第百話 二つの病院 改正版
## 第百話 二つの病院
薄い膜のような器具が、めぐみの首筋へ触れた。
冷たさはなかった。
体温に合わせて温められている。
そのことが、かえって怖かった。
東佐賀病院の処置室には、機械の駆動音がほとんどない。
めぐみの顔の横で、半透明の画面だけが淡く光っていた。
画面には、呼吸の波形が流れている。
吸う。
止まる。
吐く。
めぐみの呼吸に合わせて、白い線が上下する。
その下に、処置とは関係のない二行が表示されていた。
聖マリア病院。
真柴 直樹。生存。意識あり。
朝、えりが見せた医療連絡票と同じ内容だった。
めぐみは、それから何度も画面を見た。
文字は変わらない。
生存。
意識あり。
海へ落ちた直樹を、めぐみは最後まで見ていた。
波の間から身体が見えなくなっても、目を逸らさなかった。
誰かが助けたところは見ていない。
岸へ上がったところも知らない。
だから、画面に名前があっても、まだ身体のどこかが信じていなかった。
喉の左右には、反応の差を測るための小さな電極が貼られている。
その奥には、手術でつながれた神経誘導導管があった。
傷ついた神経が、もう一度声帯へ届くための細い道だった。
末安 えりは、処置台の横でガムを噛んでいた。
噛む速度がいつもより速い。
白衣のポケットは空だった。
煙草もライターも、東佐賀病院の入口で預けてある。
「末安さん」
技師が画面の端を指した。
「初回刺激の記録は、院内サーバーと研究管理部へ同時に保存されます。
外部解析を利用する場合は――」
えりが画面へ身を乗り出した。
三つの選択欄が並んでいた。
院内治療記録。
研究利用。
外部機関共有。
「院内だけ」
「ですが、この症例は再建医療部でも――」
「本人に聞いて」
技師がめぐみを見る。
めぐみは右手を持ち上げ、人差し指で院内治療記録だけを指した。
「分かりました」
研究利用と外部共有の表示が消えた。
えりは、消えたことを確かめてから処置台へ向き直った。
「痛かったら、右手」
めぐみはうなずいた。
「怖かったら、顔に出す」
めぐみは右手を上げかけた。
えりがその手首を軽く押し戻す。
「それは痛い時」
めぐみが眉を寄せた。
「そう。それでいい」
えりはガムを舌で頬の内側へ移した。
「我慢したら止めるから」
めぐみの口元がわずかに動いた。
えりは何も言わなかった。
処置台の上で、めぐみは天井を見た。
白い天井だった。
何も描かれていない。
声が戻ったら、何を言うのか。
医師から何度も聞かれた。
最初に呼びたい人はいますか。
最初に伝えたい言葉はありますか。
めぐみは、どちらにも答えなかった。
今は声がない。
だから、答えずにいられる。
声が戻れば、その逃げ道がなくなる。
直樹が生きている。
また会えるかもしれない。
その時、自分は何を言うのか。
何もなかったように笑うのか。
先に傷の具合を尋ねるのか。
また、いつもの言葉を置くのか。
大丈夫。
心配しないで。
あなたのせいじゃない。
どれも口にしたことがある。
どれも嘘ではなかった。
けれど、その言葉を先に置くたび、その後ろにあったものが出られなくなった。
どうして一人で行ったの。
どうして戻ってきても、何も話さなかったの。
どうしていつも、自分がいなくなる方を先に選ぶの。
直樹本人に聞きたいことがあった。
傷ついた直樹へ向けてはいけないと思い、飲み込んできた言葉だった。
生きていると知った今も、消えてはいない。
「始めます」
技師が言った。
「最初は、ご本人の意思と関係なく声帯が反応することがあります。
驚いても、無理に止めようとしないでください」
めぐみは目を閉じた。
首筋の器具が、わずかに沈む。
一度目の刺激が入った。
喉の奥で、何かが跳ねた。
めぐみの右手が処置台の縁をつかむ。
痛みではない。
長く動かなかった場所へ、突然、別の身体から命令が届いたようだった。
声帯が閉じる。
吐き出していた空気が、喉の奥で一度だけ震えた。
音にはならなかった。
めぐみは目を開ける。
えりが見ている。
頑張れとは言わない。
かわいそうな顔もしない。
「続ける?」
めぐみはうなずいた。
技師が刺激値を下げ、間隔を調整する。
二度目の刺激が入った。
喉が震えた。
今度は、めぐみの唇も動いた。
大丈夫。
その形を作りかけて、止まる。
唇を一度閉じる。
別の言葉を探すように、舌先が上の歯の裏へ近づいた。
声にならない息が漏れる。
「……ぁ」
短い。
掠れてもいない。
音になる前に消えた空気だった。
それでも、えりの顎から動きが消えた。
めぐみは画面を見る。
真柴直樹。
生存。
意識あり。
唇をもう一度動かす。
今度は「だ」でも「へ」でもない。
舌先が上顎へ触れる。
な。
息だけが、その形を通った。
続く音は出なかった。
めぐみは目を閉じた。
えりは口を挟まなかった。
ただ、画面の端に再び現れていた自動転送予約を、指で消した。
*
聖マリア病院の治療室では、直樹の右腕が固定されていた。
肘から先を包む白い補助具が、手首と五本の指に沿って伸びている。
頭皮には薄い電極網が貼られていた。
脳が指を動かそうとした時に生じる信号を読み取り、その信号を右腕の筋肉と
神経へ送り直す装置だった。
直樹は右手を、身体の外側へ置いていた。
治療台の端。
視界の下。
顔を動かさなければ見えない位置だった。
左肘のそばには、赤い非常停止板が固定されている。
その手前に、一枚の連絡票が置かれていた。
東佐賀病院。
宮崎めぐみ。生存。意識あり。
直樹は連絡票へ触れていない。
折り畳まれていた紙を看護師が開き、そこへ置いてから、
位置も角度も変わっていなかった。
だが、文字は読んでいた。
撃たれためぐみを抱き上げた時、身体から力が抜けていくのを感じた。
呼びかけても、目は開かなかった。
自分が海へ落ちる直前まで、めぐみが再び動くことはなかった。
あの場所から、誰が運んだのか。
どこで血を止めたのか。
連絡票には書かれていない。
生存。
意識あり。
それだけだった。
治療台の右側へ、車輪の音が近づいた。
松隈先生は、車椅子を直樹の肩の横で止めた。
大きな眼鏡が照明を白く反射する。
白い襟の下には、神父の黒い服が見えた。
「怖いかい」
直樹は答えなかった。
技師が右手の固定具を調整する。
金属ではない。軽い樹脂と繊維でできている。
それでも、指を一本ずつ捕まえられているように見えた。
松隈先生は右手ではなく、直樹の顔を見ていた。
「動かなくなるのがじゃない」
眼鏡を指で押し上げる。
「動くようになるのが」
直樹の目が、松隈先生へ向いた。
ほんの一瞬だった。
「当たりか」
松隈先生は笑わなかった。
直樹は視線を戻した。
右手が動けば、できることは増える。
銃の引き金を引く。
弾倉を交換する。
刃物を持ち替える。
手首を押さえる。
指を折る。
頸部を固定する。
人間の身体は、どこへ力を加えれば崩れるのか。
右手は知っている。
考えるより先に動けるほど、覚えている。
直樹は包帯の下に残る感覚を探した。
痛みはない。
指がそこにあるという輪郭だけが、遠くに浮いている。
技師が操作画面を開いた。
「試験中に通常と異なる運動パターンが出た場合、外部解析機関の既存データと
照合できます。照合を許可しますか」
画面に三つの選択欄が現れた。
院内治療記録。
研究利用。
外部機関共有。
直樹の左手が動いた。
人差し指で、院内治療記録だけを押す。
「外には出さない、でよろしいですか」
「ああ」
技師が研究利用と外部共有を解除した。
松隈先生は連絡票へ目を落とした。
「宮崎に会った時も、その手を隠すのか」
直樹の呼吸が止まった。
胸部の監視装置が拾い、波形が一段細くなる。
直樹は右手を治療台の外側へ押そうとした。
固定具が小さく鳴った。
松隈先生はそれ以上言わなかった。
直樹が右手を治したい理由を、直樹自身はまだ決めていない。
戦えるようになるためではない。
そう言い切れるほど、身体から兵士の動きは抜けていない。
誰かを守るため。
その言葉にも慣れすぎている。
守ると言えば、何をしても許されるように使ってきた。
治った手を、何に使うのか。
答えはなかった。
ただ、宮崎という名前を聞いた時、右手をさらに遠ざけようとした。
その事実だけが残った。
「準備できました」
技師が言った。
「まず、右手を開く動作を読み取ります。実際に動かなくても構いません。頭の中で、手のひらを開くところをイメージしてください」
直樹は右手を開こうとした。
開いた手。
何も握っていない手。
指の間に空気が通る形。
それを思い浮かべる。
装置の画面に線が走った。
補助具の親指が動く。
人差し指が続く。
しかし、指は外側へ開かなかった。
親指が内側へ潜り込む。
人差し指と中指が、何かを挟む幅で止まる。
薬指と小指が締まった。
手首が、わずかに内側へ返りかける。
開く動きではない。
相手の手をつかみ、逃がさない形だった。
「停止します」
技師が操作盤へ手を伸ばす。
補助具がさらに閉じた。
右腕が固定台を軋ませる。
直樹の左手が動いた。
赤い非常停止板を叩く。
短い電子音。
補助具が止まった。
治療室から駆動音が消える。
右手は、何かをつかむ形のまま固まっていた。
技師が画面を確認する。
「開く信号に、複数の運動パターンが重なっています。筋緊張だけではなく、
記憶された動作が混線している可能性があります」
直樹は答えなかった。
閉じた右手を見ている。
松隈先生が車椅子を少し前へ進めた。
右手には触れない。
直樹の左手と、その先にある非常停止板を見た。
「止めたのは、お前だな」
直樹が顔を上げる。
「手が勝手に動いたんじゃろ」
松隈先生は眼鏡を押し上げた。
「でも、止める方も動いた」
直樹は左手を見る。
非常停止板の上に、まだ指が触れている。
右手は開かなかった。
それでも、自分で止めた。
直樹は左手を板から離した。
*
旧南第三で暖房の停止に気づいたのは、浅野 悠太だった。
健二が受領帳を閉じた時、悠太だけが壁際の放熱器を見ていた。
「音、ない」
健二も耳を澄ませた。
古い教室では、いつも何かが鳴っている。
風に揺れる仮補修の窓。
廊下のきしみ。
遠くで回る発電機。
配管を流れる温水。
その一つが消えていた。
健二は放熱器へ手を近づけた。
ぬるい。
熱が完全に消える前に気づいたらしい。
「いつからだ」
悠太は首を傾け、壁へ耳を向ける。
「さっき」
「どのくらい前?」
「帳面、閉じる前」
健二は時計を見た。
「五分以内か」
教室の後ろで、工具箱の蓋が鳴った。
笹原蓮がモンキーレンチを抜き取る。
「蓮」
呼ばれた瞬間、蓮は工具を背中へ回した。
「何もしてねえ」
「まだな」
健二は工具箱を見た。
「それ持って、どこ行く?」
「暖房室」
「何を見る?」
「止まったとこ」
「止まったとこが分からんから、今から見るんだろ」
蓮の口が止まった。
「……じゃあ、一緒に来いよ」
「走るな。先に燃料を見る」
教室の中央では、高瀬陸が帳面を広げていた。
「健二さん」
「何だ」
「数字、合わない」
陸の指が、燃料欄を上から下へなぞる。
「届いたのが二百四十リットル。使ったのが百六十三。主タンクの残りが四十一」
「三十六、足りねえな」
「昨日、予備に十二移した」
陸が紙の端を指した。
健二の字だった。
急いで書いたため、「予備十二」の最後が欄からはみ出している。
「じゃあ、分からんのは二十四か」
「うん」
「漏れか、記録漏れか」
「まだ分からない」
「分からんでいい。分けて書いとけ」
中原悠斗が教室の人数を数えていた。
一。
二。
三。
視線が一人ずつ止まる。
八人いることを確かめると、後ろに重ねてある毛布へ向かおうとした。
「悠斗、まだ動かすな」
「でも、ここ冷える」
「冷える。だから先に、どの部屋を暖められるか見る」
「止まったままだったら?」
「その時に動く」
悠斗は毛布の前で止まった。
「俺がみんなを――」
「一人で七人分持つな」
健二は帳面を陸へ渡した。
「陸が燃料。悠太が音。蓮は道具を持って待つ。悠斗は人数と、
すぐ動けないやつを確認」
「すぐ動けないやつ?」
「靴がない。毛布を離せない。足が痛い。理由は何でもいい。抱えて運ぶ前に聞け」
悠斗は教室を見回した。
視線が、美月の右足と、胸元の名前札を押さえている颯太の手で止まる。
健二の腰につけた小型通信機が鳴った。
『健二さん』
瀬田ハルの声だった。
『九州医療連絡局から呼び出しです。二つの病院の件で』
健二の手が止まった。
「二つ?」
『聖マリア病院と、東佐賀病院です』
教室の中で、陸が顔を上げた。
蓮はレンチを背中へ隠したまま、健二を見ている。
悠斗は、次の指示を待っていた。
健二は通信機を口元へ上げた。
「三分で行きます」
通信を切る。
外には、健二のトラックが止まっていた。
鍵は上着のポケットにある。
エンジンをかければ、旧南第三から出られる。
九州へ向かう道が、すべて通じているわけではない。
今すぐ走ったところで、兄の治療にも、めぐみさんの処置にも間に合わない。
それでも、トラックがあるだけで、身体はそちらへ向かおうとした。
健二は蓮を見る。
「レンチ持って待ってろ」
「取り上げねえのか」
「使う場所なら使う。勝手に回したら取り上げる」
「子どもだから触るなって言うんだろ」
「言わねえよ。壊れる場所を先に見ろって言ってんだ」
蓮はレンチを握り直した。
健二は陸へ顎を向ける。
「数字、もう一回。予備と主タンクを分けろ」
「分かった」
「悠太。音が戻ったら、すぐ通信」
悠太は放熱器へ耳を向けた。
「悠斗」
「うん」
「全員を動かすな。動ける準備だけ」
悠斗は一度だけ教室を見回し、うなずいた。
健二は旧事務所へ向かった。
*
旧事務所の一角には、長距離用の無線機が置かれていた。
トラックから外したHF機。
太い電源線。
壁際に並ぶ蓄電池。
窓の隙間を通り、屋上へ伸びるアンテナ線。
瀬田ハルが周波数調整つまみに手を添えている。
雑音の中に、遠い声が混ざっていた。
『こちら九州医療連絡局。旧南第三、応答願います』
健二は椅子へ座らず、マイクを取った。
「こちら旧南第三。真柴 健二です」
『真柴 直樹氏、聖マリア病院にて神経接続試験を開始しました。
容体は安定しています』
雑音。
声が一度途切れる。
『宮崎めぐみ氏、東佐賀病院にて反回神経刺激を開始。
こちらも容体は安定しています』
健二はマイクを強く握った。
「二人とも、意識は?」
『あります』
「本人たちは、互いのことを?」
『両名へ、生存と現在の収容先を通知済みです』
健二の肩から力が抜けかけた。
すぐに息を吸い直す。
「処置は予定どおりですか」
『現時点では』
「分かりました」
聞きたいことは、まだあった。
兄の右手は動いたのか。
めぐみさんの声は出たのか。
二人は名前を呼んだのか。
だが、無線の向こうにいるのは医療連絡の担当者だった。
答えられることと、答えられないことがある。
健二は一度息を吐いた。
「次の定時連絡、同じ周波数でお願いします」
『了解しました』
交信が切れた。
雑音だけが残る。
瀬田ハルが健二を見る。
「病院へ行きますか」
健二は窓の外を見た。
旧校舎の一階。
教室の窓の中で、小さな影が動いている。
廊下側で、レンチの金属だけが一度光った。
「行っても、できることないですから」
健二はマイクを元の位置へ戻した。
「こっちで、できることやります」
*
健二が教室へ戻ると、蓮は約束どおり待っていた。
レンチも持ったままだった。
「遅え」
「九州だぞ。電波にも都合があんだよ」
「直樹さん、どうだった」
悠斗が聞いた。
「治療は始まった。起きてる」
「めぐみさんは?」
千紘の声だった。
「めぐみさんも起きてる。二人とも、お互いが生きてることは聞いてる」
教室の空気が動いた。
誰も大きな声は出さなかった。
悠太が放熱器から耳を離す。
颯太は名前札を押さえたまま、健二を見ている。
「戻ってくる?」
千紘が尋ねた。
健二はすぐには答えなかった。
「戻ってこられるようにしてる」
「いつ?」
「それは分からん」
帰ってくると約束することもできた。
だが、約束を守るために無理をする人間を、健二は知っていた。
「二人が戻れた時に、こっちがなくなってたら困るだろ」
健二は止まった放熱器へ手を当てた。
さっきより冷えている。
「だから、俺たちはこっちを残す」
蓮がレンチを持ち上げた。
「どこから見る」
健二は暖房室へ続く廊下を見た。
その前に、教室の後ろへ積まれた毛布を見る。
八人。
暖房停止から十二分。
燃料の不明分、二十四リットル。
確認することは、一つではない。
「順番からだ」
健二は工具箱を持ち上げた。
放熱器は冷えたままだった。
八人分の毛布が、教室の後ろで待っていた。




