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第九十二話 掲示板の前

## 第九十二話 掲示板の前


 水は、冷たかった。


 冷たい、という言葉では足りなかった。


 皮膚の上にあるものではない。


 骨の中へ入ってくる冷たさだった。


 なおは、何度も沈んだ。


 浮かぶたびに、雨と波の区別がつかなくなった。


 上がどこかも分からない。


 息を吸おうとすると、海水が入る。


 吐こうとすると、血が混ざる。


 黒崎の襟を掴んでいた手は、いつの間にか空を掴んでいた。


 離したのか。


 離されたのか。


 分からなかった。


 波の下で、銃声がまだ響いている気がした。


 一発。


 二発。


 三発。


 めぐみの口から血が出た。


 笑っていた。


 泣いていた。


 なおの名前を呼んでいた。


 そして、瞼が落ちた。


「めぐみ」


 声は出なかった。


 海水が喉に入る。


 肺が焼けるように痛む。


 なおは腕を動かした。


 どこかへ戻ろうとした。


 けれど、戻る場所が分からない。


 灯台の光が遠くで回った。


 一瞬、白くなる。


 すぐに黒くなる。


 その白い光の中に、めぐみの顔が浮かんだ。


 雨に濡れた髪。


 血のついた口元。


 それでも、笑おうとしていた目。


 帰って、きて。


 そう言った。


 なおは戻ろうとした。


 だが、身体が動かなかった。


 寒い。


 寒くない。


 寒いはずなのに、どこかから熱が抜けていく。


 手足の感覚が遠くなる。


 痛みまで薄くなる。


 それが危ないことだと、なおは知っていた。


 知っていたのに、止められなかった。


 波が、なおを運んだ。


 岩に当たる。


 背中が削れる。


 また水へ戻される。


 何かが腕に絡んだ。


 布か。


 ロープか。


 人の手か。


 黒崎かと思った。


 違った。


 黒崎だったものだった。


 もう、人の形を完全には保っていなかった。


 それでも、黒い布と、割れた眼鏡と、防水ケースだけが残っていた。


 ケースの紐が、なおの腕に絡んでいる。


 なおは、それを振りほどこうとした。


 指が動かなかった。


 ケースは黒崎だったものから離れ、波の中でなおと一緒に回った。


 濁った水。


 白い泡。


 暗い空。


 また、灯台の光。


 黒崎の声がした。


 水の中からではない。


 頭の中からだった。


「帰る道を押さえれば、名前は壊れる」


 なおは目を開けた。


 水しか見えない。


 泡しか見えない。


 それでも、黒崎の声は続いた。


「あなたは、福岡仁ではない」


 息ができない。


「真柴直樹でも足りない」


 身体が沈む。


「名前の逃走ではない」


 光が遠ざかる。


「名前の分離だ」


 なおは、海面を掻いた。


 腕が重い。


 重いというより、自分のものではない。


 水の中で、黒崎だったものが揺れている。


 顔は分からない。


 それなのに、笑っている気がした。


「あなたは、誰ですか」


 なおは答えようとした。


 口を開けた。


 海水が入った。


 答えは沈んだ。


 波が、なおを砂利に打ち上げた。


 最初は分からなかった。


 水の中なのか、陸なのか。


 頬に当たるものが、水ではなく砂だと気づくまで、少し時間がかかった。


 吐いた。


 海水。


 血。


 空気。


 それから、もう一度吐いた。


 身体が震えない。


 震える力も残っていない。


 なおは顔を上げた。


 暗い浜だった。


 護岸の外れ。


 岩と砂利の間。


 雨が降っている。


 海はまだ荒れている。


 黒いものが、少し離れた場所に引っかかっていた。


 黒崎だったもの。


 そのそばに、防水ケースがあった。


 なおは動かなかった。


 動けなかった。


 でも、目だけがケースを見た。


 黒崎のケース。


 濡れない紙。


 消えないインク。


 人を殺す紙。


 なおは、這った。


 腕が砂利を掴む。


 爪が割れる。


 膝が動かない。


 それでも、這った。


 ケースのところまで。


 留め具を外す。


 指が震えない。


 震えるほど、もう温かくなかった。


 なかなか開かない。


 なおは歯で引いた。


 金具が外れた。


 中の紙は濡れていなかった。


 黒崎らしかった。


 人間は波に呑まれても。


 紙だけは、濡れずに残る。


 なおは、一枚目を引き出した。


 赤い線。


 黒い文字。


 青い印。


 そこに書かれていた。


 宮崎めぐみ。


 死亡確認。


 なおの呼吸が止まった。


 文字は静かだった。


 泣いていなかった。


 震えていなかった。


 血も吐いていなかった。


 ただ、そこにあった。


 宮崎めぐみ。


 死亡確認。


 なおは首を横に振った。


 違う。


 見ていない。


 自分は、めぐみの死を見ていない。


 瞼が落ちただけだ。


 手の力が抜けただけだ。


 呼吸が聞こえなくなっただけだ。


 でも、紙は言っている。


 死亡確認。


 紙が言えば、人は死ぬ。


 なおは、それを知っていた。


 白羽がそうしてきた。


 名前を消してきた。


 未確認を死亡にしてきた。


 行方不明を処理済みにしてきた。


 紙の上で死んだ人間は、帰る場所を失う。


 そして、今。


 めぐみの名前が、そこにあった。


 死亡確認。


 なおは、紙を握り潰そうとした。


 できなかった。


 破ればいい。


 燃やせばいい。


 捨てればいい。


 そうすれば消える。


 でも、手が動かなかった。


 なぜなら、なおは紙の恐ろしさを知っていたから。


 紙は嘘をつく。


 けれど、嘘を世界に通す。


 嘘のまま、人を殺す。


 なおは、紙に殺された自分を知っていた。


 真柴直樹。


 MIA。


 行方不明。


 死亡推定。


 福岡仁。


 別名。


 第三名称。


 分離。


 逃走。


 どれも、紙に書かれた。


 だから、なおは信じてしまった。


 信じたくないのに。


 紙を信じてしまった。


 二枚目が、風でめくれた。


 福岡仁。


 行方不明。


 三枚目。


 第三名称。


 反応あり。


 四枚目。


 帰還経路。


 宮崎めぐみ。


 遮断済。


 なおは、その紙を見た。


 帰還経路。


 遮断済。


 黒崎の声が、また聞こえた。


「帰る道を押さえれば、名前は壊れる」


 なおは、息を吸った。


 吸えなかった。


 胸が痛い。


 肩が熱い。


 脇腹が重い。


 海水で濡れた服が、身体に貼りついている。


 寒さが、もう寒さではなくなっていた。


 身体の奥から、奇妙な温かみが広がってくる。


 最初は、胸の奥だった。


 次に、首筋。


 それから、背中。


 冷たいはずなのに。


 雨に打たれているはずなのに。


 なおは、温かいと思った。


 おかしい。


 分かっている。


 これは危ない。


 戻れなくなる温かさだ。


 それでも、抗えなかった。


 温かい。


 誰かが後ろにいる。


 そう思った。


 めぐみだと思った。


 あの世のめぐみが、後ろから自分を包んでいるのだと思った。


 もう寒くないよ、と。


 もう痛くないよ、と。


 もう名前を呼ばなくてもいいよ、と。


 そう言ってくれているのだと思った。


 なおは、防水ケースを抱いたまま、ゆっくり振り向いた。


 そこに、めぐみはいなかった。


 いや。


 いた。


 でも、それは今のめぐみではなかった。


 雨の浜ではなかった。


 外海の護岸でもなかった。


 そこは、四年前の奈良だった。


 白い光のあと。


 駅の名を失った場所。


 仮設の掲示板の前。


 紙が何枚も貼られている。


 行方不明。


 搬送先不明。


 身元確認中。


 死亡推定。


 その中に、一枚。


 硬い文字。


 真柴直樹。


 MIA。


 行方不明のまま、死んだことにされた名前。


 その紙の前で、めぐみが泣き崩れていた。


 声を出さずに。


 膝をついて。


 両手で口を押さえて。


 背中を丸めて。


 それでも泣き声を殺しきれず、肩だけが壊れたように震えていた。


 なおは、その姿を見た。


 見られるはずがなかった。


 その時、自分はそこにいなかった。


 自分は、死んだことにされていた。


 自分は、紙の向こう側にいた。


 めぐみがどんな顔で泣いたのか。


 どんなふうに膝をついたのか。


 どれだけ名前を見つめていたのか。


 知るはずがなかった。


 なのに、見えている。


 見えてしまっている。


 めぐみは、掲示板の前で泣いていた。


 誰かが横を通る。


 誰かが花を置く。


 誰かが手を合わせる。


 誰かが「仕方ない」と言う。


 めぐみは動けない。


 なおの名前の前から、動けない。


 紙の上に名前だけがある。


 なおはいない。


 手もない。


 声もない。


 ただ、名前だけがある。


 めぐみは、その名前を抱くこともできずに泣いている。


 なおは一歩、近づこうとした。


 足が動かない。


 呼ぼうとした。


 声が出ない。


 めぐみ。


 めぐみ。


 ここにいる。


 違う。


 自分はそこにいない。


 あの日も、いなかった。


 今も、いない。


 なおの背後で、黒崎の声が笑った。


「見えましたか」


 なおは振り返らない。


「あなたが見ていないものです」


 掲示板の前で、めぐみは泣いている。


「あなたが知らないまま、彼女に残したものです」


 紙の前で。


 名前の前で。


 死んだことにされた男の前で。


「一度目は、真柴直樹」


 黒崎の声が近づく。


「二度目は、宮崎めぐみ」


 なおの手の中で、防水ケースが重くなる。


 死亡確認票が、雨に濡れないまま残っている。


「あなたは二度、彼女を紙の前で泣かせた」


 なおは首を横に振った。


 違う。


 違わない。


 違う。


 違わない。


 めぐみは泣いている。


 掲示板の前で。


 なおの名前の前で。


 四年前の雨の中で。


 そして今、なおの腕の中で瞼を閉じた。


 紙には書いてある。


 宮崎めぐみ。


 死亡確認。


 なおは、その紙を胸に抱いた。


 温かい。


 まだ温かい。


 その温かさが、めぐみではないことを、どこかで分かっていた。


 あの世の迎えではない。


 救いではない。


 低体温の末期に、身体がつく嘘だった。


 それでも、なおはその温かさに縋った。


 寒いよりましだった。


 痛いよりましだった。


 めぐみが死んだという紙を見るより、まだましだった。


 でも、温かさの向こうにいるのは、笑うめぐみではなかった。


 泣き崩れるめぐみだった。


 なおの名前の前で。


 なおが見るはずのなかった場所で。


 なおのいない世界で。


 泣き崩れる、めぐみだった。


 なおの口が動いた。


「……ごめん」


 声は、砂利に落ちた。


「……ごめん」


 誰にも届かない。


「……ごめん」


 めぐみは振り向かない。


 掲示板の前で泣き続けている。


 黒崎の声が、また落ちてくる。


「あなたは、誰ですか」


 なおは答えられなかった。


 福岡仁ではない。


 真柴直樹でも足りない。


 Jinでもない。


 なおでもない。


 めぐみが死んだなら。


 帰る場所が消えたなら。


 自分は、何者でもない。


 めぐみ。


 名前が、口の中で壊れた。


 波が、また足元まで来た。


 紙が濡れないように、なおはケースを胸に抱いた。


 なぜ抱いたのか分からなかった。


 破ればよかった。


 捨てればよかった。


 でも、そこにはめぐみの名前があった。


 死亡確認と書かれていても。


 そこに、めぐみの名前があった。


 なおは、それを捨てられなかった。


 灯台の光が回る。


 白くなる。


 黒くなる。


 白くなる。


 黒くなる。


 掲示板の前のめぐみが、少しずつ遠くなる。


 雨の音に沈んでいく。


 泣き崩れた背中だけが残る。


 なおは手を伸ばした。


 届かない。


 もう一度、伸ばした。


 届かない。


 あの日も。


 今も。


 なおは、そこにいなかった。


 めぐみの声が聞こえた気がした。


 帰って、きて。


 なおは、小さく首を横に振った。


 帰れない。


 帰ったら、そこにめぐみはいない。


 帰ったら、また掲示板の前に立たされる。


 帰ったら、誰かが言う。


 あなたのせいじゃない。


 でも、違う。


 自分のせいだ。


 また手を離した。


 また紙に殺された。


 また、名前の前でめぐみを泣かせた。


 なおは、立ち上がろうとした。


 立てなかった。


 それでも、膝を立てる。


 防水ケースを抱える。


 黒崎だったものを見ない。


 海を見る。


 海の向こうではない。


 帰る場所と反対の方を見る。


 そこへ行けば、誰もいない。


 そこへ行けば、名前を呼ばれない。


 そこへ行けば、掲示板の前で泣く人もいない。


 雨が降り続けている。


 血は流れ続けている。


 足元には、波が来ては引いていく。


 なおは、めぐみの死亡確認票を胸に抱いたまま、暗い浜を歩き始めた。


 一歩。


 崩れる。


 また立つ。


 一歩。


 吐く。


 また進む。


 背中で、海が鳴っている。


 前には、灯りの少ない道が続いている。


 どこへ行くのか、分からない。


 ただ、帰る方角ではなかった。


 人は、死体を見るより先に、紙で壊れることがある。


 その夜、なおは二度目に死んだ。


 真柴直樹としてではなく。


 福岡仁としてでもなく。


 めぐみの名前を抱いたまま、帰る道を失った男として。


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