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第百七話 楠木の下 改正版

## 第百七話 楠木の下


 翌日の発声訓練は、声を出さないことから始まった。


 東佐賀病院の訓練室には、刺激器具が用意されていない。


 首筋の電極もない。


 机の上にあるのは、小さな鏡と記録板だけだった。


「昨日、喉に引きつりが出ています」


 治療担当者が言った。


「今日は声帯を休ませます。口の形と呼気だけ確認しましょう」


 宮崎めぐみはうなずいた。


「練習に使う言葉は、昨日までと同じで構いません。変えたい場合は、ここへ書いてください」


 記録板の上部に、


 練習する言葉。


 と書かれている。


 めぐみはペンを取った。


 なお。


 二文字を書く。


 末安えりは壁際の椅子に座り、ガムを噛んでいた。


 めぐみが書いた文字を見ても、何も言わない。


「では、声は出さずに動かします」


 治療担当者が鏡をめぐみの前へ置く。


「舌先を上の歯茎へ当てます。そのまま鼻から息を抜き、舌を離しながら口を開きます。最後に唇を丸めてください」


 めぐみは鏡を見る。


 舌先を上げる。


 口を開く。


 唇を丸める。


 音のない名前が、口の中を通っていく。


 なお。


 めぐみはもう一度動かした。


 舌。


 息。


 唇。


 鏡の中では、自分の口だけが名前を作っている。


 声はない。


 それでも、呼び方は残っていた。


 めぐみは記録板を裏返した。


 空いている面へ、新しい文字を書く。


 楠木の下。


 えりのガムが一度止まった。


 めぐみは、その文字へ指を置いた。


     *


 直樹が中学一年生、めぐみが中学二年生だった。


 宿泊を伴う課外授業は、市の青少年研修所で行われた。


 古い宿泊棟。


 木製の渡り廊下。


 広い運動場。


 その端に、大きな楠木が立っていた。


 幹は、大人が二人で腕を回しても届かないほど太かった。


 地面へ張り出した根が、土をいくつにも分けている。


 昼間は集合場所として使われ、夜の自然観察では、班ごとの確認地点になっていた。


 生徒は全員、首から木製の名前札を下げていた。


 所属する班。


 学年。


 苗字と名前。


 めぐみの札には、


 宮崎めぐみ。


 直樹の札には、


 真柴直樹。


 と書かれている。


 それでも、二人が互いを下の名前で呼ぶことはなかった。


「宮崎先輩」


「真柴くん」


 学校と同じ呼び方だった。


 めぐみが一学年上。


 直樹が一学年下。


 その距離を、二人とも変えようとはしなかった。


     *


 夜の自然観察が終わる頃、空には薄い雲がかかっていた。


 生徒たちは班ごとに宿泊棟へ戻っていく。


 遠くで教師が人数を確認する声が聞こえた。


 めぐみは楠木の根元で立ち止まった。


 首から下げていた名前札がない。


 紐だけが制服の上に残っている。


「落とした」


 地面を見る。


 懐中電灯を向ける。


 乾いた葉。


 小枝。


 楠木の根。


 昼間に踏まれた土。


 名前札は見当たらない。


「宮崎先輩」


 後ろから声がした。


 振り向く。


 直樹が立っていた。


 右手に、木製の名前札を持っている。


「これですか」


 めぐみは札を見る。


 宮崎めぐみ。


 自分の名前だった。


「どこにあったの?」


「あちらの根の間です」


「よく見つけたね」


「踏みそうになりました」


「踏まなかった?」


「踏んでいません」


「ならよかった」


 めぐみは手を出した。


 直樹は札を渡しかけて、止めた。


「紐が切れています」


 札の穴には、短く切れた紐が残っている。


 このまま首へ掛け直すことはできない。


「宿舎で結び直す」


「落とします」


「持って帰ればいいでしょ」


「また落とすかもしれません」


「そんなに信用ない?」


「紐の話です」


 直樹は制服のポケットから短い麻紐を出した。


 課外授業で道具をまとめるために配られていたものだった。


「これを使います」


「結べる?」


「結べます」


「じゃあ、お願いします」


 直樹は楠木の根元へしゃがんだ。


 懐中電灯を地面へ置く。


 名前札の穴へ、麻紐を通す。


 指の動きは遅くない。


 だが、結び目の長さを何度も確かめている。


 めぐみは隣の根へ腰を下ろした。


 宿泊棟の方から、生徒たちの声が聞こえる。


「宮崎先輩、先に戻ったと思いました」


「名前がなくなったまま戻るの、変でしょ」


「先生へ言えば、新しい物を作ってもらえます」


「今日のこれは、今日しか使わないから」


「明日も使います」


「そういう意味じゃない」


 直樹の指が止まった。


「何が違うんですか」


「分からないならいい」


「また、それですか」


 めぐみは直樹を見る。


「また?」


「分からないまま終わらせます」


「真柴くんが、細かいんだよ」


「説明しない宮崎先輩が悪いと思います」


 めぐみは少し目を開いた。


 直樹が自分から言い返すことは珍しい。


「今、私が悪いって言った?」


「説明しないことについては」


「そこだけ?」


「全部とは言っていません」


「そういう言い方、どこで覚えたの」


「普通に話しただけです」


 めぐみは笑いかけた。


 直樹は名前札へ視線を戻す。


 耳が少し赤くなっていた。


 夜の冷たさのせいかもしれない。


 それ以外かもしれない。


 めぐみは追及しなかった。


 直樹が結び目を一つ作る。


 指で引き、緩まないことを確認する。


「宮崎先輩」


「何?」


「これで長さは大丈夫ですか」


 めぐみは新しい紐を見た。


 少し長い。


「大丈夫」


「本当に?」


「なお――」


 口から出かけた音を、めぐみは途中で止めた。


 直樹が顔を上げる。


「今、何と言いましたか」


「何も」


「聞こえました」


「聞き間違い」


「俺の名前でした」


「真柴くんの名前は、直樹でしょ」


「では、なぜ『なお』なんですか」


 めぐみは楠木の幹へ背中を預けた。


「短いから」


「一拍しか変わりません」


「一拍でも短い」


「勝手に変えないでください」


「嫌?」


 直樹は答えなかった。


 名前札を見下ろす。


 真柴直樹。


 四文字が、懐中電灯の光に照らされている。


「嫌なら、真柴くんに戻す」


 めぐみが言った。


 直樹は結び終えた紐を指へ巻いた。


 すぐには返さない。


「嫌ではありません」


「じゃあ、なお」


 直樹の耳が、さっきより赤くなった。


「先輩だけ、呼び方を変えるのは不公平です」


「不公平?」


「俺は、宮崎先輩のままです」


「変えればいいでしょ」


「何にですか」


 めぐみは自分の名前札を指した。


「書いてある」


「宮崎めぐみ」


「全部読まなくていいよ」


「では、宮崎さん」


「学校と変わってない」


「めぐみ先輩」


「長くなった」


 直樹が黙る。


 めぐみは笑いをこらえた。


「二人の時くらい、先輩を取ってもいいんじゃない?」


「二人の時だけですか」


「ほかの人の前で急に呼ばれたら、私も困る」


「なぜですか」


「恥ずかしいから」


 めぐみが先に言った。


 直樹の視線が、一瞬だけ上がる。


 めぐみは楠木の根元へ目を落とした。


 今の言葉は取り消さない。


「二人の時だけ」


 もう一度言う。


「嫌なら、宮崎先輩のままでいいよ」


 直樹は名前札を持ったまま、口を開いた。


 音は出ない。


 一度閉じる。


 宿泊棟の方から、誰かが笑う声が聞こえた。


 風が楠木の葉を揺らす。


 乾いた葉が一枚、二人の間へ落ちた。


「めぐみ……先輩」


「先輩が残ってる」


「急には無理です」


「じゃあ練習」


「名前を呼ぶのに練習が必要なんですか」


「なおには必要みたい」


 直樹が眉を寄せた。


「もう一度」


 めぐみは急かさなかった。


 直樹は手の中の名前札を見る。


 そこに書かれている文字を読むのではなく、口の中で別の形へ変えようとしている。


 やがて、顔を上げた。


「めぐみ」


 小さな声だった。


 宿泊棟から聞こえる話し声よりも低い。


 楠木の葉が擦れる音に、半分ほど混じった。


 それでも、めぐみには聞こえた。


 すぐには返事をしなかった。


 自分の名前なのに、今までと違う音に聞こえた。


 先生が呼ぶ時とも違う。


 同級生が呼ぶ時とも違う。


 直樹が、もう一度口を開こうとする。


「聞こえた」


 めぐみが言った。


 直樹の口が閉じる。


「変です」


「何が?」


「呼び方が」


「嫌だった?」


「そうではありません」


「じゃあ、慣れるしかないね」


 めぐみは直樹の手から名前札を受け取った。


 なおされた紐を首へ掛ける。


 札が胸元へ戻る。


 宮崎めぐみ。


 書かれている文字は、さっきまでと同じだった。


 めぐみは直樹を見る。


「ありがとう、なお」


 直樹の肩がわずかに動いた。


「はい」


「返事は同じなんだ」


「何と答えればいいんですか」


「別に。今のでいい」


 めぐみは立ち上がった。


 制服の裾についた土を払う。


「戻ろう」


「はい」


 二人は宿泊棟へ歩き始めた。


     *


 楠木から数歩離れたところで、めぐみが立ち止まった。


「懐中電灯」


 根元に置いたままだった。


「取ってきます」


 直樹が戻ろうとする。


「私が忘れたから、私が行く」


「暗いです」


「灯りがあそこにあるからね」


「だから暗いんです」


 直樹が楠木へ戻る。


 懐中電灯を拾い上げる。


 めぐみはその場で待った。


 宿泊棟から声が飛んでくる。


「宮崎先輩、戻るよ!」


 めぐみは声の方へ手を上げた。


「今行く!」


 直樹が懐中電灯を持って戻ってくる。


 めぐみへ差し出す。


「宮崎先輩」


 元の呼び方だった。


 ほかの生徒の声が届く場所だからだ。


 めぐみは懐中電灯を受け取る。


 直樹の横を通り過ぎようとした。


「めぐみ」


 背中へ、小さな声が届いた。


 めぐみはすぐに振り向いた。


 直樹は楠木の方を指している。


 木の根元に、麻紐の切れ端が落ちていた。


「ごみを残しています」


「あ」


 めぐみは戻り、切れ端を拾った。


「呼ぶほどのこと?」


「気づかず戻るところでした」


「それはそうだけど」


 切れ端を制服のポケットへ入れる。


 直樹は先に宿泊棟へ向かおうとした。


「なお」


 今度はめぐみが呼んだ。


 直樹が振り返る。


「何ですか」


「呼んだだけ」


「用がないなら呼ばないでください」


「振り向くかと思って」


「振り向きます」


「本当だね」


 めぐみは直樹の横へ並んだ。


 二人で宿泊棟へ戻る。


 ほかの生徒が近づくと、めぐみは「真柴くん」と呼んだ。


 直樹も「宮崎先輩」と答えた。


 誰も、呼び方が変わったことには気づかなかった。


     *


 東佐賀病院の訓練室。


 めぐみは鏡の前で、音のない名前をもう一度作った。


 舌先を上げる。


 口を開く。


 唇を丸める。


 なお。


 治療担当者が呼気の波形を見る。


「今日は、ここまでにしましょう」


 めぐみはうなずいた。


 鏡を横へ戻す。


 記録板には、


 楠木の下。


 と書かれている。


 その下へ、二つの名前を書いた。


 めぐみ。


 なお。


 えりは横から文字を見た。


 意味は聞かなかった。


 めぐみは「なお」の二文字へ指を置いた。


 病室の窓の外で、木の枝が一度だけ揺れた。


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