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第百九話 音の地図 改正版

## 第百九話 音の地図


 旧南第三小学校の旧事務所では、短波無線機の受信灯だけが点いていた。


 真柴健二は机へ片肘をつき、周波数表示を見ていた。


 雑音。


 短い混信。


 また雑音。


 九州からの新しい連絡はない。


 兄ちゃんの右手が、どこまで戻ったのか。


 めぐみの声が、どこまで出るようになったのか。


 聞きたいことはいくつもあった。


 だが、応答のない周波数へ何度呼びかけても、返事が早くなるわけではない。


 健二は送信機から手を離した。


 無線機の横には、暖房設備を復旧した時の作業記録が置かれている。


 主配管。


 補助槽。


 循環ポンプ。


 旧防災電源。


 暖房を戻すため、廊下の分電盤から古い補助回路にも電気を流した。


 使われていない回路は落としたつもりだった。


 だが、その夜から、校舎のどこかで小さな音が鳴り始めた。


 かち。


 床の下から、一度だけ聞こえる。


 昨夜は午後八時。


 八時三十分。


 九時。


 以降も三十分ごとに続いた。


 健二は作業記録の端へ、鳴った時刻を書いていた。


 午前七時三十分。


 壁の時計の秒針が、十二へ近づく。


「もうすぐ」


 入口から浅野悠太が言った。


 寝癖の残った頭で、旧事務所の床へ耳を向けている。


「何がだ」


「鳴る」


「何時に」


「七時半」


「時計を見て言ったのか」


「音が来るから時計を見た」


 悠太は床へ片手を置いた。


 秒針が十二を通る。


 かち。


 机の下の奥から、小さな金属音がした。


 健二は時刻を書く。


 午前七時三十分。


「一回か」


 悠太は答えなかった。


 床へ耳を近づけたまま、少し待つ。


 やがて顔を上げる。


「今は一回」


「今は?」


「昨日、二つあった」


「同時に?」


「違う」


 悠太は床を指す。


「先に下」


 次に壁を指した。


「あとで、向こう」


「どのくらい後だ」


「短い」


「一秒?」


「分からない」


「じゃあ、八時に測る」


 健二は椅子から立った。


「朝飯は」


「食べた」


 廊下から中原悠斗が入ってくる。


 両手に、空になった器を重ねて持っていた。


「全員食べた」


「何人だ」


「八人」


「自分も入れたか」


「入れた」


「よし」


 健二は暖房の音を聞いた。


 放熱器を通る温水の音は一定だった。


 昨夜から続く「かち」とは違う。


「八時までに、音の場所を調べる」


 悠太がすぐに聞く。


「開ける?」


「まだ何も開けない」


「じゃあ、どうするの」


「まず聞く」


     *


 教室の長机に、古い校内図を広げた。


 分裂前に作られた防災用の図面だった。


 教室。


 旧事務所。


 職員室。


 資料室。


 放送室。


 配電盤。


 避難口。


 今は壁で塞がれている通路まで、薄い線で残っている。


 健二は黒板へ三つの欄を書いた。


 見た。


 聞いた。


 分からない。


「ここから始めるぞ」


 八人の子どもたちが、黒板を見る。


 瀬田ハルは教室の後ろに立っていた。


「見たものは、見たへ書く。聞いたものは、聞いたへ書く」


 健二は三つ目を指した。


「何か分からない物は、ここに置く」


「後で分かったら?」


 高瀬陸が尋ねる。


「その時に移す」


「間違ってたら?」


「消して書き直す」


 小野寺颯太が、長机の端に置かれた消しゴムを見る。


「消していい?」


「間違いが分かった時はな」


「分からない時は?」


「分からないへ置く」


 健二は黒板の「分からない」を二重に囲んだ。


「空いてる場所を、勝手な答えで埋めない」


 悠太が校内図を見る。


「音も?」


「音もだ。お前が聞いた場所だけ教えてくれ」


「何の音かは?」


「今は決めない」


 健二は悠太へ短い鉛筆を渡した。


「音が聞こえたところへ印をつけてくれ」


 悠太は図面を見た。


 すぐには書かない。


 旧事務所の位置へ指を置く。


「最初は、ここ」


「床の下か」


「床の向こう」


「向こうって、どっちだ」


 悠太は少し考えた。


 自分の身体を旧事務所の机と同じ向きにする。


「右の下」


 健二は黒板の「聞いた」へ書いた。


 午前七時三十分。


 旧事務所。


 身体の右下。


 金属音一回。


「これで合ってるか」


 悠太が文字を見る。


「合ってる」


 村瀬花音が白い紙を一枚取り、床へ置いた。


 教室と旧事務所を簡単な四角で描く。


 旧事務所の床へ、小さな丸をつけた。


 その丸から短い線を引く。


 線は途中で止まった。


 悠太が花音の紙を見る。


「まだ、そこまで」


 花音はうなずいた。


 線を伸ばさなかった。


 笹原蓮が教材棚から木製の積み木を持ってきた。


 長い物を廊下。


 四角い物を部屋。


 小さな物を机に見立てて並べる。


「これは壊さないから使っていい?」


「片づけられるならな」


「最初から戻せる」


「なら使え」


 陸は時計と記録用紙を机へ置いた。


「二つ目までの時間を測る」


「聞こえたらな」


「聞こえなかったら?」


「聞こえなかったと書け」


 陸は記録用紙の一行目へ、


 八時。


 と書いた。


 その横を空けておく。


     *


 八時まで、全員で音を待つ必要はなかった。


 健二は役割を分けた。


 悠太は旧事務所。


 陸は廊下の時計。


 花音は図面。


 蓮は、壁や床へ触れずに校内の形を積み木で作る。


 残る四人は暖房のある教室に残った。


 千紘は、見に来たい子がいるか一人ずつ聞いた。


 美月は椅子に座って待つ方を選んだ。


 颯太は教室に残る。


 悠斗も残った。


「俺がここにいる」


 健二が聞く。


「見に行かなくていいのか」


「全員で行かなくていい」


 悠斗は暗幕の中にいる三人を見る。


「戻ってきたら聞く」


「分かった」


 瀬田ハルは教室と旧事務所の間にある廊下へ立った。


 どちらから呼ばれても届く位置だった。


 午前七時五十九分。


 悠太は旧事務所の床へ耳を近づける。


 陸は秒針を見る。


 花音は鉛筆を持つ。


 健二は何も言わない。


 八時。


 かち。


 床の下で鳴った。


「一回」


 陸が時計を押す。


 悠太はすぐには動かない。


 耳だけを少し上げる。


 零点八秒。


 壁の奥から、


 かち。


 今度は、最初より高い音だった。


「二回」


 悠太が言った。


 陸が時間を書く。


 零点八秒後。


「どこだ」


 健二が聞く。


 悠太は立ち上がる。


 旧事務所の奥にある壁へ近づく。


「こっち」


 壁へ耳を当てる。


 首を横へ振る。


「ここじゃない」


 廊下へ出る。


 一歩進む。


 止まる。


 壁へ耳を近づける。


 また首を振る。


 悠太は、廊下を少しずつ歩いた。


 花音が後ろからついていく。


 紙の線を、悠太の進んだ方向へ伸ばす。


 旧事務所。


 廊下。


 資料室の前。


 悠太が止まる。


「ここで近くなる」


 資料室の扉は閉じている。


 健二が取っ手へ触れる前に、蓮が言った。


「中を見るだけ?」


「そうだ」


「外したりしない?」


「今はな」


 健二が扉を開ける。


 中には壊れた書架と、古い教材箱が積まれていた。


 丸められた地図。


 欠けた模型。


 使われなくなった掲示板。


 悠太は資料室へ入る。


 床へ耳を近づける。


 奥の壁へ向かって歩く。


「ここ」


 壁の前で止まった。


 木製の掲示板が掛けられている。


 端には、古い避難経路図が画鋲で留められていた。


 掲示板の裏から、細い電線が一本だけ下へ延びている。


 健二が掲示板の端を見る。


 壁へ固定されている。


 蓮は工具箱を持ってきていた。


 すぐには開かない。


「触らない方がいい?」


「まず外から見る」


 健二は掲示板へ手を触れず、上下左右を確認した。


 下側に、指一本ほどの隙間がある。


 懐中電灯を当てる。


 隙間の奥に、灰色の金属が見えた。


 錆びた箱だった。


「箱がある」


 陸が言った。


「見えてるのは一部だけだ」


 健二は黒板代わりの記録紙へ書く。


 見た。


 資料室奥。


 掲示板の後ろ。


 金属製の箱。


 細い配線一本。


「何の箱?」


 悠太が尋ねる。


「分からない」


 健二は、そのまま「分からない」へ書いた。


     *


 掲示板を外す前に、瀬田ハルを呼んだ。


 健二は資料室の入口へ白いチョークで線を引く。


「この線より先には、俺とハルさんだけが入る」


「俺は?」


 蓮が聞く。


「工具は線の手前で渡してくれ」


「ネジの位置は見える?」


「見えるところに立っていい。触るのは俺だ」


 悠太は資料室の入口へ座った。


「音は聞く」


「線から出るなよ」


「うん」


 花音も入口の外に紙を置いた。


 蓮は掲示板を固定しているネジを数える。


「八本」


「錆びてるのは」


「下の二本」


「外す順番は」


「上を少し緩めて、下。最後に上」


「理由は」


「急に落ちないように」


 健二はうなずいた。


「工具」


 蓮がドライバーを渡す。


 健二は一本目を少しだけ緩める。


 完全には抜かない。


 二本目。


 三本目。


 すべて同じ量だけ回す。


 瀬田ハルが掲示板の端を支える。


 下側の二本を外す。


 最後に上のネジを一本ずつ抜く。


「外れる」


 健二が言った。


 ハルと二人で掲示板を持ち上げる。


 資料室の床へ直接置かない。


 準備していた毛布の上へ、表を上にして寝かせた。


 壁の中から、灰色の端子箱が現れた。


 縦長の金属製。


 表面には錆が浮いている。


 中央に、小さな窓が二つ並んでいた。


 一つには、


 試験。


 もう一つには、


 復帰。


 と書かれている。


 その下に、色あせた文字が残っていた。


 地区防災連絡線。


 さらに右下へ、小さく、


 K―四。


 と刻まれている。


 悠太が入口から言った。


「二回目、そこ」


「箱の中か」


「うん」


 健二は端子箱へ触れなかった。


 周囲の配線を目で追う。


 一本は床の下。


 一本は壁の横。


 もう一本は、端子箱の裏から壁の奥へ入っている。


 陸が時刻と位置を書く。


 花音は、旧事務所から伸ばしてきた線を、K―四の箱までつないだ。


 線はそこで止まる。


「開ける?」


 蓮が尋ねた。


 健二は端子箱の蓋を見る。


 封印はない。


 だが、右側の留め金には古い針金が通されている。


 針金に錆がつき、壁側へ張りついていた。


「今日は箱を開けない」


「何で」


「中身を確認できる人間がいない」


「音はそこからしてる」


「音がすることと、開けていいことは別だ」


 蓮は工具箱を閉じた。


「じゃあ、終わり?」


 悠太が首を横へ振った。


「まだ先がある」


「どうして分かる」


「箱の後ろ」


 悠太は資料室の奥の壁を見る。


「音が、そっちへ行く」


 健二が壁へ耳を当てる。


 何も聞こえない。


「次まで待つか」


「三十分」


 陸が言う。


 健二は時計を見る。


 八時二分。


「その間に、壁を調べる。ただし外からだけだ」


     *


 端子箱の横には、塗装の色が違う部分があった。


 縦に三枚。


 幅の狭い壁板が並んでいる。


 ほかの壁より新しい。


 それでも、十年以上は経っている。


 板の下に積もった埃を、花音が見た。


 中央の一枚だけ、床との境目で細く切れている。


 空気が動いていた。


 花音は紙へ、K―四の箱を描く。


 その横に三本の線。


 中央の下へ、小さな波を描いた。


「風?」


 健二が尋ねる。


 花音はうなずいた。


 瀬田ハルが線の外から見ていた。


 顔から少し色が引いている。


「ハルさん」


「大丈夫」


 答えた後、自分で首を横へ振った。


「大丈夫ではない。でも、ここにいる」


「戻ってもいい」


「まだいる」


 健二はそれ以上聞かなかった。


 壁板の端へ、懐中電灯を斜めに当てる。


 板を固定しているネジが見えた。


 合計十二本。


 下側の四本には錆が浮いている。


 蓮が工具箱の上へ手を置く。


 開けない。


「外した後、戻せる?」


 健二は板の厚さと位置を見る。


「三枚とも外せば戻せる。ただし、後ろに何があるかは分からん」


「重かったら?」


「そこで止める」


「割れたら?」


「割れない外し方が分からなければ、今日はやらない」


 蓮はネジを見る。


「板の下へ薄い物を入れれば、落ちない」


「何を使う」


「廃材の板」


「床を傷つけないよう、毛布を挟め」


「分かった」


 健二はすぐには作業を始めなかった。


 旧事務所から、電源回路の一覧を持ってくる。


 資料室の壁に通る線を確認する。


 現役の電灯線とは別だった。


 防災補助回路。


 電源復旧後に通電した系統と一致している。


 図面の端には、小さく、


 回線監視・三十分周期。


 と記載されていた。


「これで一回目の理由は分かった」


 陸が言った。


「何が?」


 悠太が聞く。


「三十分ごとに、線が切れてないか調べる信号を送ってる」


 健二は図面を見る。


「そう書いてある。ただし、二回目が何を意味するかは分からん」


「返事じゃないの?」


「復帰の音かもしれん。箱の中だけで戻ってる可能性もある」


「線の先があるかは?」


「まだ分からない」


 健二は黒板用の記録紙へ書く。


 見た。


 回線監視・三十分周期。


 K―四。


 壁板三枚。


 聞いた。


 床の下で一回。


 零点八秒後、端子箱で一回。


 分からない。


 二回目の意味。


 K―四の用途。


 壁の奥。


 陸は「二回目は返事」と書きかけた。


 途中で止める。


 消しゴムを取る。


 返事。


 の二文字を消した。


 代わりに、


 復帰音の可能性。


 と書く。


     *


 午前八時三十分。


 壁板を外す前に、全員が音を待った。


 子どもたちは資料室の外にいる。


 美月は教室の椅子へ座る方を選んだ。


 颯太も残った。


 悠斗は二人の近くにいる。


 千紘は資料室と教室の間に立った。


 誰かが戻りたいと言えば、すぐ一緒に戻れる位置だった。


 資料室の入口には、悠太、花音、蓮、陸。


 白い線より中には入らない。


 健二と瀬田ハルだけが、壁の前に立っている。


 八時三十分。


 かち。


 床の下で一回。


 陸が時計を押す。


 零点八秒後。


 かち。


 K―四の端子箱から一回。


 悠太が顔を上げる。


「その後」


「まだあるのか」


「小さい」


 悠太は目を閉じた。


 端子箱ではなく、横の壁板へ顔を向ける。


 数秒待つ。


「向こうで、落ちる」


「何が」


「分からない」


 健二は「聞いた」へ書く。


 二音の後。


 壁の奥。


 小さな落下音。


 物は不明。


「開ける」


 健二が言った。


「端子箱ではない。壁板を外す」


 蓮が工具を差し出す。


「順番、書く?」


「陸に頼む」


 陸が一枚目から番号を書く。


 右。


 中央。


 左。


 ネジにも位置を記録する。


 健二は板へ触れる前の状態を、旧事務所にあった小型の撮影端末で残した。


 全体。


 ネジ。


 床との隙間。


 K―四との位置関係。


 時刻も写し込む。


「外すぞ」


 右側の板から始める。


 上のネジを少し緩める。


 次に下。


 最後の一本を外す前に、瀬田ハルが板を支えた。


 健二が最後のネジを抜く。


 板を手前へ倒す。


 裏側に空間があった。


 冷たい空気が、足元へ流れ出す。


 湿った紙と、古い金属の匂いがした。


 健二は板を毛布の上へ置く。


 中央。


 左。


 三枚を同じ手順で外す。


 壁の奥から、灰色の鋼鉄扉が現れた。


 扉の上部には、細長い確認窓。


 外側にだけ鍵と取っ手がある。


 扉の横には、番号札を入れるための細い金属溝が並んでいた。


 瀬田ハルの呼吸が浅くなる。


「第七と、作り方が似てる」


 健二は扉を見たまま尋ねる。


「同じ場所か」


「違う」


「同じ人が作った?」


「分からない」


「分かった」


 健二は記録へ書く。


 瀬田ハルの証言。


 旧第七と構造が似ている。


 同一施設・設計者かは不明。


 扉の左下には、端子箱と同じ印があった。


 K―四。


「同じ」


 陸が入口から言う。


 健二は首を横へ振った。


「同じ記号がある。それだけだ」


 扉と端子箱が何を示すのかは、まだ分からない。


     *


 鋼鉄扉は、その場ですぐには開けなかった。


 健二は教室へ戻り、簡易ガス検知器を持ってきた。


 作業灯。


 太いロープ。


 防塵用の手袋。


 扉を開く前に、子どもたちへ説明する。


「この先は、俺とハルさんで確認する」


「見ちゃ駄目?」


 蓮が聞く。


「安全が分かるまでは駄目だ」


「音は?」


 悠太が尋ねる。


「入口で聞いてくれ。ただし、線は越えるな」


「何か鳴ったら言う」


「頼む」


 颯太が教室から出てきた。


 白い線の手前で止まる。


「誰か、いなくならない?」


「今日は誰も外へ行かない」


「扉の中は?」


「確認したら、ここへ戻る」


「二人とも?」


「二人ともだ」


 颯太は健二と瀬田ハルを見る。


 それから、うなずいた。


 健二はロープの一端を廊下の柱へ固定した。


 もう一端を腰の作業帯へ結ぶ。


 扉の蝶番。


 開く方向。


 取っ手の動き。


 枠の歪み。


 一つずつ確認する。


 鍵穴には錆が詰まっていた。


 鍵はない。


「今日はここまででもいい」


 瀬田ハルが言った。


「鍵を壊したら、元へ戻せない」


「そうですね」


 健二は鍵穴を見た。


 取っ手の下に、小さな非常解錠用の蓋がある。


 工具で壊す構造ではない。


 四角い軸を回せば、管理側から開けられる旧式の扉だった。


 旧事務所の鍵箱に、同じ形のハンドルが残っていたことを思い出す。


 健二は取りに戻る。


 錆びた四角軸へ差し込む。


 無理には回さない。


 少しずつ力をかける。


 内部で金属が一度鳴った。


 鍵が外れる。


 蓮が身を乗り出しかける。


 白い線の前で止まった。


「開いた?」


「鍵が動いただけだ」


 健二は扉の下へ薄い板を差し込む。


 倒れたり、急に閉じたりしないよう、ロープを取っ手へ通す。


 検知器の先を確認窓の小さな隙間へ入れる。


 数値を待つ。


 警告は出なかった。


「少し開ける」


 取っ手を下げる。


 扉が錆を擦る音を立てた。


 数センチ開く。


 冷たい空気が流れ出す。


 検知器を隙間へ入れる。


 酸素濃度。


 可燃性ガス。


 有害ガス。


 警告なし。


「もう少し」


 扉を人一人が通れる幅まで開く。


 作業灯の光が、奥へ入った。


     *


 扉の向こうには、下へ続く短い階段があった。


 六段。


 その先に、小さな部屋がある。


 壁に沿って折り畳まれた寝台が四台。


 汚れた洗面台。


 衣服を掛けるためのフック。


 体温計や小瓶を置いていたらしい棚。


 壁には、床から一定の高さへ黒い線が引かれている。


 百センチ。


 百二十センチ。


 百四十センチ。


 子どもの背丈を測るための線だった。


 派手な物はない。


 壊れた拘束具もない。


 血の跡もない。


 ただ、人を受け取り、測り、分けるための物が並んでいた。


 健二は階段を下りきらなかった。


 最下段の一つ上で止まる。


 床。


 天井。


 奥の壁。


 崩落の兆候はない。


 瀬田ハルは扉の外に残った。


「入らなくていいですよ」


 健二が言う。


「入らない」


 ハルは確認窓を見る。


「でも、ここにいる」


 健二はうなずいた。


 部屋の奥には、小さな書類棚があった。


 机の上には、金属製の筆記板。


 透明な袋。


 番号札。


 書類の束。


 健二は触れない。


 撮影端末で、入口から位置を記録する。


 全体。


 寝台。


 身長線。


 机。


 書類棚。


 番号札。


 壁の左上には、小さな継電器がある。


 その下へ、


 K―四。


 と書かれていた。


 午前九時。


 かち。


 部屋の外、床下で一度。


 零点八秒後。


 かち。


 資料室の端子箱で一度。


 その直後。


 部屋の継電器が落ちる。


 こつ。


 悠太が白い線の外から言った。


「三つ目、そこ」


 健二は部屋の左上を見る。


「聞こえた」


「最初から三つだった」


「昨日もか」


「たぶん」


「たぶんは、分からないへ置く」


「うん」


 健二は記録へ書く。


 三音目。


 隠し部屋内部。


 K―四継電器。


 前夜から鳴っていたかは不明。


     *


 書類には、その日は触れなかった。


 入口から読める範囲だけを撮影する。


 番号。


 推定年齢。


 健康状態。


 行動傾向。


 作業適性。


 移送先。


 下部には、


 処置済み。


 移送済み。


 記録返却不要。


 という欄が並んでいた。


 名前を書く欄はなかった。


 別の用紙には、


 旧公民館。


 地下保管区画。


 河川側搬出口。


 という文字が見えた。


 それ以上は、紙が重なっていて読めない。


 健二は撮影端末を下ろした。


「持って出ないんですか」


 瀬田ハルが尋ねる。


「今日は位置だけ残します」


「誰かに取られたら」


「扉を封じます。それでも来る人間がいるなら、先に分かるようにする」


 健二は階段を上がる。


 扉の外へ戻る。


 腰のロープを外す。


 子どもたちは白い線を越えていない。


 蓮は工具箱を閉じたまま持っている。


 花音の紙には、旧事務所から伸びた線が描かれていた。


 線は廊下を通り、資料室へ入る。


 K―四の端子箱で一度止まり、そこから壁の奥へ短く続いている。


 終点には、閉じた扉が描かれていた。


「公民館へ行く?」


 陸が尋ねた。


「行かない」


「書類にある」


「文字が見えただけだ」


「場所を調べないの?」


「調べる。今日はここから出ない」


「どうして」


「その公民館がどこか分からん。河川側がどの川かも分からん。入る道も、戻る道も決めてない」


 健二は鋼鉄扉を見る。


「それに、この部屋を誰が知っていたかも分からん」


 悠太が尋ねる。


「線の先は?」


「それも分からない」


「音、まだ続く」


「だから記録する」


「次は九時半」


「分かった」


     *


 健二と瀬田ハルは、部屋を発見時の状態へ戻した。


 書類には触れない。


 寝台にも近づかない。


 鋼鉄扉を閉じる。


 非常解錠用のハンドルを外す。


 取っ手と枠をまたぐように紙の封印帯を貼る。


 開封時刻。


 閉鎖時刻。


 真柴健二。


 瀬田ハル。


 二人の名前を書く。


 透明な保護テープを上から重ねる。


 外した壁板は、まだ戻さない。


 鋼鉄扉と端子箱の位置を確認できるよう、資料室そのものを施錠した。


 資料室の扉にも封印帯を貼る。


 健二は旧事務所の無線機へ戻った。


 定時報告の記録用紙を出す。


 旧南第三から報告。


 校内旧防災回線の監視音を確認。


 隠し設備一か所を発見。


 内部への立入りは安全確認範囲のみ。


 書類・備品の持出しなし。


 現地移動なし。


 追加確認まで資料室を封鎖。


 子ども八名、瀬田ハル、異常なし。


 送信ボタンを押す。


 雑音の向こうへ報告を送る。


 返事は来なかった。


 健二は無線機の横へ、花音が描いた紙を置いた。


 旧事務所の床。


 廊下。


 資料室。


 K―四。


 閉じた扉。


 線は、そこで止まっている。


 旧公民館も、川も、搬出口も描かれていない。


 まだ確認していないものを、花音は紙へ足さなかった。


     *


 午後三時。


 悠太は資料室の外に座っていた。


 封印された扉へ触れない。


 床へ片手を置く。


 花音の音の地図が、膝の上にある。


 壁の時計の秒針が十二を通る。


 かち。


 床の下で一度。


 零点八秒後。


 かち。


 K―四の端子箱で一度。


 その奥から、


 こつ。


 三つ目の音が返る。


 悠太は地図の終点を見る。


 閉じた扉の向こう。


 線の先には、まだ何も描かれていなかった。


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