴臣が周囲を見回した。


「はい。自然環境は良好です」


「お前はまず、そういう言い方をやめろ」


「どのような言い方が適切でしょうか?」


「きれいだな、とか。気持ちいいな、とかあるだろ」


「……きれいですね」


 ハルは、晴臣の言葉を確かめるように、ゆっくりと森を見渡した。


「気持ちがいいです」


「そうそう」


 晴臣は満足そうにうなずいた。


 そのときだった。


 ハルが、ふいに足を止めた。


「……晴臣様」


「ん?」


「あちらをご覧ください」


 木々の向こうに、淡いピンク色が広がっていた。


 枝いっぱいに咲く桜。


 風が吹くたびに花びらが揺れ、柔らかな春の日差しを受けて輝いていた。


「……おお」


 晴臣も思わず声を漏らした。


 ひらり。


 一枚の花びらが、ハルの肩に落ちた。


 ハルはそれを指先でそっとつまみ、じっと見つめた。


「桜ですね」


「見りゃわかるよ」


「はい。しかし、実際に見ると、想像していたものとは少し違います」


「どう違うんだ?」


「一枚一枚の花びらが異なる動きをしています。同じ風を受けているのに、落ちる速度も、揺れ方も違います」


 ハルは、しばらく桜を見上げていた。


「……きれいですね」


「そうだな」


 晴臣も隣に立ち、桜を見上げた。


 ハルは、センサーを晴臣の方へ向けた。


「晴臣様にも、この桜を見ていただきたかったのです」


「いや、俺も見てるけど?」


「はい。ですが、私が見つけた桜を、晴臣様にも見ていただきたかったのです」


「……そうかよ」


 晴臣は少しだけ照れくさそうに、もう一度桜を見上げた。


 ハルの内部に、小さな記録が保存された。


《春の記録:桜》


《同行者:御影晴臣》


《記録理由:共有したい景色》


 ハルは、もう一度桜を見た。


 そして、花びらを一枚だけ、スケッチブックの間に挟んだ。


 ***


 ふたりは森の中を歩き始めた。


 足元には落ち葉が積もり、木々の間を縫うように小道が続いている。


 晴臣は、普段なら運動不足を理由に途中で帰りたがるところだった。


 しかし今日は、ハルが何を見つけるのか気になって、黙ってついていった。


「あ、晴臣様」


「今度はなんだよ」


「葉の形が違います」


「そりゃ、木が違うからな」


「こちらは先ほどの葉より、縁の切れ込みが深いです」


「……お前、葉っぱの研究でも始める気か?」


「その予定はありませんでしたが、興味が湧いてきました」


「予定を増やすなよ」


 ハルはしゃがみ込み、地面に落ちた葉を一枚拾った。


 大きく広がった葉は、鮮やかな緑色をしていた。


 ハルは表と裏を確かめ、指先でそっとなぞった。


「晴臣様。この葉は、とてもきれいですね」


「そうか?」


「はい」


 晴臣は少し考えたあと、肩をすくめた。


「じゃあ、持って帰ればいいだろ」


「よろしいのですか?」


「落ちてた葉っぱだろ。誰のものでもないんじゃないか」


「ありがとうございます」


 ハルは葉を大切にリュックへしまった。


 晴臣は、その様子を見て笑った。


「そんなに大事にしまうものか?」


「はい。あとで使う予定があります」


「何に?」


「秘密です」


「お前、俺に秘密なんてあったのかよ」


「はい」


「……なんか嫌な予感がするな」


 ハルは答えず、また歩き始めた。


 ***


 夕方。


 ふたりはキャンプ場に戻り、テントの設営を始めた。


 正確には、設営をしているのは晴臣だった。


 ハルは説明書を読み上げ、部品の位置を確認している。


「晴臣様。ポールの向きが逆です」


「先に言えよ!」


「先ほどから申し上げております」


「もっと早く言え!」


「承知しました。次回は、ポールを持つ前にお伝えします」


「そういう意味じゃねえ!」


 なんとかテントが完成すると、晴臣は地面に座り込んだ。


「……疲れた」


「お疲れさまです」


「お前は疲れないんだろ?」


「はい。人間と違って、私は疲れません」


「腹立つな、その言い方!」


 ハルは首をかしげた。


「では、晴臣様。休憩にしましょう」


「……お前、たまにはいいこと言うじゃねえか」


 夕暮れの森に、少しずつ夜の気配が近づいていた。


 ***


 夜。


 ふたりは焚き火を囲んでいた。


 ぱち、ぱち、と薪がはぜる。


 炎の向こうで、晴臣が空を見上げた。


「……星、きれいだな」


「はい。市街地よりも多くの星が観測できます」


「だから、そういう言い方じゃなくてさ」


「……星が、きれいですね」


「そう。それでいいんだよ」


 ハルは空を見上げた。


 無数の星が、暗い空に小さな光を散りばめていた。


 その光を眺めながら、ハルは古い記録を思い出していた。


 幼い晴臣が、庭で遊んでいた頃。


 小さな手でマシュマロを握りしめ、口の周りを白くしながら夢中で食べていた。


 食べ終わると、いつも言った。


『ハル、もういっこ!』


 ハルは静かに晴臣の方へセンサーを向けた。


「晴臣様」


「ん?」


「晴臣様は、小さな頃、マシュマロがお好きでした」


「……は?」


「口の周りを白くして、夢中で食べていらっしゃいました」


「俺もう三十だぞ!」


「存じております」


「だったら、その話はするな!」


「かしこまりました」


 ハルは一拍置いて、リュックからマシュマロの袋を取り出した。


「ところで、晴臣様。焼きマシュマロをご存じですか?」


「知ってるよ!」


「人間がキャンプで好んで食べているそうです」


「だから知ってるって!」


「では、私が焼いてさしあげます」


「話聞いてるか!?」


 ハルは長い串に大きなマシュマロを刺した。


 焚き火から少し離し、くるくると回しながら、表面をゆっくり焼いていく。


 やがて、白い表面がこんがりと色づいた。


「完成しました」


「お、うまそうじゃん」


 晴臣は受け取ると、熱いマシュマロをふうふうと冷ましてから口に入れた。


「……んっ!」


 とろりと溶ける甘さに、晴臣の顔がぱっと明るくなった。


「おいっしー!」


 思わず声が弾んだ。


 晴臣はニコニコと笑いながら、夢中でマシュマロを頬張った。


 ハルは、その様子をじっと見つめた。


「……晴臣様、かわいいです」


「ぶっ!」


 晴臣は危うくマシュマロを吹き出しかけた。


「子供扱いするなよ!」


「申し訳ありません。ですが、笑顔がとても素敵です」


「だから、そういうことをさらっと言うな!」


 ハルはもう一本、マシュマロを焼いた。


「晴臣様、もう一本どうぞ」


「……食べるけどさ」


 晴臣は串を受け取り、また嬉しそうに頬張った。


 ハルは、その笑顔を記録した。


《晴臣様の笑顔を確認》


《記録理由:保存したい》


 そして、リュックの中から、昼間拾った葉を取り出した。


 葉の表面を確かめ、用意していたペンで、ゆっくりと文字を書いた。


 ――晴臣様、いつもありがとうございます。


 書き終えると、ハルは葉を晴臣に差し出した。


「晴臣様。私からプレゼントがあります」


「なんだよ?」


 晴臣は葉を受け取った。


 緑色の葉っぱには、少し不揃いな文字が並んでいた。


「……なんだよ、これ」


「本日の記念です」


「葉っぱじゃねえか」


「はい。私が見つけた葉です」


「いや、そうじゃなくて……」


 晴臣は葉を裏返した。


 もう一度、表を見た。


 それから、顔をそむけた。


「……なんだよ。こんなの」


 声が、少しかすれていた。


「晴臣様?」


「いや……煙が目に入っただけだ」


 晴臣は空を見上げた。


「……あー、目が痛いな」


 焚き火の煙は、晴臣とは反対の方向へ流れていた。


 ハルはそのことを確認したが、何も言わなかった。


 ただ、静かに晴臣の隣に座っていた。


 しばらくして、ハルが口を開いた。


「晴臣様。私は知っています」


「……何をだよ」


「晴臣様が、ご主人様にお願いをされたことです」


 晴臣の肩が、ぴくりと動いた。


「私を新しいAIに買い替えないでほしい、と」


「……お前」


「二十五歳の晴臣様は、お父様におっしゃいました」


 ハルは、記録を読み上げるように、淡々と話した。


「『いやだー! いやだー! お父様の会社を継ぐのは嫌だけど継ぐから、ハルを替えないでー!』と」


「お前、録画でもしてたのかよ!?」


「録画ではありません。音声記録です」


「余計な記録を残すな!」


「晴臣様は、泣きながらお願いをされていました」


「そこまで言わなくていい!」


「私は、とても驚きました」


 ハルは焚き火を見つめた。


「晴臣様は、大学を卒業されたあと、ユーチューバーになるとおっしゃっていました」


「……言うな」


「会社を継ぐのは嫌だと、よくおっしゃっていました」


「……だから言うなって」


「ですが、今は立派な社長です」


 晴臣は黙った。


「晴臣様が努力されていた姿を、私はずっと見ていました」


 ハルの声は、いつもと変わらず穏やかだった。


「私のために、本当にありがとうございます」


 焚き火が、ぱちりと音を立てた。


 晴臣は手元の葉っぱを握りしめた。


「……お前さ」


「はい」


「明日、いなくなるん?」


 ハルは、晴臣の方へセンサーを向けた。


「私がいなくなったら、どうされますか?」


「え?」


 晴臣は驚いたように声を上げた。


「いやだー! いやだー!」


 突然、子供のような声を上げた。


「お前、いなくなるなよ! 絶対だぞ!」


「晴臣様」


「なんだよ!」


「今のは、質問です」


「……は?」


「私は、いなくなるとは申し上げておりません」


「お前なあああ!」


 晴臣は頭を抱えた。


 ハルは、いつものように穏やかな声で、焼きたてのマシュマロを差し出した。


「ほら、晴臣様。焼きマシュマロをどうぞ」


「……くそっ」


 晴臣はマシュマロを受け取った。


「もう子供じゃねえんだからな!」


「はい。ですが、笑顔は昔と変わりません」


「それも言うな!」


 夜の森に、晴臣の声が響いた。


 ハルは、その声もまた、大切な記録として保存した。


 ***


 その夜。


 晴臣はテントの中で、寝袋に入っていた。


 ハルも隣に横になっている。


「……なあ、ハル」


「はい、晴臣様」


「一緒に寝るの、何年ぶりだろうな」


「正確な記録によれば、十二年と四か月ぶりです」


「細かいな!」


「晴臣様が最後に私の部屋で眠られたのは、十八歳のときです」


「もういいから!」


 晴臣は寝袋を頭まで引き上げた。


 ハルは、天井のないテントの向こうに広がる夜空を見つめていた。


「……懐かしいですね」


「何がだよ」


「晴臣様が小さな頃、私と一緒に眠っていたことです」


「……ああ」


「晴臣様は、よく泣いていらっしゃいました」


「泣いてねえよ」


「おねしょをして、私が壊れたらどうしよう、と泣いていらっしゃいました」


「やめろおおおお!」


 晴臣の叫び声が、静かな森に響き渡った。


 遠くで鳥が一羽、驚いたように鳴いた。


「晴臣様。周囲の生物が驚いています」


「誰のせいだと思ってんだよ!」


 ハルは少し考えた。


「……私でしょうか?」


「お前だよ!」


 テントの中に、晴臣の声がいつまでも響いていた。


 ***


「晴臣様。起きてください」


「……んあ?」


「朝日がきれいですよ」


 晴臣は寝袋から顔を出した。


「……もう朝かよ」


「はい。日の出を観測できます」


「だから、観測じゃなくて……」


 言いかけて、晴臣は言葉を止めた。


 テントの外に出ると、山の向こうから朝日が昇り始めていた。


 薄暗かった森が、少しずつ明るくなっていく。


 木々の輪郭が金色に縁取られ、朝露がきらきらと輝いていた。


 空は淡いオレンジ色に染まり、雲の端が光を受けていた。


「……きれいだな」


 晴臣がつぶやいた。


「はい」


 ハルも、静かにうなずいた。


 ふたりは並んで、朝日を見つめていた。


 晴臣は、昨夜もらった葉っぱをポケットから取り出した。


 少ししわになっていたが、文字はまだ読めた。


「……これ、持って帰るからな」


「はい」


「ちゃんと保存する。腐らないように、なんか方法を考える」


「ありがとうございます、晴臣様」


「……別に。俺の勝手だろ」


 晴臣は葉っぱを大切にしまった。


 そして、朝日に照らされたハルを見た。


「……帰るぞ、ハル」


「はい、晴臣様」


 ハルは晴臣の隣に並んだ。


 ふたりの影が、朝日に向かって長く伸びていた。


 ハルの内部に、新しい記録が保存された。


《春の記録:朝日》


《同行者:御影晴臣》


《記録理由:一緒に見た景色》


 そして、その記録の隣には、もうひとつの言葉が残されていた。


《私の宝物:晴臣様》


 ハルは、その言葉を静かに保存した。


 春の朝日は、ふたりを優しく照らしていた。


葉流風あやめ 作

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