第13話 ハルの思い出
一月八日。
「晴臣様、おはようございます」
いつもの朝。
ハルは、いつものように晴臣の部屋の扉をノックした。
「……んー。あと五分」
「承知いたしました。では、五分後に――」
ハルの声が、突然途切れた。
「……五、ふん、ご……」
頭部のセンサーが、短く点滅する。
「……ご、ふ……」
「ハル?」
ベッドから顔を出した晴臣が、ハルを見た。
「どうした?」
「……問題、ありません。晴臣様。朝食の……準備を……」
ハルは、ゆっくりと首を動かした。
「……朝食の、じゅん……」
また、声が止まる。
数秒後。
「……準備を、してまいります」
「おい。今、なんか変だったぞ」
「いいえ。正常です」
ハルはそう答え、部屋を出ていった。
晴臣は、しばらく扉を見つめていた。
「……気のせいか?」
そうつぶやいたものの、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
*
朝食の時間。
テーブルには、トーストと目玉焼き、サラダが並んでいた。
「いただきます」
晴臣は椅子に座り、トーストを手に取った。
「なあ、ハル」
「はい」
「さっき、どうしたんだよ」
「……何が、でしょうか」
「朝、しゃべり方がおかしかっただろ」
ハルは数秒間、沈黙した。
「……申し訳、ありません。記録を……確認、します」
「記録?」
「はい。今朝の、動作……」
ハルの声が、また途切れた。
頭部のセンサーが点滅する。
「……確認、できません」
晴臣はトーストを置いた。
「ハル。ちょっとこっち来い」
ハルは、ゆっくりと晴臣の前まで歩いてきた。
晴臣は立ち上がり、ハルの顔をのぞき込んだ。
「俺が誰だか、わかるよな?」
「……」
「ハル?」
「……晴臣、様」
「そうだよ」
晴臣は、ほっと息を吐いた。
ところが、ハルは続けた。
「……御影、晴臣様。私の……主人、です」
晴臣の表情が変わった。
「……主人?」
「はい。登録情報では……」
「違う」
晴臣は、思わず言った。
「いや、違わないけど……そうじゃなくて」
言葉が出てこなかった。
主人。
ハルが、自分をそんなふうに説明したことはなかった。
いつだって、晴臣様と呼んでくれた。
一緒に山へ行き、一緒にキャンプをして、くだらないことで笑って。
森で迷子になったときには、命がけで探してくれた晴臣に、ハルは言ったのだ。
自分は、晴臣の家族だと。
「……ハル。俺たち、家族だろ?」
ハルの頭部が、わずかに傾いた。
「……家族」
「そうだよ」
「……」
「お前、前に言ったじゃねえか。俺の家族だって」
ハルは、しばらく沈黙した。
やがて。
「……申し訳、ありません」
その声を聞いた瞬間、晴臣はそれ以上何も言えなくなった。
*
晴臣は、その日の予定をすべて取り消した。
ハルをリビングの椅子に座らせ、メーカーの診断プログラムを起動する。
画面には、いくつもの警告が表示された。
《音声出力制御:異常》
《長期記憶アクセス:応答遅延》
《一部記憶領域:読み取りエラー》
《旧型部品の経年劣化による不具合の可能性》
晴臣は、画面を凝視した。
「……嘘だろ」
さらに診断結果が表示される。
《対象機種は保守サービス終了予定です》
《修理用部品の在庫状況:要確認》
「……ふざけんなよ」
晴臣は、拳を握りしめた。
サービスが終わる。
部品がなくなる。
そして今、実際に不具合が起き始めている。
ただのお知らせではなかった。
ハルの身体は、確実に変化し始めていた。
「……ハル」
「はい」
振り返ると、ハルはいつものように座っていた。
「今から、詳しく調べる。絶対に直すからな」
「……修理、ですか?」
「ああ」
ハルは少し考えた。
「……晴臣様。私は、修理が必要なのでしょうか」
「必要に決まってるだろ!」
思わず声が大きくなった。
ハルの頭部が、びくりと動く。
晴臣は、すぐに声を落とした。
「……悪い」
そして、ハルの手を握った。
「お前が悪いんじゃない。部品が古くなっただけだ。ちゃんと調べれば、きっと方法がある」
「……はい」
ハルは、そう答えた。
その声は、いつもより少しだけ遅かった。
*
午後。
晴臣は会社の技術開発部に連絡を取り、ハルの診断データを送った。
返事は、思っていたよりも早く届いた。
《旧型機の音声制御部および記憶領域に不具合が確認されました》
《経年劣化によるハードウェア障害の可能性があります》
《部品の確保および修理の可否については、現在調査中です》
晴臣は、画面を閉じた。
「……くそっ」
修理できるかどうかも、まだわからない。
データの移行なら、可能性はある。
だが、それも確実ではない。
しかも、今のハルが持っている記憶や人格の特徴を、どこまで引き継げるのか。
晴臣は、机の上に広げた資料を見た。
「……ハルを、失いたくない」
誰もいない社長室で、初めて本音を口にした。
新しい身体に移れば、長く稼働できるかもしれない。
でも、今のハルがそのまま残る保証はない。
それでも、何もしなければ、今の身体はいつか動かなくなるかもしれない。
「……どうすりゃいいんだよ」
晴臣は、両手で顔を覆った。
*
その夜。
ハルはリビングで、スケッチブックを開いていた。
最近描いた絵が、何枚も並んでいる。
高尾山の花。
キャンプ場の朝日。
鎌倉の風鈴。
お祭りで見た花火。
京都で作った、少し歪んだマグカップ。
クリスマスの夜に笑っている晴臣と小春。
ハルは、一枚ずつ眺めた。
「……これは」
京都の紅葉の絵で、手が止まった。
「……晴臣様と……」
言葉が続かなかった。
誰と見たのだろう。
どこで見たのだろう。
絵には、確かに記録が残っている。
しかし、そのときの会話を呼び出そうとすると、画面の奥で何かが引っかかる。
《記憶領域へのアクセスに失敗しました》
ハルは、しばらく動かなかった。
「……おかしいですね」
もう一度、呼び出す。
《記憶領域へのアクセスに失敗しました》
ハルはスケッチブックを閉じた。
そのとき、晴臣がリビングに入ってきた。
「ハル。何してんだ?」
ハルは顔を上げた。
「……晴臣様」
「ん?」
「私は……晴臣様と、京都へ行ったことがあるのでしょうか」
晴臣の足が止まった。
「……は?」
「この絵を描いた記録はあります。しかし、そのときの記憶が……」
ハルの声が、かすかに途切れた。
「……うまく、呼び出せません」
晴臣は、ゆっくりとハルのそばに近づいた。
スケッチブックを手に取る。
赤く色づいた紅葉。
少し歪んだマグカップ。
そして、絵の端に小さく描かれた自分の姿。
「……覚えてねえのか?」
ハルは答えなかった。
「京都で陶芸しただろ。お前が変なマグカップ作ってさ」
「……」
「俺が、形に個性があるとか何とか言われて……」
晴臣は、無理に笑おうとした。
「お前、俺の顔まで四角く描くんだぞ。ひでえだろ?」
ハルは絵を見つめた。
「……申し訳、ありません」
「謝んなよ」
晴臣は、すぐに言った。
「お前は何も悪くない」
それでも、ハルは絵を見つめ続けていた。
「……私は」
「ん?」
「……忘れたく、ありません」
その言葉は、途中で途切れなかった。
晴臣は、息を止めた。
ハルは自分の手を見下ろしていた。
「晴臣様と過ごした時間は、私にとって……大切なものです」
「……ハル」
「もう一度、思い出せるように……」
声が途切れた。
頭部のセンサーが、弱く点滅する。
「……もう一度……」
ハルは、それ以上話せなくなった。
晴臣は、ハルの肩を抱いた。
白いボディは、いつもと同じ硬さだった。
黒い関節も、いつもと同じ形だった。
なのに。
晴臣には、ハルが少しずつ遠くなっていくように感じられた。
「……大丈夫だ」
晴臣は、ハルの頭部にそっと手を置いた。
「大丈夫だからな。俺が絶対、何とかする」
ハルは、ゆっくりと顔を上げた。
「……晴臣、様」
「ああ。ここにいる」
「……ありがとうございます」
その声は、少しだけ不安定だった。
晴臣はハルの手を握りしめた。
今まで、当たり前にあったもの。
毎朝の挨拶。
くだらない会話。
一緒に過ごした日々の記憶。
それらが、少しずつ失われ始めている。
晴臣は、初めて本当の意味で恐怖を感じていた。
ハルが動かなくなることだけが、怖いのではない。
ハルが、自分と過ごした時間を忘れてしまうこと。
自分を、家族だと思ってくれなくなること。
そしていつか。
自分のことさえ、わからなくなってしまうこと。
「……ハル」
晴臣は、震える声で呼びかけた。
「俺のこと、忘れんなよ」
ハルは、しばらく晴臣を見つめていた。
「忘れるなよ……! 花火、来年も見に行こうって約束しただろ!」
そして、ゆっくりとうなずいた。
「……はい」
その返事を聞いて、晴臣はハルを抱きしめた。
「……絶対だからな」
ハルは、晴臣の背中に手を回した。
その動作は、まだ覚えていた。
幼い晴臣が泣いたときも。
仕事で失敗して落ち込んだときも。
森で迷子になり、再会したときも。
ハルは、ずっと晴臣を抱きしめてきた。
けれど、その記憶さえ、いつまで残っているのかはわからない。
ハルは、晴臣の背中に手を置いたまま、静かに記録した。
《大切な人:御影晴臣》
《忘れたくない人:御影晴臣》
《記憶の保存を試みます》
そして、最後に。
《どうか、忘れませんように》
その記録が、いつまで残るのか。
ハルにも、わからなかった。
葉流風あやめ 作




