第九十九話 手が分からない 改正版
## 第九十九話 手が分からない
最初に戻ったのは、痛みではなかった。
音だった。
雨が、天幕の布を叩いている。
細かく。
途切れずに。
どこかで金属の盆が鳴った。
誰かが咳をした。
靴底が濡れた床を擦る。
消毒液の匂い。
血の匂い。
海水の匂い。
濡れた毛布の重さ。
なおは目を開けた。
天井は白くなかった。
薄い灰色の布。
梁に吊られた灯り。
光が、ときどき揺れている。
仮設の処置所だった。
左腕には管が入っていた。
胸には何かが貼られている。
腹の下に、鈍い痛みがある。
身体は重い。
でも、死ぬ寸前の重さではなかった。
処置されている。
管がある。
灯りがある。
人の足音がある。
誰かが自分を、まだ死体として扱っていない。
なおは、それを理解した。
だから、暴れなかった。
叫ばなかった。
起き上がろうとも、まだしなかった。
息を吸う。
浅い。
吐く。
痛む。
それでも、吸えている。
自分は、今すぐ死なない。
その程度には冷静だった。
だから最初に口にした言葉も、紙ではなかった。
「めぐみは」
声は、掠れていた。
自分の声に聞こえなかった。
近くで椅子が軋んだ。
えりがいた。
濡れた髪を後ろでまとめ、肩に救急用の毛布をかけている。
目の下に影がある。
眠っていない顔だった。
「起きたか」
「めぐみは」
えりは答えなかった。
それだけで、なおは分かった。
答えられないのではない。
答えない。
えりは、そういう顔をしていた。
「確認したい」
「今は無理だ」
「見たのか」
「何を」
「めぐみを」
えりの目がわずかに動いた。
なおは見逃さなかった。
人間は、嘘をつく前に小さく動く。
戦場で覚えた。
取調室ではない。
でも、ここも似たような場所だった。
答えを隠す人間と、答えを奪おうとする人間がいる。
「見たんだな」
「今は、あんたの処置中だ」
「見たんだな」
「寝てろ」
「生きてるのか」
えりは黙った。
なおは、天幕の揺れる光を見た。
心拍が少し速くなる。
管の先で、透明な液が落ちている。
一滴。
一滴。
一滴。
時間を刻むように。
「死亡か」
「決めるな」
「なら生きてるのか」
「飛びつくな」
なおは目を細めた。
その返しで、さらに分かった。
死亡とは言わない。
生存とも言わない。
どちらにも行かせない。
なおの中で、何かが静かに軋んだ。
「確認だけでいい」
「確認したらどうする」
「行く」
「行けない」
「行く」
「立てない」
「立てる」
「立てるふりはできるだろうな」
えりの声は低かった。
「でも、戻ってこない」
なおは返事をしなかった。
えりは、なおの右手を見た。
毛布の上に置かれている。
手首から先は包帯で太くなっていた。
なおも、右手を見た。
そこにある。
あるのに、遠い。
自分の身体の末端ではなく、置き忘れた道具のようだった。
なおは指を動かそうとした。
動かしたつもりだった。
何も返ってこない。
動いたのか。
動いていないのか。
分からない。
右手の感覚が、来ない。
毛布の重さも。
包帯の締めつけも。
温度も。
何も来ない。
「手が」
なおは言った。
「分からない」
えりは短く答えた。
「見えてる」
「見えてるだけだ」
なおはもう一度、右手に命令した。
動け。
人差し指。
動け。
何も分からない。
めぐみの血の熱は覚えている。
護岸で頬にかかった赤い熱。
腕の中で軽くなった身体。
それなのに、自分の指先の温度は分からない。
なおは、右手を見続けた。
その手で、めぐみを地下へ押し込んだ。
その手で、白い光の中から彼女を生きる側へ投げた。
その手で、外海の護岸で彼女を抱いた。
その手で、今度こそ連れ戻すはずだった。
なのに、手が分からない。
「確認しに行く」
「無理だ」
「無理でも行く」
「十歩で倒れる」
「倒れても行く」
「五歩目で私が倒す」
なおは、えりを見た。
えりは本気だった。
必要なら本当に倒す。
縛る。
眠らせる。
止める。
死なせないためなら、それをやる目だった。
「俺は、行ける」
なおは静かに言った。
叫ばなかった。
強がりでもなかった。
これまで、そうしてきた男の声だった。
骨が折れても動いた。
血を吐いても立った。
低体温で意識が切れても歩いた。
人が無理だと言う場所を、何度も越えてきた。
自分が完遂すると決めた時だけ、なおは奇跡のひとつくらい起こせる男だった。
えりも、それを知っていた。
知っているから、簡単に笑わなかった。
「知ってる」
えりは言った。
「だから止めてる」
「なら、どけ」
「どかない」
「めぐみを確認する」
「それは確認じゃない」
「何だ」
「逃げ道だ」
なおの目が止まった。
えりは続けた。
「死んでいたら、自分も終わっていい。生きていたら、身体を壊してでも行っていい。どっちの答えでも、あんたは自分を許す気がない」
なおは黙った。
「確認したいんじゃない」
えりの声は、刃のように薄かった。
「現実を見る形をしたまま、現実から逃げたいだけだ」
雨の音が強くなった。
天幕の布が揺れる。
なおは目を伏せた。
違う、と言いたかった。
だが、違わなかった。
めぐみが死んでいたら。
自分が帰る理由はなくなる。
生きていたら。
今すぐ行かなければならない。
どちらにしても、なおは自分の身体を見なくて済む。
右手が分からないことを。
立てないことを。
守るための手が、守れなくなっていることを。
見なくて済む。
めぐみの確認にすがれば、自分の崩壊を見ずに済む。
それを、えりは見抜いていた。
「確認しないと」
なおは言った。
「俺は、生きていていい理由がない」
えりの顔が、わずかに硬くなった。
なおは続けた。
「めぐみを生かしたなら、生きていていい」
声が低くなる。
「めぐみが死んだなら、俺が生き残った理由はない」
「理由がないと生きられないのか」
「生き残った理由が要る」
「誰に許されるために」
なおは答えなかった。
誰に。
めぐみに。
健二に。
死んだ人間に。
奈良の掲示板に。
旧南第三の子どもたちに。
自分が押し込んだすべての人間に。
答えは多すぎた。
だから、何も言えなかった。
「実証が欲しいんだな」
えりが言った。
「生き抜いていいっていう、証拠が」
なおは目を閉じた。
図星だった。
慰めはいらない。
大丈夫もいらない。
信じろもいらない。
必要なのは、実証だった。
めぐみが息をしている。
自分の手がまだ動く。
名前がまだ消えていない。
帰る道が、一本だけでも残っている。
それがなければ、なおは自分がここにいることを許せない。
「めぐみを確認する」
なおは、もう一度言った。
「それがないと、俺は動けない」
「違う」
えりは即座に切った。
「それがあるから、あんたは壊れる」
なおは目を開けた。
「何」
「今、めぐみの答えを渡したら、あんたは自分の身体を見ない」
「……」
「死んでると言えば壊れる。生きてると言えば走る。どっちでも死ぬ」
えりは、なおの右手を見た。
「だから、今見るのはめぐみじゃない」
「何を見る」
「手だ」
なおは、右手を見た。
包帯。
毛布。
自分のものではないような指。
「めぐみを確認したいなら、確認に行ける身体を作れ」
「時間がない」
「ある」
「ない」
「処置中の人間が、時間を決めるな」
えりの声が、初めて少し荒くなった。
「死にかけた人間は、時間の計算が下手になる」
なおは、黙った。
えりは椅子を少し引いた。
衛生兵を呼ぶ。
若い男が近づいてきた。
手袋をつけている。
小さなライト。
綿球。
金属のピンセット。
温度を確かめる小さな容器。
戦場の道具ではない。
敵を倒すための道具でもない。
人を戻す道具だった。
「触ります」
衛生兵が言った。
なおはうなずいた。
綿球が包帯の隙間から指先に当てられた。
「分かりますか」
なおは右手を見た。
見えている。
触られているはずだ。
でも、遠い。
「分からない」
次に、冷たい金属が当てられた。
「これは」
「……見れば分かる」
「見ないで」
えりが言った。
なおは目を閉じた。
金属が当たる。
当たっているはずだ。
冷たいはずだ。
分からない。
「分からない」
衛生兵は短く記録した。
右手指先、温度感覚低下。
ペン先が紙を走る音がした。
なおは、その音を聞いた。
以前なら、その音だけで身体が強張ったかもしれない。
だが今は違った。
紙ではない。
これは判決ではない。
処置の記録だ。
自分を死んだ欄へ置くためではなく、戻すための記録。
なおは、そう理解しようとした。
理解しなければ、また紙に呑まれる。
「指を動かしてください」
衛生兵が言った。
なおは目を開けた。
右手を見る。
人差し指。
動け。
何も起きない。
動け。
動け。
動け。
胸の傷が痛む。
息が浅くなる。
視界の端が白く濁る。
えりが言った。
「全身でやるな」
「指だ」
「今、肩まで動いてる」
なおは歯を噛んだ。
指一本のために、全身が戦っていた。
黒崎を追った時より。
外海の護岸で殴った時より。
ずっと小さい戦いだった。
それなのに、負けそうだった。
「もう一回」
なおが言った。
衛生兵がえりを見る。
えりは短くうなずいた。
「一回だけ」
なおは息を吐いた。
吸う。
吐く。
めぐみの呼吸を思い出した。
帰ろう、と言った声。
血の混じった息。
なお、と呼んだ唇。
確認したい。
今すぐ見たい。
生きているのか。
死んでいるのか。
確かめたい。
けれど、その答えに飛びつけば、自分は崩れる。
えりの言葉が、胸に残っていた。
現実を見る形をして、現実から逃げるな。
なおは、右手を見た。
分からない手。
守るために使ってきた手。
めぐみを押し込んだ手。
今、命令を返してこない手。
なおは、声に出さずに命じた。
戻れ。
確認に行くために。
戻れ。
生き残る理由を、誰かに貰うためではなく。
自分で取りに行くために。
戻れ。
健二に背負わせないために。
戻れ。
俺の手なら。
俺がやるなら。
奇跡のひとつくらい。
右手の人差し指が、わずかに震えた。
ほんの少し。
包帯の上からでは、見落としそうなほどだった。
でも、えりは見た。
衛生兵も見た。
なおだけが、分からなかった。
「動いた」
えりが言った。
なおは右手を見た。
「嘘だ」
「動いた」
「分からない」
「動いた」
衛生兵が紙に書いた。
右示指、微細反応あり。
その一行を聞いて、なおは目を閉じた。
死亡確認ではない。
行方不明でもない。
めぐみの答えでもない。
ただ、自分の手の反応。
小さすぎる実証。
それでも、なおを死んだ側へ押さない一行だった。
まだ動く。
まだ戻る余地がある。
まだ、確認に行ける身体を作れるかもしれない。
えりは、机の上に置かれていた濡れたタオルを畳み直した。
それから言った。
「今日はここまで」
「めぐみは」
「今日は手だ」
「確認を」
「明日も手だ」
なおは目を開けた。
えりを見た。
えりは、逃げなかった。
「めぐみを見たいなら、見るための身体を戻せ」
「……」
「答えに飛びつくな。飛びついたら、あんたはまた落ちる」
なおは、右手を見た。
まだ分からない。
でも、動いたと誰かが言った。
記録にも残った。
それだけを、今夜は持つしかなかった。
「健二には」
なおは言った。
「俺の紙を渡すな」
えりは少しだけ黙った。
「弟だろ」
「だからだ」
なおの声は弱かった。
でも、そこだけは揺れなかった。
「健二には、旧南第三がある」
「……」
「あいつは、子どもを見てる。記録を残してる。名前を待ってる」
なおは、浅く息を吸った。
「俺の後始末まで背負わせるな」
えりは何も言わなかった。
なおは続けた。
「俺がやる」
「その手で?」
「この手で」
「分からない手で?」
「分かるようにする」
えりは、ほんの少しだけ息を吐いた。
「兵士だな」
「それが仕事だ」
「知ってる」
「兵士だ」
「なら命令だ」
えりは言った。
「生きろ」
慰めではなかった。
許しでもなかった。
任務の継続命令だった。
なおは、右手を見続けた。
めぐみの生死は、まだ分からない。
確認はまだ許されない。
生き抜いていい理由も、まだ手の中にない。
それでも、右手の指は一度だけ震えた。
なおには、その感覚すらなかった。
けれど、えりが見た。
衛生兵が書いた。
右示指、微細反応あり。
紙ではなく。
言葉でもなく。
めぐみの答えでもなく。
自分の身体が返してきた、小さな実証。
なおは、かすれた声で言った。
「明日もやる」
えりは椅子に座り直した。
「やれ」
短い返事だった。
なおは目を閉じた。
めぐみを確認できない夜が続く。
それは、死亡より苦しい。
生存より残酷だった。
それでも今夜、なおに許された確認はひとつだけだった。
右手の指が、まだ完全には死んでいないこと。
それだけだった。
それが、今夜なおに起こせた、たったひとつの奇跡だった。




