第百四話 呼んだあと 改正版
## 第百四話 呼んだあと
東佐賀病院の発声訓練室には、四枚のカードが並べられていた。
あさ。
いえ。
みず。
そら。
白いカードに、黒い文字が二拍ずつ書かれている。
宮崎 めぐみは、文字を左から順に見た。
首筋には、前回より小さな刺激器具が沿っていた。
喉の左右には、声帯の反応差を測る電極。
鼻から入れた細い検査器具が、発声時の声帯を画面へ映している。
呼気の長さを示す白い線が、めぐみの呼吸に合わせて上下していた。
「今日は、二拍を一つの呼気につなげます」
治療担当者がカードを指した。
「発音しやすいものから選んでください。最初は文字を見ながら、
口の動きだけ確認します」
めぐみはカードへ手を伸ばさなかった。
末安 えりは、壁際の椅子に座っていた。
脚を組み、昨日と同じようにガムを噛んでいる。
担当者の説明が終わるまで、口を挟まなかった。
「こちら以外の言葉でも構いません」
担当者が続ける。
「言いたいものがあれば、記録板へ書いてください」
めぐみは膝の上に置かれた記録板を取った。
ペンを握る。
迷わず、二文字を書いた。
なお。
担当者は文字を確認した。
「ナ行は、母音だけより動きが増えます」
画面を切り替える。
舌と上の歯茎の位置が、簡単な図で示された。
「舌先を上の歯茎へ当てて、声を鼻へ通します。舌を離しながら『あ』へ移り、
呼気を切らずに唇を丸めて『お』へつなぎます」
めぐみは画面を見た。
「今の段階では、カードの言葉より難しい可能性があります。
別の言葉へ変えますか」
めぐみは首を横へ振った。
えりが記録板の文字を見る。
「じゃあ、これ」
それだけ言った。
担当者は四枚のカードを画面の横へ寄せた。
「分かりました。最初は音を出さず、舌の動きだけ確認します」
めぐみは口を閉じる。
舌先を上げた。
歯茎へ触れる。
すぐに落ちる。
「もう一度」
舌先が上がる。
今度は一秒ほど、その位置に残った。
「そこです。次は、舌を離しながら口を開きます」
めぐみは同じ動きを繰り返した。
舌を離す。
口を「あ」の形へ開く。
そこから唇を丸める。
まだ音は出さない。
ただ、二つの形を同じ息の中でつなぐ。
めぐみは、記録板の二文字を見た。
なお。
声を失う前には、何度も呼んだ。
呼ぶ必要のない時もあった。
すぐそばにいる時は、名前がなくても直樹は振り向いた。
今は、その二文字へ舌を届かせるだけで時間がかかった。
「刺激を入れます」
担当者が言った。
「最初は一拍目だけです。苦しくなったら右手を上げてください」
めぐみはうなずいた。
目を閉じる。
*
木々の間に、夜の暗さがあった。
遠くで火が揺れている。
まだ少年だった直樹の声が、自分の名前を呼んだ。
「めぐみ」
それだけが、記憶の中に残った。
*
「息を吸ってください」
めぐみは目を開けた。
鼻から空気を入れる。
胸の端が痛み出す手前で止めた。
「細く吐きながら、舌を上げます」
首筋の器具が小さく震えた。
声帯が近づく。
めぐみは舌先を歯茎へ当てた。
声を鼻へ通そうとする。
「……ぁ」
舌が先に落ちた。
ナ行にはならなかった。
音になった息だけが、口から抜ける。
めぐみはすぐに次の息を吸おうとした。
「一回、呼吸」
えりが言った。
めぐみの肩が止まる。
えりは椅子から立たない。
自分の口から、ゆっくり息を吐いてみせた。
めぐみは唇を閉じた。
鼻から短く吸う。
肩を下げる。
時間をかけて吐く。
担当者が画面を確認した。
「声帯の閉鎖はできています。舌の動きが、少し早く外れました」
めぐみは右手を膝へ置いた。
指を開く。
「続けますか」
担当者が尋ねる。
めぐみはうなずいた。
「強度は変えません。今度も一拍目だけです」
息を吸う。
舌先を上げる。
刺激が入る。
声を鼻へ通す。
「……な」
掠れた音が出た。
短かった。
舌を離した瞬間に、呼気も切れた。
めぐみの口だけが「お」の形を作る。
音は続かなかった。
担当者が刺激を止める。
「一拍目は出ています」
めぐみは画面ではなく、記録板を見た。
なお。
片方だけでは、名前にならない。
それでも、今の音は自分の喉から出た。
「呼吸が戻ったら、二拍へ進みます」
めぐみは一度うなずいた。
急いで息を吸わない。
鼻から入れる。
細く吐く。
喉の熱が引くまで待つ。
「準備はどうですか」
担当者が尋ねた。
めぐみは右手の親指を立てた。
「では、呼気を切らずに『お』へつなげます。途中で音が消えても、
無理に押し出さないでください」
めぐみは目を閉じなかった。
記録板の二文字を見る。
声を失う前の呼び方ではない。
外海から呼び戻すための叫びでもない。
今の自分の喉から出す、今の名前だった。
「始めます」
息を吸う。
舌先を上げる。
声帯が震える。
「……な……」
音が細くなる。
消える前に舌を離す。
口を開く。
残っている息を押し出さず、唇を丸める。
「……お」
二つの音の間に、わずかな揺れがあった。
滑らかではない。
声の高さも定まっていない。
それでも、同じ呼気の中に入った。
「……なお」
小さな声だった。
途中で震えた。
最後の母音は、息に近かった。
それでも、機械の音ではなかった。
めぐみの喉から出た。
担当者が画面を見る。
「二拍、連続しています」
めぐみの唇が、もう一度同じ形を作った。
息を吸おうとする。
「一回、呼吸」
えりの声が届いた。
めぐみは不満そうに眉を寄せた。
えりは眉を上げ返す。
「続けるなら、戻してから」
めぐみは口を閉じた。
鼻から息を入れる。
ゆっくり吐く。
声より先に、肩が震えた。
涙は出なかった。
ただ、右手が記録板の端を強くつかんでいた。
「今日は、ここで終わりましょう」
担当者が言った。
「二拍の連続が一度確認できています。喉と呼吸へ負担を残さない方を優先します」
めぐみは少し迷った。
それから、うなずいた。
首筋の刺激が止まる。
画面の記録は、院内治療記録として保存された。
「この結果を、ほかの施設へ伝えますか」
担当者が確認する。
めぐみは首を横へ振った。
「院内記録のままですね」
めぐみはうなずいた。
えりは何も付け加えなかった。
*
電極を外したあと、めぐみは訓練室の窓際へ移った。
記録板を膝へ置く。
えりが給湯器から紙コップに水を入れて戻ってきた。
「今日は水」
めぐみへ手渡さず、窓際の台へ置く。
腕を伸ばせば取れる距離だった。
めぐみは紙コップを持ち上げた。
一口だけ飲む。
冷たい水が、熱の残る喉を通った。
記録板へペンを置く。
なお。
書いた二文字を見つめる。
その下へ、新しい言葉を書いた。
呼んだあと。
ペン先が止まる。
会いたい。
どうして一人で決めたのか聞きたい。
抱きしめたい。
先に怒りたい。
どれを最初に出せばいいのか分からない。
どれか一つだけを選べば、残りが嘘になる気がした。
めぐみは記録板へ書いた。
分からない。
その下へ続ける。
でも、呼ぶ。
えりは文字を読んだ。
口の中のガムが一度止まる。
「今日は伝える?」
めぐみは首を横へ振った。
「分かった」
えりは、それ以上聞かなかった。
めぐみは記録板へ視線を戻した。
分からない。
でも、呼ぶ。
その下へ、もう一行だけ書き足す。
勝手に決める前に。
*
聖マリア病院の作業療法室では、折り畳まれたガーゼが訓練台に置かれていた。
真柴直樹は、右手の親指と人差し指でガーゼの端をつまんでいる。
指には細い補助具。
手首には電気刺激用の電極。
頭皮の電極網が、動作を始める前の信号を拾っていた。
右手の前には、二つの受け先がある。
一つは浅い樹脂製の受け皿。
もう一つは、作業療法士の手だった。
療法士は手のひらを上へ向け、受け皿と同じ高さに置いている。
「どちらへ置くか、選んでください」
直樹は二つを見た。
受け皿。
人間の手。
ガーゼにとっては、どちらも十センチほど先にある。
直樹の右手が、受け皿の方へ動いた。
「分かりました」
療法士は手を引かなかった。
「まずは受け皿へ置きます」
直樹は腕を前へ出す。
ガーゼがわずかに揺れる。
親指が内側へ入りすぎる。
人差し指との間で、布が強く挟まれた。
「圧力が上がっています」
療法士が画面を確認する。
「受け皿の中央まで運ばなくても構いません。縁へ触れたら離してください」
直樹は受け皿へ手を近づけた。
指を開こうとはしない。
つまむ力だけを弱める。
親指が外れる。
人差し指が遅れて離れた。
ガーゼが受け皿の縁へ落ちる。
中央には届かなかった。
それでも、受け皿の中に残った。
「移動できています」
療法士がガーゼを元の位置へ戻す。
「次も受け皿にしますか。それとも、手へ渡しますか」
直樹は療法士の手を見る。
皮膚。
指の節。
手のひらに走る線。
生きている人間の手だった。
右手の親指が、人差し指へ近づく。
「受け皿にします」
「分かりました」
療法士は手を下ろした。
その横で、松隈先生が車椅子に座っていた。
大きな眼鏡の奥から、受け皿の中にあるガーゼを見ている。
「人の方は、まだか」
直樹はガーゼを見たまま答えた。
「結果は同じです」
「物にとってはな」
松隈先生が言った。
「受け取る方には、違うかもしれん」
直樹は答えなかった。
療法士が二度目の訓練を始める。
直樹はガーゼをつまむ。
持ち上げる。
受け皿へ運ぶ。
途中で、視界の端に療法士の手が入った。
*
濡れた皮膚。
血で滑る手首。
崩れた足場の下へ落ちかける身体。
離せば落ちる。
強く握れば傷つける。
右手の中で、何かが切れた。
*
「真柴さん」
療法士の声で、作業療法室が戻る。
ガーゼは、まだ右手の中にあった。
「痛みはありますか」
直樹は首を横へ振った。
「続けますか」
「続けます」
今度も、受け皿へ置いた。
人の手は選ばなかった。
*
訓練後、担当医が直樹の右手と歩行記録を確認した。
直樹は診察台の端に座っている。
補助具は外され、右手には薄い固定帯だけが巻かれていた。
「歩行距離は伸びています」
担当医が端末を見た。
「ただし、低体温後の循環障害と右手の感覚低下が残っています。日常動作も、まだ左手への依存が大きい」
「退院の基準は」
直樹が尋ねた。
担当医が顔を上げる。
「退院日を考えているんですか」
「基準を確認したいだけです」
「一人で歩けることだけでは決まりません。着替え、食事、服薬管理、通院先。それから、退院後に滞在する場所も必要です」
「一人で移動できれば十分です」
「医療上は十分ではありません」
担当医は端末を閉じた。
「退院の話は、次の評価後です。今は訓練を続けてください」
直樹はそれ以上聞かなかった。
担当医が部屋を出る。
作業療法士も、訓練器具を持って続いた。
室内には直樹と松隈先生だけが残った。
松隈先生は、閉じた扉を見た。
「宮崎に会ったあと、どうする」
直樹の右手が膝の上で止まる。
「ここを出ます」
「どこへ」
「まだ決めていません」
「旧南第三へは戻らんのか」
直樹は答えなかった。
「宮崎とは」
「会います」
「そのあとだ」
直樹は右手を見る。
固定帯の下で、指が少しずつ閉じていく。
「俺がいない方が安全です」
松隈先生はすぐには返さなかった。
「宮崎に聞いたのか」
「聞く必要はありません」
「そうか」
車椅子の車輪が、小さく鳴る。
「なら、それは宮崎の答えじゃない」
直樹が顔を上げる。
松隈先生は、それ以上言わなかった。
直樹を説得しようとも、正しい答えを教えようともしない。
片手で車輪を回し、扉へ向かった。
「次の訓練に遅れるなよ」
それだけ残し、部屋を出た。
*
その夜。
直樹は病室のベッドへ衣服を並べていた。
退院日は決まっていない。
担当医からも、次の評価までは話を進めないと言われている。
それでも直樹は、持ち物を一つの鞄へまとめていた。
病院から支給された寝間着。
回収時に保管されていた上着。
予備の下着。
薄い端末。
真柴直樹と記載された身分証明書。
病院の貸与品は別の箱へ戻した。
使っていないタオル。
予備の歯ブラシ。
室内用の履物。
必要になれば、すぐ返せるように分ける。
右手で衣服の端を押さえ、左手で畳む。
右手の動きは遅い。
それでも、看護師を呼ばなかった。
ベッドの脇に掛けられた鞄へ、畳んだ衣服を入れる。
四年前、奈良で消えた時には、鞄を準備する時間もなかった。
自分がどこへ運ばれたのかも知らなかった。
名前も、所属も、自分で選べなかった。
福岡仁と呼ばれていた時間を、自分の意思で始めたわけではない。
今は違う。
身分証には、真柴直樹と書かれている。
行き先は決まっていなくても、自分で歩ける。
この鞄を閉じるのも、自分の手だった。
直樹はファスナーの金具を右手でつまんだ。
一度滑る。
親指と人差し指の位置を変える。
今度は持ち上がった。
右へ引く。
金属音を立て、ファスナーが閉じていく。
戻った。
めぐみが狙われた。
連れ去られた。
声を失った。
直樹の中では、その順番だけが一列に並んでいる。
奈良の後に消えていた四年間とは違う。
今度は、自分で離れる。
そうすれば、少なくとも次に起きることは止められる。
ファスナーが鞄の中央を越えた。
右手の指に力が入る。
松隈先生の声が残っていた。
宮崎に聞いたのか。
直樹は金具を引く。
数センチ進む。
なら、それは宮崎の答えじゃない。
指が止まった。
直樹は半分ほど閉じた鞄を見る。
会って、謝る。
生きていたこと。
戻れなかったこと。
救出の結果、声を失わせたこと。
そのあと自分が消えれば、めぐみが決めることは減る。
直樹は、そう考えていた。
だが、それもまた、自分が先に作った順番だった。
右手から力が抜ける。
金具を離した。
鞄は、半分だけ開いていた。
*
東佐賀病院では、消灯後の個室に廊下の光が細く入っていた。
めぐみはベッドの上で記録板を見ている。
分からない。
でも、呼ぶ。
勝手に決める前に。
その下へ、もう一度二文字を書いた。
なお。
声には出さなかった。
首筋に装置はない。
今は訓練の時間でもない。
めぐみは、唇だけを動かした。
舌先を上げる。
口を開く。
唇を丸める。
音のない名前が、口の中を通った。
喉の奥に残っていた熱が、少しだけ動く。
めぐみは一度息を吸い、ゆっくり吐いた。
記録板を伏せない。
枕元の台へ置く。
文字が自分から見える向きにした。
*
東佐賀病院の記録板には、
分からない。
でも、呼ぶ。
と残っていた。
その下には、
勝手に決める前に。
と書かれている。
聖マリア病院のベッドには、衣服を入れた鞄があった。
ファスナーは、半分だけ閉じていた。




