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第九十七話 福岡仁 改正版

## 第九十七話 福岡仁


 二年のあいだ、福岡仁は日本を歩いた。


 奈良だけでは終わらなかった。


 白い光は、ひとつではなかった。


 都市の地下。


 駅。


 橋。


 港。


 通信施設。


 貯水場。


 病院の搬入口。


 日本は、少しずつ切られていった。


 誰が始めたのか。


 外から撃たれたのか。


 内側から割れたのか。


 思想だったのか。


 宗教だったのか。


 金だったのか。


 誰かの怒りだったのか。


 その頃の仁には、名前などどうでもよかった。


 人は名前をつけたがる。


 テロ。


 暴動。


 内戦。


 国民保護事案。


 臨時戦時対応。


 非常時統制。


 けれど現場では、名前より先に血が流れる。


 名前より先に建物が倒れる。


 名前より先に子どもが泣く。


 仁は、動いた。


 命令があれば動いた。


 命令がなくても動いた。


 担いだ。


 運んだ。


 押し込んだ。


 引きずった。


 壊れた扉を蹴った。


 燃える道を抜けた。


 水のない病院へ水を運んだ。


 通信が死んだ町で、紙の名簿を抱えて走った。


 誰かの名前を聞いた。


 聞いた名前を書いた。


 書いた紙を渡した。


 渡した紙が、次の日には燃えていた。


 それでもまた書いた。


 右のポケットには、しばらく何かが入っていた。


 小さくて、硬いもの。


 角のあるもの。


 仁は、それが何なのか分からなかった。


 ただ、手が時々そこへ行った。


 戦闘の前。


 移動の前。


 眠る前。


 起きた直後。


 ポケットに触れて、そこに重さがあることだけを確かめる。


 何のためかは分からない。


 誰のものかも分からない。


 でも、なくしてはいけない気がした。


 けれど、戦場で「なくしてはいけないもの」は簡単になくなる。


 ある日、燃えた病院の裏口で担架を運んだ。


 ある日、崩れた橋の下で子どもを引き上げた。


 ある日、泥の中で銃声を聞いた。


 ある日、濡れた地下通路で三人を背負った。


 いつだったのかは分からない。


 どこの町だったのかも分からない。


 気づいた時には、右のポケットは軽くなっていた。


 仁は、その時も何も思い出さなかった。


 軽い。


 ただ、それだけだった。


 少しだけ胸が苦しくなった。


 でも、すぐ前で人が倒れていた。


 だから、立ち止まらなかった。


 名前の分からない重さは、名前の分からないまま失われた。


 それからも、仁は動き続けた。


 手はいつも汚れていた。


 灰。


 血。


 泥。


 油。


 誰かの服の繊維。


 紙の切れ端。


 携帯端末は、何度も圏外になった。


 やがて、圏外という表示すら見なくなった。


 基地局は落ちた。


 サーバーは焼けた。


 自治体間の照会は途切れた。


 避難者データは途中で消えた。


 誰かが、海底ケーブルが切られたと言った。


 誰かが、衛星が妨害されていると言った。


 真実は分からなかった。


 ただ、日本のインターネットは、日に日に痩せていった。


 検索できない国になっていった。


 誰が生きているのか。


 どこへ運ばれたのか。


 どの病院にいるのか。


 どの避難所に移ったのか。


 誰の名簿に載っているのか。


 分からなくなった。


 人を探すには、歩くしかなかった。


 紙を見るしかなかった。


 生きている人間に聞くしかなかった。


 そして、生きている人間は、日ごとに減っていった。


 福岡仁は、戦った。


 日本語で命令された。


 英語で怒鳴られた。


 フランス語で確認された。


 方言で助けを求められた。


 子どもの泣き声で振り向いた。


 女の人の悲鳴で走った。


 老人の手をほどいた。


 若い兵士の目を閉じた。


 名札が焼けた人間を、未確認で残した。


 死亡確認を急がせる声には、何度も怒鳴り返した。


「まだ息がある」


 その言葉だけは、何度も使った。


 なぜか分からなかった。


 どこかで聞いた言葉のような気がした。


 誰かに言わなければならなかった言葉のような気がした。


 けれど、その誰かの顔は出てこなかった。


 夢を見ることがあった。


 夜ではない。


 戦場では、眠る時間が夜とは限らない。


 車両の床。


 壊れた校舎。


 役所の廊下。


 地下通路。


 病院の倉庫。


 五分だけ目を閉じる。


 そのたびに、白い階段が出てきた。


 手首。


 細い腕。


 自分の手。


 誰かを強く押す感触。


 それから、閉まる扉。


 夢の中で、誰かが名前を呼ぶ。


 なお。


 仁は目を開ける。


 その名を知らない。


 知らないはずだった。


 でも、胸の奥だけが痛んだ。


「大丈夫か」


 誰かが聞く。


 仁は、いつも同じように答えた。


「問題ない」


 問題はあった。


 あるはずだった。


 けれど、問題の名前が分からなかった。


 だから、問題ではなかった。


 二年のあいだ、福岡仁は便利な人間だった。


 どこへでも行けた。


 どこでも眠れた。


 何を見ても止まらなかった。


 壊れた町でも動けた。


 死体の横でも食べられた。


 通信が死んでも、地図がなくても、誰かを運べた。


 だから、何度も使われた。


 使える人間は、使われる。


 仁はそれを知っていた。


 外人部隊で覚えた。


 戦場で覚えた。


 人間は、役に立つあいだは名前を呼ばれる。


 役に立たなくなったら、番号になる。


 番号にもならなくなったら、紙の上で消える。


 だから仁は、役に立った。


 消えないために。


 理由は、それだけでよかった。


 内戦が終わったと言われたのは、二年目の冬だった。


 終わった、という言葉は静かだった。


 誰も大きく喜ばなかった。


 終わったからといって、死んだ人間が戻るわけではない。


 壊れた駅が戻るわけでもない。


 燃えた名簿が戻るわけでもない。


 ただ、新しい爆発が少し減った。


 銃声が遠くなった。


 検問がひとつ減った。


 夜に灯りのつく町が少し増えた。


 それを、人は終戦と呼んだ。


 仁は、その日も水を運んでいた。


 古い庁舎の一階。


 割れた窓に板が打ちつけられている。


 廊下には仮設の名簿が並んでいた。


 生存。


 搬送。


 避難。


 死亡。


 未確認。


 紙の匂いがした。


 湿った紙。


 古いインク。


 消えかけた名前。


 仁は、ポリタンクを置いた。


 手を洗おうとして、洗面台の前に立った。


 蛇口をひねる。


 細い水が出た。


 赤茶けた水だった。


 仁は、その水で手を洗った。


 灰が流れる。


 血が流れる。


 皮膚のひびに入った黒い汚れが、少しだけ薄くなる。


 その時だった。


 右手が、勝手にポケットへ伸びた。


 もう何度も空だと知っている場所。


 何も入っていない場所。


 それなのに、指がそこを探った。


 布だけがあった。


 空だった。


 仁は、手を止めた。


 水が流れ続けている。


 右のポケット。


 空。


 そこに、何かがあったはずだった。


 何かを入れていたはずだった。


 何を。


 分からない。


 でも、ない。


 ないことだけが、急に痛みになった。


 その瞬間、白い光が戻ってきた。


 映像ではなかった。


 頭の奥に、いくつもの破片が刺さるように戻ってきた。


 ――後で、話す。


 ――段取りがある。


 ――言い方を間違えた。


 仁の呼吸が止まった。


 洗面台に手をつく。


 膝が揺れる。


 ――奈良。


 ――駅前。


 ――昇任祝い。


 ――鹿。


 ――笑った顔。


 ――少し不安そうな目。


 ――右のポケット。


 小さな箱。


 指輪。


 仁は、洗面台の前で固まった。


 指輪。


 その言葉が、頭の奥で弾けた。


 自分は、指輪を買っていた。


 浮気ではない。


 隠し事ではない。


 未来を隠していた。


 めぐみに渡すつもりだった。


 これからは日本にいる。


 もう急にいなくならない。


 帰る場所を曖昧にしない。


 そう言うつもりだった。


 後で話す。


 約束する。


 その後は、来なかった。


 仁の喉が鳴った。


 水の音が遠くなる。


 さらに、別の破片が来る。


 ――白い光。


 ――地下への入口。


 ――細い腕。


 ――自分の手。


 ――雲を見るな。


 ――息を浅くしろ。


 ――入れ。


 ――嫌。


 ――一緒に。


 仁の胸の奥で、何かが裂けた。


 そうだ。


 押した。


 自分の手で。


 めぐみを押した。


 突き飛ばした。


 死ぬ側から、生きる側へ。


 自分が一緒に入るためではなく。


 めぐみを生かすために。


 押した。


 扉が閉まる。


 めぐみの口が動く。


 なお。


 その形だけが、白い光の中から戻ってきた。


 仁は膝から崩れた。


 洗面台の下に、水が落ちる。


 手から水が垂れる。


 胃がひっくり返る。


 吐いた。


 胃の中には何もなかった。


 それでも吐いた。


 廊下で誰かが呼んだ。


「Jin?」


 違う。


 その名前ではない。


 違う。


 違う。


 違う。


 仁は口を開けた。


 声が出なかった。


 真柴直樹。


 その名前が、二年ぶりに身体の奥から浮かんだ。


 なお。


 その呼び方が、さらに深い場所から戻ってきた。


 めぐみ。


 その名前を思い出した瞬間、二年分の音が止まった。


 銃声も。


 怒号も。


 炎の音も。


 紙をめくる音も。


 全部、遠くなった。


 残ったのは、めぐみの声だけだった。


 なお。


 仁は、洗面台の下で震えた。


 二年間、どんな現場でも止まらなかった手が、その時だけ震えた。


 右のポケットは空だった。


 指輪はない。


 渡せなかった。


 失くした。


 違う。


 失くしたことすら、忘れていた。


 めぐみを生きる方へ押した手で。


 めぐみに渡すはずだった未来を、どこかに置いてきた。


 仁は立ち上がった。


 足がふらついた。


 廊下の壁に手をつく。


 名簿が視界に入る。


 生存。


 死亡。


 未確認。


 その文字が、急に読めなくなる。


 仁は、そこから逃げるように外へ出た。


 最初に向かったのは、奈良だった。


 誰にも許可を取らなかった。


 終戦直後の移動は、道ではなかった。


 検問。


 壊れた橋。


 燃えた車両。


 動かない電車。


 途中から歩いた。


 途中から荷台に乗せてもらった。


 途中からまた歩いた。


 何度も止められた。


 名前を聞かれた。


 仁は、そのたびに口ごもった。


 福岡仁。


 そう言えば通れる。


 真柴直樹。


 そう言えば、何かが壊れる気がした。


 でも、もう壊れていた。


 奈良に着いた時、そこは記憶の中の奈良ではなかった。


 観光地ではなかった。


 駅の名は、半分焼けていた。


 案内板は黒く歪んでいた。


 鹿の絵は、白く剥がれていた。


 土産物屋の並びは、壁だけになっていた。


 あの日、めぐみと歩いた場所は、どこも少しずつ違っていた。


 違っているのに、足だけが覚えていた。


 ここで笑った。


 ここで立ち止まった。


 ここで、右のポケットに触れた。


 ここで、後で話すと言った。


 ここで、めぐみが不安そうに目を細めた。


 仁は、焼け残った壁の前で止まった。


 古い掲示が貼り直されていた。


 避難者。


 死亡者。


 搬送先不明。


 未確認。


 雨風で文字が薄くなっている。


 紙は、紙の形を保つだけで精一杯だった。


 仁は、めぐみの名前を探した。


 宮崎。


 宮崎。


 宮崎。


 いくつかあった。


 その中に、一枚だけ、指が止まる紙があった。


 宮崎め――


 そこまで読めた。


 その先は焼けていた。


 名の最後が欠けている。


 住所も途中で切れている。


 年齢も滲んでいる。


 性別の欄は読める。


 搬送先の欄は空白。


 照合欄には、赤い字でこう書かれていた。


 死亡推定。


 身元確認未了。


 本人確定不可。


 仁は、その文字を見た。


 息が止まった。


 宮崎め――


 めぐみかもしれない。


 違うかもしれない。


 死亡推定。


 身元確認未了。


 本人確定不可。


 死んだと書かれているようで。


 まだ分からないとも書かれている。


 どちらにも行けない紙だった。


 仁は、その紙に触れようとして、やめた。


 指が震えていた。


 触れたら、めぐみを死亡にしてしまう気がした。


 触れなければ、探していないことになる気がした。


 どちらもできなかった。


 その横に、別の掲示があった。


 軍関係者。


 協力要員。


 行方不明。


 身元照会。


 名前が並んでいる。


 仁は、そこに自分の名前を見つけた。


 真柴直樹。


 MIA。


 それだけだった。


 説明もない。


 搬送先もない。


 死亡でもない。


 生存でもない。


 MIA。


 Missing in Action.


 行方不明。


 戦闘中行方不明。


 紙の上で、真柴直樹はそこにいた。


 生きている場所ではなく。


 死んだ場所でもなく。


 どこにも行けない欄に。


 仁は、自分の名前を見ていた。


 真柴直樹。


 MIA。


 その隣に、宮崎め――


 死亡推定。


 身元確認未了。


 本人確定不可。


 二枚の紙が、同じ壁に貼られていた。


 自分は行方不明。


 めぐみは、死んだかもしれない。


 でも、本人かどうか分からない。


 どちらの紙にも、帰り道はなかった。


 仁の膝が落ちそうになった。


 でも、落ちなかった。


 落ちることすら、できなかった。


 右のポケットが空だった。


 そこにあったはずの指輪もない。


 後で話すと言った言葉もない。


 めぐみの声もない。


 ただ、紙だけがある。


 行方不明。


 死亡推定。


 本人確定不可。


 その言葉が、胸の奥で重なった。


 仁は、壁の前で長い時間立っていた。


 誰かが横を通った。


 誰かが泣いた。


 誰かが名前を探した。


 誰かが紙を剥がそうとして止められた。


 風が吹く。


 紙の端が揺れる。


 宮崎め――


 真柴直樹。


 MIA。


 その二つだけが、仁の目に残った。


 市役所へも行った。


 仮設窓口だった。


 職員は疲れ切っていた。


 端末は置かれていたが、画面はついていない。


 紙の箱が積まれている。


 焼けた名簿。


 濡れた名簿。


 途中で途切れた名簿。


 何度も書き写された名前。


「宮崎めぐみを探しています」


 仁は言った。


 職員は、顔を上げた。


 疲れた目だった。


「漢字は」


 仁は答えた。


 職員は紙を探した。


 何枚もめくった。


 別の箱を開けた。


 まためくった。


 長い時間が過ぎた。


「該当の可能性はあります」


「どこにいる」


「分かりません」


「生きているのか」


「確認できません」


「死亡か」


 職員は、少しだけ黙った。


「死亡推定の記録があります。ただし、本人確定ではありません」


 仁の喉が動いた。


「本人確定ではない?」


「はい」


「なら、違うかもしれない」


「その可能性もあります」


「生きている可能性は」


 職員は、すぐには答えなかった。


 その沈黙で、仁は半分壊れた。


「確認できません」


 職員は言った。


「搬送先は」


「記録が切れています」


「避難所は」


「移転しています。移転先の名簿が残っていません」


「ネットで照会は」


 職員は、少しだけ顔を歪めた。


 笑いではなかった。


 悲しみにも近くなかった。


 疲れた人間が、何度も同じ答えを言ってきた顔だった。


「もう、繋がりません」


 仁は黙った。


「この二年で、ほとんど落ちました。サーバーも、回線も、避難者データも、自治体間照会も。残っているところもあります。でも、ここからは引けません」


「探せないのか」


「紙で探すしかありません」


 紙。


 仁は、机の上の紙を見た。


 汚れた指。


 薄い文字。


 滲んだインク。


 人を残すための紙。


 けれど、人を閉じ込める紙。


 死亡推定。


 本人確定不可。


 MIA。


 未確認。


 その言葉が、ぐるぐると回る。


 職員が、小さな紙片を差し出した。


「これだけなら」


 そこには、焼けた端にかろうじて文字が残っていた。


 宮崎め――


 下の続きはなかった。


 住所もない。


 日付も途中で切れている。


 死亡推定の写しなのか。


 避難者名簿の一部なのか。


 搬送記録なのか。


 それすら分からなかった。


 それでも仁は受け取った。


 捨てられなかった。


 宮崎め――


 その途中で切れた名前だけで、彼は立っていた。


 その日、仁は知った。


 名前は残っていても、人に届くとは限らない。


 紙に書かれていても、声が返るとは限らない。


 死亡と書かれていても、本人とは限らない。


 未確認と書かれていても、生きているとは限らない。


 MIAと書かれていれば、自分でさえ自分の場所を失う。


 紙は、人を残す。


 紙は、人を閉じ込める。


 紙は、人を殺す。


 紙は、まだ探しているふりをしながら、探す道を奪うこともある。


 そして、その空白に入り込む者がいる。


 死亡にできない人間。


 生存を証明できない人間。


 探している人間。


 探されている人間。


 その隙間に、別の名を貼る者がいる。


 福岡仁。


 真柴直樹。


 MIA。


 その時の仁には、まだ黒崎の名前は見えていなかった。


 白羽の輪郭も、まだ掴めていなかった。


 ただ、自分の中で何かが決定的にずれたことだけは分かった。


 めぐみを生かした。


 でも、帰れなかった。


 思い出した。


 でも、探せなかった。


 指輪はない。


 言葉もない。


 名前は途中で切れている。


 自分はMIAのまま、紙に残っている。


 仁は、焼けた奈良の空の下で、宮崎め――とだけ書かれた紙片を握った。


 それがめぐみなのか、違う誰かなのか。


 分からない。


 分からないから捨てられなかった。


 分からないから壊れた。


 死亡なら泣けた。


 生存なら走れた。


 でも、紙はそのどちらも許さなかった。


 死亡推定。


 本人確定不可。


 MIA。


 その三つの言葉だけを胸に入れて、彼は歩き出した。


 真柴直樹として帰るには、遅すぎた。


 福岡仁として生きるには、思い出しすぎた。


 だから、その日から彼は、どちらの名前にも戻れないまま歩いた。


 めぐみを探すために。


 めぐみに届かないまま。


 未確認の国を。


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