第百五話 名前を書く欄 改正版
## 第百五話 名前を書く欄
中原悠斗は、暖房の音で目を覚ました。
低く、途切れない音だった。
暗幕で囲った小さな部屋には、夜の熱が残っている。毛布の隙間から見える教室はまだ暗く、窓だけが薄い灰色へ変わり始めていた。
悠斗は身体を起こした。
最初に入口を見る。
暗幕は閉じている。
床との間には、昨夜残した手の幅ほどの隙間がある。
次に、寝ている子どもたちを数えた。
千紘。
その隣に花音。
右足を伸ばして眠っている美月。
閉じた工具箱へ背中を向けた蓮。
帳面を枕元に置いている陸。
顔の半分まで毛布を掛けた悠太。
胸元に名前札を置いた颯太。
七人。
悠斗はそこで止まった。
昨夜なら、そのまま入口へ立っていた。
自分は眠らない。
自分は見張る。
自分は、数える側にいる。
悠斗は、自分の胸へ手を置いた。
「八人」
小さく言った。
誰も返事をしない。
七人はまだ眠っている。
それでも、数は合っていた。
悠斗は毛布を抜け出し、暗幕を少しだけ開けた。
教室の外側には、冷たい空気が残っている。
健二は廊下の壁へ背中を預け、椅子に座ったまま眠っていた。
腕を組み、顎を胸へ落としている。
旧事務所から引いた小型無線機が、隣の机に置かれていた。
受信灯はついている。
九州から新しい連絡は来ていない。
悠斗が近づくと、健二が片目を開けた。
「何人だ」
寝起きの掠れた声だった。
悠斗は一度、暗幕の内側を見る。
「八人」
「よし」
健二は目を閉じかけた。
すぐに開く。
「暖房は」
「鳴ってる」
「それは悠太の仕事だろ」
「俺にも聞こえる」
「そりゃ便利だ」
健二は両手で顔をこすった。
椅子から立ち上がる。
腰を伸ばすと、背骨が二度鳴った。
「朝飯にするか」
*
朝食は、温めた保存粥と乾燥野菜だった。
暗幕の内側に長机を一台入れ、八人が囲む。
健二は外側で立ったまま食べていた。
「健二さんも入れば」
千紘が言った。
「俺が入ると狭い」
「一人分は空いてます」
「昨日より計算が雑だな」
健二は器を持ったまま、暗幕の隙間から中を見る。
本当に一人分ほど空いていた。
悠斗が自分の寝具を畳み、壁際へ寄せている。
「入れます」
「お前らが食い終わったらな」
「冷めるよ」
美月が言った。
健二は器から上がる湯気を見る。
「じゃあ、失礼します」
暗幕をくぐり、空いている場所へ腰を下ろした。
蓮が少し横へ詰める。
「重い」
「まだ座っただけだろ」
「床が沈んだ」
「学校ごと壊すほど太ってねえよ」
花音がマットの継ぎ目を見る。
健二の座った側だけ、わずかに沈んでいた。
花音が指を差す。
「ほら」
蓮が言った。
「マットが柔らかいんだよ」
「言い訳」
「朝から元気だな、お前」
陸は帳面を開き、放熱器の音を聞きながら時刻を書いた。
「午前六時十二分」
「燃料は?」
健二が聞く。
「予定より少し残ってる」
「どのくらい」
「夜明けから三十六分」
「昨日は三十一分じゃなかったか」
「夜の途中で設定温度を一度下げたから」
「なら、その分も書いとけ」
陸はうなずき、帳面へ数字を追加した。
放熱器の音は安定している。
温水が同じ間隔で流れている。
朝食を終える頃には、窓の外が薄く明るくなっていた。
健二が最後の粥を口へ入れた時、廊下から足音が近づいた。
「健二さん」
瀬田ハルが暗幕の前で止まる。
手には、茶色い封筒と薄い受領板を持っていた。
「第三区受入班からです」
健二は器を机へ置いた。
「誰が持ってきたんですか」
「朝の燃料便です。運転手から私が受け取りました」
「受領印は」
「ここに」
ハルが板を差し出す。
配送時刻。
搬入車両番号。
運転手の署名。
受取人として、瀬田ハルの名前が記録されている。
健二は封筒より先に受領板を見た。
「返す便は?」
「午後三時の定期便です」
「誰に渡す」
「同じ運転手ではありません。事務所で引き継ぎになります」
「受け取る部署は」
「第三区受入班の記録照合係」
健二は封筒を受け取った。
表には、
旧南第三小学校 受入責任者様。
と印刷されている。
個人名はない。
左上には、
西日本暫定政府
境界一時保護所
第三区受入班・記録照合係。
裏面には、封をした担当者の印があった。
「旧南第三の誰が開けてもいい封筒に見えるな」
「受入責任者宛ですから」
「責任者って、誰ですか」
ハルはすぐには答えなかった。
「今は、健二さんが受けています」
「受けてるのと、名前が書いてあるのは違います」
健二は封筒を裏返した。
「開けた人間も残しましょう」
ハルが受領板へ新しい欄を作る。
開封者。
真柴健二。
開封時刻。
午前六時二十一分。
健二が署名してから、封筒を開いた。
*
中には、表紙が一枚。
照合票が八枚。
返送用の封筒。
薄い説明書が入っていた。
表紙には、
保護対象者八名・生活記録照合のお願い。
と書かれている。
健二は最初から読む。
現在の受入状況。
健康状態。
既存記録との照合。
希望する移送先。
期限は三日後。
記入後は、同封の封筒で記録照合係へ返送する。
照合票には、それぞれ異なる管理番号が印刷されていた。
その下に、
氏名。
推定生年月日。
健康状態。
現在地。
移送希望先。
という欄が並んでいる。
氏名欄の横には、小さな文字で、
受入責任者記入。
と書かれていた。
健二は八枚を最後まで確認した。
裏面も見る。
本人が書く欄はなかった。
「子どもは書かない前提か」
ハルが説明書を取る。
「字を書けない子もいますから、大人が確認して記入する形式なんだと思います」
「書けない時に大人が書くのは分かります」
健二は照合票を机へ置いた。
「書ける時も大人が書く理由は?」
ハルは答えなかった。
健二は旧事務所の棚から、八人の生活記録が入った薄いファイルを持ってきた。
既存の名簿を一枚ずつ確認する。
中原悠斗。
宮原美月。
笹原蓮。
浅野悠太。
佐伯千紘。
高瀬陸。
村瀬花音。
小野寺颯太。
後から作られた資料にあった表記ではない。
旧南第三で本人たちが使い続けてきた名前だった。
健二は、照合票へすぐには書き写さなかった。
白い紙を八枚出す。
上部に、太い鉛筆で同じ言葉を書いた。
本人が書く名前。
その下へ、もう一つだけ欄を作る。
今日、自分で残したいこと。
「これは一緒に送るんですか」
ハルが聞く。
「写しを送ります」
「原本は?」
「ここに残します」
「照合係が、原本を求めるかもしれません」
「求められたら、誰が持つのか、誰が受け取るのか決めてから出します」
健二は茶色い封筒を指で叩いた。
「名前が書いてある紙を、宛名だけで渡したくない」
「返送先は書いてあります」
「部署名だけです」
健二は説明書の下部を見る。
受取担当者名は空欄だった。
「荷物でも、届け先に人がいなきゃ置いて帰りません」
「午後の便までに、照合係へ確認します」
ハルが言った。
「受取人の名前と、到着後の保管先も聞きます」
「お願いします」
健二は八枚の白紙を持ち上げた。
「その前に、本人の分を作ります」
*
暗幕の内側から寝具を出し、長机を教室の中央へ戻した。
八人が机を囲む。
机の上には、二種類の紙が並んでいた。
一つは、第三区受入班から届いた照合票。
もう一つは、健二が作った白い紙。
「こっちは、今までの記録を見ながら俺とハルさんが書く」
健二が照合票を示した。
「こっちは、自分で書く」
白い紙を指す。
蓮が紙を持ち上げた。
「テスト?」
「違う」
「字、間違えたら?」
「書き直せる」
「書きたくなかったら?」
「空欄でいい」
陸が照合票と白紙を見比べた。
「空欄のまま送る?」
「本人が書かなかった欄は、書かなかったまま写す」
「大人が埋めない?」
「埋めない」
陸は白い紙を元の位置へ戻した。
健二は鉛筆を机の中央へ置いた。
「順番は決めない。書くやつから書け」
すぐに手を伸ばす子はいなかった。
正式な書類を前にすると、教室の空気が少し固くなった。
健二は急かさない。
受入班の説明書を読み直しながら待った。
最初に鉛筆を取ったのは、千紘だった。
自分の紙を手元へ寄せる。
本人が書く名前。
佐伯千紘。
ゆっくり書いた。
最後の「紘」の糸偏を確認し、鉛筆を止める。
次の欄を見る。
今日、自分で残したいこと。
千紘は隣にいる花音を見た。
それから、花音の前に置かれた白紙を見る。
鉛筆を持った手が、わずかにそちらへ動いた。
途中で止まる。
「花音」
花音が顔を上げた。
「書く?」
花音は千紘の鉛筆を見る。
自分の紙を見る。
うなずいた。
千紘は自分の紙へ視線を戻した。
花音の名前を書かなかった。
自分の二つ目の欄へ、短く書く。
自分の毛布で寝た。
鉛筆を机の中央へ戻す。
花音が鉛筆を取った。
紙の上に手を置く。
村。
瀬。
花。
音。
一文字ずつ、形を確かめながら書いた。
千紘は隣にいたが、鉛筆へ触れなかった。
花音は二つ目の欄をしばらく見た。
言葉は書かない。
代わりに、紙の端へ一本の線を引いた。
長くはない。
途中で少し曲がり、最後に止まった。
何の線なのか、健二は聞かなかった。
花音は鉛筆を置いた。
次に陸が取る。
高瀬陸。
枠の中央へ、同じ大きさで書いた。
二つ目の欄は空けたままにする。
「何も書かないのか」
蓮が聞く。
「今日は、名前だけ」
「数字は?」
「聞かれてない」
陸は紙を机へ戻した。
蓮が鉛筆を取る。
笹原蓮。
最後の文字が少し枠からはみ出した。
「はみ出してる」
陸が言う。
「読める」
「枠がある」
「枠が小さい」
蓮は消さなかった。
二つ目の欄も空ける。
美月は右膝を伸ばしたまま、身体を机へ寄せた。
宮原美月。
書き終えると、鉛筆をすぐに置いた。
健二は膝のことを聞かなかった。
本人も、今日の欄へ痛みのことは書かなかった。
浅野悠太は、放熱器の音を一度聞いてから鉛筆を持った。
浅野悠太。
二つ目の欄へは、
今は同じ音。
とだけ書いた。
悠斗は、六枚の紙が並んだ机を見る。
まだ書いていない紙は二枚。
自分と颯太。
以前なら、颯太を先に座らせただろう。
七人が終わるまで、自分は後ろへ回った。
悠斗は自分の紙を取った。
中原悠斗。
書いた名前を一度読む。
二つ目の欄へは何も書かなかった。
鉛筆を置く前に、机の上を数える。
一。
二。
三。
七枚目に、自分の紙がある。
最後の一枚を、颯太の前へ動かした。
「書く?」
颯太は胸元の名前札を押さえていた。
札には、
小野寺颯太。
と縫い取られている。
颯太は、照合票を見る。
白い紙を見る。
名前札を見る。
「これと同じにするの?」
健二が答える。
「同じにしたいなら同じでいい」
「全部?」
「書きたいところまででいい」
颯太は椅子へ座り直した。
鉛筆を握る。
漢字は書かなかった。
ひらがなで、
そうた。
と書いた。
筆圧が強く、最後の「た」の線が太くなった。
健二は訂正しなかった。
照合票には、既存の記録として小野寺颯太と記入する。
本人の紙には、そうたと残る。
二つは同じ机の上に並んでいた。
「これでいい?」
颯太が尋ねた。
「颯太が書いたなら、それでいい」
「小野寺、ないよ」
「照合票にはある」
健二は大人が記入する書類を指した。
「こっちは今までの記録。そっちは、今日お前が書いた名前」
颯太は二枚を見る。
「どっちが本当?」
健二はすぐに答えなかった。
「どっちも、お前の紙だ」
「違うって思ったら?」
「どっちを?」
「そうた」
「その時、書き直せばいい」
「消してもいい?」
健二は教卓の引き出しを開けた。
白い消しゴムを一つ出す。
颯太の紙の横へ置いた。
「その時は、お前が消せ」
「健二さんが消すんじゃない?」
「俺の名前じゃねえからな」
颯太は消しゴムを見る。
手には取らなかった。
鉛筆で書いた「そうた」を、人差し指で一度なぞる。
黒い粉が、紙の上へ少しだけ伸びた。
*
八人が書き終えると、瀬田ハルが旧事務所の複写機を動かした。
発電機の負荷を確認し、一枚ずつ写す。
本人が書いた原本は、透明な袋へ入れた。
八枚を一緒にはしない。
一人分ずつ分ける。
袋の表には名前を書かなかった。
照合票に印刷されている管理番号だけを記した。
「何で名前を書かないの」
千紘が聞いた。
「外から見えなくていいから」
健二が答える。
「中に入ってる?」
「照合票と、本人が書いた紙の写しが一緒に入ってる」
「離れない?」
「離れないように留める」
健二は一人分ずつ、照合票と写しを重ねた。
左上を紙留めで固定する。
本人記入の原本は、旧南第三の生活記録ファイルへ残す。
誰が書いたか。
いつ書いたか。
誰が複写したか。
それぞれの記録をつける。
ハルが受入班との連絡内容を持って戻ってきた。
「受取人を確認しました」
紙へ書かれた名前を健二へ見せる。
第三区受入班・記録照合係。
担当、今村。
午後三時の定期便で第三区事務所へ搬入。
到着後は今村本人が受領し、受領番号を旧南第三へ無線で返す。
「運ぶ人は」
「燃料便の帰りではなく、記録物専用の便になりました。運転手名もここに」
「途中の引き継ぎは」
「ありません。旧南第三から第三区事務所まで一人です」
健二は運転手名と車両番号を確認した。
「なら出せます」
八つの内袋を、返送用の封筒へ入れる。
表には宛名。
第三区受入班・記録照合係。
今村様。
裏には差出人。
旧南第三小学校。
連絡担当、真柴健二。
封をする前に、健二は内容物の一覧を入れた。
照合票八枚。
本人記入紙複写八枚。
送付記録一枚。
原本保管場所。
旧南第三小学校・生活記録ファイル。
ハルが内容を確認し、署名する。
健二も署名した。
封筒を閉じる。
封の上へ、二人の印をまたぐように押した。
「これで終わり?」
蓮が聞いた。
「受領番号が戻るまで終わりじゃない」
「面倒」
「届いてない荷物を、送っただけで終わりにするな」
健二は封筒を受領箱へ入れた。
「届いたって返事が来て、初めて一個終わる」
*
午後三時。
記録物専用の車両が旧南第三へ入った。
健二は運転手の身分証と車両番号を確認する。
受領板に時刻を書く。
運転手が封筒を受け取る。
内容物には触れない。
外封筒の宛名と封印だけを確認し、受領欄へ署名した。
車両が校門を出るまで、健二は廊下の窓から見送った。
教室へ戻る。
長机の上には、八人が自分で書いた紙が残っている。
中原悠斗。
宮原美月。
笹原蓮。
浅野悠太。
佐伯千紘。
高瀬陸。
村瀬花音。
そして、ひらがなで書かれた、
そうた。
八枚の原本は、一人分ずつ透明な袋へ入っていた。
颯太の紙の横には、白い消しゴムが置かれている。
まだ使われていなかった。




