第九十四話 名前で呼んだ夜 訂正版
##第九十四話 名前で呼んだ夜
最初に思い出したのは、白い光ではなかった。
血でもなかった。
銃声でもなかった。
生意気な、一個下の後輩だった。
いつも、少し離れたところにいた。
近づいてくる。
何かを言う。
めぐみが返す前に、ふいと消える。
廊下の角。
階段の踊り場。
校庭の端。
図書室の入口。
気づけば、なおはいつも近くにいた。
けれど、隣にいるわけではない。
手を伸ばせば届きそうで、届かない距離。
呼べば来そうで、呼ばない距離。
そういう場所に、いつもいた。
「またいる」
めぐみが言ったことがある。
なおは、悪びれもせずに本を閉じた。
「いました」
「知ってる」
「じゃあ、聞かなくてもいいじゃないですか」
「そういう返し、かわいくない」
「かわいさで来てないので」
「生意気」
「一個下なんで」
「関係ない」
なおは少し笑った。
その笑い方が、めぐみは少しだけ苦手だった。
何かを隠しているようで。
でも、何も隠していないようでもあって。
掴もうとすると、すぐ逃げる。
逃げるくせに、また戻ってくる。
そんな男の子だった。
図書室には、めぐみのお気に入りの椅子があった。
窓際。
午後になると、光が斜めに落ちる席。
校庭の声が少し遠く聞こえて、本の匂いが強くなる場所。
めぐみは、そこが好きだった。
ひとりになれるから。
誰かの目から少し外れられるから。
なのに、ある日から、その隣に誰かがいた。
なおだった。
本を読んでいるわけではなかった。
寝ていた。
机に腕を乗せて、顔を伏せて。
制服の袖が少しずれている。
髪が乱れている。
呼吸だけが、静かに動いている。
「ここ、私の場所なんだけど」
なおは顔を上げなかった。
「隣は空いてます」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味ですか」
「分かってて言ってるでしょ」
「少しだけ」
「変な子」
「よく言われます」
「直しなよ」
「今のところ困ってないです」
「こっちが困る」
めぐみはため息をついた。
椅子を引く。
座る。
なおは、また寝た。
何をしに来ているのか分からなかった。
話したいのか。
眠りたいのか。
ひとりになりたいのか。
めぐみのそばにいたいのか。
聞けば、きっとまた逃げる。
だから聞かなかった。
そのうち、それが普通になった。
図書室へ行く。
お気に入りの椅子に座る。
隣に、なおが寝ている。
時々起きる。
どうでもいいことを言う。
めぐみが呆れる。
なおが少し笑う。
また寝る。
ただ、それだけの日々。
なのに、なおがいない日は、椅子の隣が広すぎた。
めぐみは、そのことに気づかないふりをした。
なぜか、いつも目に入る男子。
それが、なおだった。
体育館の端で靴紐を結んでいる。
雨の日に、傘を持たずに走っている。
職員室の前で何かを待っている。
購買の前で、パンをひとつだけ買っている。
誰かの輪に入らず、でも完全に外にも出ない。
そういう場所に、なおはいた。
目で探しているつもりはなかった。
けれど、見つけてしまう。
見つけると、少し安心する。
安心している自分に気づいて、めぐみは本を開く。
でも、文字は少しだけ遠くなる。
いつから一緒に歩くようになったのか、めぐみは覚えていない。
気づけば、帰り道が同じになっていた。
気づけば、校外実習の班が同じになっていた。
気づけば、荷物を持つ手が隣にあった。
「持ちます」
「いい」
「重いですよ」
「見れば分かる」
「じゃあ持ちます」
「だから、いいって」
「意地を張る人ですね」
「真柴くんに言われたくない」
「俺、意地張ってますか」
「張ってる」
「どこが」
「今、聞くところ」
なおは少し黙った。
それから、めぐみの荷物を半分持った。
勝手に。
「ねえ」
「はい」
「返して」
「嫌です」
「生意気」
「知ってます」
めぐみは怒ろうとした。
でも、なおの手が少し赤くなっているのを見て、言葉を飲んだ。
その手は、いつも何かを支えていた。
机。
椅子。
荷物。
扉。
めぐみがつまずきそうになった時の、肘の少し下。
触れたらすぐ離れる。
でも、必要な時には必ずそこにある。
そういう手だった。
初めて二人で夜を越えたのは、キャンプ実習の日だった。
山の中だった。
空気が冷えていた。
昼間は笑い声が多かった。
班で火を起こし、食事を作り、先生たちが見回り、誰かが焦がした鍋を見て騒いでいた。
夜になると、音が減った。
火のはぜる音。
遠くの虫の声。
寝袋の擦れる音。
誰かの小さな寝息。
めぐみは、なかなか眠れなかった。
外に出ると、なおがいた。
焚き火のそばではなく、少し離れた木の下に座っていた。
膝を立てて、空を見ている。
「またいる」
めぐみが言った。
なおは振り向いた。
「いました」
「寒くないの」
「少し」
「戻れば」
「宮崎先輩こそ」
「眠れないの」
「俺もです」
それで会話は終わった。
めぐみは隣に座った。
火は遠い。
でも、完全に暗くはなかった。
木の間から、星が見えた。
なおは何も言わない。
めぐみも、何も言わなかった。
沈黙が怖くなかった。
そのことが、少し不思議だった。
しばらくして、なおが言った。
「宮崎先輩」
「何」
「名前で呼んだら、怒りますか」
めぐみは、すぐには答えられなかった。
風が木を揺らした。
火の方で、誰かが寝返りを打つ音がした。
「下の名前?」
「はい」
「急に何」
「急に思ったので」
「本当に生意気」
「はい」
なおは、まっすぐ前を見ていた。
ふざけているようには見えなかった。
だから、めぐみもふざけられなかった。
「呼びたいの?」
「分かりません」
「分からないのに聞いたの」
「呼んだら、何か変わる気がして」
めぐみは、膝の上で指を組んだ。
少しだけ寒かった。
でも、戻りたいとは思わなかった。
「変わったら、困る?」
なおは黙った。
それから、小さく言った。
「少し」
「じゃあ、やめる?」
「でも、呼びたいです」
めぐみは、笑ってしまった。
声は出さなかった。
でも、肩が少し揺れた。
なおが横目で見る。
「笑いましたね」
「笑ってない」
「笑いました」
「ちょっとだけ」
「ちょっとならいいんですか」
「いいの」
「ずるいですね」
「年上だから」
「そういうものですか」
「そういうもの」
なおは、少しだけ黙った。
それから、息を吸った。
「……めぐみさん」
めぐみの胸の奥が、静かに揺れた。
名字ではなかった。
先輩でもなかった。
役でもなかった。
ただ、自分の名前だった。
夜の中で、その音だけが少し温かかった。
めぐみは、なおを見た。
なおは見返さなかった。
火の方を見ている。
耳だけが、少し赤かった。
「さん、はいらない」
めぐみは言った。
なおが、ようやくこちらを見る。
「いいんですか」
「一回だけ」
「一回だけですか」
「調子に乗るから」
「乗りません」
「今、もう乗りかけてる」
「まだです」
「ほら」
なおは、少し困った顔をした。
それが珍しくて、めぐみはまた少し笑いそうになった。
「じゃあ、一回だけ」
めぐみが言った。
なおは、もう一度息を吸った。
「めぐみ」
今度は、胸の奥ではなく、身体のどこか深いところが揺れた。
めぐみは、すぐに返事ができなかった。
返事をしたら、何かが決まってしまう気がした。
でも、もう決まっていたのかもしれない。
図書室の椅子の隣に、なおが寝るようになった日から。
帰り道で、なおが荷物を半分持った日から。
何度も目に入って、いない日は隣が広すぎた日から。
少しずつ、決まっていたのかもしれない。
めぐみは、火の方を見た。
それから、小さく言った。
「……なお」
なおの肩が、わずかに動いた。
その反応が、少しおかしかった。
少し、愛おしかった。
「何ですか」
「呼んだだけ」
「ずるいですね」
「真柴くんが先に呼んだ」
「そうでした」
「あと」
「はい」
「今だけ、真柴くんじゃない」
なおが、めぐみを見た。
夜の中で、少しだけ目が丸くなっていた。
めぐみは、火の方を見たまま言った。
「なお」
今度は、さっきより少しだけ自然に出た。
なおは返事をしなかった。
ただ、小さくうなずいた。
夜は長かった。
でも、怖くなかった。
二人は何かを約束したわけではない。
手をつないだわけでもない。
好きだと言ったわけでもない。
ただ、名前で呼んだ。
それだけだった。
それだけで、世界の中に帰る場所がひとつ増えた気がした。
なお。
めぐみ。
その二つの名前が、夜の山の中で小さく並んだ。
火が遠くで揺れている。
誰かの寝息が聞こえる。
冷たい空気の中で、なおの声だけが、まだ耳の奥に残っていた。
めぐみ。
その声を、めぐみはずっと覚えていた。
十年後。
白い光のあと。
仮設の掲示板の前に立つまで。
紙の上に、真柴直樹と書かれる日まで。
MIA。
行方不明。
死んだとは書かれていない。
けれど、生きているとも書かれていない名前。
その文字を見る日まで。
めぐみは、あの夜の声を覚えていた。
だから、紙の前で膝から崩れた。
名前だけじゃ足りなかった。
紙の上の名前では、あの夜の声が聞こえなかった。
なお、と呼んでも。
返事はなかった。




