第九十三話 死臭
## 第九十三話 死臭
犬は吠えなかった。
雨の護岸で、低く伏せていた。
人間たちが叫んでいる。
担架が走る。
雨具が擦れる。
えりの声がする。
「死亡じゃない! 未確認で残せ!」
犬は、その声を聞いていなかった。
聞いていたのは、鼻だった。
血。
海水。
火薬。
濡れた紙。
黒い布。
そして、死に近い匂い。
犬は顔を上げた。
めぐみの方ではない。
波の向こうでもない。
護岸の外れ。
暗い浜へ続く方だった。
そこに匂いが伸びていた。
死体の匂いではなかった。
まだ死体ではない。
けれど、死に近すぎる匂いだった。
低体温。
血。
海水。
長く濡れた人間の皮膚。
そして、黒崎の匂い。
犬は立ち上がった。
一度だけ、濡れた身体を震わせる。
水が飛ぶ。
誰も見ていない。
犬は走った。
護岸の端を抜ける。
錆びたフェンスの隙間をくぐる。
砂利へ降りる。
雨で匂いは薄れていた。
それでも、完全には消えていなかった。
犬は鼻を地面につけた。
血。
海水。
黒崎。
紙。
なお。
犬は止まった。
暗い浜の先に、人影があった。
歩いていた。
歩いているというより、倒れるのを先に延ばしているだけだった。
なおだった。
防水ケースを胸に抱いている。
足元はふらついている。
片足を出す。
崩れる。
また立つ。
顔は白い。
唇は紫に近い。
雨の中で、目だけが開いていた。
でも、何も見ていなかった。
犬は近づかなかった。
なおを知っているからではない。
本能が止めた。
近づけば危ない。
この人間は、まだ死んでいない。
だが、生きている匂いでもなかった。
犬は、一度だけ低く唸った。
なおは振り向かない。
犬は踵を返した。
走った。
来た道を戻る。
護岸の灯り。
人の声。
担架。
血。
雨。
その中に、えりがいた。
えりはめぐみの搬送を見送った直後だった。
顔に雨が流れている。
目だけが、まだ現場を見ていた。
犬が飛び込んできた。
えりの前で止まる。
吠えない。
ただ、濡れた鼻をえりの膝に押しつけた。
「……何」
犬はえりの袖を噛んだ。
強くはない。
引く。
離す。
また噛む。
引く。
えりの目が変わった。
「いるのか」
犬は答えない。
また引いた。
えりは振り返った。
「ライト二つ。担架はいらない。毛布と保温シート。急げ」
誰かが言った。
「宮崎さんは――」
「そっちは搬送しろ!」
えりの声が飛んだ。
「あっちは死なせるな。こっちは消させるな」
犬が走る。
えりが追う。
雨の中を、二つのライトが続いた。
護岸の外れ。
砂利。
岩。
打ち寄せる波。
犬はそこで止まった。
ライトが、なおを照らした。
なおは歩いていた。
帰る方角とは逆へ。
防水ケースを胸に抱いて。
死人のような顔で。
「止まれ」
えりが言った。
なおは止まらない。
「止まれ、真柴」
なおの足が、少しだけ止まった。
けれど、振り向かなかった。
「……その名前で呼ぶな」
声は掠れていた。
生きている声ではなかった。
死にかけた喉から、無理に出した音だった。
えりは近づいた。
なおが一歩下がる。
防水ケースを抱く腕に力が入る。
「それ、何」
なおは答えない。
「黒崎のケースか」
なおの指が、ケースを掴む。
白くなっていた。
血がない。
温度もない。
えりは見た。
その指の色を。
動きの鈍さを。
震えない身体を。
「……まずいな」
なおは笑った。
笑ったように見えただけだった。
「書いてある」
「何が」
「死亡確認」
雨が落ちる。
波が鳴る。
なおはケースを胸に押しつけた。
「宮崎めぐみ。死亡確認」
えりは黙った。
なおは続けた。
「名前がある」
「……」
「捨てられない」
えりは、ゆっくり息を吐いた。
それから、一歩近づいた。
なおの目が鋭くなる。
壊れた獣の目だった。
「来るな」
「来る」
「来るな」
「来る」
なおの手が動いた。
えりの喉へ伸びかけた。
速くはなかった。
身体がもう動いていない。
でも、危ない手だった。
えりは避けなかった。
その手首を掴む。
冷たかった。
人の手ではなかった。
えりは顔をしかめた。
「痛いか」
なおは答えない。
えりは、さらに強く握った。
「痛いかって聞いてる」
なおは顔を動かさない。
痛みが入っていない。
えりの表情が変わった。
「……馬鹿」
次の瞬間、えりはなおの頬を打った。
乾いた音ではなかった。
雨と血と海水で濡れた、鈍い音だった。
なおの顔が横を向く。
それでも、倒れない。
えりは胸倉を掴んだ。
「紙を抱いて死ぬな」
なおは、えりを見た。
見ているのに、見えていなかった。
「書いてある」
「黒崎が書いた紙だろ」
「でも、名前がある」
「だから何だ」
「名前が、ある」
なおの声が壊れた。
「これを捨てたら、めぐみがなくなる」
えりの手が止まった。
犬が、足元で低く唸った。
えりはなおの胸元のケースを見た。
黒崎の紙。
死亡確認。
濡れない紙。
人を消すために作られた紙。
えりは、なおの手ごとケースを掴んだ。
「なくならない」
なおの目が揺れた。
「……死んだ」
「誰が決めた」
「書いてある」
「誰が書いた」
「……黒崎」
「なら、まだ信じるな」
なおの呼吸が止まる。
えりは、もう一度言った。
「黒崎の紙だろ」
雨が二人の間を落ちる。
「なら、まだ信じるな」
なおの膝が折れた。
えりが支えた。
重い。
身体は冷たく、濡れて、血で滑った。
なおはまだケースを離さない。
えりは怒鳴った。
「保温!」
後ろから人が走る。
保温シートが広げられる。
なおが抵抗した。
弱い抵抗ではなかった。
死にかけていても、危ない。
えりの腕が押し返される。
ライトが揺れる。
犬が吠えた。
一度だけ。
鋭く。
なおの身体が止まった。
その一瞬に、えりがなおの腕を押さえ込む。
「いいから寝ろ」
「戻れない」
「戻す」
「帰れない」
「帰らせる」
「めぐみが――」
「黙れ」
えりはなおの額を押さえた。
熱はない。
冷たい。
冷たすぎる。
「死んだって、誰が決めた」
なおの唇が震えた。
「紙が」
「じゃあ、紙を殺せ」
なおの目が、ほんの少しだけ開いた。
えりは低く言った。
「紙を抱いて、あんたが死ぬな」
なおの手から、少しだけ力が抜けた。
ケースはまだ離さない。
それでも、指の力が落ちた。
えりはその手を見た。
白い指。
曲がり切らない指。
感覚を失いかけた手。
めぐみの温かさを、もう確かめられないかもしれない手。
えりは顔を歪めた。
だが、泣かなかった。
「運べ」
保温シートが、なおの身体を包む。
なおはまだ何かを言っている。
声にならない。
めぐみ。
たぶん、その名前だった。
犬は少し離れたところで座っていた。
吠えない。
近づかない。
ただ、雨の中で見ている。
助けたわけではない。
導いたわけでもない。
死臭を嗅いだだけだった。
でも、その鼻が、なおを見つけた。
えりが、なおの胸元から防水ケースを奪おうとした。
なおの指がまた動く。
離さない。
えりは舌打ちした。
「分かった。持ってろ」
なおは、ケースを抱いたまま保温シートに包まれた。
それは赤ん坊のようでも、死体のようでもあった。
ライトが揺れる。
波が来る。
雨が降る。
えりは担架の横を歩いた。
なおの顔は白い。
目は開いている。
でも、もう何も見ていない。
えりは小さく言った。
「あんたはまだ、未確認だ」
なおは答えなかった。
「死んだことにされてたまるか」
犬が、後ろからついてきた。
雨の中を。
護岸の方へ。
灯りのある方へ。
白羽の紙ではなく、人を戻す記録が待つ方へ。
なおは運ばれていく。
死亡確認票を抱いたまま。
まだ紙を信じたまま。
まだ帰れないまま。
それでも、死臭の中から引きずり出されていく。
えりの手で。
犬の鼻で。
未確認のまま。




