第百二話 離す練習 改正版
## 第百二話 離す練習
東佐賀病院の処置室には、昨日と同じ匂いが残っていた。
消毒薬。
温められた樹脂。
機械の内部を流れる冷却水。
宮崎 めぐみは処置台へ仰向けになり、天井の継ぎ目を見ていた。
昨日と同じ白い線が、頭の上から足元へ伸びている。
首筋には、前日より小さな刺激器具が沿っていた。
喉の左右には、健側と損傷側の反応差を測る電極が貼られている。
器具の数は減っている。
何をされるか分かっている分だけ、怖さは増していた。
昨日、喉から漏れた音を覚えている。
音になる前の短い息。
その後に、唇が作ろうとした形も。
続きを出せば、誰かの名前になる。
めぐみは、まだその先へ行くと決めていなかった。
「今日は、意味のある音を使う方法もあります」
治療担当者が半透明の画面を処置台へ寄せた。
「身近な人の名前や、日常的に使っていた言葉の方が、呼気と口の動きを
合わせやすい場合があります」
末安 えりは、処置台の横に座っていた。
片脚を組み、口の中でガムを噛んでいる。
担当者の説明を止めず、最後まで聞いた。
それから、めぐみを見る。
「名前、使うって」
めぐみは首を横へ振った。
刺激器具が皮膚へ触れ、首筋にわずかな圧がかかる。
「じゃあ、使わない」
えりが担当者へ顔を戻した。
担当者はうなずき、画面の表示を切り替えた。
「母音から始めます。昨日と同じ『あ』です。最初は一秒を目標にします」
画面に、呼吸の波形と声帯閉鎖の補助値が表示された。
「途中で止める時は、右手を上げてください」
めぐみは右手を少し持ち上げた。
確認してから、処置台へ戻す。
「続けますか」
めぐみはうなずいた。
えりは何も言わなかった。
担当者が刺激値を確認する。
「息を吸ってください」
めぐみは鼻から空気を入れた。
肺の奥まで満たそうとはしない。
胸の端が引かれる直前で止める。
「そのまま、細く吐きます」
めぐみは息を吐いた。
画面の白い線が横へ伸びる。
「刺激を入れます」
首筋の奥で、何かが小さく跳ねた。
声帯が近づく。
吐いていた空気が、狭くなった隙間を通る。
「……ぁ」
短い音だった。
一秒にも届かなかった。
掠れているというより、空気の一部だけが音へ変わったようだった。
その音が耳へ届いた瞬間、めぐみの右手が処置台の縁をつかんだ。
白い天井の継ぎ目が消える。
水筒の蓋を回す音。
薄い色のお茶。
灰色の段差。
午後の光が当たった、細い手首。
そこで記憶は途切れた。
「宮崎さん」
担当者の声が聞こえた。
めぐみは目を開ける。
処置室の天井が戻る。
右手には力が入ったままだった。
指を開くと、手のひらに爪の跡が残っている。
えりが椅子から立ち上がった。
「痛い?」
めぐみは首を横に振る。
「息は?」
胸へ手を当てる。
浅い。
だが、苦しくはない。
めぐみは右手を水平に動かした。
続けられる。
えりは薄い記録板と専用のペンを取った。
「書く?」
めぐみは記録板を受け取った。
背もたれがゆっくり起こされる。
首筋の線を引かない角度で止まった。
白い記録面へペン先を置く。
一度止まり、二文字を書く。
学校。
めぐみは、そこから先を書かなかった。
えりは記録板をのぞき込まない。
「続ける?」
めぐみはペン先を記録面へ戻した。
学校の下へ、もう二文字を書く。
階段。
ペンが止まる。
「まだ書く?」
めぐみは首を横へ振った。
「分かった」
えりは記録板を取り上げなかった。
誰がいたのかも、いつの記憶かも聞かない。
担当者が画面を確認する。
「呼吸が落ち着くまで休みます。次は二秒を目標にしますが、
今日はここで終えても構いません」
めぐみは記録板を胸元へ置いた。
学校。
階段。
名前は書いていない。
その二つなら、まだ自分の手元に置いておけた。
*
聖マリア病院の神経治療室では、直樹の右手に白い訓練棒が握らされていた。
親指ほどの太さをした、柔らかい樹脂製の棒だった。
表面には浅い溝があり、指の圧力によって色が変わる。
真柴直樹の右前腕には、前日と同じ補助具が固定されている。
手首。
親指。
人差し指。
五本の指に沿って、細い駆動部が伸びていた。
ただし、今日は補助具の設定が違う。
「握るところまでは装置が補助します」
神経リハビリ技師が画面を指した。
「棒を保持した後、指を開く駆動は切ります。把持を解除する信号が
出たかどうかだけを測定します」
画面の隅には、補助駆動値が表示されている。
指が棒を握る。
数値が下がる。
最後には、ゼロになった。
補助具は棒を握らせる力を失っている。
それでも、訓練棒は直樹の手の中に残った。
右手自身が握っていた。
「本日の課題は、把持の解除です」
技師が説明を続ける。
「手を開こうとせず、指に入っている収縮を弱めてください」
松隈先生が、治療台の横で車椅子を止めていた。
大きな眼鏡の奥から、画面ではなく直樹の手を見ている。
「真柴」
直樹の視線が動く。
「開かんでいい」
松隈先生は訓練棒を指した。
「台へ落とせ」
直樹は返事をしなかった。
白い棒へ視線を戻す。
「始めます」
技師が言った。
「右手の力を抜いてください」
直樹の指が、棒へ食い込んだ。
圧力を示す色が濃くなる。
「把持圧が上がっています」
技師が画面を見る。
親指が内側へ入る。
薬指と小指が締まる。
力を抜く。
その言葉だけでは、身体のどこを動かせばいいのか分からない。
何もしない空白ができる。
空白ができると、身体は最も深く覚えている動きを選ぶ。
落とさない。
奪われない。
手から消える前に、握り直す。
訓練棒の色がさらに濃くなった。
「一度中止しますか」
技師が尋ねる。
直樹は首を横へ振った。
松隈先生は、棒にも画面にも触れない。
「落ちても、台の上だ」
それだけ言った。
直樹は治療台を見る。
右手の下には、厚い樹脂板がある。
棒を落としても、床までは落ちない。
跳ねても、手を伸ばせば届く。
直樹は再び右手を見る。
親指。
人差し指。
中指。
どの指も、動かそうとすると握る方へ入る。
開こうとはしない。
ただ、握り直す動きを止める。
直樹は呼吸を吐いた。
親指の付け根に、小さな震えが出る。
白い棒の表面に、冷たさを感じた。
樹脂の丸い輪郭。
浅い溝。
手のひらへ乗る、軽い重さ。
その冷たさに触れた瞬間、治療室の壁が遠のいた。
冷たい階段。
曲げた膝。
胸元をつかんでいる右手。
うまく入らない空気。
近くで、水筒の蓋が回る。
小さなコップが置かれる。
手を伸ばせば届く場所。
二段上で、誰かが腰を下ろす気配。
名前は呼ばれない。
そこで記憶は切れた。
直樹の親指が、棒の表面を滑った。
意識が治療室へ戻る。
棒が、人差し指と中指の間をゆっくり下がる。
右手が握り直そうとする。
薬指が動く。
小指が内側へ入る。
「そのまま」
松隈先生の声が届いた。
直樹は指を開こうとしなかった。
握り直さなかった。
棒が手の中を抜ける。
治療台へ落ちた。
軽い音がした。
一度だけ跳ね、その場で止まる。
直樹の指は完全には開いていない。
親指は内側を向いたままだった。
小指にも屈曲が残っている。
それでも、棒は手の中にない。
技師が画面へ顔を近づけた。
「補助駆動はゼロです」
記録をもう一度確認する。
「把持圧の低下と、親指の外側への移動を確認しました。本人の運動信号による解除です」
直樹は画面を見なかった。
治療台に横たわる棒を見ている。
落としても、そこにある。
消えてはいない。
壊れてもいない。
松隈先生が手を伸ばし、棒を拾った。
直樹へ渡さず、自分の膝へ置く。
「もう一回やるか」
直樹は右手を見る。
指の内側に、棒の感触が残っている。
すぐには答えなかった。
松隈先生も待った。
誰がいた。
何を思い出した。
そうは聞かなかった。
直樹の口がわずかに動く。
「学校」
声は低く、短かった。
松隈先生は直樹を見る。
「そうか」
それだけ答えた。
膝の上の訓練棒を持ち上げる。
「もう一回は?」
直樹は小さくうなずいた。
*
東佐賀病院では、休憩を終えためぐみが再び処置台へ横になっていた。
記録板は、右手の届く位置に置かれている。
学校。
階段。
二つの言葉が残ったままだった。
「次は二秒を目標にします」
担当者が言った。
「苦しくなったら、音を止めて構いません。息を押し出さないでください」
めぐみはうなずいた。
えりは椅子へ座らず、処置台の横に立っていた。
めぐみの右手が見える位置だった。
「始めます」
鼻から空気を入れる。
昨日より浅く。
肺の端へ痛みが届かないところまで。
細く吐く。
刺激が入る。
喉の奥が震える。
「……あ……」
一秒。
音が細くなる。
めぐみは息を強く押さなかった。
残っている空気を、そのまま通す。
二秒目。
「……ぁ」
音が切れた。
めぐみはすぐに次の息を吸えなかった。
胸の奥が細く引きつる。
右手が処置台から浮く。
えりが手を上げた。
「ここまで」
担当者が刺激を止める。
首筋の器具から圧が消えた。
めぐみは短い呼吸を二度繰り返した。
やがて、胸の動きが落ち着く。
「痛い?」
えりが聞く。
めぐみは右手の親指と人差し指を、少しだけ離した。
少し。
「今日は終わり」
えりは担当者の返事を待たなかった。
担当者も反対せず、画面の記録を保存した。
めぐみは目を閉じた。
喉の奥に、出した音の振動が残っている。
誰かを呼んだ声ではない。
誰かを安心させるための言葉でもない。
ただ、自分の身体から出た音だった。
*
聖マリア病院では、二度目の訓練棒が直樹の右手から落ちた。
一度目より短い時間だった。
直樹は拾わなかった。
東佐賀病院の記録板には、二つの言葉が残っていた。
学校。
階段。
聖マリア病院の治療台には、白い棒が横たわっていた。




