第九十六話 押し込まれた手 改正版
## 第九十六話 押し込まれた手
右のポケットに、小さな箱が入っていた。
直樹は、その重さを何度も確かめていた。
指で触れる。
離す。
また触れる。
箱は、そこにある。
なくなっていない。
それだけで少し息が浅くなった。
戦場で緊張することはあった。
夜明け前の移動。
建物へ入る直前。
知らない路地を曲がる時。
通信が途切れた時。
けれど、それとは違った。
奈良の駅前で、めぐみの隣を歩いているだけなのに、直樹は落ち着かなかった。
手が勝手にポケットへ行く。
時計を見る。
人の流れを見る。
またポケットへ触れる。
めぐみが振り返る。
直樹は何でもない顔を作る。
失敗していることは、自分でも分かっていた。
「何か隠してる?」
めぐみが聞いた。
「隠してない」
嘘ではなかった。
いや、嘘だった。
隠している。
隠しているけれど、悪いことではない。
悪いことではないのに、言えない。
それが自分でも情けなかった。
めぐみは二十四歳になっていた。
学生の頃より、声が少し低くなった。
言葉の前に、短い間が入るようになった。
それでも、直樹をからかう時だけは、図書室の窓際にいた頃のままだった。
「その返事、隠してる時の返事」
「そんな分類あるのか」
「あるよ。私の中には」
直樹は返せなかった。
昔なら、もう少し軽く返せたかもしれない。
生意気な一個下の後輩として。
でも今は、そうはいかなかった。
直樹は二十三歳になっていた。
階級が上がった。
責任も増えた。
知らない場所にも行った。
人の死に方も、助けられなかった数も、昔よりずっと多く知っていた。
それでも、めぐみに何かを渡すことだけは、うまくできなかった。
小さな箱。
指輪。
店で受け取った時、店員は普通に笑っていた。
おめでとうございます。
その言葉に、直樹はまともに返事ができなかった。
おめでとう。
そんな言葉が自分に向けられることに、まだ慣れていなかった。
帰る場所。
待っている人。
これから同じ季節を数える相手。
それを持つことに、どこかで怯えていた。
失う前提で物を見る癖が、身体に染みついていた。
めぐみは、それを知っている。
全部ではない。
でも、直樹が言わない部分を、いつも少しだけ見てしまう人だった。
だからこそ、今日渡すと決めた。
後で話す。
ちゃんと話す。
もう曖昧にしない。
これからは、日本にいる。
急に消える回数を減らす。
全部約束できるわけではない。
任務はある。
呼ばれれば行く。
でも、戻る場所を曖昧にはしない。
めぐみに、そう言うつもりだった。
言葉の順番も考えていた。
駅前では言わない。
人の多い場所でも言わない。
鹿を見て、少し歩いて、夕方になって、めぐみが寒いと言い始める前に。
できれば、静かな場所で。
そう決めていた。
だから「段取りがある」と言ってしまった。
言った瞬間、間違えたと思った。
「段取り?」
めぐみが眉を寄せる。
直樹は自分の不器用さに内心で舌打ちした。
「……言い方を間違えた」
めぐみは立ち止まった。
直樹も止まった。
普通の午後だった。
観光客。
修学旅行生。
土産物の袋。
駅の案内板。
外国語。
笑い声。
その全部の中で、めぐみだけが少し不安そうに直樹を見ていた。
「今日、変だよ」
「分かってる」
「分かってるなら」
「ごめん」
直樹は目を伏せた。
本当は、この場で箱を出してしまえばよかった。
段取りなど捨てて。
人混みの中でも。
駅前でも。
不格好でも。
言えばよかった。
でも、直樹はまだ、少しだけ格好をつけたかった。
めぐみに渡す言葉くらい、失敗したくなかった。
それが、最後の甘さだった。
「でも、悪いことじゃない」
それだけ言った。
めぐみは、しばらく黙った。
それから、小さく息を吐いた。
「後で、ちゃんと話して」
「ああ」
「ごまかさないで」
「ごまかさない」
「本当に?」
「本当に」
「約束」
直樹は、一瞬だけ迷った。
約束という言葉は重かった。
守れない約束をするのが嫌だった。
でも、この約束は守りたかった。
守るつもりだった。
だから、めぐみを見た。
「約束する」
その時、右のポケットの箱が、少しだけ重くなった気がした。
歩き出す。
人の流れが濃くなる。
直樹は、いつもの癖で周囲を見た。
入口。
出口。
階段。
柱。
ガラス。
人の密度。
子どもの位置。
荷物の置き方。
止まっている人間。
急いでいる人間。
笑っている人間。
笑っていない人間。
何かが、少しずれていた。
まだ言葉にはならない。
でも、皮膚が先に気づく。
音がした。
遠くで、何かが落ちたような音。
人が振り返る。
笑い声が途切れる。
鳥が飛ぶ。
次の瞬間、直樹の身体は考えるより先に動いていた。
めぐみの手首を掴む。
強く。
「直樹?」
答えられない。
耳が音を拾う。
目が光の前兆を拾う。
空気が押される。
違う。
これは、倒れた音ではない。
これは、事故ではない。
直樹は、めぐみを引いた。
「めぐみ、こっち」
「何?」
「走る」
「え?」
「走れ」
走りながら、直樹は出口を捨てた。
外へ出るのは違う。
広い場所も違う。
車道も違う。
人が逃げる方向も違う。
必要なのは壁。
厚い壁。
地下。
階段。
コンクリート。
閉じられる入口。
空からではなく、横から来るものを遮れる場所。
スマホを見る時間はなかった。
施設一覧も見ない。
地図も開かない。
現場の目だけで探す。
白い光が来た。
音より先に。
視界の全部が消えた。
白。
白。
白。
影も、輪郭も、めぐみの顔も、駅の案内板も消えた。
その直後、衝撃が来た。
腹の底を拳で殴られたような圧。
肺の中の空気が押し出される。
耳が塞がる。
地面が跳ねる。
ガラスが弾ける。
金属が鳴る。
誰かの悲鳴が、音ではなく振動になる。
直樹は転びかけた。
でも、めぐみの手首だけは離さなかった。
離すな。
そう思った。
自分に命令した。
離すな。
何があっても。
白い光のあと、重い雲が立っていた。
地面から立ち上がるような白。
風に流れるだけではない。
人の高さへ降りてくる。
口へ入る。
肺へ入る。
皮膚へまとわりつく。
見た瞬間、直樹の身体が冷えた。
恐怖ではない。
理解だった。
これは見てはいけない。
吸ってはいけない。
ここにいてはいけない。
「地下だ」
直樹は言った。
自分の声が聞こえない。
でも喉が言った。
「地下。頑丈な建物。入口を探す」
めぐみが何かを言っている。
聞こえない。
直樹はめぐみの顔をこちらへ向けさせた。
「見るな」
声が届いているか分からない。
それでも言う。
「雲を見るな。息を浅くしろ。口を覆え」
めぐみが口元を押さえる。
それだけ見て、直樹は走った。
倒れた看板を蹴る。
荷物を退かす。
転んだ人を起こす。
子どもを抱き上げ、近くの大人に押しつける。
老人の背中を押す。
めぐみがガラスを踏まないように、身体を少し前に入れる。
右のポケットに、箱の角が当たった。
直樹は一瞬だけ思った。
まだ渡していない。
その思考は、すぐに消した。
今は違う。
今は生かす。
言葉より先に、生かす。
地下への入口が見えた。
暗い階段。
頑丈なコンクリート。
人が押し寄せている。
直樹は、一瞬で判断した。
入口は狭い。
全員は入れない。
でも、めぐみは入れられる。
めぐみだけは。
その判断が、自分の中で決まった瞬間、胸の奥が嫌な音を立てた。
一緒に入る。
そうしたかった。
めぐみの手を離さず、階段を降りて、扉の内側へ入り、そこで箱を渡す。
さっきの約束を守る。
後で話す。
その後を作る。
けれど、背後の雲が近い。
人が倒れている。
入口の前で流れが詰まりかけている。
誰かが押し合っている。
ここで自分が入れば、何人かが外に残る。
めぐみも巻き込まれる。
直樹は、めぐみを見た。
めぐみが、自分を見ていた。
泣いてはいない。
でも、分かっている顔だった。
「嫌」
声は聞こえなかった。
でも、口の形で分かった。
直樹は首を振った。
「入れ」
「嫌」
「めぐみ」
「一緒に」
その言葉だけは、聞こえた気がした。
直樹の中で、何かが裂けた。
一緒に。
そうしたかった。
そうするために来た。
この旅行は、そのためだった。
昇任祝いなんかではない。
これから一緒にいるための話をする日だった。
右のポケットに、まだ箱がある。
後で話す。
約束する。
その約束が、今、目の前で砕けようとしていた。
「俺は後で行く」
嘘だった。
めぐみも分かっていた。
「嘘」
直樹は、返事ができなかった。
白い雲がさらに膨らむ。
咳が増える。
階段の前で子どもが転ぶ。
人の流れが詰まる。
今しかなかった。
直樹は、めぐみの肩を掴んだ。
指が震えた。
震えたことに、自分で驚いた。
戦場で震えたことは少なかった。
でも、めぐみを押す手は震えた。
押したら、嫌われるかもしれない。
置いていかれたと思うかもしれない。
二度と許してもらえないかもしれない。
それでも。
生きていなければ、許されることもない。
直樹は、めぐみを押した。
突き飛ばした。
強く。
自分でも乱暴だと思うほどに。
めぐみの身体が階段側へ倒れ込む。
誰かに受け止められる。
直樹はすぐに視線を外した。
見ていたら戻ってしまう。
手を伸ばしてしまう。
一緒に行ってしまう。
だから見ない。
入口で倒れた人を引き起こす。
子どもを奥へ押し込む。
肩を貸す。
背中を押す。
扉を支える。
外から来る人間を、内側へ入れる。
めぐみが何かを叫んでいる。
聞こえない。
でも、口の形は見えた。
なお。
その名前が、直樹の胸を貫いた。
直樹は振り返った。
扉の隙間。
人の肩。
非常灯。
めぐみの顔。
泣いているように見えた。
怒っているようにも見えた。
生きている。
まだ生きている。
それだけを確認した。
直樹は口を動かした。
めぐみ。
声が出たのか分からない。
届いたのかも分からない。
そして、右のポケットに手をやった。
箱がある。
まだある。
渡せなかった。
直樹は、それを握った。
ごめん。
そう言おうとした。
次の衝撃が来た。
扉の隙間から白が入り込む。
熱。
圧。
音。
世界が折れた。
直樹の身体が後ろへ飛ばされた。
壁に叩きつけられたのか。
地面に落ちたのか。
分からなかった。
頭の内側で、何かが割れた。
記憶は、紙ではなかった。
それまで、直樹はそう思っていた。
訓練。
任務。
地図。
名前。
帰る場所。
全部、自分の中に刻まれていると思っていた。
でも違った。
爆風は、それを剥がした。
最初に飛んだのは、約束だった。
後で話す。
その言葉が白くなった。
次に、指輪の意味が飛んだ。
右のポケットの重さだけが残り、なぜ大事なのかが消えた。
次に、奈良が飛んだ。
駅前。
鹿。
案内板。
昇任祝い。
普通の午後。
それらが、一枚ずつ破れていく。
次に、めぐみの顔が遠くなった。
輪郭が白くにじむ。
声が消える。
名前だけが残る。
めぐみ。
その音も、指の間から砂のように落ちていく。
直樹は、地面の上で悶えていた。
息ができない。
耳が聞こえない。
目が見えない。
口の中に血の味がある。
右手がポケットを探している。
何を探しているのか分からない。
でも、そこに何かがある。
何かを握らなければならない。
何かを守らなければならない。
なのに、何かが分からない。
身体を起こそうとして、吐いた。
血なのか、胃液なのか、白い粉なのか分からなかった。
人の足が見える。
倒れた荷物。
割れたガラス。
煙。
誰かの泣き声。
誰かの咳。
白い雲。
直樹は、腕で地面を掻いた。
立たなければならない。
なぜ。
分からない。
行かなければならない。
どこへ。
分からない。
誰かを。
誰を。
分からない。
名前が、出てこない。
め。
めぐ。
途中で切れる。
口が動く。
音にならない。
頭の奥に、別の名前が浮いた。
Jin。
誰かが、そう呼んだ気がした。
いや、まだ呼ばれていない。
でも、その名前だけは残っていた。
任務の名前。
外人部隊で使った名前。
眠らなくても動くための名前。
死体を数えすぎないための名前。
壊れても立つための名前。
福岡仁。
真柴直樹が剥がれていく。
なおが遠くなる。
めぐみが白に沈む。
残ったのは、福岡仁だった。
その時、誰かが直樹の襟を掴んだ。
乱暴に。
引きずる。
痛みが走る。
直樹は抵抗しようとした。
腕が動かない。
視界の端に、男の顔が見えた。
年を取った顔。
片目の下の古い傷。
濡れた灰色の髪。
軍服ではない。
退役した男の服。
だが、身体の使い方は軍人だった。
男は、直樹の顔を覗き込んだ。
何かを言った。
聞こえない。
男は直樹の頬を叩いた。
もう一度、言った。
「Jin?」
その音だけが、白い耳の奥に届いた。
直樹は反応した。
自分でも分からないまま。
その名前に。
男の目が変わった。
「生きていたのか」
日本語ではなかった。
でも、意味は分かった。
かつての上官だった。
フランス外人部隊にいた頃の男。
今は退役しているはずの男。
なぜ奈良にいるのか、直樹には分からなかった。
後になっても、全部は分からない。
国際支援なのか。
古い連絡網なのか。
日本で開かれていた何かの会合にいたのか。
偶然か。
必然か。
ただ、その男は現場にいた。
そして、地面で悶えている直樹を見つけた。
男は、直樹の右手を見た。
ポケットを握ったまま離さない手。
「何を握ってる」
直樹には答えられない。
何を握っているのか、自分でも分からない。
男は無理に開かせなかった。
「立て」
直樹は立てなかった。
男が悪態をついた。
それから、直樹の腕を肩に回した。
半分担ぐ。
半分引きずる。
直樹の足が地面を擦る。
白い粉が舞う。
誰かが助けを求めている。
直樹はそちらへ行こうとした。
身体が勝手に反応する。
男が怒鳴った。
「今のお前は荷物だ」
その言葉だけは、妙にはっきり届いた。
荷物。
直樹は足を止められた。
男はさらに言った。
「動きたければ、生きろ」
直樹は、何も返せなかった。
連れて行かれたのは、壊れた建物の影だった。
そこに、臨時の連絡所のようなものが作られていた。
正規のオフィスではない。
机も足りない。
椅子も足りない。
通信機。
地図。
水の箱。
血のついた布。
翻訳できないほど多い怒号。
各国の言葉。
仮設のアンテナ。
紙の束。
誰かが負傷者の名前を聞いている。
誰かが搬送先を書いている。
誰かが死亡確認を叫んでいる。
誰かが、それを止めている。
直樹は、椅子ではなく床に置かれた。
背中が壁に当たる。
頭が揺れる。
吐き気が来る。
男が水筒を口元へ押しつけた。
「飲むな。口を湿らせろ」
直樹は言われた通りにした。
身体だけが命令を覚えていた。
名前は分からない。
約束も分からない。
右ポケットの箱の意味も分からない。
でも、命令は分かる。
息を浅くする。
頭を下げる。
壁を背にする。
入口を見る。
手を空ける。
動ける人間を数える。
負傷者を分ける。
生きている者を先に運ぶ。
それだけは残っていた。
男が言った。
「Jin。聞こえるか」
直樹は目を上げた。
Jin。
その名前には反応できる。
真柴直樹。
その名は遠い。
なお。
その名は、もっと遠い。
めぐみ。
その名は、白い光の向こうに沈んでいた。
「名前は」
誰かが日本語で聞いた。
直樹は口を開けた。
言うべき名前があるはずだった。
真柴直樹。
そう言うべきだった。
でも、舌が動かなかった。
頭の中で、その文字が崩れる。
真。
柴。
直。
樹。
どれも、ばらばらになって落ちる。
代わりに、短い名前だけが残る。
福岡仁。
「……仁」
直樹は言った。
かすれた声だった。
男がうなずいた。
「福岡仁だ」
その瞬間、紙が一枚動いた。
誰かが書いた。
福岡仁。
負傷。
行動可能性あり。
その紙の上で、真柴直樹は消えた。
死んだのではない。
でも、生きている場所から外れた。
直樹は、壁にもたれたまま右手を握っていた。
ポケットの中の小さな箱。
焦げていたのか。
潰れていたのか。
その時の直樹には分からなかった。
ただ、握っていた。
何かを守るように。
何かを忘れないように。
でも、何を忘れてはいけなかったのかが、もう分からなかった。
外では、白い雲がまだ流れていた。
中では、紙に名前が書かれていた。
生存。
搬送。
死亡。
未確認。
そのどこにも、めぐみの名前はなかった。
直樹は、知らなかった。
自分が誰を地下へ押し込んだのか。
誰に後で話すと約束したのか。
誰のために指輪を買ったのか。
誰に、なおと呼ばれていたのか。
全部、白い光のあとに剥がれていた。
残ったのは、命令に反応する身体と。
福岡仁という名前と。
何のために握っているのか分からない、右のポケットの重さだけだった。
退役軍人の上官が、直樹の肩を叩いた。
「来たなら動け」
その言葉に、直樹は顔を上げた。
動く。
それだけは分かった。
誰かを助ける。
それも分かった。
誰を探すべきかは、分からなかった。
めぐみという名前は、まだ白い光の中に沈んでいた。
だから、福岡仁は立ち上がった。
真柴直樹としてではなく。
なおとしてでもなく。
渡せなかった未来をポケットに入れたまま。
誰に渡すものだったのかも分からないまま。
白い光のあとの国へ、命令だけを頼りに歩き出した。




