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第百一話 八人分の火 改正版

## 第百一話 八人分の火


 暖房室へ入る前に、健二は蓮の持っていたモンキーレンチを下ろさせた。


「まだ使うなよ」


「持ってるだけだろ」


「肩に乗せて歩くな。配管に当てる」


 蓮は舌打ちし、レンチを身体の横へ下げた。


 暖房室には、冷えた油と錆の匂いが残っている。


 壁際の燃焼確認窓は暗い。


 送油ポンプも止まっていた。


 健二は懐中電灯を口にくわえ、主燃料管に沿って手を動かした。


 燃料槽から来た管は、ポンプの手前で二つに分かれている。


 一つは校舎全体へ向かう主系統。


 もう一つは、旧校舎の一階だけを暖める非常用の枝管だった。


 主系統の圧力計は、針が下限近くまで落ちている。


 配管の下に油は落ちていない。


 それでも、どこかで燃料が抜けている可能性はあった。


「蓮。そこ照らして」


「どこ」


「赤い札の下」


 蓮が作業灯を向ける。


 枝管の途中に、古い点検弁があった。


 健二は弁の根元へ指を当てた。


 湿ってはいない。


 錆が指先へ付いただけだった。


「これ回す?」


「閉めるだけ。俺がやる」


「何で」


「今は、何が止まったか分からんから」


 健二は弁の根元をもう一度確認した。


 蓮へ手を出す。


「レンチ」


 蓮はすぐには渡さなかった。


「俺が幅合わせる」


「合わせるだけな」


 蓮は弁の六角部へレンチを当てた。


 開き幅を狭める。


 一度外し、もう一度当てる。


 わずかに隙間が残っていた。


「まだ広い」


「入ってるだろ」


「力かけたら角をなめる」


 蓮は口を曲げ、調整ねじを一つ分戻した。


 今度は動かなかった。


「これ」


「それでいい」


 健二がレンチを受け取る。


 弁本体を片手で支え、ゆっくり閉じた。


 無理な抵抗はない。


 主系統を切り離す。


 次に、非常用燃料槽の弁を開いた。


「陸。残量」


 高瀬陸が帳面と計量棒の記録を見比べる。


「非常用は十一・八リットル」


「一教室なら?」


「まだ分からない。動かして測る」


「正解」


 健二は校舎全体へ向かう循環弁を閉じ、八人がいる教室だけを残した。


 放熱器一台。


 設定温度は最低。


 燃焼段も一段目。


「悠太」


 浅野悠太は暖房室の入口に立ち、壁の中へ耳を向けていた。


「音が戻ったら言って」


 悠太がうなずく。


 健二は送油ポンプの電源を入れた。


 低い駆動音。


 圧力計の針が少しだけ上がる。


 一度止める。


 配管の継ぎ目を確認する。


 漏れはない。


 次にバーナーを起動した。


 一度目は点火しなかった。


 短い空転音のあと、装置が止まる。


 蓮がレンチを握り直した。


「壊れた?」


「燃料が先まで来てない」


 健二は十五秒待った。


 もう一度、点火装置を押す。


 小さな着火音。


 燃焼確認窓の奥に、細い青い火が現れた。


 悠太が顔を上げる。


「来た」


「何が?」


「水」


 壁の向こうで、温水が配管へ流れ始めている。


 少し遅れて、金属が一度だけ鳴った。


 蓮が青い火を見る。


「俺が直した?」


「まだ止まった理由は分かってない」


「じゃあ何」


「朝まで考える時間を買った」


 健二は時計を見た。


 午後六時五十八分。


「陸。十五分測ってくれ」


「分かった」


「その間、誰も弁に触るな」


 蓮がレンチを背中へ隠しかける。


「特にお前」


「触らねえよ」


     *


「三時間四十二分」


 暖房室から教室へ戻る途中、陸が言った。


 健二は足を止めた。


「何が?」


「非常用燃料がなくなるまで」


 陸は帳面を胸の高さへ持ち上げた。


 燃料の残量。


 十五分間で減った量。


 現在の低出力運転。


 小さな数字が、鉛筆で隙間なく書き込まれている。


「今、七時十三分」


 陸が廊下の時計を見る。


「十時五十五分に止まる」


「俺が眠くなる前に終わるな」


 健二は腕を組んだ。


「もっと弱くしたら?」


 蓮が言った。


「これ以上落としたら、火が安定しない」


「消えたら、またつければいいだろ」


「寝てる間に消えたら誰が気づく」


 蓮は答えず、レンチを肩へ乗せた。


「だから肩に乗せるなって」


 蓮がレンチを下ろす。


 悠太は二人の会話を聞かず、壁を見ていた。


 低い振動。


 細い水音。


 音は戻っている。


 だが、朝までは残らない。


「教室戻るぞ」


 健二は窓の外を見た。


 ガラスの向こうは暗い。


 枯れた枝が風に揺れ、仮補修した窓枠をかすかに鳴らしていた。


「立ってても暖かくならん」


     *


 教室の黒板の右端に、二つの病院名が残っていた。


 聖マリア病院――真柴直樹。


 東佐賀病院――宮崎めぐみ。


 上には、健二の字で「九州・定時連絡」と書かれている。


 最初に九州と無線がつながった夜、次の連絡時刻を忘れないように書いたものだった。


 八人は、めぐみに会ったことがない。


 外海で何が起きたのかも、直樹とどんな関係なのかも知らない。


 ただ、健二が無線へ出るたび、


 兄ちゃんは。


 めぐみさんは。


 と、必ず二人の状態を確認する。


 その呼び方を聞いているうちに、子どもたちも名前を覚えた。


 千紘が一度だけ、黒板を指して尋ねたことがある。


 誰ですか。


 健二は、兄ちゃんと一緒にいた人、とだけ答えた。


 それ以上は説明していない。


 教室では、放熱器に近い床へ寝具が集められていた。


 中原悠斗が、毛布と敷布を一組ずつ並べている。


 放熱器に近い場所へ小さな寝具。


 その隣に、もう一つ。


 少し離れた場所へ大きな敷布。


 廊下側には、薄い寝具が一組だけ置かれていた。


「これ、誰のだ?」


 健二が聞いた。


「俺」


 悠斗は顔を上げずに答えた。


「寒いぞ、そこ」


「寝ないから」


「何すんの」


「入口にいる」


 悠斗は教室の扉を見る。


「誰か来るかもしれない」


 廊下には誰もいない。


 足音もない。


 それでも、悠斗は扉から離れようとしなかった。


 放熱器の前には、蓮の工具箱が置かれている。


 寝具より先に、一番暖かい場所を取っていた。


「蓮」


「何」


「工具を暖めてどうすんだ」


「冷えると使いにくい」


「金属だぞ。冷えるに決まってるだろ」


「なくなるよりいい」


「誰が持ってくんだよ」


 蓮は答えなかった。


 工具箱の留め金へ手を置く。


 健二が近づくと、指先に力が入った。


 健二は箱へ触れず、その横を通った。


 宮原美月は窓側へ毛布を運んでいる。


「美月。それ自分の?」


「うん」


「何で窓側」


「ここでいい」


 毛布を床へ置いた時、右膝がわずかに内側へ入った。


 美月はすぐに膝を伸ばした。


 佐伯千紘は、自分の毛布を村瀬花音の肩へ巻いていた。


 花音は毛布の端を持たず、千紘の袖をつまんでいる。


 千紘の肩には、薄い布が一枚あるだけだった。


 小野寺颯太は、寝具についた名前札を両手で押さえている。


 移動の途中で、糸が片方外れていた。


 札が斜めに垂れている。


 健二は教室を見回した。


 悠斗は入口。


 蓮は工具箱。


 千紘は自分の毛布を持っていない。


 美月は窓際。


 陸は帳面を見ながら、敷布の間隔を測っている。


「二十七分四十五秒」


 陸が言った。


「何が?」


「暖房の近くを使える時間。一人ずつ替わる」


「夜中に四十五秒まで測るのか」


「同じにするなら必要」


「全員寝不足になるだろ」


「でも平等」


 陸は真顔だった。


 悠太は放熱器の正面へ近づかず、教室の後ろに立っている。


 温水が流れるたび、薄い金属板が小さく鳴った。


 その音がするたびに、肩が上がる。


 健二は放熱器を見る。


 天井を見る。


 古い教室は広かった。


 窓は四枚。


 天井も高い。


 廊下側の扉の下から、冷気が細く流れ込んでいる。


 一台の放熱器で、部屋全体を暖めようとしていた。


 これでは、燃料を増やしても熱が逃げる。


「部屋を小さくするぞ」


 八人の視線が集まった。


 蓮が眉を寄せる。


「壁壊すの?」


「小さくするのに、何で壊すんだよ」


「じゃあ、どうすんだ」


「中にもう一個作る」


     *


 体育倉庫から、古い体操マットを運んだ。


 舞台袖に残っていた暗幕。


 軽い仕切り布。


 折り畳み式の長机。


 ロープ。


 洗濯ばさみ。


 使われていない毛布。


 健二は放熱器の前を、机一台分だけ空けた。


 布が熱源へ触れない距離を取る。


 長机を横へ倒さず、壁のように並べる。


 脚をロープで結び、体操マットで外側から支える。


 重い暗幕は、風が入る窓側の壁にだけ使った。


 天井には軽い仕切り布を渡す。


 入口は一か所。


 完全には閉じず、床との間に手の幅ほど隙間を残した。


 暖める空気を減らしながら、熱と人が逃げる道も残す。


「悠斗」


「何」


「マットと毛布、どっち見る」


「みんなを――」


「二つから選べ」


 悠斗は教室を見回した。


「マット」


「倒れそうなのがあったら言って」


 次に美月を見る。


「美月。床の冷たい場所と、入口の布。どっちがいい」


「床」


「座って見ていい。替えたくなったら言え」


「私も運べる」


「運ぶのは足が痛くないやつがやる」


 美月は右膝を見る。


「……少しだけ」


「何が」


「痛い」


「分かった。マットの上から見て」


 美月はそれ以上言わず、最初のマットへ座った。


「蓮。工具とロープ、どっち」


「両方」


「一個」


「ロープ」


「俺の横」


「一人でできる」


「暗幕が落ちたら、下に八人いる」


 蓮は工具箱を持ち上げた。


 放熱器の前から、自分で動かした。


「悠太は音。中と外で変わったら言って」


「近くに行かなくていい?」


「聞きやすいとこでいい」


 悠太は教室の後ろへ行き、壁へ耳を近づけた。


「陸は燃料」


「十分ごと?」


「最初は十五分。減り方が変わったら書いて」


 陸が帳面へ時刻を書く。


 花音は千紘の袖をつまんだまま、床に落ちていた白いチョークを見ている。


「花音」


 健二は入口の布を持ち上げた。


「風が入ってるとこ、見つけたら印つけて」


 花音は返事をしなかった。


 千紘の袖も離さない。


「千紘は、自分の毛布を中へ持っていって」


「花音のは?」


「そこにある」


「一緒に運びます」


「じゃあ、千紘のを先に」


 千紘は花音を見た。


 花音は袖をつまんだままだった。


 千紘は二人分の毛布へ手を伸ばしかけ、先に自分の一枚だけを持った。


 花音はその後ろを歩いた。


 颯太は外れかけた名前札を押さえている。


「颯太。そのまま持って入っていいぞ」


「取らない?」


「取らない」


「直さない?」


「今はな。寝る場所が決まってから」


 颯太は札を握ったまま、小さな空間を見た。


     *


 机の脚へ、蓮がロープを回した。


 両手で強く引く。


 机が床を擦って動いた。


「強すぎ」


 健二が言った。


「緩いと倒れる」


「締めすぎても寄る」


「じゃあ、どこまで」


 健二はロープと机の間へ指を入れた。


「指一本」


「まだ締められる」


「机が動かないなら、そこで止める」


 蓮は結び目を見た。


 もう一度引こうとした手が止まる。


 指を一本入れる。


 机を横から押す。


 動かない。


 蓮はロープから手を離した。


「これでいい?」


「いい」


 反対側では、美月がマットの継ぎ目へ指を差し込んでいた。


「健二さん」


「どうした」


「ここ、冷たい」


 マットとマットの間に、指二本分の隙間がある。


 窓側から入った冷気が、床を伝っていた。


 健二は余った毛布を細く丸め、隙間へ押し込んだ。


「足は?」


「まだ少し痛い」


「伸ばせるように空ける」


 前にあった寝具をずらす。


 美月は、大丈夫とは言わなかった。


 花音は入口の布の前にしゃがんでいた。


 裾が揺れるたび、チョークで床へ短い印をつける。


 一つ。


 扉の下。


 もう一つ。


 机と暗幕の間。


 健二が手を当てると、冷気が細く入っていた。


 丸めた布を置く。


 ただし、入口の下だけは全部塞がない。


 花音はその隙間を見たまま、チョークを握っていた。


 千紘は何度も花音を振り返っている。


 自分の毛布は、まだ腕の中にあった。


 颯太は小さな空間の入口で止まった。


「どこにする」


 健二が聞く。


 颯太は放熱器に近い場所ではなく、暗幕の内側にある隅を指した。


「ここ」


「そこに置ける」


 颯太は寝具を運ぶ。


 名前札は、まだ両手で持ったままだった。


 悠斗は立てたマットを一枚ずつ押していた。


 倒れないか確認している。


 その間にも、教室の扉へ何度も目を向けた。


 健二は何も言わなかった。


     *


 小さな部屋ができた。


 中へ入ると、天井が近い。


 声が少しだけこもる。


 放熱器から出た熱が、広い教室へ逃げず、布の内側へ残り始めていた。


 陸が温度計を見る。


「一・四度上がった」


「何分」


「九分十一秒」


「燃料は?」


「次の十五分で見る」


 健二は入口の隙間から外へ出た。


 広い教室には冷気が残っている。


 内側との違いは、もう手で分かった。


「健二さん」


 悠太が呼んだ。


 放熱器の方を見ていない。


 床へ顔を向けている。


「何だ」


「違う音」


 健二も耳を澄ませた。


 温水の流れる音は続いている。


 その下。


 ごん。


 ごん。


 ごん。


 床の奥で、金属を短く叩く音が三度続いた。


 間が空く。


 もう一度。


 ごん。


 ごん。


 ごん。


 蓮が工具箱へ手を伸ばす。


「下?」


「触るな」


「まだ何もしてねえ」


「だから言ってる」


 陸が時計を見る。


 次の音までの秒数を数え始める。


 悠太は床へ耳を近づけた。


 どこへ続いているのか探そうとはしない。


 ただ、同じ音が繰り返すのを聞いている。


「四十二秒」


 陸が言った。


 また三度鳴った。


「暖房室の方」


 悠太が廊下の奥を指した。


 それだけだった。


 健二は通信機を取った。


「ハルさん」


『はい』


「当直の人を教室へ回してもらえますか。暖房室の床下を確認します」


『分かりました。私も行きます』


「教室に一人残してください」


『すぐ手配します』


 健二は八人を見る。


「暖房を一度止める」


 陸が帳面から顔を上げた。


「時間、減る」


「下を開ける間だけ」


 蓮が工具箱を持ち上げる。


「俺も行く」


「点検口の外まで」


「中は?」


「俺だけ」


「子どもだから?」


「一人しか通れない場所に二人入ったら、片方が倒れた時に出せない」


 蓮は黙った。


「工具を選ぶ人間は上に要る」


「何が要るか分かんねえだろ」


「だから見てから言う」


 健二は悠斗を見る。


「当直の人が来るまで、出口を塞がないでくれ」


「みんなを見ればいい?」


「出口だけ。人は数えなくていい」


 悠斗はすぐにはうなずかなかった。


 それでも、入口の布を巻き上げ、外からも開けられる位置へ留めた。


     *


 暖房室へ入ると、健二は最初にバーナーを停止した。


 青い火が消える。


 次に送油ポンプを止める。


 主弁と非常用燃料弁を閉じ、圧力計の針が下がるのを待った。


 換気口を開く。


 外扉も固定する。


 冷たい空気が室内へ流れ込んだ。


 瀬田ハルが、簡易ガス検知器と作業用ハーネスを持ってきた。


「教室は?」


「当直の職員が入りました。暖房を止めることも説明しています」


 健二はうなずいた。


「点検口を開けます。俺が下りたら、三分ごとに声をかけてください」


「分かりました」


「返事がなかったら、ロープを引く。中へは入らないでください」


 ハルがハーネスの留め具を確認する。


 蓮は工具箱を持って、床に引かれた線の外側へ立っていた。


 陸は時計。


 悠太は暖房室の入口。


 点検口の近くには来させない。


 換気を始めて五分後、健二は検知器を床近くへ下ろした。


 燃料蒸気。


 酸素濃度。


 警告は出ない。


 点検口の周囲へ体重をかけ、床板の沈みを確認する。


 錆びた取っ手を、数センチだけ持ち上げた。


 冷たい空気が細く上がった。


 油と湿ったコンクリートの匂い。


 隙間から検知器を入れる。


 もう一度、表示を待つ。


「どう?」


 蓮が聞いた。


「まだ待つ」


「鳴ってないだろ」


「鳴らないのを確認してる」


 数値は危険域に入らなかった。


 健二は点検口をゆっくり開けた。


 下には、一人分の狭い階段がある。


 コンクリートの壁。


 太い配管。


 奥に、小型の送油ポンプ。


 作業灯を下へ向ける。


 健二はハーネスを締め直した。


 ロープの端は、暖房室の柱へ固定してある。


 ハルが結び目を二度確認した。


「下ります」


「はい」


 健二は階段へ足をかけた。


     *


 地下には、古い補助燃料槽が残っていた。


 円筒形のタンク。


 側面の塗装は剥がれ、容量を示す数字だけが読める。


 主燃料管から枝分かれした細い管が、補助槽へつながっていた。


 切替弁の表示は、主槽側を向いている。


 しかし、実際の弁軸は途中で止まっていた。


 主槽から来た燃料の一部が、使われていない補助槽へ流れ込んでいたらしい。


 補助槽の目盛りを照らす。


 入っている量は、二十リットルを少し超えている。


 帳面から消えていた二十四リットルと、ほぼ一致する。


「健二さん」


 点検口の上から陸の声がした。


「三分」


「異常なし」


 健二は切替弁の根元を見る。


 弁軸には赤茶色の錆が浮いている。


 中間位置で固着し、燃料の道を二つに分けていた。


 地下で動かすのは危険だった。


 弁を回した瞬間に軸が折れれば、逃げ場がない。


「上がる」


 健二はそれだけ伝えた。


 階段を戻る。


 ハルがロープを緩める。


 床へ上がってから、健二は点検口を閉じた。


「何だった」


 蓮が尋ねる。


「燃料はなくなってない。下の予備槽に入ってた」


「盗られてない?」


「道を間違えてただけ」


「戻せる?」


「弁が折れなければ」


 健二は配管図を床へ広げた。


 切替弁の位置。


 補助槽から主系統へ戻す迂回管。


 操作する弁は二つあった。


 一つは、誤って流れ込む枝管を閉じる弁。


 もう一つは、補助槽から燃料を戻す手動弁。


「蓮」


「何」


「こっちの弁に合うレンチ」


 蓮は図面を一度見た。


 工具箱を開く。


 モンキーレンチへ手を伸ばしかけ、止める。


 奥から固定幅のスパナを二本出した。


「こっちの方が角、潰れない」


「何番」


「二十四」


 健二が弁へ当てる。


 隙間はない。


「合ってる」


 蓮はもう一本を持ち上げた。


「こっちは?」


「弁本体を支える」


 燃料弁はすべて閉じている。


 ポンプも停止したまま。


 圧力計の針も下がっている。


 健二は弁本体へ一本を掛け、蓮にもう一本を持たせた。


「回すのは、印まで」


「四分の一?」


「そう。俺が支える。固かったら止めろ」


 蓮は両手を掛けた。


 すぐには力を入れない。


 健二を見る。


「いいぞ」


 蓮がゆっくり押す。


 錆びた弁が小さく鳴った。


 少し動く。


 蓮の腕に力が入る。


「まだ?」


「印を見ろ」


 蓮は弁の先にある赤い線を見る。


 もう少しだけ押した。


 印が重なる。


 手を止める。


「ここ」


「離していい」


「まだ回る」


「そこが開く位置だ」


 蓮はスパナから手を離した。


 健二は弁軸と根元を確認する。


 亀裂はない。


 漏れもない。


 もう一方の枝管は、健二が自分で閉じた。


「全員、扉の外へ」


 四人が暖房室を出る。


 ハルが人数を確認する。


 健二だけが入口横の操作盤に残った。


 送油ポンプを短く動かす。


 圧力計の針が上がる。


 異音はない。


 一度停止。


 配管と弁を確認する。


 漏れはない。


 再びポンプを動かした。


 地下から、低い駆動音が上がってくる。


 先ほどのような三回の打撃音は出ない。


「悠太」


 健二が呼ぶ。


 悠太は廊下の壁へ耳を向けていた。


「どうだ」


「違う」


「悪い方?」


 悠太は首を横へ振る。


「ずっと同じ」


 健二は非常用燃料弁を開き、補助槽から戻る燃料を主系統へ送った。


 圧力が安定する。


 最後にバーナーを点火した。


 青い火が戻る。


 陸が時計を見た。


「七時五十六分」


「教室が温まってから、もう一回減り方を測るぞ」


「十五分?」


「十五分」


 蓮は手に残った錆を見ている。


「健二さん」


「何」


「壊してない?」


 健二は弁を見る。


 燃料は漏れていない。


 圧力も安定している。


「壊してない」


「俺が止めたから?」


「印を見たから」


 蓮は手を作業着で拭いた。


 工具箱へスパナを戻す。


 モンキーレンチだけは、まだ手に持っていた。


     *


 小さな部屋へ戻ると、内側にはわずかに熱が残っていた。


 暖房を止めていた間、当直の職員が毛布の隙間を確認していた。


 入口も塞がれていない。


 健二が放熱器へ触れる。


 温水が戻り始めている。


 陸は十五分ごとに燃料槽の目盛りを確認した。


 三回目を測り終えると、帳面へ数字を書き込む。


「午前六時四十八分まで」


「夜明けは?」


「六時十七分」


「なら持つな」


「三十一分余る」


 陸は数字の下へ二重線を引いた。


 美月はマットの上で右足を伸ばしていた。


「冷たいところは?」


「もうない」


「膝は」


 美月は少しだけ間を置いた。


「まだ痛い」


「明日見せて」


「うん」


 千紘は自分の毛布を肩へ掛けている。


 花音の毛布がずれていないか、何度も見ていた。


 一度、手を伸ばしかける。


 花音が自分で毛布の端を引いた。


 千紘の手は途中で止まった。


 それでも、花音から目は離さなかった。


 颯太は寝具へ入らず、外れかけた名前札を握っていた。


「直す?」


 健二が聞く。


「明日」


「分かった」


 颯太は札を枕元へ置かず、胸元に持ったまま横になった。


 蓮は工具箱を自分の寝具の横へ置く。


 蓋は閉めた。


 モンキーレンチだけが、箱の上に載っている。


「それ、寝返りで落とすぞ」


 健二が言った。


「落とさねえ」


「頭に当たったら痛い」


 蓮はレンチを見る。


 工具箱の中へ戻し、留め金を掛けた。


「これでいいだろ」


「俺は何も言ってない」


「言っただろ」


 悠太は横にならず、放熱器の音を聞いていた。


「悠太」


「同じ音」


「さっきから?」


「うん」


「じゃあ、寝ても聞こえる」


 悠太は毛布の中へ入った。


 七人が横になった。


 悠斗だけが、入口に立っている。


 廊下側の隙間。


 放熱器。


 七人。


 順番に見ていた。


「悠斗」


 健二が呼ぶ。


「何」


「何人寝てる」


 悠斗は中を見る。


「七人」


「寝床はいくつある」


「八つ」


「一つ空いてるな」


「俺は入口にいる」


「当直の人は廊下にいる。俺も外にいる」


「でも、二人とも動くかもしれない」


「動く時は、お前を起こす」


 悠斗は廊下を見た。


「寝てたら分からない」


「寝てる人間を起こすために、名前がある」


 健二は入口を塞がないよう、身体を横へずらした。


「悠斗って呼ぶ」


 悠斗は返事をしなかった。


 七人を見る。


 蓮の閉じた工具箱。


 胸元に名前札を持った颯太。


 毛布の端を握る花音。


 その隣で、まだ花音を見ている千紘。


 帳面を枕元へ置いた陸。


 目を閉じかけている悠太。


 足を伸ばした美月。


 悠斗は空いていた寝具へ入った。


 横になってから、もう一度中を見る。


「八人」


「いるな」


 健二は入口の布を下ろした。


 床との隙間は残した。


     *


 照明を落とすと、放熱器の低い音だけが残った。


 旧事務所の無線機から、新しい連絡は来ていない。


 健二は小さな部屋の外へ椅子を置いた。


 背中を壁へ預ける。


 暗幕の向こうで、寝具の擦れる音がした。


 誰かが咳をする。


 蓮が「狭い」と小さく文句を言う。


 陸が何か答え、千紘に静かにしてと言われる。


 しばらくすると、声が減った。


 数分後、暗幕の向こうから悠太の声がした。


「健二さん」


「何だ」


「音、ある」


 健二は放熱器へ耳を向けた。


 同じ低さで、温水が流れている。


「あるな」


 暗幕の内側で、寝具が一度だけ擦れた。


 それからは、八人の呼吸だけが残った。



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