最終話 ハル
「……晴臣様」
ハルの声が、途切れた。
「……私の記憶を移すことはできても……」
頭部のセンサーが、弱く点滅する。
「……晴臣様と過ごした時間まで、移せるのでしょうか」
晴臣は、すぐには答えられなかった。
目の前にいるのは、何十年もの間、自分のそばにいてくれたハルだ。
一緒に笑って、怒って、山を歩いて。
自分が忘れてしまったような小さな出来事まで、大切に覚えていてくれた。
そのハルが今、自分との思い出を失い始めている。
「……わかんねえよ」
晴臣は、ハルの手を握った。
「正直、俺にもわかんねえ」
ハルは黙って聞いていた。
「でもさ。今のままだと、お前の記憶がどんどん壊れていくんだろ」
「……はい」
「だったら、俺はお前に生きていてほしい」
晴臣の声が震えた。
「新しい身体になったら、何かが変わるかもしれない。今までと同じじゃなくなるかもしれない」
一度、言葉を切った。
「それでも、俺はお前と一緒にいたいんだよ」
ハルの指先が、わずかに動いた。
「……晴臣様」
「だから、一緒に考えよう。これからのこと」
ハルは、しばらく晴臣を見つめていた。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「……はい」
*
数日後。
晴臣は、会社の技術開発部にいた。
テーブルの上には、ハルの診断データと、新型ボディへの移行計画が並んでいた。
「記憶領域の損傷が進んでいます。このままでは、さらに記録を読み取れなくなる可能性があります」
技術開発部の責任者が説明した。
「新しいボディへのデータ移行は、現時点で考えられる選択肢のひとつです。ただし、すべての記憶や行動特性が完全に再現される保証はありません」
晴臣は、資料を見つめた。
「……移行しなかったら?」
「今の身体で稼働を続けることはできます。ただし、故障した場合、部品の供給が終了しているため、修理できない可能性があります。記憶障害も、改善するとは限りません」
晴臣は、目を閉じた。
もう、先延ばしにはできなかった。
「……移行の準備を進めてくれ」
「承知しました」
「できる限り、今のハルを残してほしい。記憶も、性格も、声も。ハルがハルでいられるように」
「最善を尽くします」
技術者は資料をめくった。
「それから、外装についてもご希望を伺いたいのですが」
「外装?」
「新型ボディでは、人間に近い外見を再現することも可能です。表情や動作も、より自然にできます。せっかく移行されるのであれば、外見も新しくする選択肢があります」
晴臣は、即座に答えた。
「いや。このままでいい」
技術者が顔を上げた。
「……よろしいのですか?」
「性能は最新にしてくれ。動きも、記憶装置も、できる限りいいものにしてほしい。でも、見た目は変えなくていい」
晴臣は、手元の写真を見た。
幼い自分の隣に立つ、白いロボット。
その手を、小さな自分が握っている。
「……俺が知ってるハルは、こいつなんだよ」
晴臣は写真を伏せた。
「人間みたいな顔にしてほしいわけじゃない。ハルが、ハルの姿で帰ってきてほしいんだ」
技術者は、しばらく黙っていた。
やがて、静かにうなずいた。
「承知しました。外装は旧型のデザインを再現し、内部機構を新型仕様にする方向で検討します」
「……頼む」
晴臣は、深く頭を下げた。
*
移行の準備が進むなか、晴臣はハルと過ごす時間を大切にした。
一緒に食事をする。
スケッチブックを開く。
昔の写真を眺める。
できるだけ、いつもの日常を続けたかった。
けれど、ハルの不具合は少しずつ進んでいた。
会話の途中で言葉が途切れることがある。
保存した記録を、うまく読み込めないこともある。
ある日、ハルはリビングで一枚の絵を見つめていた。
京都で晴臣が拾ってくれた紅葉の絵だった。
「……晴臣様」
「ん?」
「この絵は……」
ハルは、絵を見つめたまま黙った。
「……どこで、描いたのでしょうか」
晴臣は、すぐに答えられなかった。
「……京都だよ」
「……京都」
「一緒に行っただろ。お前、変なマグカップ作ってさ」
ハルは、絵を見つめていた。
「……申し訳ありません。記憶を呼び出せません」
「謝んなくていい」
晴臣は、隣に座った。
「俺が覚えてるから」
ハルは、ゆっくりと顔を上げた。
「……晴臣様が?」
「ああ。全部じゃないかもしれないけど、俺が覚えてる。お前が忘れたって、俺が覚えてるから」
ハルは、しばらく晴臣を見つめていた。
「……ありがとうございます」
晴臣は、笑った。
「……だからさ。新しい身体になったら、また行こうぜ」
「……京都へ、ですか?」
「そうだよ。今度は、もっとまともなマグカップ作れよ」
「……芸術とは、個性です」
晴臣は目を見開いた。
「お前、そこは覚えてんのかよ!」
「……大切な記録のようです」
「どこがだよ!」
二人は笑った。
その笑い声が、いつまでも続けばいいと思った。
*
移行前日。
小春が、御影家を訪ねてきた。
「晴臣くん!」
玄関を開けた晴臣は、驚いた顔をした。
「こ、小春!? どうしたんだよ、急に」
「どうしたんだよ、じゃないよ。ハルのこと、聞いたから」
小春は心配そうにリビングをのぞいた。
そこには、いつものように座っているハルがいた。
「ハル……」
「小春様。いらっしゃいませ」
声が、少しだけ途切れた。
小春は一瞬、言葉を失った。
けれど、すぐに笑顔を作った。
「こんにちは。……今日は、調子どう?」
「……正常、です」
ハルはそう答えた。
小春は晴臣を見た。
晴臣は、何も言わずに小さく首を振った。
大丈夫ではない。
でも、ハルの前で悲しい顔ばかりしているわけにもいかなかった。
小春はハルのそばに座った。
「ねえ、ハル。覚えてる? 鎌倉で会ったときのこと」
ハルは、しばらく考えた。
「……鎌倉」
「そう。風鈴を作ったの。晴臣くんが、すごく恥ずかしそうにしてた日」
「おい。何で俺の話なんだよ」
晴臣が口を挟む。
小春は笑った。
「だって、面白かったんだもん」
ハルの頭部が、少し傾いた。
「……風鈴」
「うん。ハルの風鈴、かわいかったよね」
ハルは、ゆっくりとうなずいた。
「……また、作りたいですね」
小春は、唇をかんだ。
「うん。また一緒に作ろう」
それ以上は、言葉にできなかった。
小春は、そっとハルの手に触れた。
「ハル。晴臣くんのこと、よろしくね」
「……はい」
「それから、また私とも遊んでね」
「……はい。ぜひ」
小春は、うつむいた。
涙がこぼれそうだった。
晴臣は、そんな小春の肩にそっと手を置いた。
二人とも、ハルに気づかれないように、静かに涙をぬぐった。
*
移行当日。
白い照明に照らされた部屋に、ハルが横たわっていた。
旧型ボディの白い外装。
黒い関節。
長い年月を共に過ごしてきた身体。
そのそばに、晴臣と小春が立っていた。
技術者が最終確認を行う。
「記憶データの読み取りを開始します」
画面に、ハルの記録が次々と表示された。
《晴臣様との思い出》
《高尾山》
《キャンプ》
《書道》
《鎌倉》
《京都》
《クリスマス》
そして。
《最優先保存》
《晴臣様は、私の大切な家族です》
晴臣は、画面から目を離せなかった。
「……全部、頼む」
「可能な限り、保存を試みます」
「頼むよ……」
晴臣は、ハルの手を握った。
いつもは冷たく、硬い手。
何度も自分の手を引いてくれた手。
何度も自分の涙をぬぐってくれた手。
「……ハル」
返事はなかった。
「俺、待ってるからな」
晴臣は、ハルの手をそっと握り直した。
「また一緒に出かけよう。山にも行こう。キャンプもする。お前が描いた変な絵も、いっぱい増やそう」
涙が頬を伝った。
「だから……」
声が震えた。
「また、俺に『おはようございます』って言ってくれよ」
技術者が、脚の関節から小さなネジを取り外した。
「こちらの部品ですが、新型ボディにはそのまま取り付けられません。記念品として保管する形でよろしいでしょうか」
晴臣は首を振った。
「……いや」
ネジを見つめた。
「使えるようにしてくれ」
「しかし、規格が異なりますので……」
「機能部品として難しいなら、外側に残してくれ。見えるところに」
晴臣は、ネジをそっと手に載せた。
「こいつは、ハルが初めて山に行ったときにもらった、大事な部品なんだ。森で壊れたときも、このネジに助けられた」
晴臣は、涙をぬぐった。
「ハルが歩いてきた時間の一部なんだよ」
技術者は、静かにうなずいた。
「……わかりました。新しい脚の関節部分に、記念部品として取り付けられるよう設計します」
晴臣は、小さく頭を下げた。
「……ありがとう」
技術者の声が響いた。
「記憶データの読み取りを終了します」
画面が切り替わる。
「新型ボディへの移行を開始します」
機械の動作音が、静かな部屋に響き始めた。
晴臣は、目を閉じた。
小春が、その手を握った。
そして、二人は祈るように、ただそこに立っていた。
《移行処理を開始します》
画面の文字が変わる。
《……》
その先を、晴臣は見ることができなかった。
*
移行処理は完了した。
けれど、新しい身体で再び稼働するまでには、長い調整と検証が必要だった。
記憶データの確認も、慎重に進められた。
晴臣は何度も技術開発部に足を運び、ハルの状態を確認した。
そして、二年が過ぎた。
*
春の午後。
窓から、やわらかな日差しが差し込んでいた。
リビングには、小さな赤ちゃんの泣き声が響いている。
「晴臣くん、ちょっと抱っこして!」
小春が笑いながら声をかけた。
「えっ、俺!?」
晴臣は、ぎこちなく両腕を差し出した。
「お前の子どもだろ!」
「わかってるけど、まだ怖いんだよ!」
「父親でしょ!」
「父親になったばっかりなんだよ!」
小春は笑いながら、赤ちゃんを晴臣の腕に預けた。
晴臣は、恐る恐る赤ちゃんを抱いた。
小さな手。
ふにゃふにゃの頬。
ぎゅっと握られた指。
「……ちっちゃいな」
晴臣は、赤ちゃんの顔をのぞき込んだ。
「……俺に似てる?」
「うん。そっくり」
小春が笑った。
「目元とか、晴臣くんにそっくりだよ」
「……そうか」
晴臣は、照れくさそうに笑った。
それから、赤ちゃんの小さな手を見つめた。
「……ハルにも、見せてやりたかったなぁ」
「そうね」
小春は、静かにうなずいた。
「あいつ、こういうの見たら、すぐ記録するんだ。こんなにかわいい赤ちゃんだぞ。きっと記録しまくるぞ」
「ふふっ。そうね」
晴臣は、赤ちゃんを抱く腕にそっと力を込めた。
「……ハルに、抱っこさせてやりたかったなぁ」
最後の言葉は、かすかに震えていた。
小春は何も言わず、晴臣のそばに寄り添った。
そのとき。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
「宅配かな? 俺が出るから、小春、代わりに抱っこしてて」
「はいはい」
小春が赤ちゃんを受け取った、その瞬間。
「ふぇぇぇっ!」
赤ちゃんが大きな声で泣き出した。
「はいはい、パパいますからねー」
小春は赤ちゃんをあやしながら、晴臣の後について玄関へ向かった。
晴臣がドアを開ける。
「……晴臣様」
聞き覚えのある声だった。
そこには、白いボディのロボットが立っていた。
黒い関節。
センサーの光る頭部。
そして、脚の関節には、小さなネジがひとつ残されていた。
晴臣は、息を止めたように動かなくなった。
「…………」
目の前にいるロボットを、信じられないというように見つめる。
「……ハル?」
ロボットは、ゆっくりと首を傾けた。
「はい。ハルです」
その声を聞いた瞬間、晴臣の目に涙が浮かんだ。
「……お前……」
それ以上、言葉が出てこなかった。
二年間、何度も思い出した声だった。
もう一度聞きたいと、ずっと願っていた声だった。
「……っ、お前……!」
晴臣は顔をくしゃくしゃにして、笑った。
「……おかえり、ハル」
「ただいま戻りました、晴臣様」
ハルは、いつもと変わらない声で答えた。
そのやり取りを、小春は涙ぐみながら見つめていた。
ハルのセンサーが、小春の腕の中へと向けられた。
「……そちらのお子様は?」
晴臣は涙をぬぐいながら笑った。
「そうだよ。俺と小春の子どもだ」
ハルは、赤ちゃんをじっと見つめた。
小さな手。
柔らかな頬。
眠たそうに閉じられた目。
やがて、ハルはゆっくりと両腕を差し出した。
「……抱っこしても、よろしいでしょうか」
晴臣は、一瞬、息をのんだ。
それから、小春に目を向けた。
小春は涙をぬぐい、笑顔でうなずいた。
「もちろん」
ハルは、慎重に赤ちゃんを抱き上げた。
白い腕の中に、小さな命が収まる。
赤ちゃんは一度、声を上げた。
ハルのセンサーが、静かに光った。
「……こんにちは」
ハルは、赤ちゃんに向かって語りかけた。
「私は、ハルです」
赤ちゃんは、ハルの頭部をじっと見つめていた。
そして、小さな手を伸ばし、ハルの指を握った。
ハルは、その手を見つめた。
しばらくして、穏やかな声で言った。
「……晴臣様に、そっくりですね」
小春が、口元を押さえた。
晴臣は、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「……だろ?」
その声には、もう涙が混じっていた。
ハルは赤ちゃんを抱いたまま、晴臣を見た。
「晴臣様」
「……ん?」
「この子にも、たくさんの思い出を作ってあげてくださいね」
晴臣は、ゆっくりとうなずいた。
「ああ」
そして、ハルの肩に手を置いた。
「お前も一緒にな」
ハルは、赤ちゃんを見つめた。
小さな手が、まだハルの指を握っている。
その手を、ハルはそっと包み込んだ。
窓の外では、春の風が吹いていた。
どこか遠くで、風鈴のような音が聞こえた気がした。
ハルは、静かに記録した。
《新しい家族》
《晴臣様と小春様のお子様》
《初めて抱っこしました》
そして、最後に。
《本日の幸福度:とても高い》
ハルは、赤ちゃんを抱いたまま、穏やかに立っていた。
その脚には、あの日からずっと、小さなネジが残されていた。
葉流風あやめ 作




