第九十一話 外海の護岸
##第九十一話 外海の護岸
黒崎は、北へ向かった。
京都の町を抜け、山を越え、雨の音が車体を叩き続けた。
めぐみは後部座席に座らされていた。
両側に白班。
膝の上には、まだスケッチブックがある。
取り上げられなかったのではない。
黒崎が、まだ取り上げなかっただけだった。
「保護です」
黒崎は前を見たまま言った。
「医療班へ接続します。避難者名簿の確認も必要です」
めぐみは答えなかった。
それが嘘だと分かっていた。
けれど、全部が嘘ではないことも分かっていた。
なおは血を吐いていた。
膝をついていた。
自分が残れば、なおは立ち上がる。
なおは、止まらない。
だから、めぐみは黒崎の傘の下へ入った。
それが、なおを止める唯一の方法に見えたからだった。
けれど、黒崎はそれを読んでいた。
めぐみの善意も。
めぐみの怖さも。
めぐみがなおを守るためなら、自分を差し出すことも。
全部、手続きの紙に載せるように読んでいた。
「宮崎めぐみ」
黒崎が言った。
「あなたは人質ではありません」
めぐみは、窓に映った自分の顔を見ていた。
青白い顔。
濡れた髪。
男の上着。
なおの匂いがする上着。
「あなたは、この男が名前へ戻るための経路です」
めぐみの指が、スケッチブックの端を掴む。
「……経路じゃありません」
「では、何ですか」
「……帰る場所です」
黒崎は、少しだけ黙った。
その沈黙に、わずかな感情が混ざっていた。
怒りに近い。
苛立ちに近い。
それでいて、どこか楽しんでいるようなものだった。
「それが問題なのです」
車は、海の方へ進んでいた。
やがて、潮の匂いが雨に混ざった。
白羽の搬送ルートには、いくつかの端がある。
記録に残る道。
残らない道。
名簿に載る場所。
載せない場所。
その中でも、丹後半島の北へ伸びる外海側の旧護岸は、黒崎にとって都合がよかった。
港ではない。
湾でもない。
誰かを正式に運ぶ場所ではない。
古い倉庫。
錆びたフェンス。
使われなくなった作業小屋。
日本海へそのまま開いた、荒い水際。
雨の日には、波が護岸の縁まで上がる。
風が強い夜には、海そのものが地面を削りにくる。
黒崎は、そこでめぐみを下ろした。
外は暗かった。
灯台の光が、遠くで白く回っている。
海は黒かった。
波だけが、白かった。
めぐみは足元を見た。
濡れたコンクリート。
水たまり。
錆びた係留具。
古いロープ。
その向こうに、外海があった。
黒崎が白班に指示を出す。
「記録袋を」
白班が防水ケースを持ってくる。
中には、紙が入っていた。
濡れない紙。
消えないインク。
人を消すための、濡れない記録。
めぐみは、それを見た。
「……死亡処理票」
黒崎は否定しなかった。
「必要になれば」
「……誰の」
黒崎は、めぐみを見た。
「誰にでも使えます」
その時だった。
最初に聞こえたのは、波ではなかった。
バイクの音だった。
遠くの雨の向こうから、低い排気音が近づいてくる。
白班の一人が顔を上げた。
「二輪?」
黒崎も、わずかに目を動かした。
旧護岸へ続く細い道は、車では入りにくい。
だから白班は、周辺確認用に小型のバイクを使っていた。
高台で回収されるはずだった一台。
戻ってくるはずのない一台。
その音が、雨の中から近づいてくる。
次に、犬が現れた。
さっき逃げた犬だった。
濡れた身体を低くし、護岸の手前で止まる。
吠えなかった。
ただ、黒崎の方を見た。
黒崎ではない。
黒崎の車両。
白班。
ハンドラーの匂いが残った場所。
そこを見ていた。
犬はもう、人間の命令を聞いていなかった。
生きるために、危ない場所を見ていた。
めぐみは犬を見た。
高台で、リードにつながれて吠えていた犬。
命令で吠えていた犬。
放たれた瞬間、なおから逃げた犬。
その犬が、今ここにいる。
なおに従ったのではない。
なおを案内したのでもない。
ただ、生きるために、なおから一番遠い線を選んだ。
その線が、黒崎の逃げた道と重なっただけだった。
バイクの音が、さらに近づく。
ヘッドライトが、雨を裂いた。
白班が銃を構える。
黒崎の顔から、ほんの少しだけ余裕が消えた。
ライトの中から、なおが来た。
走っているのではない。
歩いているのでもない。
壊れかけた身体を、白班のバイクに乗せて、ここまで来たのだった。
バイクは護岸の手前で横滑りした。
金属が火花を散らす。
なおの身体が投げ出される。
肩から落ちる。
それでも、受け身を取った。
起き上がる。
口元には、まだ血が残っていた。
白班のバイクは倒れたまま、雨の中でエンジンを震わせている。
なおは、それを振り返らなかった。
見ていたのは、黒崎だけだった。
黒崎は、ほんの一瞬だけ黙った。
記録の中では、この男は倒れていた。
高台で膝をついていた。
血を吐き、白班に押さえられていた。
追えるはずがなかった。
それでも、ここにいる。
白班が前に出た。
棒を構える。
なおは避けなかった。
一撃を受けた。
肩が揺れる。
それでも前へ出る。
白班の手首を掴む。
金属音。
雨音。
骨が鳴るような音。
白班の身体が、護岸の金網へ叩きつけられた。
二人目が横から入る。
なおは膝をついた。
倒れたように見えた。
だが、その低さから足を奪った。
白班の身体が雨の中に落ちる。
三人目が銃を抜く。
黒崎が言った。
「撃て」
銃声が鳴った。
なおの身体が揺れた。
肩から血が散る。
めぐみが息を飲む。
声は出さなかった。
なお、と呼ばなかった。
呼べば取られる。
けれど、喉の奥で、名前が裂けそうになっていた。
なおは止まらない。
撃たれても。
膝をついても。
血を吐いても。
止まらない。
黒崎の顔から、少しずつ余裕が消えていった。
紙の上で警戒していた男が、目の前で歩いてくる。
対象区分ではなかった。
元自衛隊影響でもなかった。
福岡仁でも、真柴直樹でも、まだ足りなかった。
血を流しながら、ただ一人の女を取り返すために進んでくる人間だった。
黒崎は、一歩下がった。
その足が水たまりを踏んだ。
音がした。
小さな音だった。
けれど、めぐみには分かった。
黒崎が初めて、逃げた音だった。
「止めろ」
黒崎の声が鋭くなる。
ナンバーズが出た。
数字を胸につけた二人が、なおの前へ立つ。
一人がなおの肩を押さえる。
もう一人が足を払う。
なおは倒れる。
顔からではない。
肩から落ちる。
受け身を取る。
しかし、体はもう限界に近かった。
血が口からこぼれる。
雨と一緒に流れる。
ナンバーズの一人が、なおの首へ手を伸ばした。
なおはその手を見た。
めぐみに伸びた手を、思い出した。
火の中。
高台。
黒い傘。
奪われた目。
なおの動きが変わった。
速くなったのではない。
無駄がなくなった。
低く、短く、近く。
相手が倒れた時には、もう次を見ている。
白班が叫ぶ。
銃声がまた鳴る。
なおの横のコンクリートが欠ける。
なおは、欠けた破片を踏んで前へ出た。
黒崎は銃を握り直す。
指が濡れていた。
雨か。
汗か。
自分の血か。
分からなかった。
なおが来る。
黒崎は撃った。
一発。
なおの肩が揺れる。
二発。
なおの脇腹から血が散る。
三発。
なおの足が一瞬止まる。
黒崎は、その一瞬に勝ったと思った。
だが、なおは倒れなかった。
倒れる代わりに、さらに近づいた。
黒崎の喉から、初めて息が漏れた。
「なぜ」
記録には、そう書かれていなかった。
人は撃たれれば止まる。
血を吐けば止まる。
名前を奪えば止まる。
帰る道を押さえれば壊れる。
そのはずだった。
なおの手が、黒崎の襟を掴んだ。
黒崎の背中が、護岸のコンクリートに叩きつけられる。
息が抜ける。
銃が手から落ちかけた。
なおの拳が入る。
一度。
黒崎の視界が白く弾けた。
二度。
口の中に血の味が広がった。
三度。
膝が折れた。
黒崎は地面へ落ちる。
なおはその上に立った。
雨が、二人を同じように濡らしていた。
けれど、黒崎だけが初めて、人間の顔をしていた。
恐怖。
痛み。
理解できないものを前にした混乱。
なおは拳を上げる。
終わらせるために。
黒崎を。
紙を。
名前を消す手を。
全部。
その時、めぐみの両脇にいた白班の一人が、なおを見た。
倒れたナンバーズ。
動かない白班。
雨の中へ逃げた犬。
護岸に崩れた黒崎。
そして、血を流しながらまだ立っている男。
命令は残っていなかった。
黒崎は倒れている。
通信は切れている。
三号もいない。
犬も戻らない。
白班の男は、めぐみの腕を押さえていた自分の手を見た。
この手が、次に折られる。
そう理解した。
銃口が、少し下がった。
もう一人も、それを見た。
めぐみの肩を押さえていた力が緩む。
戦意が消えたのではない。
勝てないと判断したのだ。
めぐみは、振りほどかなかった。
押し返しもしなかった。
ただ、拘束がほどけるのを感じた。
白班が一歩下がる。
雨の音が、その隙間に入った。
めぐみは、なおを見た。
なおはまだ黒崎の上に立っている。
拳を上げたまま。
人間の顔ではなかった。
めぐみの胸が痛んだ。
あのままでは、帰れない。
黒崎を殺しても、なおは戻らない。
両脇に白班がいたままなら、なおは戻れなかった。
でも、今、道が空いた。
めぐみは歩いた。
一歩。
もう一歩。
足元は濡れている。
膝は震えている。
胸の奥は痛い。
それでも歩いた。
「……なお」
声がした。
小さな声だった。
けれど、外海の波より強く届いた。
なおの拳が止まる。
めぐみは、泣いていた。
けれど、笑っていた。
「……もう、いいよ」
なおの拳は、まだ下りない。
黒崎はまだ息をしている。
まだ紙を持っている。
まだ、誰かの名前を消せるかもしれない。
なおの目が、黒崎へ戻りかけた。
めぐみが、もう一歩近づいた。
「……なお」
その呼び方で、なおの肩が揺れた。
「……帰ろう」
めぐみは、涙で濡れた顔のまま言った。
「……さあ、帰ろう」
帰ろう。
その言葉は、なおの胸の奥に触れた。
ずっと聞けなかった言葉。
聞く資格がないと思っていた言葉。
手を離した日から、遠くなり続けていた言葉。
火の中でも、雨の中でも、血の中でも、なおが探していた言葉。
帰ろう。
なおの手から力が抜けた。
黒崎の襟を掴んでいた指が離れる。
黒崎の身体が、濡れた床に崩れた。
なおは、めぐみを見た。
めぐみは泣きながら笑っていた。
宮崎先輩でもなかった。
先生でもなかった。
誰かを包む人でもなかった。
ただ、小さな女の人だった。
雨の中で震えながら、それでもなおの前に立っている、愛おしい一人の人だった。
めぐみは走れなかった。
走れる身体ではなかった。
それでも、最後の数歩だけは、倒れるように近づいた。
なおの胸に飛び込む。
なおは受け止めた。
強く抱けば壊れそうで。
弱く抱けば消えそうで。
どう抱けばいいか分からないまま、腕を回した。
めぐみの手が、なおの頬へ伸びる。
冷えた指が触れる。
そう思った。
違った。
なおの頬に飛んだのは、手の温かみではなかった。
熱い血だった。
めぐみの口元から、赤いものがあふれた。
笑顔のまま。
泣いたまま。
なおの名前を呼んだまま。
彼女は血を吐いた。
黒崎の手には、銃が戻っていた。
倒れたまま。
血に濡れた指で。
最後の一発を、なおではなく、なおを止めた場所へ向けていた。
めぐみの胸元に、赤が広がる。
なおの目が見開かれる。
「めぐみ」
呼んだ。
止められなかった。
「めぐみ」
めぐみの身体から力が抜ける。
なおは膝をつき、彼女を抱え込んだ。
胸元に血が広がっていた。
雨に濡れた服の下から、赤が押し出されるように滲んでくる。
呼吸が浅い。
喉の奥で、血が鳴っている。
それでも、めぐみはなおを見ていた。
「……呼んで、くれた」
「喋るな」
「……なお」
「喋るな」
「……お願い」
めぐみの指が、なおの服を掴んだ。
小さな力だった。
「……最後に、もう一回だけ」
「最後じゃない」
「……お姉さんでも」
血が口元に戻る。
「……先生でも」
なおの顔が歪む。
「……誰かの役でもなくて」
めぐみの目に、涙が浮かぶ。
「……私の名前で、呼んで」
なおの喉が震えた。
「めぐみ」
めぐみは、かすかに笑った。
「……うん」
「めぐみ」
「……うん」
「めぐみ」
めぐみの瞳が細く揺れる。
「……よかった」
その声が、少し遠くなった。
雨の音がほどけていく。
なおの腕の中にいるはずなのに、めぐみの意識は別の雨へ落ちていった。
四年前。
奈良。
白い光のあと。
駅の名を失った場所。
仮設の掲示板には、紙が何枚も貼られていた。
行方不明。
搬送先不明。
身元確認中。
死亡推定。
そして、その中に一枚だけ、硬い文字があった。
真柴直樹。
MIA。
行方不明のまま、死んだことにされた名前。
めぐみは、その紙の前にいた。
膝から崩れていた。
声を出さずに泣いていた。
人が横を通る。
誰かが花を置く。
誰かが手を合わせる。
誰かが「仕方ない」と言う。
でも、めぐみは動けなかった。
紙の上に名前だけがあった。
なおはいなかった。
手もなかった。
声もなかった。
ただ、名前だけが残っていた。
あの日、めぐみは思った。
名前だけじゃ、足りない。
名前だけじゃ、抱きしめられない。
名前だけじゃ、ただいまも、おかえりも言えない。
だから今。
今だけは。
自分の名前を、なおの声で聞きたかった。
誰かのためではなく。
記録のためでもなく。
役割のためでもなく。
自分のために。
めぐみは、なおの頬に血のついた手を当てた。
「……身勝手で、ごめんね」
「やめろ」
「……でも」
「やめろ」
「……忘れないで」
なおの喉が震えた。
「忘れるわけない」
「……たまにでいいから」
「忘れない」
「……私の絵を見て」
「見る」
「……私を、思い出して」
「思い出す」
なおは、めぐみの手を握った。
「毎日、思い出す」
めぐみは、少し困ったように笑った。
「……毎日は、重いよ」
「重くていい」
「……そっか」
めぐみの呼吸が、また浅くなった。
胸が小さく上下する。
血が口元に戻る。
なおは手で押さえようとした。
でも、どこを押さえればいいのか分からない。
胸の血を止めたい。
呼吸を戻したい。
名前を消させたくない。
帰したい。
生かしたい。
全部したいのに、手が足りなかった。
なおの手が震えた。
めぐみは、その震える手を、自分の頬に当てた。
血のついた手。
人を壊してきた手。
黒崎を殺そうとした手。
それでも、めぐみは怖がらなかった。
「……死にたくないな」
なおの呼吸が止まる。
めぐみの目から、涙がこぼれた。
「……せっかく、また会えたのに」
「死なせない」
「……もっと」
「死なせない」
「……あなたと」
「めぐみ」
「……帰りたかった」
外海の波が、護岸を叩いた。
「……ただいまって」
声が細くなる。
「……言いたかった」
なおは首を横に振った。
「言える」
「……おかえりって」
「聞ける」
「……聞きたかった」
「聞ける。聞かせる」
なおは、めぐみの額に額を近づけた。
「帰る。俺が連れて帰る」
めぐみは、笑おうとした。
でも、笑い切れなかった。
血がまた、口元からこぼれた。
それでも、その目はなおを見ていた。
「……なお」
「ああ」
「……帰って、きて」
「一緒に帰る」
「……うん」
「一緒だ」
「……うん」
めぐみの瞼が、少しずつ落ちる。
なおは名前を呼び続けた。
「めぐみ」
もう一度。
「めぐみ」
紙に取られないように。
世界から消えないように。
自分の腕の中に留めるように。
でも、めぐみの瞼は落ちた。
手の力が抜けた。
なおの腕の中で、めぐみは動かなくなった。
世界から音が消えた。
雨も。
波も。
黒崎の息も。
全部が遠くなった。
なおは、めぐみを抱いたまま崩れた。
膝が濡れた地面に落ちる。
額を、めぐみの髪に押しつける。
声が出ない。
泣き声にもならない。
ただ、身体だけが震えていた。
黒崎が笑った。
血まみれの顔で。
折れた息で。
それでも、勝ち笑いだった。
「やはり」
黒崎の声が、雨の奥で響く。
「帰る道を押さえれば、名前は壊れる」
なおは、ゆっくり顔を上げた。
その目を見て、黒崎の笑いが止まった。
なおは、めぐみを地面に下ろした。
とても優しく。
濡れた地面に直接触れないように、自分の上着を敷いた。
彼女のスケッチブックを胸の横に置く。
髪が頬にかかっていた。
なおは、それを指で払った。
「……待ってて」
声は低かった。
優しかった。
壊れていた。
なおは立ち上がった。
黒崎が銃を上げる。
なおは止まらない。
銃声が鳴った。
一発。
雨が跳ねた。
二発。
なおの肩が揺れた。
三発。
それでも、なおは離さない。
なおの手が黒崎の襟を掴んだ。
黒崎の背中が欄干に叩きつけられる。
黒崎が叫ぶ。
なおは聞いていない。
銃声が、もう一度鳴った。
誰に当たったのか、分からなかった。
その瞬間、沖から大きな音が来た。
外海の波だった。
雨で膨れた水が、護岸を越えて押し寄せる。
黒崎の目が初めて揺れた。
なおは襟を離さない。
黒崎も、なおの腕を掴む。
二人の身体が、濁った水に呑まれた。
黒い傘が、波の上で一度だけ回った。
銃が石に当たり、鈍い音を立てる。
水は、なおと黒崎をまとめて連れていった。
雨の中へ。
暗い日本海の方へ。
あとには、血のついた上着と、瞼を閉じためぐみだけが残った。
スケッチブックの端が、雨に濡れている。
その上に、赤い雫が落ちる。
逃げていた犬が、護岸の端で止まった。
吠えなかった。
近づきもしなかった。
ただ、雨の中で伏せるように身を低くし、めぐみの方を見ていた。
遠くで、誰かが叫んだ。
「いた!」
別の声が重なる。
「死亡確認にするな!」
足音が近づく。
雨具の音。
金具の音。
担架の脚が水を弾く音。
誰かが、めぐみの首筋に指を当てる。
胸に耳を寄せる。
雨が強くて、呼吸はほとんど聞こえない。
それでも、その人は言った。
「まだある」
えりの声が、雨を裂いた。
「未確認で残せ!」
血で濡れた紙が、誰かの手から奪われる。
「死亡じゃない。未確認。まだ消すな!」
めぐみの胸が、ほんのわずかに動いた。
一度。
止まりそうになって。
もう一度。
富士川から来た衛生兵が、短く叫ぶ。
「急げ。一時間ない」
めぐみの身体が担架へ移される。
スケッチブックが、彼女の胸元に置かれる。
雨の中で、搬送灯が赤く回った。
なおには、もう見えていなかった。
なおには、もう聞こえていなかった。
水の向こうへ流されながら、なおが最後に見たのは、瞼を閉じためぐみだった。
だから、なおは信じてしまう。
紙が死んだと言えば、人は死ぬ。
名前が消えれば、人は帰れない。
その恐ろしさを、なおは知っていた。
けれど、めぐみはまだ消えていなかった。
死亡ではない。
未確認。
まだ、探している。
まだ、帰れる。




