第百八話 順調ではない日 改正版
## 第百八話 順調ではない日
聖マリア病院の作業療法室で、真柴直樹は厚手のシャツを着ていた。
前を閉じるボタンは六つ。
一番下から始め、三つ目まで留めている。
左手で布を押さえる。
右手の親指を、四つ目のボタンの縁へ当てる。
人差し指で穴を広げ、親指でボタンを押し込む。
半分まで通ったところで、傷跡の端が糸へ引っかかった。
皮膚が引かれる。
直樹の手が止まった。
「痛みはありますか」
向かいに座る作業療法士が尋ねた。
「問題ありません」
直樹は、もう一度ボタンを押そうとした。
「痛いかどうかを聞かれたんだろう」
松隈先生が言った。
車椅子は訓練台の横にある。
大きな眼鏡の奥から、直樹の右手を見ていた。
「出血はしていません」
「それも聞かれとらん」
「動作は続けられます」
「続けられるかどうかでもない」
直樹はボタンから指を離した。
傷跡の端が赤くなっている。
作業療法士が訓練記録へペンを置いた。
「ゼロから十で教えてください。痛みがない状態をゼロ、耐えられない痛みを十とします」
「ゼロです」
答えは早かった。
松隈先生は何も言わない。
作業療法士も記録しなかった。
直樹の親指を見る。
「もう一度聞きます」
直樹は右手を膝へ置いた。
「動かせます」
「痛みの数字を聞いています」
直樹は答えなかった。
傷跡の下で、指先がわずかに震えている。
「昔から変わらんな」
松隈先生が言った。
「何がです」
「問題ありません。心配いりません。順調です」
最後の言葉で、直樹の目が上がった。
松隈先生は眼鏡を押し上げた。
「宮崎が、その言葉の意味を聞きに来たことがある」
直樹の右手が止まる。
「めぐみが?」
「お前が神奈川へ行った後だ」
「手紙を読んだんですか」
「読んではおらん」
松隈先生は作業療法士の方を見る。
「休止でいいかい」
「はい。皮膚の赤みが引くまで、右手は休ませます」
作業療法士がボタンを三つ外した。
直樹は抵抗しなかった。
「十分休んでから、痛みをもう一度確認します」
直樹は赤くなった親指を見る。
「めぐみは、何を聞きに来たんですか」
松隈先生はすぐには答えなかった。
「お前の手紙に、書いてないもののことだ」
*
宮崎めぐみが高校二年になった頃だった。
中学校を卒業してから、一年あまりが過ぎている。
約束の時刻より三分早く、生徒指導室の扉が二度鳴った。
「どうぞ」
松隈先生は机の上の書類を閉じた。
扉が開く。
高校の制服を着ためぐみが入ってきた。
胸元には、来客証がついている。
制服は変わっている。
髪も、中学生だった頃より少し伸びていた。
それでも、困った時に鞄の持ち手を両手で握る癖は変わっていない。
「きちんと来客になったな」
「勝手に入ったら怒るでしょう」
「在学中でも怒ったよ」
めぐみの口元が少しだけ緩む。
だが、椅子へ座っても鞄から手を離さなかった。
「電話では、真柴から手紙が来たと言っとったな」
「はい」
めぐみは鞄を膝へ置いた。
中から一通の封筒を出す。
神奈川の消印。
宛名は、直樹の字だった。
封筒の口が柔らかくなっている。
何度も開いた跡だった。
「悪い知らせかい」
「分かりません」
「読んでもいい物か」
めぐみは封筒を胸元へ引いた。
「全部は駄目です」
「なら、宮崎が話しなさい」
松隈先生は封筒へ手を伸ばさなかった。
めぐみは便箋を取り出す。
紙の中央にある三行を見る。
「入校後の生活には少しずつ慣れています」
一度、息を吸う。
「訓練は順調です。心配はいりません」
「いい知らせに聞こえるな」
「聞こえるだけです」
返事は早かった。
松隈先生は眼鏡の位置を直した。
「どこが違う」
「何も書いてないから」
「三行読んだぞ」
「そうじゃなくて」
めぐみは便箋を膝へ戻した。
紙を守るように、両手で端を押さえる。
「何を食べたとか。誰と同じ部屋だとか。朝は何時に起こされたとか」
言葉を探す。
「失敗したこととか」
「今回は、ないのか」
めぐみはうなずいた。
「なおは、本当に順調な時の方が細かく書きます」
「例えば?」
「靴紐を三回結び直されたとか。味噌汁が薄いとか。隣の寝台の人が、寝返りを打つたびに音がするとか」
松隈先生は、便箋を見なかった。
めぐみの指だけを見る。
封筒の角を、親指が何度も撫でている。
「今回は、生活がないんだな」
「はい」
「どう返す」
「それが分からなくて来ました」
「元気ですか、と聞くかい」
「元気ですって返ってきます」
「訓練はきつくないですか」
「大丈夫ですって書きます」
「順調か」
「順調です」
めぐみは、直樹の返事を読むように答えた。
松隈先生は机の隅に置かれた白い便箋を指した。
「返事を書く物は持ってきたか」
「はい」
「なら、書いてみなさい」
「ここで?」
「書くために持ってきたんだろう」
めぐみは部屋の隅にある小さな机へ移った。
在校生が進路希望や反省文を書く時に使う机だった。
左側へ直樹の手紙。
右側へ新しい便箋を置く。
ペンを持つ。
最初の一行を書く。
すぐに、横線を引いた。
「元気ですか、ではなさそうだな」
めぐみが振り返る。
「見てるじゃないですか」
「文字は見えんよ」
「じゃあ、何で」
「書いた後の顔を見とる」
めぐみは前を向き直った。
もう一度書く。
また、ペンが止まる。
「大きなことを聞くと、大きな言葉で返ってくる」
松隈先生が言った。
「元気か。順調か。きつくないか」
「どう聞けばいいんですか」
「一日の中から、一つにしたらどうだ」
「一つ?」
「一番でも、最初でも、最後でもいい。真柴が今日を思い出さなければ
答えられんものだ」
めぐみは便箋へ向き直った。
ペン先が紙へ触れる。
少し書く。
止まる。
消さない。
「書けたかい」
めぐみは、書いた一行を声に出した。
「今日、一番きつかったことを、一つだけ教えて」
松隈先生はうなずいた。
「答えるかどうかは、真柴が決める」
「また、大丈夫って書いたら」
「大丈夫と書いたことは分かる」
「それだけですか」
「それ以上、私が決めるのか」
めぐみは黙った。
直樹の手紙へ視線を落とす。
「返事が来なくなるのが嫌です」
松隈先生は急いで答えなかった。
「なら、それも書けばいい」
「重くないですか」
「その判断まで、先にするのかい」
めぐみはペンを持ち直した。
新しい一行を書く。
途中で止める。
消そうとして、ペン先を戻した。
だが、横線は引かなかった。
松隈先生の位置からは、文字は見えない。
めぐみは便箋を少し自分側へ寄せた。
次の行へ、
順調じゃない日も、短くていいから返事をください。
と書く。
さらに、その下へ、
返事をくれてありがとう。
と書いた。
「責めているように見えますか」
「誰に」
「なおに」
「宮崎は、責めるために書いたのか」
めぐみは首を横へ振る。
「なら、そのまま送ればいい」
「怒るかもしれません」
「真柴が?」
「困るかもしれません」
松隈先生は、めぐみが消さずに残した一行を見ようとはしなかった。
「困るかどうかは、真柴が読むまで分からん」
めぐみは便箋を折る。
封筒へ入れる。
封を閉じる前に、もう一度だけ取り出した。
最初の一行へ視線を戻す。
今日、一番きつかったことを、一つだけ教えて。
その行は消さなかった。
*
手紙が神奈川へ届いた日、直樹は外周走の隊列から外された。
先頭から大きく遅れたわけではない。
足は動いていた。
歩幅も、前の生徒との間隔も崩れていない。
だが、息を吐く音が変わった。
吸う時間が短くなる。
肩が上がる。
教官が横へ並んだ。
「真柴、列を出ろ」
「続けられます」
「出ろ」
「まだ走れます」
教官は直樹の腕をつかまなかった。
隊列の外を指す。
「続けられるかどうかを、お前一人で決めるな」
直樹は二歩だけ走った。
視界の端が白くなる。
足を止める。
ほかの生徒たちが通り過ぎた。
靴音が遠ざかっていく。
直樹は身体を起こしたまま呼吸を戻そうとした。
膝へ手を置けば楽になる。
それでも姿勢を崩さなかった。
「医務室へ行け」
「少し休めば戻れます」
「これは相談ではない」
直樹は返事をしなかった。
「返事」
「はい」
*
医務室で靴を脱ぐと、右足の靴下へ血がにじんでいた。
踵にできた水疱が破れている。
医務官は呼吸音を確認した。
脈拍を測る。
吸入器を使うよう指示する。
「次からは、ここまでになる前に来なさい」
「隠していません」
「自分で気づかなかったのなら、もっと問題です」
直樹は簡易ベッドの端へ座った。
吸入器を握る。
規定回数を吸入する。
少しずつ、息を吐ける時間が長くなる。
「今日は訓練へ戻さない」
「歩けます」
「歩けるかどうかは聞いていません」
直樹は答えなかった。
踵へ消毒と保護処置が施される。
白い包帯が巻かれる。
呼吸が落ち着くまで、医務室から出ることは許されなかった。
*
直樹が寮へ戻った時、机の上に一通の封筒が置かれていた。
神奈川まで届いた、めぐみの字だった。
同室の大庭航平が、上段の寝台から顔を出す。
「よう、マッシー。佐賀から郵便」
直樹は封筒を取った。
「触りましたか」
「置いただけ。安心しろ。人の手紙を読むほど暇じゃない」
大庭は寝台から降りる。
普段は、起きている間ずっと何かを話している。
だが、距離判定の訓練では、誰より早く数字を答えた。
射撃姿勢へ入ると、冗談が消える。
訓練が終われば、また口数が戻った。
「その足、どうした」
「水疱です」
「呼吸は」
「戻りました」
「医務室へ行ったって聞いたけど」
「処置は終わっています」
「質問に答える気、ある?」
直樹は返事をしなかった。
机へ座る。
封筒を開く。
便箋を取り出した。
今日、一番きつかったことを、一つだけ教えて。
直樹の右足には包帯が巻かれている。
机の端には、医務室から持ち帰った吸入器。
訓練着の背中は、まだ完全には乾いていない。
答えはいくつもあった。
外周走から外された。
息を戻せなかった。
踵の水疱が破れた。
医務室へ行った。
同期の隊列から遅れた。
訓練へ戻れなかった。
直樹は便箋を一枚出した。
最初の行へ書く。
今日は、走っている途中で訓練を外れました。
次の行。
呼吸が戻らず、医務室に行きました。
ペン先が止まる。
右足が脈を打つように痛んでいる。
三行目へ書きかける。
帰りたいと思い――
「思」の途中で、手が止まった。
受からなくてもして。
結果だけで連絡しないで。
分かれ道で聞いた声が戻る。
めぐみが求めたのは、結果だけではない。
だから、これは書くべきなのかもしれない。
直樹は、途中まで書いた三行を見る。
めぐみが読む。
心配する。
返事を待つ。
電話の時間を調べる。
学校を休んででも、神奈川へ来ようとするかもしれない。
自分が帰りたいと書けば、めぐみは帰ってきてと言うかもしれない。
その言葉があれば、自分は帰れる。
自分で選べない退路を、めぐみに作らせることになる。
直樹は便箋を破った。
細かくはしない。
二つに裂き、屑入れへ入れる。
新しい便箋を出す。
こちらは順調です。
心配はいりません。
そこで止まる。
生活のことを一つ書こうとする。
夕食の献立を思い出した。
今日の夕食はカレーでした。
三行を読み返す。
「例の先輩?」
大庭が後ろから尋ねた。
「違います」
「先輩かどうかを聞いたんだけど」
直樹は答えない。
便箋を封筒へ入れようとする。
大庭は屑入れの破れた紙へ目を向けた。
拾わない。
机の吸入器を見る。
直樹の包帯を見る。
「さっきの紙より短くなったな」
「字を間違えました」
「へえ」
大庭は直樹の机へ寄りかからない。
一歩離れた位置に立つ。
「何て書いた」
「順調です」
大庭は直樹の足を見る。
次に、吸入器を見る。
「盛ったな、マッシー」
「嘘ではありません」
「今日のどこが順調だった」
「処置は終わりました」
「なるほど。終われば全部順調か」
「回復しています」
「便利だな、その言葉」
直樹は便箋を封筒へ入れた。
「生活のことも書きました」
「何を」
「カレーです」
大庭が数秒黙る。
「そこだけ真実にするなよ」
「カレーだったのは事実です」
「知ってる。俺も食った」
大庭は自分のロッカーを開けた。
訓練着を放り込まず、畳んで棚へ置く。
「返事は出しとけ」
「出します」
「女の手紙を溜めると、次が長くなる」
「彼女ではありません」
「じゃあ、彼女じゃない先輩の手紙を溜めると長くなる」
「意味が分かりません」
「俺も今作った」
大庭はロッカーを閉める。
机の吸入器を指した。
「それ、枕の下に隠すなよ」
「隠しません」
「前もそう言って、訓練着の内側に入れてただろ」
「携行していただけです」
「夜中にお前が青くなってから探すの、俺が面倒なんだよ」
大庭はそれ以上言わなかった。
自分の寝台へ上がる。
毛布を広げる。
直樹は吸入器を見た。
机の端から、手を伸ばしやすい中央へ移す。
封筒の表へ宛名を書く。
宮崎めぐみ。
大庭は上段から顔を出さなかった。
「マッシー」
「何ですか」
「明日、走るなら包帯は替えろよ。血で靴を汚すと整備係がうるさい」
「分かっています」
「その返事も怪しいな」
直樹は封筒を閉じた。
*
九州へ届いた返事には、三行が書かれていた。
こちらは順調です。
心配はいりません。
今日の夕食はカレーでした。
めぐみは最後の一行を見て、少しだけ口元を緩めた。
確かに、生活の一つは書かれている。
しかし、一番きつかったことは書かれていない。
手紙の日付は、前の手紙から三日空いていた。
文字は整っている。
整いすぎているようにも見えた。
めぐみは新しい便箋を出した。
最初に、
カレーは辛かった?
と書く。
その下へ、
一番きつかったことは、まだ待っています。
と続ける。
責める言葉にはしなかった。
質問も消さなかった。
最後に、
返事をくれてありがとう。
と書いた。
封筒へ入れる前に、便箋を読み返す。
返事がある。
直樹が神奈川にいる。
それだけで胸を撫で下ろしてしまう自分がいる。
めぐみは、そのことを手紙には書かなかった。
*
東佐賀病院の発声訓練室には、六枚の言葉カードが並べられていた。
みず。
いたい。
きて。
こわい。
だいじょうぶ。
なお。
治療担当者が、めぐみの前へカードを広げる。
「今日は、日常で使う言葉から一つ選んでください」
めぐみは左から順に見る。
みず。
いたい。
きて。
こわい。
だいじょうぶ。
なお。
指先が、「だいじょうぶ」の前を通り過ぎる。
その隣で止まった。
こわい。
めぐみは、そのカードを自分の前へ引いた。
末安えりは、壁際の椅子でガムを噛んでいる。
カードへ手を出さなかった。
治療担当者が文字を確認する。
「今日は、一拍目の『こ』を出します」
めぐみはうなずいた。
「唇を丸めます。舌の奥を少し上げてください。息を押し出さず、声帯へ通します」
首筋へ刺激が入る。
めぐみは息を吸った。
唇を丸める。
喉の奥が震える。
「……こ」
細く、掠れた音が出た。
一拍だけだった。
めぐみは続けようとした。
口が「わ」の形へ動きかける。
「一度、呼吸を戻します」
治療担当者が刺激を止めた。
めぐみは口を閉じる。
鼻から短く吸う。
細く吐く。
肩の力が抜けるまで待つ。
「今日は、ここまでにしましょう」
めぐみは首を横へ振りかけた。
呼気の波形を見る。
まだ長さが戻っていない。
そのまま、うなずいた。
記録板を引き寄せる。
こわい。
と書いた。
えりは横から文字を見る。
「うん」
何が怖いのかは聞かなかった。
めぐみは、声にできなかった残りの二拍を指でなぞった。
*
聖マリア病院の作業療法室。
直樹の親指の赤みは、少し引いていた。
作業療法士が右手を確認する。
「もう一度、痛みの数字を教えてください」
直樹は口を開いた。
「ゼロ――」
途中で止まる。
松隈先生は何も言わなかった。
右手を見てもいない。
作業療法士だけが、返事を待っている。
直樹は親指をわずかに曲げた。
傷跡の端が引かれる。
「三です」
作業療法士が記録する。
「今日はボタン訓練を終わります。補助具を外しましょう」
直樹は左手で、右手首の留め具へ触れた。
角度が合わない。
指が金具へ届かない。
手首を返す。
傷跡が引かれる。
もう一度試す。
留め具をつかめなかった。
作業療法士が手を出す。
「外しますか」
直樹は右手を膝へ戻した。
「外してください」
作業療法士がうなずく。
留め具を一つずつ外す。
他人の指が手首の近くを通る。
直樹の肩へ力が入る。
それでも、右手を引かなかった。
補助具が外れる。
作業療法士が右手の下へ薄いクッションを置いた。
「少し休みます。痛みが変わったら教えてください」
数分後。
直樹は親指をゆっくり曲げた。
先ほどより、引かれる感覚は弱い。
「今は?」
「二です」
作業療法士が記録へ書き足す。
松隈先生は、最後まで口を挟まなかった。
*
東佐賀病院の机では、
こわい。
のカードが表を向いていた。
その隣にあった、
だいじょうぶ。
のカードは、残りのカードと一緒に重ねられていた。
聖マリア病院の疼痛記録には、
開始時 三。
休止後 二。
と書かれていた。




