第九十五話 白い光のあと 訂正版
## 第九十五話 白い光のあと
その日は、祝いの旅行だった。
直樹の昇任祝い。
そう言うと、直樹は少しだけ嫌そうな顔をした。
「大げさだよ」
「大げさじゃないよ」
「階級が少し変わっただけだ」
「少しじゃないでしょ」
「少しだ」
「そういうところ、昔から変わらないね」
「どこが」
「ちゃんと嬉しいことを、嬉しいって言わないところ」
直樹は、少し困ったように駅の案内板を見上げた。
奈良。
人が多かった。
観光客の声。
修学旅行生の足音。
土産物の袋。
外国語。
駅の構内を抜ける風。
全部が、普通の日の音だった。
めぐみは、その普通さが嬉しかった。
彼女は、もう学生ではなかった。
それでも、直樹の隣を歩く時だけ、図書室の窓際にいた頃の自分が少し戻ることがあった。
一個下の、生意気な後輩。
いつの間にか隣にいて。
必要な時だけ手を出して。
触れたらすぐ離れて。
でも、いなくなると隣が広すぎる人。
その直樹は、 制服の似合う青年になった。
背中が少し広くなった。
歩き方が変わった。
人混みの中でも、目だけはいつも周りを見ている。
店の入口。
非常口。
階段。
柱の影。
誰かの手元。
誰かの不自然な立ち止まり方。
普通の旅行中でも、直樹はそういうものを見ていた。
めぐみは、それを責めたことはなかった。
それが直樹の仕事であり、直樹が生きて帰るための癖だと分かっていたから。
でも、その日は少し違っていた。
直樹は、周囲を見ているだけではなかった。
何度も、右のポケットに触れていた。
時計を見る。
スマホを見る。
何かを確認する。
めぐみが振り返ると、何でもない顔をする。
その何でもない顔が、あまりにも何でもなくなかった。
「どこ見る?」
めぐみが聞くと、直樹は少し遅れて答えた。
「どこでも」
「それ、一番困る返事」
「じゃあ、鹿」
「奈良だから?」
「奈良だから」
「浅い」
「観光なんて、浅いくらいがちょうどいいだろ」
「直樹が言うと、浅く聞こえない」
「どういう意味だよ」
「いろいろ考えすぎる人だから」
めぐみは笑った。
直樹も少しだけ笑った。
けれど、その笑い方は落ち着かなかった。
いつもの直樹なら、もう少しだけ余裕があった。
少しぶっきらぼうで。
少し口数が少なくて。
でも、めぐみが困る前には必ず気づく。
そういう人だった。
なのに、その日の直樹は何かを隠していた。
「何?」
めぐみが聞いた。
「何が」
「何か隠してる?」
「隠してない」
「その返事、隠してる時の返事」
「そんな分類あるのか」
「あるよ。私の中には」
「信用がないな」
「信用してるから、変なのが分かるの」
直樹は黙った。
黙ると、余計に怪しかった。
めぐみは少しだけ腹が立った。
怒るほどではない。
でも、胸の奥に小さな棘が刺さるくらいには気になった。
最近、直樹はそわそわしていた。
電話に出ない時間があった。
何かを調べている。
誰かと短く話している。
めぐみが近づくと、画面を伏せる。
それを見て、友人が余計なことを言った。
「それ、浮気じゃないの」
「違うと思う」
「思う、なんだ」
「直樹はそういう人じゃない」
「そういう人じゃない人ほど、分からないよ」
「やめて」
「じゃあ聞きなよ」
「聞けない」
「なんで」
「違った時、私が嫌な人になる」
友人は、呆れたように笑った。
「めんどくさい女」
「知ってる」
「でも、確認しな。黙って不安になる方がもっと面倒よ」
確認できなかった。
めぐみは、直樹を信じていた。
信じていたのに、不安になる自分が嫌だった。
海外に行くたびに、直樹の知らない時間が増える。
イラクや、アマゾン。
紛争地。
聞いたことのない地名。
詳しくは話せない任務。
帰ってきても、またすぐどこかへ行く。
空港。
港。
基地。
集合時間。
電話が切れる前の短い声。
次に会える日が、いつも少し曖昧だった。
知らない場所。
知らない人。
知らない危険。
知らない沈黙。
その中に、自分の知らない誰かがいるのではないか。
そんな馬鹿みたいな想像を、何度も飲み込んだ。
だから奈良で、直樹がまたポケットを触った時、めぐみは少しだけ冷たく言った。
「誰かに連絡?」
直樹は首を振った。
「違う」
「じゃあ、何?」
「何でもない」
「何でもないなら、そんなに気にしないでしょ」
直樹は困った顔をした。
怒らなかった。
言い返さなかった。
それがまた、めぐみを不安にした。
「……後で」
直樹が言った。
「後で、話す」
「今じゃだめなの?」
「今は、だめ」
「なんで」
「段取りがある」
「段取り?」
直樹は、自分で言ってから顔をしかめた。
「……言い方を間違えた」
めぐみは立ち止まった。
直樹も止まる。
人が横を通り過ぎていく。
奈良の駅前は、普通の午後だった。
誰かが笑っている。
誰かが地図を見ている。
誰かがスマホで写真を撮っている。
どこにでもある観光地の一日。
でも、めぐみの胸だけが、少し重かった。
「直樹」
「うん」
「今日、変だよ」
「分かってる」
「分かってるなら」
「ごめん」
直樹は、少しだけ目を伏せた。
「でも、悪いことじゃない」
その言い方が、あまりにも不器用だった。
めぐみは、それ以上聞けなかった。
悪いことじゃない。
なら、待とうと思った。
今日だけは。
昇任祝いの旅行だから。
これからは、日本にいてくれるかもしれない日だから。
直樹は、はっきりそう言ったわけではない。
けれど、めぐみは勝手にそう思っていた。
思いたかった。
普通に観光して。
普通に歩いて。
普通にご飯を食べて。
普通に帰る。
そんな一日にしたかった。
「じゃあ」
めぐみは、小さく息を吐いた。
「後で、ちゃんと話して」
「ああ」
「ごまかさないで」
「ごまかさない」
「本当に?」
「本当に」
「約束」
直樹は一瞬だけ迷った。
それから、めぐみを見た。
「約束する」
その声は、さっきまでより少しだけ低かった。
めぐみは、それで少し安心した。
直樹は、また歩き出した。
めぐみは隣に並んだ。
人混みが少し濃くなっていた。
駅の方から、大きな音がした。
最初は、何かが倒れたのだと思った。
誰かが叫んだ。
何人かが振り返った。
直樹の手が、めぐみの手首を掴んだ。
痛いくらいだった。
「直樹?」
直樹は答えなかった。
目が変わっていた。
観光客の目ではない。
昇任祝いの旅行に来た青年の目ではない。
任務の中に戻った目だった。
「めぐみ、こっち」
「何?」
「走る」
「え?」
「走れ」
その声で、めぐみは走った。
直樹に引かれる。
人の流れが乱れる。
誰かがぶつかる。
荷物が落ちる。
子どもが泣く。
駅の方で、また音がした。
今度は、低く、腹の底に響く音だった。
空気が変わった。
直樹が振り返る。
一瞬だけ。
その一瞬で、めぐみは見た。
白い光。
音より先に、光が来た。
世界が白くなった。
直樹の手が、めぐみの肩と背中を押した。
強く。
突き飛ばすように。
めぐみは倒れた。
誰かの身体にぶつかる。
床に手をつく。
膝を打つ。
耳が聞こえない。
白い。
熱い。
息ができない。
直樹の手が離れた。
違う。
離したのではない。
離された。
でも、その時のめぐみには分からなかった。
見えたのは、直樹の背中だった。
人の波の向こう。
白い光の向こう。
倒れた誰かを起こそうとしている直樹。
子どもを抱え上げている直樹。
落ちた荷物を蹴って通路を空ける直樹。
誰かを地下へ押し込む直樹。
めぐみは手を伸ばした。
届かない。
声を出そうとした。
出ない。
耳の奥が白い音で塞がっている。
直樹。
直樹。
なお。
どの名前で呼んでも、声にならなかった。
直樹が、もう一度こちらを見た。
口が動いた。
何を言ったのか、聞こえなかった。
でも、形だけは分かった気がした。
めぐみ。
そう呼んだ気がした。
次の瞬間、人の流れが二人の間に割り込んだ。
誰かがめぐみを引っ張る。
誰かが「こっちへ」と叫んでいる。
直樹の姿が見えなくなる。
めぐみは抵抗しようとした。
でも、身体に力が入らない。
白い光の残像が消えない。
息が浅い。
喉が焼ける。
もう一度、直樹の方へ行こうとした。
誰かの腕が、それを止めた。
地下へ。
奥へ。
壁の内側へ。
人の流れが、めぐみを押し込んでいく。
直樹の手が、自分を捨てたのだと思った。
その時は。
そう思うしかなかった。
手が離れた。
声が消えた。
姿が消えた。
めぐみの中には、その三つだけが残った。
光の向こうで、誰かが言った気がした。
「まだ息がある」
それが本当に聞こえたのか。
あとから夢が混ざったのか。
めぐみには、今でも分からない。
ただ、直樹の姿は、そこで消えた。
その後の記憶は、途切れている。
病院の天井。
水の味。
知らない人の声。
警察官。
確認。
名前。
住所。
一緒にいた人。
めぐみは何度も言った。
「真柴直樹です」
何度も。
何度も。
言った。
でも、返ってくる言葉は曖昧だった。
搬送先不明。
確認中。
現場混乱。
該当者多数。
所持品確認中。
死亡者名簿にはない。
重傷者名簿にもない。
搬送記録にも、まだ出ていない。
まだ。
まだ。
まだ。
その「まだ」が、めぐみの胸に刺さり続けた。
数日後。
仮設の掲示板が作られた。
駅の名を失った場所の近く。
花が置かれ。
水が置かれ。
写真が貼られ。
紙が並んだ。
行方不明。
搬送先不明。
身元確認中。
死亡推定。
名前。
名前。
名前。
めぐみは、その中に直樹の名前を見つけた。
真柴直樹。
MIA。
行方不明。
死んだとは書かれていない。
けれど、生きているとも書かれていない名前。
どこにもいない名前。
めぐみは、そこで膝から崩れた。
声は出なかった。
出せなかった。
泣き声を出せば、本当に終わってしまう気がした。
紙の上に名前だけがある。
直樹はいない。
なおはいない。
手もない。
声もない。
あの夜、山の中で自分の名前を呼んだ声もない。
めぐみは、紙に手を伸ばした。
触れたかった。
でも、触れられなかった。
触れたら、それが最後の直樹になってしまう気がした。
名前だけじゃ足りない。
名前だけじゃ、抱きしめられない。
名前だけじゃ、ただいまも、おかえりも言えない。
その時だった。
係員が、透明な袋を持ってきた。
「確認をお願いします」
中には、焼けた布と、金属片と、小さな箱が入っていた。
めぐみは、最初それが何か分からなかった。
指が動かない。
袋の上から、小さな箱を見た。
焦げていた。
角が潰れていた。
でも、中に入っているものは分かった。
指輪だった。
一つだけ。
めぐみの呼吸が止まった。
直樹がそわそわしていた理由。
右のポケットを何度も触っていた理由。
画面を伏せていた理由。
後で話す、と言った理由。
段取りがある、と言って失敗した理由。
浮気でも、隠し事でもなかった。
直樹は、未来を隠していた。
めぐみに渡すはずだった未来を。
たった一つの指輪を。
めぐみは、袋の上から箱に触れた。
温度はなかった。
直樹の手の温かさは、どこにもなかった。
あの人は、これから日本にいてくれるはずだった。
もう知らない国へ行かなくてもいいはずだった。
帰ってきて、同じ町で、同じ季節を数えられるはずだった。
そのための旅行だった。
そのための、そわそわだった。
そのための、後で話す、だった。
めぐみは、掲示板の前で崩れたまま、袋を抱いた。
泣き声は出なかった。
ただ、身体だけが壊れたように震えた。
なお。
そう呼んでも、返事はなかった。
直樹。
そう呼んでも、返事はなかった。
紙の上には、真柴直樹と書かれていた。
袋の中には、渡されなかった指輪があった。
そして、めぐみの中には、聞けなかった言葉だけが残った。
後で話す。
その後は、もう来なかった。




