↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
110/300

第百十話 戻る人数 改正版

## 第百十話 戻る人数


 旧南第三小学校の無線機は、午前六時を過ぎても病院からの返事を拾わなかった。


 雑音。


 短い混信。


 遠くで切れた声。


 どれも、兄ちゃんの名前にはならない。


 真柴健二は送信機から手を離した。


 無線機の右側には病院の周波数表。


 左側には、前日に撮影した隠し部屋の記録が並んでいる。


 K―四。


 旧公民館。


 地下保管区画。


 河川側搬出口。


 文字は見えている。


 それが、どこの施設を指しているのかは分からない。


 午前六時三十分。


 床の下で、


 かち。


 一度目の音が鳴った。


 零点八秒後。


 資料室のK―四端子箱から、


 かち。


 二度目。


 その直後、壁の奥に封じた部屋から、


 こつ。


 三度目の音が返った。


 浅野悠太が資料室の前へ座り、膝の上の記録紙へ三つの丸をつける。


「三つ」


「間隔は」


 隣にいた高瀬陸が時計を見る。


「一つ目と二つ目が、零点八秒。二つ目と三つ目は、ほとんど同時」


「昨日と同じか」


 悠太がうなずく。


「同じ」


 健二は記録用紙へ、


 午前六時三十分。


 三音、変化なし。


 と書いた。


 机の余白へ、二つの欄を作る。


 行く人間。


 戻る人間。


 行く人間の欄は空けた。


 戻る人間の欄へ、先に名前を書く。


 真柴健二。


 瀬田ハル。


 中原悠斗。


 宮原美月。


 笹原蓮。


 浅野悠太。


 佐伯千紘。


 高瀬陸。


 村瀬花音。


 小野寺颯太。


 十人。


 子ども八人。


 瀬田ハル。


 健二。


 今、旧南第三にいる全員だった。


 兄ちゃんなら、最初に退路を決める。


 だが、兄ちゃんと同じやり方をすればいいわけではない。


 直樹は一人でも動ける。


 健二は兵士ではない。


 古い防災回線の専門家でもない。


 建物の中へ誰かがいる場合、対処する技術もない。


 だからこそ、一人で行ってはいけない。


 健二は無線機の周波数を切り替えた。


 西日本暫定政府、第三区受入班。


 送信ボタンを押す。


「こちら旧南第三。旧自治体施設と防災回線を確認できる担当者を要請する」


 雑音が返る。


 健二は続けた。


「校内の隠し部屋で、旧公民館、地下保管区画、河川側搬出口と記載された書類を確認した。原本には触れていない。入口から撮影し、部屋を封鎖している」


 少し間を置く。


「同じ部屋と端子箱に、K―四の表示がある。防災回線は三十分ごとに作動中。外部施設の特定と構造確認のため、図面を扱える人間を要請する」


 数秒後、雑音の奥から男の声が返った。


『旧南第三、内容を確認した。現地調査は実施したか』


「していない」


『隠し部屋から持ち出した物は』


「ない」


『子どもは』


「八人とも学校にいる」


『了解。旧自治体の施設図面と防災回線の保守台帳を確認できる者を回す。留守側の職員も一名同行させる』


「氏名は」


 短い紙の音がした。


『施設保全協力員、古賀省吾。第三区受入班職員、秋山志保』


「到着方法は」


『白地に青線の識別布をつけた車両一台。北側道路から入る。到着予定、二時間以内』


「了解」


『旧南第三』


「何だ」


『回線の先に設備が残っていても、人がいる証拠にはならない』


「分かっている」


『現地候補が出ても、確認なしに入るな』


「そのために呼んだ」


 健二は送信を終えた。


 受信へ戻す。


 机の地図には、まだ行き先がなかった。


     *


 朝食後。


 健二は教室の黒板へ、今日の予定を書いた。


 旧防災回線の資料確認。


 外部施設候補の照合。


 行く場合も、外から見る。


 子どもだけを学校へ残さない。


「誰が行くの」


 笹原蓮が尋ねた。


「資料を見てから決める」


「健二さんは行く?」


「候補が絞れたらな」


「ハルさんは?」


 瀬田ハルは黒板を見ている。


 健二が答えた。


「本人が決める」


「音を知ってるのは、ハルさんだろ」


「似た音を覚えている。場所を知っているとは限らん」


 蓮はそれ以上言わなかった。


 健二は黒板の端へ、留守側の手順を書く。


 十五分ごとの定時連絡。


 一度でも連絡がなければ、第三区へ通報。


 定時外でも、回線や校内に変化があれば連絡。


 施設の封は開けない。


「一回なかっただけで呼ぶの?」


 佐伯千紘が尋ねた。


「呼ぶ」


「少し遅れただけかもしれない」


「その時は、遅れた理由を俺が説明する」


「相手が怒ったら」


「俺が怒られる」


「連絡した人は?」


「決めた通りに動いた人間は怒られない」


 千紘は無線機を見る。


「分かった」


 陸が黒板を指した。


「予定外の変化も、すぐ連絡する?」


「そうだ」


「次の定時まで待たない?」


「待たない」


「変化が何を意味するか分からなくても?」


「分からないまま伝える」


 陸は手元の記録紙へ書く。


 意味を決めず、変化を報告。


 小野寺颯太が出席簿を机へ置いた。


「名前は、いつ読むの」


「出る前と、戻った後」


「全員?」


「外へ出る人間は全員だ」


「残る人は?」


「残る人も確認する。誰がどこにいるかを残す」


 颯太は出席簿を開く。


 先日、自分で書いた、


 そうた。


 の文字が残っている。


「番号は使わない?」


「名前でやる」


 颯太はうなずいた。


     *


 午前八時九分。


 北側道路から、白地に青線の識別布をつけた小型車両が入ってきた。


 運転席から、五十代半ばの男が降りる。


 濃い灰色の作業服。


 左手に古い図面筒。


 右手に平たい資料鞄を持っていた。


 助手席からは、三十代後半ほどの女性が降りた。


 紺色の防寒着。


 肩から携帯無線機を下げている。


 男が身分証を出した。


「古賀省吾です。旧自治体施設課にいました。現在は施設保全の協力員です」


 女性も身分証を示す。


「第三区受入班の秋山志保です。今日は留守側の連絡と、子どもたちの安全確認を担当します」


「真柴健二です」


「瀬田ハルです」


 ハルは健二の少し後ろから名乗った。


 古賀は校舎の屋根と壁を見上げる。


「隠し部屋は」


「資料室の奥です」


「先に封と発見時の記録を確認します」


 健二たちは資料室へ向かった。


 古賀は封印された扉へ触れず、健二が撮影した画像から見始めた。


 壁板を外す前。


 K―四の端子箱。


 鋼鉄扉。


 扉の内側。


 身長線。


 番号札の溝。


 入口から見える書類。


「原本には触れていませんね」


「入口から撮影しただけだ」


「撮影後は」


「扉を閉じて封をした」


 古賀は封印帯の時刻と名前を確認する。


「真柴健二。瀬田ハル」


「はい」


「発見時に中へ入ったのは」


「俺だけ。階段の途中までだ」


「瀬田さんと子どもは」


「扉の外。子どもは白線の手前」


 古賀はうなずいた。


 評価する言葉は出さなかった。


 ただ、確認事項へ線を引く。


 次にK―四の端子箱を見る。


「この箱は、自治体の旧防災連絡線に使われていた形式です」


「K―四は場所か」


「まだ分かりません」


 古賀は資料鞄から、古い保守台帳の複写を出した。


 表紙に、


 K系統。


 と書かれている。


「Kは地区名ではなく、回線系統の記号です」


 台帳を開く。


「第四支線。K―四」


 健二がページを見る。


 接続施設が三つ並んでいる。


 旧川端公民館。


 北堤排水管理所。


 第二河川集会所。


「三か所」


 陸が入口の外から言った。


 古賀は振り返る。


「そうです。ただし、この台帳は分裂前の物です。回線が途中で変更された可能性もあります」


「書類には旧公民館とある」


 健二が撮影画像を指す。


「地下保管区画。河川側搬出口」


 古賀は三施設の旧図面を並べた。


 北堤排水管理所は地下設備を持つが、公共の集会施設ではない。


 第二河川集会所は平屋で、地下がない。


 旧川端公民館は二階建て。


 地下倉庫。


 川側に傾斜路を備えた搬入口。


 図面上の条件は最も近い。


「第一候補は、旧川端公民館」


 古賀が言った。


「確定か」


「いいえ」


 赤い鉛筆で名前を囲む。


 塗り潰さない。


「書類の『旧公民館』が正式名称とは限りません。図面にない改造もあり得ます」


 健二は地図の余白へ書く。


 旧川端公民館。


 第一候補。


 未確認。


「現地を外から見る価値はあるか」


「あります」


「中へは」


「今日は入りません」


 古賀は即答した。


「私は構造と回線を見るために来ました。人がいる場合の対応は担当外です」


「分かってる」


「扉や通路に異常があれば、そこで撤収します」


「それでいい」


     *


 秋山志保は、教室の長机へ座った。


 無線機を自分の前に置く。


 千紘と陸が向かい側へ座る。


「無線を読むのは千紘さん」


 秋山が言った。


「時刻と内容を書くのは陸さん。送信する前に、二人で内容を確認します」


「秋山さんが送るんじゃないの?」


 千紘が尋ねた。


「通常の報告は、あなたが読みます。緊急時は私が引き継ぎます」


「間違えたら」


「訂正して、もう一度送ります」


「怒られない?」


「連絡しなかった時の方が困ります」


 千紘は無線機の送信ボタンを見る。


「分かりました」


 悠太は資料室の外で、三十分ごとの音を記録する。


 花音は音の地図へ、変化した場所だけを書き加える。


 颯太と悠斗は、出発時と帰還時の名前と人数を確認する。


 美月、蓮は、その日の特別な仕事を持たなかった。


「俺は何もしないの?」


 蓮が聞く。


「非常用工具を一緒に確認してくれ」


 健二が工具袋を出す。


「持っていく物だけだ。開けるための道具は入れない」


 蓮が中身を見る。


 懐中電灯。


 細いロープ。


 チョーク。


 救急用品。


 小さな木製のくさび。


「バールは?」


「入れない」


「扉があったら」


「今日は開けない」


「閉じたら?」


「閉まりそうな場所へ入らない」


 蓮はバールから手を離した。


 木製のくさびだけを袋へ入れる。


「これは?」


「借りる」


「使わなかったら?」


「そのまま返す」


 蓮は工具袋の口を閉じた。


     *


 瀬田ハルは、黒板の「行く人間」を見ていた。


 健二。


 古賀。


 二人の名前だけが書かれている。


「私も行く」


 健二が振り返る。


「理由は」


「音と匂いが、前にいた場所に近いか確認したい」


「違うかもしれない」


「分かってる」


「中へは入らない」


 ハルはすぐには答えなかった。


「怖くなったら、言う」


「そこで戻るかもしれないぞ」


「それも、言う」


 健二は黒板へ名前を書く。


 瀬田ハル。


「学校には秋山さんが残る」


 健二が言った。


「八人を子どもだけにはしない」


 秋山が無線機から顔を上げる。


「旧南第三側は私が担当します。予定時刻を過ぎた場合、健二さんたちの判断を待たず、第三区へ通報します」


「それでいい」


 健二はハルを見る。


「俺が進んでも、ハルさんは止まっていい」


「うん」


「止まった時は、三人で戻る」


 ハルは黒板の名前を見る。


「戻る方にも書く?」


「先に書く」


     *


 出発前。


 颯太が出席簿を開いた。


「外へ行く人」


 名前を一つずつ読む。


「真柴健二」


「いる」


「瀬田ハル」


「います」


「古賀省吾」


「います」


 颯太は次の欄を見る。


「戻る人」


 同じ名前を読む。


「真柴健二」


「戻る」


「瀬田ハル」


「戻ります」


「古賀省吾」


「戻ります」


 中原悠斗が指で数える。


「行く人、三人」


 一度、指を戻す。


「戻る人も、三人」


 健二は秋山へ携帯無線機を見せた。


「十五分ごとに連絡する」


「一回途切れた時点で通報します」


「定時外でも、回線に変化があれば知らせてくれ」


「了解しました」


 陸が時計を見る。


「出発、八時四十一分」


 花音が地図上の旧南第三へ、三つの小さな丸を描く。


 丸は、まだ学校の中にある。


 蓮が工具袋を差し出した。


「くさび、返して」


「戻ったらな」


     *


 健二の車両で、旧川端公民館の手前まで進んだ。


 建物から直接見えず、すぐ道路へ戻れる場所に車両を止める。


 古い倉庫の陰。


 旧南第三との無線も届く。


 そこから先は歩いた。


 健二が先頭。


 古賀が中央。


 瀬田ハルが最後。


 三人の間隔は、三メートル以上空けない。


 川へ近づくにつれ、空気が湿っていく。


 使われていない側溝には、枯れ葉と黒い水がたまっていた。


 遠くで、重い金属音がした。


 がたん。


 少し遅れて、


 がたん。


 ハルの足が止まった。


 健二も止まる。


「続けられるか」


 ハルはすぐには答えない。


 耳を澄ませる。


 古賀が川向こうを見る。


 鉄橋を、小型の貨物車両が通過していた。


「似てる」


 ハルが言った。


「前に聞いた音と?」


「うん」


「同じか」


「分からない」


「続ける?」


 ハルは鉄橋を見た。


 最後の車両が橋を渡り終える。


「続ける」


 健二は携帯無線機を取った。


「こちら健二。第一定時連絡。八時五十六分。三名、異常なし。鉄橋の通過音を確認」


『旧南第三、受信しました』


 千紘の声だった。


 少し硬い。


「校内回線は」


『八時半、三つとも鳴りました。変化なし』


「了解。十五分後」


『気をつけて』


 健二は一度だけ送信機を見た。


「了解」


     *


 午前九時。


 旧川端公民館の外周へ到着した。


 二階建ての建物。


 正面玄関のガラスは割れている。


 看板は半分外れ、


 川端。


 の二文字だけが残っていた。


 川側には、地下へ下る傾斜路がある。


 幅は、小型車両一台分。


 坂の左側に排水溝。


 図面の条件と一致する。


 古賀は建物へ近づかず、旧図面と外形を見比べた。


「建物の位置、地下への傾斜路、河川側搬入口は一致します」


「第一候補のままか」


「はい。中を見ていないので、確定ではありません」


 健二は地面を見る。


 傾斜路の手前に、靴底の跡が残っている。


 扉へ向かうもの。


 戻ってくるもの。


 同じ箇所を何度か踏んだ跡もある。


「足跡がある」


 古賀は場所を確認する。


「建物周辺の土より、輪郭が新しい」


「人数は分かるか」


「俺には分からん」


 健二は答えた。


「重なってる」


 古賀は足跡ではなく、傾斜路のコンクリートを見る。


「ひび割れはありますが、今すぐ崩れる状態ではありません。ただし、地下入口まで左右の逃げ場がない」


 ハルは地面ではなく、建物を見ていた。


「この匂い」


「覚えてる?」


「川の泥と、濡れたコンクリート」


「前にいた場所と同じか」


「似てる」


「同じとは書かない」


「うん」


 健二は無線機を取った。


「第二連絡。九時。第一候補外周へ到着。看板と建物構造を確認。河川側に地下搬入口あり。新しい可能性のある足跡を確認。内部進入なし」


『旧南第三、受信しました』


 千紘の声。


 その後ろで、陸の声がする。


『回線の時間です』


「確認してくれ」


 無線の向こうが静かになる。


     *


 旧南第三。


 午前九時。


 床の下で、


 かち。


 一度目。


 零点八秒後。


 資料室のK―四端子箱から、


 かち。


 二度目。


 悠太は壁の奥へ耳を向けた。


 待つ。


 隠し部屋の継電器は鳴らなかった。


「二つだけ」


 悠太が言う。


 陸が記録する。


 九時。


 一音目、あり。


 二音目、あり。


 三音目、なし。


「伝える?」


 千紘が秋山を見る。


「定時外の変化です」


 秋山がうなずく。


「意味は決めず、そのまま伝えてください」


 千紘は送信ボタンを押した。


「旧南第三から健二さん。九時の回線音、一つ目と二つ目は鳴りました。隠し部屋の三つ目だけ鳴っていません」


 返事はすぐに来た。


『了解。時刻と順番を記録してくれ。端子箱と扉には触るな』


「分かりました」


『こちらは外周確認を続ける。中には入らない』


「受信しました」


 千紘は送信機から手を離した。


 陸が記録へ、


 意味不明。


 と書き加えた。


 人為操作とは書かなかった。


     *


 旧川端公民館。


 健二は携帯無線機を下ろした。


「三音目だけ消えた」


 ハルが地下搬入口を見る。


「私たちが来たから?」


「分からん」


 古賀が言った。


「回線先端の設備異常かもしれません。自動停止の可能性もあります」


「こちらへ来た時刻と重なった」


「所見には書けます。原因とは書けません」


 地下搬入口の扉には、南京錠がついていた。


 扉や金具は古い。


 錠だけが、周囲より新しい。


 表面の傷も少ない。


「錠は交換されている」


 古賀が言った。


「時期は分かるか」


「断定できません。ただ、扉と同じ年月を経た物ではありません」


 健二は傾斜路の距離を見る。


 地下扉まで、およそ十二メートル。


 左右はコンクリートの壁。


 中へ入れば、戻る道は同じ一本しかない。


 その時。


 地下搬入口の奥から、重い金属音がした。


 ごん。


 三人とも動かなかった。


 少し間を置いて、


 ごん。


 二度目。


 扉が動いた音か。


 内部の設備か。


 誰かが触れたのか。


 判断できない。


 ハルの呼吸が速くなる。


「前にも聞いた?」


 健二が尋ねた。


 ハルは首を横へ振る。


「分からない」


「戻る?」


 返事がない。


 ハルは地下の扉を見たまま、拳を握っている。


 古賀が図面を閉じた。


「ここから先は、施設確認の範囲を超えます」


「中に人がいる可能性」


「否定できません」


「入れる構造か」


「入ることはできます」


「戻れるか」


「途中で扉を閉じられれば、別です」


 古賀は傾斜路の左右を見る。


「警護も、外周監視も、救護担当もいません」


 健二は地下扉を見る。


 足跡。


 新しい錠。


 消えた三音目。


 内部からの金属音。


 今なら、何かを確認できるかもしれない。


 次に来た時には、消されているかもしれない。


 だが、十二メートルの傾斜路へ三人で入れば、逃げ道は一本になる。


「入らない」


 健二が言った。


 ハルの口が開く。


「ここかもしれない」


「そうかもしれない」


「戻ったら、なくなるかもしれない」


「その可能性はある」


「じゃあ」


「今日は外から確認する日だ」


「でも」


「足跡も、錠も、音も見つけた」


 健二はハルを見た。


「怖いか」


 ハルはすぐにうなずいた。


「怖い」


 一度、息を吸う。


「ここまで来たのに、戻る方が怖い」


「何が」


「また、誰かが消えるかもしれない」


 健二は傾斜路の先を見る。


「だから戻る」


 ハルが顔を上げる。


「中へ入っても、全員を戻せる準備で来直す」


「今日、何も持って帰れない」


「三人を持って帰る」


 ハルは何も言わなかった。


 地下扉を見る。


 やがて、握っていた手を開く。


「帰る」


「三人でな」


 古賀がうなずく。


「撤収記録を取ります」


 健二は無線機を取った。


「こちら健二。撤収を開始する」


『旧南第三、受信しました』


「三名、異常なし。内部進入なし。新しい可能性のある足跡、交換された錠、地下からの金属音二回を確認」


『帰校予定は』


 陸の声が聞こえる。


「二十五分後」


『十分快遅れたら、第三区へ通報します』


「そうしてくれ」


 健二は無線機を戻した。


 傾斜路へ背を向ける。


 三人で、来た道を戻り始めた。


     *


 三人が公民館から離れて五分後。


 旧南第三の資料室。


 悠太は封印された扉へ耳を向けていた。


 床の下からの試験音は鳴っていない。


 資料室の端子箱も静かだった。


 その奥で突然、


 こつ。


 三音目に当たる音だけが、一度鳴った。


 悠太が顔を上げる。


「戻った」


 陸が時計を見る。


「九時十一分」


 千紘は秋山を見る。


「定時じゃない」


「変化です」


 秋山が答えた。


 千紘は送信ボタンを押す。


「旧南第三から健二さん。九時十一分。隠し部屋の三つ目の音だけ、一回鳴りました」


 すぐには返事がない。


 千紘の肩に力が入る。


 もう一度、送信ボタンを押す。


「聞こえますか」


『聞こえてる』


 健二の声が返った。


 教室の空気が動く。


『今、鉄橋の手前だ。三人とも異常なし』


「三つ目だけ鳴りました。一つ目と二つ目は鳴ってません」


『そのまま記録してくれ。箱も扉も触るな』


「分かりました」


『予定どおり戻る』


 千紘は送信機から手を離した。


 陸が記録へ書く。


 九時十一分。


 三音目のみ、一回。


 原因不明。


 悠斗が教室に残っている人数を数える。


 千紘。


 陸。


 悠太。


 美月。


 蓮。


 花音。


 颯太。


 最後に自分。


「八人」


 秋山を見て、


「九人」


 と言い直す。


「合ってます」


 秋山が答えた。


 颯太は出席簿の三つの名前を見る。


 健二。


 ハル。


 古賀。


 まだ丸はつけない。


「待つ」


 颯太が言った。


     *


 午前九時二十八分。


 校門の向こうに、三人の姿が見えた。


 先頭に健二。


 中央に瀬田ハル。


 最後に古賀省吾。


 颯太は校舎の入口で出席簿を開いた。


 悠斗が隣に立つ。


「真柴健二」


「戻った」


 颯太が名前の横へ丸をつける。


「瀬田ハル」


「戻りました」


 二つ目の丸。


「古賀省吾」


「戻りました」


 三つ目の丸。


 悠斗が数える。


「戻る人、三人」


 一度、三人の顔を見る。


「戻った人も、三人」


 健二は工具袋を開いた。


 木製のくさびを取り出す。


 蓮へ返した。


「使わなかった」


「入らなかった?」


「入らなかった」


「音がしたのに?」


「したから、入らなかった」


 蓮はくさびを見る。


「次は使う?」


「使うかどうかを決められる人数で行く」


「俺も?」


「工具の準備は頼む」


「行くのは」


「まだ決めない」


 蓮は不満そうに口を曲げた。


 それでも、木製のくさびを工具箱の元の場所へ戻した。


 美月が瀬田ハルを見る。


「寒い?」


「寒い」


「手?」


「手も、足も」


 美月は暖房の近くから毛布を一枚持ってくる。


 ハルの膝へ掛けた。


「ありがとう」


 ハルは、大丈夫とは言わなかった。


     *


 古賀は旧事務所の机へ、現地記録を広げた。


 第一候補と建物外形の一致。


 河川側地下搬入口。


 足跡。


 周囲より新しい南京錠。


 地下から聞こえた金属音二回。


 午前九時、三音目のみ停止。


 午前九時十一分、三音目のみ単発復帰。


 一つずつ、確認した人間と時刻を書く。


「人がいたと書かないのか」


 健二が聞いた。


「見ていません」


「こちらの接近に反応した可能性は」


 古賀は所見欄へ書く。


 調査班接近中、回線末端側の反応消失。


 撤収開始後、単発復帰。


 人為操作の可能性を排除できず。


 設備故障または自動復帰の可能性も残る。


「面倒な書き方だな」


「見ていない人間を、いたことにはできません」


 古賀は別紙を出した。


「次回は、施設調査だけでは足りません」


「必要な人間は」


「外周を確認する者。中へ入る者。救護担当。記録担当。留守側の連絡担当」


「警護は」


「人がいる可能性を前提にするなら、要請します」


「いつ来る」


「時刻は約束できません」


「急がせてくれ」


「要請には、今日の記録を添えます」


 古賀は地図を健二の前へ置いた。


 旧南第三から、旧川端公民館の第一候補まで引かれた線。


 線は、建物の外周で止まっている。


 地下搬入口へは届いていない。


「今日は、ここまでです」


 健二は線の終点を見る。


 消さなかった。


 延ばしもしなかった。


     *


 午前九時三十分。


 旧南第三の床下で、


 かち。


 一度目の音が鳴った。


 零点八秒後。


 資料室のK―四端子箱から、


 かち。


 二度目。


 悠太は、閉じた扉の奥へ耳を向ける。


 待つ。


 三度目の音は、鳴らなかった。


 颯太は出席簿を閉じた。


 表紙の内側には、三つの名前と、三つの丸が残っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。