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第九十八話 声が出ない

## 第九十八話 声が出ない


 白い天井が見えた。


 最初に思ったのは、どこだろう、ではなかった。


 息が、浅い。


 ただ、それだけだった。


 吸おうとすると、胸の奥で何かが引っかかる。


 深く吸えない。


 空気が途中で止まる。


 身体が、息を怖がっている。


 めぐみは、もう一度吸おうとした。


 痛みが走った。


 胸の左側から、背中の奥へ。


 喉の奥に、鉄の味が残っている。


 口の中が乾いていた。


 唇が動かない。


 指も動かない。


 身体が、自分のものではないみたいだった。


 遠くで、音がしている。


 規則的な電子音。


 布の擦れる音。


 誰かが紙をめくる音。


 小さな足音。


 誰かが言った。


「宮崎さん」


 めぐみは、その声の方へ目だけを動かそうとした。


 うまく動かない。


「宮崎めぐみさん。聞こえますか」


 聞こえている。


 そう答えたかった。


 でも、喉が動かなかった。


 息が足りない。


 声にする前に、空気が消える。


「まばたきできますか」


 めぐみは、ゆっくりまぶたを閉じた。


 開ける。


 それだけで疲れた。


「反応あります」


 誰かが言った。


 別の声が返す。


「無理に喋らせないで」


「酸素、維持」


「胸腔側、まだ見て」


「覚醒は浅い。痛みを上げすぎるな」


 言葉の意味は半分しか分からなかった。


 でも、自分がまだ生きていることだけは分かった。


 生きている。


 死んでいない。


 死亡ではない。


 未確認でもない。


 ここにいる。


 めぐみは、そのことを誰かに伝えようとした。


 なお。


 そう呼ぼうとした。


 唇だけが、少し動いた。


 な。


 そこで止まった。


 声は出なかった。


 喉の奥が、空気を拒んだ。


 痛みが胸に刺さる。


 目の端に涙がにじんだ。


 泣きたいわけではなかった。


 でも、身体が勝手に涙を作った。


「苦しいですか」


 看護師の声がした。


 めぐみは、まばたきをした。


「喋らなくていいです」


 喋らなくていい。


 その言葉が、胸に沈んだ。


 違う。


 喋らなくていいわけじゃない。


 言わなければならない。


 なおに。


 私は死んでいない。


 あなたは、また騙されている。


 あの日もそうだった。


 奈良でもそうだった。


 あなたは私を捨てていない。


 私は、あなたに捨てられていない。


 だから今度は。


 今度は、私を死亡にしないで。


 そう言いたかった。


 でも、声が出ない。


 喉は、名前を形にできなかった。


 扉の方で、足音が止まった。


 めぐみは目を動かした。


 白い壁。


 薄いカーテン。


 点滴。


 酸素の管。


 そして、えりがいた。


 髪は濡れていなかった。


 でも、顔には雨の名残があった。


 眠っていない顔だった。


 えりは、病室の入口で少しだけ立ち止まった。


 それから、何も言わずに近づいた。


「起きたか」


 めぐみはまばたきをした。


「よし」


 えりは椅子に座らなかった。


 ベッドの横に立ったまま、めぐみを見下ろした。


 優しい顔ではなかった。


 泣きそうな顔でもなかった。


 いつもの、少し怖い顔だった。


 けれど、めぐみはその顔を見て、少しだけ息がしやすくなった。


「喋るな」


 えりが言った。


「今、喋ったら胸が持たない」


 めぐみは唇を動かそうとした。


 えりが、すぐに言った。


「なおのことなら、今は喋るな」


 めぐみの目が揺れた。


 えりは気づいていた。


 唇の形に。


 声にならなかった名前に。


「分かってる」


 えりは低く言った。


「あんたが呼ぼうとしてる名前くらい、分かってる」


 めぐみは、また涙を浮かべた。


 えりは手を伸ばさなかった。


 涙を拭かなかった。


 ただ、そばに立っていた。


「あいつは死んでない」


 めぐみの呼吸が止まりかけた。


 電子音が少し速くなる。


 看護師が顔を上げた。


 えりが小さく手で制した。


「落ち着け。死んでない。こっちで拾った」


 めぐみは、えりを見た。


 必死に。


 目だけで聞いた。


 どこに。


 どんな状態で。


 私のことを知っているの。


 私が生きていると伝わったの。


 えりは、首を横に振った。


「まだ、会わせられない」


 めぐみの目が沈んだ。


「聞け。あいつは、あんたが死んだと思ってる」


 胸が、痛みとは違う形で裂けた。


 めぐみは声を出そうとした。


 空気が詰まる。


 看護師が近づく。


 えりが少しだけ身を乗り出した。


「喋るな」


 めぐみは、それでも唇を動かした。


 な。


 お。


 音にはならない。


 えりの眉が、わずかに寄った。


「分かってる」


 声が低くなる。


「分かってるけど、今は無理だ」


 めぐみは首を動かそうとした。


 動かなかった。


 ほんの少し動いただけで、胸が痛む。


 身体が自分を止める。


 息が追いつかない。


 悔しかった。


 こんなに呼びたいのに。


 あの人は、また一人で紙を信じているかもしれないのに。


 自分は、名前を呼ぶことすらできない。


 えりは、ベッドの脇に置かれたクリップボードを取った。


 紙が挟まれている。


 医療用の記録。


 搬送時刻。


 処置。


 血圧。


 呼吸。


 意識。


 名前。


 宮崎めぐみ。


 そこには、生きている人間としての数字が並んでいた。


 胸の動き。


 酸素の量。


 投与した薬。


 傷の場所。


 全部、めぐみがまだここにいることを示す紙だった。


 えりは、それを一度見た。


 それから、もう一枚の紙を取り出した。


 濡れない袋に入った紙。


 角が折れている。


 黒崎側の書式だった。


 宮崎めぐみ。


 死亡確認。


 めぐみは、その文字を読んだ瞬間、目を閉じた。


 自分の名前が、死んだ人間の欄に置かれている。


 それだけで、息が止まりそうだった。


 紙は、人を殺す。


 知っていた。


 何度も見てきた。


 未確認という言葉を、死亡にしないために使ってきた。


 でも今度は、自分が紙に殺されようとしている。


 えりは、その紙を見た。


 表情は変わらなかった。


 ただ、指先だけが少し強くなった。


 紙の端が曲がる。


「これを書いたやつは、あんたを見てない」


 えりが言った。


「息も見てない。胸の動きも見てない。手の温度も見てない」


 めぐみは、薄く目を開けた。


「だから、これは死亡確認じゃない」


 えりは赤いペンを取った。


 紙の上に、太く線を引いた。


 死亡確認。


 その文字が消された。


 代わりに、えりは書いた。


 未確認。


 それから、もう一枚の内部記録に目を落とした。


 そこには、医療班の字で書かれていた。


 生存。


 処置継続。


 搬送先秘匿。


 えりは、その二枚を並べた。


「外に出す紙は、未確認」


 めぐみを見る。


「中に残す紙は、生存」


 めぐみの目が揺れた。


「分かるか」


 まばたき。


「外では、まだ探していることにする。白羽に見つけさせないために」


 まばたき。


「でも、内側では生きてる。ちゃんと生存で残す。あんたを紙で殺さない」


 めぐみは、ゆっくり息を吸おうとした。


 痛い。


 でも、少しだけ吸えた。


 えりは、紙を閉じた。


「あんたは死んでない」


 短く言った。


「あいつも死んでない」


 めぐみの目に、また涙が浮かんだ。


「ただ、まだ届かない」


 その言葉が、一番痛かった。


 生きている。


 でも、届かない。


 四年前と同じだった。


 直樹は死んでいなかった。


 でも、届かなかった。


 今度は自分が生きている。


 でも、なおに届かない。


 名前はある。


 記録もある。


 でも、声が届かない。


 めぐみは、右手を動かそうとした。


 指先が重い。


 少しだけ震える。


 えりが気づいた。


「何」


 めぐみは、指を動かした。


 書く形。


 えりはすぐに分かった。


「紙か」


 まばたき。


「今は無理」


 めぐみは、もう一度指を動かした。


 小さく。


 弱く。


 でも、諦めていなかった。


 えりは、ため息をついた。


「本当に、似た者同士だな」


 看護師が止めようとした。


「まだ負担が――」


「分かってる。長くはさせない」


 えりは、小さなメモ用紙を一枚取った。


 ペンではなく、芯の柔らかい鉛筆を探した。


 めぐみの手に、そっと添える。


 握らせるのではない。


 指の間に置く。


 めぐみは、鉛筆を掴もうとした。


 指が震えた。


 力が入らない。


 胸が痛む。


 息が浅くなる。


 それでも、紙の上へ手を動かした。


 えりが紙を支える。


「一文字だけ」


 めぐみは、まばたきをした。


「それ以上は止める」


 めぐみの指が、紙に触れた。


 鉛筆の先が、白い紙を引っかく。


 線が歪む。


 途中で止まる。


 息が苦しい。


 視界が滲む。


 でも、めぐみは動かした。


 一本目の線。


 小さく曲がる線。


 力のない、震えた文字。


 な。


 そこまでだった。


 鉛筆が指から落ちた。


 看護師がすぐに支える。


 えりが紙を取る。


 めぐみは、続きを書こうとした。


 お。


 そこまで書きたい。


 なお、と書きたい。


 私は生きている、と書きたい。


 あの日、あなたは私を捨てていない、と書きたい。


 今度は私が帰る、と書きたい。


 でも、身体が落ちていく。


 意識が白くなる。


 胸の痛みが遠くなる。


 えりの声が聞こえた。


「十分」


 十分じゃない。


 めぐみは思った。


 なお、まで届いていない。


 一文字だけでは、届かない。


 けれど、えりはその紙を見ていた。


 震えた一文字。


 な。


 えりは、折らなかった。


 破らなかった。


 捨てなかった。


 医療記録の横に置いた。


 生存。


 搬送先秘匿。


 未確認。


 そして。


 な。


 えりは、小さく言った。


「残した」


 めぐみのまぶたが重くなる。


「ちゃんと残した」


 めぐみは、もう返事ができなかった。


 でも、聞こえていた。


 声は出ない。


 呼べない。


 書けない。


 届かない。


 それでも、一文字だけ残った。


 なおへ続く、一文字。


 死亡確認の紙にはならなかった。


 未確認で隠され。


 生存で守られ。


 声にならない名前の最初だけが、白い紙の上に震えていた。


 めぐみは、また眠りへ落ちていく。


 息は浅い。


 胸は痛い。


 声は出ない。


 でも、死んでいない。


 紙の上で殺されていない。


 まだ、ここにいる。


 まだ、呼ぼうとしている。


 まだ、帰ろうとしている。


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