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第百三話 二段上 改正版

## 第百三話 二段上


 紙コップから、細い湯気が上がっていた。


 東佐賀病院の個室には、処置室ほど強い消毒薬の匂いはない。


 窓際の棚に置かれた花。


 洗い立てのシーツ。


 給湯器から運ばれてきた、薄いお茶の匂い。


 宮崎めぐみは、背を起こしたベッドに座っていた。


 首筋の電極は外されている。


 喉の奥には、昨日出した音の熱がまだ細く残っていた。


 末安えりは、紙コップをめぐみへ手渡さなかった。


 ベッド脇の台へ置く。


 腕を伸ばせば届く。


 今すぐ取らなくても、誰にも急かされない距離だった。


「持てる?」


 めぐみはうなずいた。


「熱いから、ゆっくり」


 えりは椅子へ座り、口に新しいガムを入れた。


 めぐみは紙コップを見た。


 薄い茶色のお茶。


 濡れた縁。


 揺れている湯気。


 ベッドの上には、昨日の記録板が残っている。


 学校。


 階段。


 その二つの言葉の横へ、紙コップの影が落ちていた。


 めぐみは右手を伸ばす。


 指先が紙へ触れる直前で止まった。


 あの日も、同じ距離だった。


     *


 冬の放課後だった。


 北校舎の窓は古く、閉めても隙間から風が入った。


 英語劇の練習は終わりに近づいていた。


 教室から、台詞を読む声が途切れ途切れに聞こえる。


 宮崎めぐみは中学三年生だった。


 左腕には台本が三冊。


 右手には、小さな金属製の水筒を持っている。


 舞台袖の立ち位置を書き直したため、指先には白いチョークの粉が残っていた。


 廊下の角へ来た時、靴底が床を擦る音がした。


 短い音だった。


 誰かが転んだような大きさではない。


 踏み出した足を、途中で引き戻したような音だった。


 めぐみは足を止めた。


 北校舎の裏階段。


 普段はほとんど使われない場所だった。


 踊り場の窓は小さく、昼間でも薄暗い。


 めぐみは台本を胸へ抱え直し、扉を開けた。


 冷たい空気が頬へ触れる。


 一段下りたところで、男子生徒の背中が見えた。


 真柴直樹だった。


 中学二年生。


 踊り場の壁へ肩を預け、身体を前へ折っている。


 右手で制服の胸元をつかんでいた。


 肩が大きく上下する。


 息を吸おうとするたび、喉の奥から細い音が漏れた。


 直樹の左手の近くに、小さな吸入器が落ちていた。


 キャップは外れている。


「なお」


 めぐみが呼ぶと、直樹は顔を壁側へ向けた。


 胸元をつかむ指に、さらに力が入る。


 めぐみは一段下りる。


 そこで止まった。


「吸った?」


 直樹は顔を上げず、一度だけうなずいた。


「何回?」


 右手の指が二本、わずかに浮いた。


 二回。


 めぐみは階段の扉を振り返った。


 ちょうど廊下を通りかかった一年生の女子生徒が、開いた扉の向こうで足を止めた。


「ごめん。松隈先生か、保健室の先生を呼んで」


 女子生徒の顔が強張る。


「人は集めなくていいから。先生だけお願い」


 女子生徒はうなずき、廊下を走り出した。


 めぐみは直樹へ向き直った。


 額に汗が浮かんでいる。


 寒い階段なのに、髪の生え際が濡れていた。


 話しかけるべきか。


 背中へ触れるべきか。


 吸入器を拾い、もう一度渡すべきか。


 すぐには決めなかった。


 直樹は、自分で二回吸った。


 先生も呼んだ。


 今できることは、直樹が呼吸を戻す場所を塞がないことだった。


 めぐみは腕に抱えていた台本を階段へ置いた。


 水筒の蓋を回す。


 金属が擦れる小さな音が、冷えた階段へ響いた。


 蓋はそのままコップになる。


 水筒を傾け、温かいお茶を注ぐ。


 めぐみは直樹の近くへコップを置いた。


 腕を伸ばせば届く。


 けれど、取らなくても追い立てられない距離。


 直樹は見なかった。


 めぐみは二段上へ戻った。


 台本を膝へ置き、階段へ腰を下ろす。


 直樹が上へ戻る道を空ける。


 近くへは行かない。


 扉からも出ていかない。


 階段には、直樹の呼吸と、遠くで続く英語劇の台詞だけが残った。


「……戻って、ください」


 直樹が言った。


 一つの言葉を出すたび、息が途切れた。


「練習、あるから」


「まだ終わってないよ」


「じゃあ……」


「台本は逃げない」


 めぐみは直樹を見なかった。


 膝の上に置いた台本の角をそろえる。


「今は、息だけでいい」


 直樹の靴が床を擦った。


 立とうとしたらしい。


 膝へ力を入れた直後、身体が元の位置へ戻った。


 めぐみは手を伸ばさなかった。


 直樹も、もう一度立とうとはしなかった。


 遠くで、下校を知らせる音楽が鳴り始める。


 コップから上がる湯気が、少しずつ薄くなった。


 めぐみは膝の上に両手を置いた。


 指先が冷えていく。


 それでも、直樹の呼吸が少しずつ長くなっていることは分かった。


 吸う音の間隔が開く。


 肩の動きが小さくなる。


 胸元をつかんでいた右手が、ようやく制服から離れた。


 床を探る。


 コップの縁へ触れる。


 指が震えていた。


 めぐみは視線を台本へ落とした。


 直樹はコップを持ち上げた。


 一口だけ飲む。


 次に吐いた息には、さっきまでなかった長さがあった。


     *


 直樹は、めぐみが二段上にいることを知っていた。


 顔は上げなかった。


 見れば、立たなければならない気がした。


 大丈夫だと言わなければならない。


 練習へ戻ってもらわなければならない。


 自分一人で歩けるところを見せなければならない。


 けれど、今はどれもできなかった。


 めぐみは名前を繰り返し呼ばなかった。


 大丈夫かとも聞かない。


 背中へ手も伸ばしてこない。


 ただ二段上にいた。


 近くに誰かがいる。


 それなのに、逃げ道は塞がれていない。


 その距離が、直樹には分からなかった。


 コップを持つ右手は、まだ震えている。


 お茶を一口飲む。


 温かさが喉を通った。


 胸の奥で引っかかっていた呼吸が、少しずつ外へ出る。


 直樹は残ったお茶を見た。


 それから、二段上へ視線を向けた。


 めぐみの顔ではなく、膝の上に置かれた手が見えた。


 指先が赤い。


 爪の横に白いチョークの粉が残っている。


 台本を押さえる指が、わずかに震えていた。


 寒いのだと、その時になって分かった。


 自分が苦しい間、めぐみも冷たい階段へ座っていた。


 直樹はコップを両手で持ち直した。


「めぐみも」


 声が掠れる。


 一度、息を吐いた。


「飲んでください」


 めぐみが振り向いた。


 直樹は目を逸らさなかった。


 まだ息は浅い。


 立つこともできない。


 それでも、めぐみの手が冷えていることは見えた。


 めぐみは少し迷い、一段だけ下りた。


 直樹からコップを受け取る。


 縁を見て、直樹が口をつけた場所とは反対側から、一口だけ飲んだ。


 お茶は少しぬるくなっていた。


「ありがとう」


 めぐみが言った。


 何に対する言葉なのか、直樹には分からなかった。


 お茶を返したことか。


 寒さに気づいたことか。


 自分から声をかけたことか。


 分からないまま、その言葉だけが胸に残った。


     *


 階段の上で、車輪の音が止まった。


「真柴」


 松隈先生の声が落ちてきた。


 直樹は反射的に立とうとした。


 膝へ手を置き、身体を持ち上げかける。


「急ぐな」


 直樹の動きが止まった。


 階段の入口に、松隈先生の車椅子があった。


 その横には、保健室の養護教諭が立っている。


 松隈先生の膝には、英語劇の台本が一冊載っていた。


 大きな眼鏡が、踊り場の窓から入る光を返している。


 養護教諭が階段を下りてきた。


 直樹の前へしゃがむ。


「吸入は二回?」


 直樹がうなずく。


 養護教諭は手首へ指を当て、呼吸の回数と顔色を確認した。


「胸の痛みは?」


 直樹は首を横へ振る。


「指先、見せて」


 直樹が左手を出す。


 養護教諭は爪の色を見た。


 次に、落ちていた吸入器を拾い、使用回数の表示を確認する。


「呼吸は戻ってきてる。すぐ立たなくていいから、もう少しここで待とう」


 直樹は答えなかった。


 養護教諭がめぐみを見る。


「知らせてくれてありがとう」


 めぐみは小さく頭を下げた。


 松隈先生は階段の上から二人を見ていた。


「宮崎」


「はい」


「水筒を忘れとる」


 めぐみは直樹の横に置かれた水筒を見る。


 慌てて取りに行こうとした。


「それも急がんでいい」


 松隈先生は二人をからかわなかった。


 直樹がなぜ隠れたのかも、めぐみが何をしていたのかも問い詰めない。


 車椅子では階段を下りられない。


 だから、二人が上がってくるまで、入口を空けて待っていた。


 しばらくして、養護教諭が立ち上がった。


「保健室へ行こう。ゆっくりでいい」


 直樹は手すりを握った。


 一段。


 息を吐く。


 もう一段。


 養護教諭が一段下から見守る。


 めぐみは先へ行かなかった。


 直樹のすぐ横にも来ない。


 二段上を歩いた。


 直樹が止まると、めぐみも止まる。


 直樹が上がると、同じだけ上がる。


 その距離のまま、三人は階段を進んだ。


 松隈先生の前まで来る。


「校門は逃げん」


 松隈先生が言った。


 次に直樹を見る。


「保健室も逃げん。ゆっくり行け」


 直樹は小さくうなずいた。


     *


 夕方には、呼吸はほとんど戻っていた。


 養護教諭から今日は運動をせず帰るよう言われ、

 直樹は鞄を持って校門へ向かった。


 めぐみも英語劇の台本を抱え、隣を歩いている。


 最初、直樹は半歩後ろにいた。


 めぐみが少しだけ歩く速度を落とした。


 直樹の歩幅とそろう。


 冬の空気は冷たかった。


 校庭の端に残った水たまりが、薄く凍っている。


「なお」


 めぐみは前を向いたまま言った。


「次から、一人で隠れないで」


 直樹はしばらく黙っていた。


「次は、待たせません」


 めぐみの足が止まった。


 直樹も止まる。


「待ったことを怒ってるんじゃない」


「では、何ですか?」


 めぐみは水筒を両手で持った。


 言いたいことはあった。


 苦しいところを見つけても、嫌いにならない。


 返事ができなくても、近くにいていい。


 弱いところを隠さなくても、隣からいなくならない。


 けれど、どの言葉も違う気がした。


 中学三年のめぐみには、まだ一つにできなかった。


「分からない」


 直樹の顔がわずかに曇る。


「でも、待たせたからじゃない」


 直樹は返事をしなかった。


 背筋を少しだけ伸ばす。


 めぐみには、その動きの意味が分からなかった。


 二人は再び歩き始めた。


 歩幅はそろっている。


 直樹の呼吸も乱れていない。


 それでも、さっきの言葉だけが、二人の間へ残った。


     *


 東佐賀病院。


 めぐみの指先が、紙コップへ触れた。


 両手で持ち上げる。


 お茶を一口飲む。


 温かさが、まだ熱の残る喉を通った。


 めぐみは記録板を引き寄せた。


 学校。


 階段。


 その下へ、新しい言葉を書く。


 そういう意味じゃなかった。


 えりが横から文字を見る。


「何が?」


 めぐみのペンが止まった。


 声がないから答えられないのではない。


 今も、あの日に言えなかったことを一つの言葉にはできなかった。


 えりは聞き直さなかった。


「冷める前に飲んで」


 めぐみは記録板を伏せた。


 もう一度、紙コップへ口をつけた。


     *


 聖マリア病院では、空の訓練用コップが直樹の右手に置かれていた。


 白く、薄い樹脂でできている。


 落としても割れない。


 右手の下には、受け台が置かれていた。


 前日の訓練では、握った棒を離した。


 今日は、握り潰さず、落とさずに持つ。


 指の力を保つのではない。


 必要な分だけ残す訓練だった。


「補助駆動を最小にします」


 神経リハビリ技師が画面を操作する。


「親指と人差し指の圧力を見ます。縁が曲がったら力を緩めてください」


 直樹の右手へコップが置かれる。


 親指が内側へ入る。


 人差し指に力が集まった。


 薄い縁が、わずかに歪む。


「力が上がっています」


 直樹はコップを見る。


 指を緩める。


 今度は手の中で傾いた。


 受け台の上へ落ちかける。


 右手首を少しだけ返す。


 親指を押し込まず、人差し指の腹で縁を支える。


 コップは傾いたまま、右手の中へ残った。


 松隈先生は車椅子の上から、その動きを見ていた。


「北校舎の裏階段か」


 直樹の指が止まった。


 コップの縁が、また少しだけ歪む。


 松隈先生は眼鏡を押し上げる。


「あそこへ呼ばれたことがある」


 直樹は答えなかった。


「宮崎もおったな」


 直樹は右手の力を緩めた。


 コップの縁が元の形へ戻る。


「階段の、二段上にいた」


 声は低かった。


 松隈先生は、それ以上聞かなかった。


「そうか」


 直樹は空のコップを見た。


 握り潰してはいない。


 落としてもいない。


 右手の中に、形を変えずに残っていた。


     *


 東佐賀病院の記録板には、


 そういう意味じゃなかった。


 と残っていた。


 聖マリア病院で、直樹は空のコップを持っていた。


 潰さず。


 落とさず。


「階段の、二段上にいた」


 その言葉のあとを、松隈先生は尋ねなかった。


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