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第百六話 応援する 改正版

## 第百六話 応援する


 東佐賀病院の発声訓練室で、宮崎めぐみは五拍の言葉を書いた。


 行かないで。


 記録板の中央に、少し右上がりの文字が並んでいる。


 首筋には、声帯の閉鎖を補助する刺激器具が沿っていた。


 喉の左右には測定用の電極。


 正面の画面には、呼気の長さと声帯の動きが表示されている。


 末安えりは、壁際の椅子に座っていた。


 口の中でガムを噛んでいる。


「五拍を一度にはつなげません」


 治療担当者が記録板の文字を確認した。


「今日は最初の『い』を出します。状態を見て、口の動きだけ次へ進めます」


 めぐみは記録板を動かさなかった。


「別の短い言葉へ変えることもできます。どうしますか」


 めぐみは首を横へ振る。


 えりが記録板を見る。


「これじゃないと駄目?」


 めぐみはうなずいた。


「今、言いたい?」


 ペン先を記録板へ戻す。


 最初の言葉の下へ書いた。


 あの時も。


 少し間を空ける。


 今度は。


 えりは二行を読んだ。


 意味を尋ねなかった。


「続ける?」


 めぐみはうなずく。


「では、口の形から確認します」


 治療担当者が画面を切り替えた。


 口角を横へ引く。


 舌の中央を高くする。


 呼気を押し出さず、細く声帯へ通す。


 めぐみは説明を聞きながら、記録板を見ていた。


 行かないで。


 あの時には声があった。


 喉も傷ついていなかった。


 それでも、最初の一拍さえ出せなかった。


     *


 真柴直樹が中学三年生になった春、宮崎めぐみは高校一年生になった。


 二人が同じ校舎へ通う時間は終わっていた。


 めぐみの朝は、中学生だった頃より早くなった。


 制服も変わった。


 駅から先の道も変わった。


 帰り道は途中まで同じだったが、会える日は減っていた。


 それでも翌年、直樹が同じ高校へ入れば、同じ校門を通ることはできる。


 学年は違う。


 教室も違う。


 それでも、朝は駅まで一緒に歩ける。


 図書室で会える。


 帰り道の途中までは、また並べる。


 めぐみは、その未来を直樹へ話していなかった。


 進路室でもらった学校案内の予備を、渡すつもりで鞄へ入れていた。


 何度も持ち歩いた。


 取り出したことはなかった。


     *


 中学校の進路指導室では、少年工科学校の募集案内が机の上へ広げられていた。


 神奈川県。


 全寮制。


 教育期間。


 訓練内容。


 身体検査。


 卒業後の進路。


 紙の端には、校舎と、同じ制服で整列した生徒たちの写真が印刷されている。


 直樹は机の反対側に座っていた。


 松隈先生は車椅子を少し後ろへ引き、募集案内の全体が見えるようにした。


「身体検査は、普通の高校受験とは違う」


「はい」


「喘息の既往歴も見られる」


「診断書を取ります」


「医師が出すと言ったのか」


「来週、検査を受けます」


「検査を受けるのと、通るのは別だぞ」


「分かっています」


「入れたとしても、訓練についていける保証はない」


「ついていきます」


 答えが早かった。


 松隈先生は募集案内から手を離した。


「どうして、ここなんだ」


 直樹は紙へ目を落とした。


「技術を学べます」


「ほかには」


「身体を鍛えられます」


「普通の高校では駄目か」


「ここでなければ学べないことがあります」


「何に使う」


 直樹は答えなかった。


 北校舎の裏階段が浮かんだ。


 冷たい床。


 二段上に座っためぐみ。


 白いチョークの残った指。


 自分の呼吸が戻るまで、練習へ戻らなかった背中。


「守られる側のままでは、いたくありません」


 松隈先生の太い指が、車椅子の肘掛けを一度叩いた。


「宮崎には話したか」


「まだです」


「いつ話す」


「今日」


「決めたあとに伝えるのか」


 直樹は募集案内を見る。


「受けるのは、俺です」


「そうだ」


 松隈先生はうなずいた。


「だから、お前が決める」


 直樹が顔を上げる。


「ただ、伝えた相手が何を言うかまでは、お前が決めるな」


 直樹の顎がわずかに固くなる。


「反対されても、変えません」


「なら、話してこい」


 松隈先生は募集案内を直樹側へ押した。


「合格してからじゃないぞ」


「今日、話します」


 直樹は案内を取った。


 折れないよう、教科書の間へ差し込む。


 席を立ち、扉へ向かった。


「真柴」


 直樹が止まる。


「遠くへ行くことと、強くなることは同じじゃない」


 直樹は振り返らなかった。


「失礼します」


 扉を閉めた。


     *


 校門の外に、めぐみがいた。


 高校の制服を着ている。


 中学校のものより少し濃い色のスカート。


 肩から下げた鞄。


 以前より少し伸びた髪が、風で頬へ触れていた。


 直樹に気づくと、門柱から背中を離す。


「遅かったね」


「進路面談でした」


「知ってる。だから待ってた」


「終わる時間、分からないと伝えたのに」


「だから待ってたの」


「連絡してくれれば」


「面談中に呼び出してもらうの?」


「終わったら確認します」


「それなら、ここにいる方が早い」


 直樹は答えず、校門を出た。


 二人で歩き始める。


 めぐみは、直樹の鞄から出ている紙の角に気づいた。


 自分の高校案内とは色が違う。


「それ、何?」


 直樹は鞄から募集案内を取り出した。


 隠そうとはしなかった。


「受けようと思っています」


 めぐみは表紙を見る。


 見慣れない制服。


 整列した生徒。


 神奈川県という文字。


「どこの学校?」


「少年工科学校です」


「神奈川?」


「はい」


 めぐみの歩幅が小さくなった。


 直樹も速度を落とす。


「寮なの?」


「全寮制です」


「ずっと?」


「長期休暇には戻れます」


「夏休みとか、冬休み?」


「はい」


「それ以外は?」


「基本的には戻りません」


 直樹は募集案内を鞄へ戻した。


 めぐみには、その動作が、決まった荷物を片づけているように見えた。


「いつ決めたの」


「前から考えていました」


「いつから?」


「二年の終わり頃です」


「松隈先生には話してた?」


「相談はしていました」


「私には、今日?」


「受けると決めたのは今日です」


「でも、学校を選んだことは知ってたんだよね」


「はい」


 めぐみは前を向いた。


 腹が立った。


 知らされなかったことに。


 一人で決めてから持ってきたことに。


 同じ高校へ来る可能性を、勝手に残していた自分にも。


「どうして、そこなの」


 直樹は少し黙った。


「今のままでは、できないことが多いからです」


「何ができないの」


「何かあった時に、何もできません」


「何かって?」


「誰かが危ない時です」


「誰かって誰?」


 直樹は答えなかった。


「そのために、神奈川まで行くの?」


「ここにいても、できることは増えません」


「高校に行っても増えるよ」


「普通の高校では足りません」


 めぐみの足が止まった。


 直樹も立ち止まる。


 道の端には、春先の雨で黒くなった土が残っていた。


 遠くを自転車が一台通り過ぎる。


「何に足りないの」


 直樹は鞄の持ち手を握った。


「役に立てる人間になりたいんです」


「なおは今、誰の役にも立ってないの?」


「そういう意味ではありません」


「じゃあ、どういう意味?」


「自分で立てる人間になりたい」


「立ってるよ」


「身体の話だけじゃありません」


「私には分からない」


 直樹の口が一度閉じる。


「うまく説明できません」


 めぐみは直樹を見る。


「説明できないまま行くの?」


「説明できるようになってからでは、遅いです」


「何に?」


 直樹は答えなかった。


 募集案内の入った鞄を、身体の前へ引き寄せる。


 めぐみは自分の鞄を握った。


 中には、高校案内が入っている。


 同じ学校へ来てほしいと思いながら、渡せなかった紙だった。


「なお」


「はい」


「私……」


 行かないで。


 同じ高校へ来て。


 強くならなくても、ここにいて。


 言葉は喉の手前まで来た。


 直樹の指は、鞄の持ち手へ強くかかっている。


 目はまっすぐだった。


 だが、身体検査に通るかは分からない。


 訓練についていけるかも分からない。


 知らない土地で生活できるかも分からない。


 直樹も、怖くないわけではない。


 それでも行こうとしている。


 ここで自分が止めれば、直樹はどうするのか。


 受験をやめるかもしれない。


 行ったとしても、めぐみを置いてきたことを背負い続けるかもしれない。


 また病弱だった自分のせいで、選べなかったと思うかもしれない。


 めぐみは鞄の持ち手を握り直した。


「応援する」


 直樹の目が、わずかに開いた。


 肩から力が抜ける。


「ありがとうございます」


 めぐみは口を開いた。


 今のは、行ってほしいという意味ではない。


 そう言い直そうとした。


 直樹は募集案内を鞄から取り出し、折れていないことを確かめている。


 教科書の間へ差し込む。


 紙の端が曲がらないよう、指で整える。


 めぐみは、開いた口を閉じた。


 二人は再び歩き始めた。


     *


 分かれ道が近づいた。


 風が吹くたび、めぐみの鞄の口から高校案内の端が出た。


 直樹が気づく。


「それ、めぐみの高校ですか」


 めぐみは紙を鞄へ押し込んだ。


「うん」


「どうして持ってるんですか」


「学校に通ってる人が持ってたら変?」


「普通は、入学前に使う物です」


「必要な時もあるの」


「何に使うんですか」


 直樹が初めて聞き返した。


 めぐみは鞄を見た。


 なおに渡すつもりだった。


 同じ校門を通りたいと思っていた。


 口に出せばいい。


「もう要らなくなった」


「捨てるんですか」


「分からない」


 直樹はそれ以上聞かなかった。


 分かれ道へ着く。


 直樹が立ち止まる。


「受かったら、連絡します」


「受からなくてもして」


 直樹が少し驚いた顔をした。


「不合格でも、ですか」


「結果だけで連絡しないで」


「分かりました」


「本当に?」


「はい」


「なおの『分かりました』、分かってない時もあるから」


「今回は分かっています」


 めぐみは直樹を見る。


 聞きたかったのは、合格したかどうかだけではない。


 結果が出る前にも、ここに自分がいることを思い出してほしかった。


 だが、その続きを言葉にできなかった。


「じゃあ、また」


 直樹が言った。


「うん」


 直樹が背を向ける。


 少しずつ離れていく。


 行かないで。


 今なら、まだ届く。


 めぐみは息を吸った。


 声は出さなかった。


     *


 聖マリア病院の病室では、半分閉じた鞄がベッドの上に置かれていた。


 前夜、直樹が途中までファスナーを引いたまま残した鞄だった。


 左手で鞄の端を押さえる。


 右手の親指と人差し指で、ファスナーの金具をつまむ。


 作業療法士から出された自主練習は、鞄を開き、中から衣類を

 一枚取り出して棚へ戻すことだった。


 松隈先生は、ベッドの横で車椅子に座っている。


 直樹の手元へは触れない。


 右手で金具を引く。


 閉める時とは反対へ動かす。


 ファスナーが数センチ開いた。


 直樹の指が滑る。


 金具が止まる。


 親指の位置を変える。


 もう一度つまむ。


「宮崎は、何と言った」


 松隈先生が尋ねた。


 直樹の手が止まった。


「少年工科学校のことを話した時だ」


「応援すると」


「それだけか」


 直樹は答えなかった。


 右手で金具を引く。


 鞄がさらに開く。


 畳んだ衣服が見えた。


 受からなくてもして。


 結果だけで連絡しないで。


 過去の声が、短く戻る。


 直樹は鞄の中へ右手を入れた。


 最初に触れたのは、灰色のシャツだった。


 指を布へかける。


 親指と残りの指で挟む。


 持ち上げる。


 腕が震えた。


 シャツは軽い。


 訓練棒より柔らかい。


 人間の手ではない。


 それでも、鞄から外へ戻す動作は、入れる時より時間がかかった。


 直樹は右手でシャツを支え、左手で鞄を押さえたまま、病室の棚へ運ぶ。


 布が棚板へ触れる。


 親指を離す。


 人差し指が遅れて開く。


 灰色のシャツが棚へ残った。


「一枚戻ったな」


 松隈先生が言った。


「訓練です」


「そうかい」


 松隈先生は否定しなかった。


 直樹も、残ると決めたわけではない。


 鞄の中には、出発のために畳んだ衣服がまだ残っている。


 ファスナーも開いている。


 ただ、棚には一枚戻っていた。


     *


 東佐賀病院。


 治療担当者が、めぐみの呼吸波形を確認した。


「今日は一拍目の『い』だけ出します」


 めぐみは記録板を見る。


 行かないで。


「口角を横へ引きます。舌は上げすぎないようにしてください」


 めぐみはうなずいた。


「苦しくなったら、右手を上げてください」


 鼻から息を吸う。


 肺の端が引かれる手前で止める。


 刺激器具が動く。


 声帯が近づく。


 めぐみは口を「い」の形へ動かした。


「……い」


 細い音が出た。


 一拍だけ。


 その先へ続けようと、口を開き直す。


 喉の奥が引きつった。


 呼気の波形が急に短くなる。


「止めます」


 治療担当者が刺激を切った。


 えりが椅子から立ち上がる。


「呼吸」


 めぐみは記録板へ手を伸ばしかけた。


「先に戻す」


 えりはそれだけ言った。


 めぐみは手を膝へ戻す。


 鼻から短く吸う。


 細く吐く。


 胸の動きが落ち着くまで、二度繰り返した。


「今日はここまでにします」


 治療担当者が言った。


「一拍目の発声は確認できています。喉の引きつりが残っているので、

 続きは次回です」


 めぐみは首を横へ振りかけた。


 途中で止める。


 呼吸波形を見る。


 まだ普段の長さへ戻っていない。


 めぐみはうなずいた。


 電極を外したあと、記録板を膝へ戻す。


 行かないで。


 その下へ、強い筆圧で書いた。


 あの時、応援すると言った。


 次の行。


 行ってほしかったわけじゃない。


 ペン先が止まる。


 えりは横から文字を見た。


「今度は、それを言う?」


 めぐみはうなずいた。


 もう一行、書き足す。


 今度は、そこで終わらせない。


 えりは何も言わなかった。


 記録板を取り上げず、めぐみの膝へ残した。


     *


 東佐賀病院の記録板には、


 行ってほしかったわけじゃない。


 と残っていた。


 その下には、


 今度は、そこで終わらせない。


 と書かれている。


 聖マリア病院の棚には、灰色のシャツが一枚戻っていた。


 ベッドの上の鞄は、ファスナーを開いたままだった。


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