↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
90/294

第九十話 見えすぎる場所

##第九十話 見えすぎる場所


 雨は、細くなっていた。


 止んだわけではない。


 ただ、音が変わった。


 高架を叩いていた重い雨が、町の屋根や電線を静かに濡らす雨になっていた。


 男は、めぐみの手を引いて歩いていた。


 強く引かない。


 急がせない。


 けれど、止まらない。


 高架の下で、少しだけ息をした。


 思い出を三つ置いた。


 雨の部活帰り。


 社会人一年目のバレンタインデー。


 初めての旅行。


 それだけで十分なはずだった。


 なのに、胸の中にはまだ聞きたいことが山ほど残っていた。


 めぐみは、男の上着を肩にかけたまま、スケッチブックと記録を抱えている。


 濡れた髪が頬に貼りついていた。


 男が振り返る。


「大丈夫か」


 声が、少しだけ柔らかかった。


 めぐみは頷いた。


「……うん」


「足、痛くないか」


「……少し」


 男は足を止めた。


 めぐみの靴を見る。


 雨に濡れて、泥がついている。


 足首を少しかばっている。


「休むか」


「……まだ歩ける」


「無理するな」


「……してない」


 男は少しだけ黙った。


「少し、してる」


 めぐみは、泣きそうな顔で小さく笑った。


「……そうかも」


 その笑顔で、男の手から力が抜けた。


 握り潰さないようにしている手。


 離さないようにしている手。


 その間を、まだ探している手だった。


 道路の先に、低い坂があった。


 古い住宅地の外れ。


 坂を上がると、小さな高台へ出る。


 公園だったのか、資材置き場だったのか、もう分からない場所だった。


 錆びた手すり。


 壊れたベンチ。


 コンクリートの階段。


 木は少ない。


 植えられていたはずの木は、何本か切られたまま、切り株だけが黒く濡れていた。


 めぐみの息はまだ浅い。


 煙を吸った身体で、走らせ続けるわけにはいかない。


 下の道は濡れていた。


 狭い路地が続き、曲がれば先が見えない。


 人とぶつかれば、逃げ場がない。


 高台なら、少しだけ息ができる。


 下の道も見える。


 近づく車のライトも、足音も、先に拾える。


 それに、めぐみを雨の流れから少しだけ外せる。


 男はそう読んだ。


 けれど、その読みは半分だけだった。


 上から見える場所は、下からも見える。


 木が少ない。


 遮るものがない。


 安全に見えた場所は、隠れる場所ではなかった。


「上に行く」


 男が言った。


 めぐみは坂の上を見た。


「……上?」


「ああ」


「……見えるね」


「こっちも、見える」


「……向こうからも?」


 男は一瞬黙った。


 その問いが正しいことを、分かっていた。


「少しだけだ」


 男は言った。


「俺が下を見る」


「……私は?」


「上で伏せる」


「……うん」


「寒かったら言え」


「……言ったら?」


「考える」


 めぐみは、また少しだけ笑った。


「……考えてくれるんだ」


「考える」


 男は先に階段を上がった。


 濡れた段に足を置く。


 一段ずつ確かめる。


 めぐみが後ろからついてくる。


 途中で、足が滑りかけた。


 男の手がすぐに伸びる。


 今度は迷わなかった。


 めぐみの手を取る。


「足、ここ」


「……うん」


「手すりは持つな。錆びてる」


「……うん」


「俺の手」


 めぐみは、その言葉に一瞬だけ息を止めた。


 男は気づかないふりをした。


 めぐみは、彼の手を握った。


 高台の上に出ると、町が見えた。


 濡れた屋根。


 細い路地。


 遠くの火災の赤い光。


 まだサイレンが鳴っている。


 施設の方角は、建物に隠れて見えなかった。


 けれど、煙の匂いだけが薄く残っていた。


 男は周囲を見た。


 木が少ない。


 隠れる場所も少ない。


 ベンチの下。


 壊れた物置の横。


 手すりの影。


 どれも薄い。


「ここ」


 男は壊れた物置の陰を示した。


「低く」


 めぐみは頷き、そこに身を寄せた。


 膝にスケッチブックを抱える。


 男の上着が、雨を吸って重くなっていた。


「あなたは?」


「下を見る」


「……ひとりで?」


「近くにいる」


 めぐみは何かを言いかけた。


 でも、飲み込んだ。


 言葉の代わりに、男の手を少しだけ握った。


 男は、その手を握り返した。


 短く。


 それから離す。


 離した瞬間、めぐみの胸が痛んだ。


 物理的には、ただ数歩離れただけだった。


 でも、あの日の駅の感覚が、喉の奥に戻ってくる。


 人の波。


 白い光。


 離れた手。


 離された手。


 めぐみは唇を噛んだ。


 呼ばない。


 今は呼ばない。


 呼べば取られる。


 男は階段の途中まで下りた。


 高台の下の道を見る。


 雨の匂い。


 土の匂い。


 油の匂い。


 まだ、追手の気配は薄い。


 車の音も遠い。


 だからこそ、男は一瞬だけ判断を誤った。


 高台の上で、めぐみが物置の陰へ身を寄せる。


 男の上着の端が、雨を吸って少しだけ外へ出ていた。


 白い頬が、壊れた物置の影から一瞬だけ見えた。


 下の道を、黒い車がゆっくり通り過ぎる。


 通り過ぎたはずだった。


 だが、ブレーキランプが赤く濡れた。


 止まった。


 男の目が細くなる。


 遅かった。


 高台は、見えすぎる場所だった。


 車の後方ドアが開く。


 白い作業服が降りる。


 一人。


 二人。


 三人。


 その後ろに、犬を連れた男。


 そして、顎に包帯を巻いた三号。


 さらに、別のナンバーズが二人。


 雨の中で、胸元の数字だけが濡れずに浮いて見えた。


 犬は濡れていた。


 耳を伏せ、鼻先を下げている。


 吠えているのは、命令だからだった。


 自分の意思ではない。


 ハンドラーがリードを短く引くたび、犬は喉の奥で低く鳴った。


 男は階段を下り切らなかった。


 中段で止まる。


 上にはめぐみ。


 下には白班。


 ここで止める。


 三号が上を見る。


 木が少ない。


 遮るものがない。


 めぐみは物置の陰にいる。


 それでも、雨に濡れた上着の端と、白い頬が、ほんの一瞬だけ見えた。


 三号の視線が止まる。


 ハンドラーも気づく。


 白班の一人が通信機へ手を伸ばした。


 男は階段を一段下りた。


 白班が構える。


 三号がかすれた声で言った。


「停止、してください」


 男は答えない。


「対象、確認」


 三号の声が雨に濡れる。


「宮崎めぐみ」


 高台の上で、めぐみの肩が揺れた。


 男の足が、もう一段下りる。


 白班が横へ広がる。


 一人は左。


 一人は右。


 正面に三号。


 犬はハンドラーの足元で吠えている。


 リードがついているうちは、逃げられない。


 だから吠える。


 男はそれを見た。


 犬を見ているのではない。


 リードを見ていた。


 金具。


 手。


 距離。


 白班の配置。


 雨で滑る階段。


 自分の呼吸。


 めぐみの位置。


 全部を読む。


 それでも、多すぎた。


 左から白班が入る。


 男は一撃で沈める。


 だが、その横から二人目が来る。


 避ける。


 肩に入る。


 肘を落とす。


 三号がその隙に近づく。


 以前より遅い。


 だが、命令に忠実だった。


 犬が吠える。


 ハンドラーがリードを引く。


 犬の吠え声で、男の位置が切られる。


 白班が階段の下から照明を上げる。


 光が目に入る。


 男は顔を背けない。


 背ければ、めぐみのいる上を見失う。


 白班の棒が脇腹へ入った。


 重い音がした。


 男の呼吸が止まる。


 次の一撃が背中へ入る。


 膝が落ちかける。


 それでも立つ。


 めぐみが上で息を飲んだ。


 叫びそうになる。


 でも、声を殺した。


 呼べない。


 呼べば、取られる。


 三号が前へ出る。


「停止」


 男の拳が三号の肩を打つ。


 三号の身体が揺れる。


 だが、倒れない。


 後ろから白班が男の腕を取る。


 別の白班が足を払う。


 男の身体が階段へ落ちた。


 背中からではない。


 肩から。


 受け身を取った。


 だが、次の瞬間、腹へ膝が入る。


 男の口から血が出た。


 雨に混ざって、階段を流れる。


 めぐみは物置の陰から出かけた。


 男が、顔を上げずに言った。


「動くな」


 声は小さかった。


 でも届いた。


 めぐみは止まった。


 男は膝をついていた。


 血を吐いている。


 肩で息をしている。


 白班が三人。


 三号。


 ナンバーズが二人。


 犬。


 ハンドラー。


 多すぎた。


 さすがに危ない。


 めぐみは、初めてその事実を身体で理解した。


 この人は強い。


 でも、無限ではない。


 倒れる。


 血を吐く。


 膝をつく。


 その姿が、胸を裂いた。


 下の道から、黒い傘が近づいてきた。


 雨の中なのに、その傘だけが濡れていないように見えた。


 黒崎だった。


 白班が道を開ける。


 黒崎は階段の下で止まった。


 倒れた男を見下ろす。


 それから、高台の上を見る。


 めぐみを見た。


「見つけた」


 黒崎の声は、静かだった。


 勝ち誇っているのに、笑っていない。


 笑わないから、余計に冷たい。


 男が立とうとする。


 三号が肩を踏んだ。


「停止、してください」


 男の喉から、血の混じった息が漏れる。


 黒崎は、男の顔を見た。


 雨に濡れた顔。


 血を吐いた口元。


 それでも、目だけはまだ消えていない。


 黒崎は、ほんの少しだけ息を吐いた。


「……また、その目をする」


 男の指が、濡れたコンクリートを掴む。


「旧南第三の時もそうでした」


 黒崎の声に、わずかな熱が混ざった。


「子ども八人と職員一人。あれを連れ出した時、あなたたちはいつも、記録の外へ人を逃がした」


 雨が階段を流れる。


「久住は消えた。犬塚央は三号にした。西田透は餌にできた」


 黒崎は、男を見下ろす。


「なのに、真柴兄弟だけは、いつも紙の端を破って逃げる」


 男は答えない。


 黒崎は続けた。


「福岡仁ではない」


 雨音の中で、その名前だけが硬く落ちる。


「真柴直樹でも足りない」


 黒崎は、めぐみのいる高台へ視線を上げた。


「名前の逃走ではない。名前の分離だ」


 男の目が、わずかに動いた。


 黒崎はそれを見逃さなかった。


 口元だけが、少し動く。


「ようやく、見えました」


 めぐみが息を止めた。


 黒崎の視線が、ゆっくり高台へ上がる。


「本人を押さえても、足りない」


 黒崎は言った。


「あなたたちは、いつもそうでした。紙から逃げる時、自分ひとりでは逃げない」


 男の呼吸が荒くなる。


「弟を連れて逃げる。子どもを連れて逃げる。職員を連れて逃げる。名前のない者を、名前の外へ運び出す」


 黒崎は、めぐみを見た。


「なら、今回は逆にします」


 白班が高台へ上がり始める。


「帰る道を押さえる」


 めぐみの肩が揺れた。


「宮崎めぐみ。あなたは人質ではありません」


 黒崎の声は、ひどく静かだった。


「あなたは、この男がまだ人間へ戻るための経路です」


 黒崎は、倒れた男を見下ろした。


「このまま続ければ、彼は死にます」


 めぐみは答えなかった。


 黒崎は高台の上へ視線を向ける。


「あなたがここにいる限り、彼は止まりません」


 雨が、傘の端から細く落ちる。


「宮崎めぐみ。同行してください」


「……どこへ」


「保護します。医療班へ接続します。避難者名簿の確認も必要です」


「……嘘ですね」


 黒崎は、否定しなかった。


「全部が嘘ではありません」


 めぐみは、男を見た。


 階段の途中で、男は膝をついている。


 血を吐いている。


 それでも、こちらを見ている。


 立とうとしている。


 また、動こうとしている。


 めぐみの指が、スケッチブックの端を握った。


「……私が行けば」


 声が震えた。


「……この人を、止めますか」


 黒崎は静かに言った。


「少なくとも、今ここでは」


 それは約束ではなかった。


 救助でもなかった。


 ただ、めぐみが一番欲しい言葉の形をしていた。


 白班が、めぐみの近くまで来る。


 黒い手袋。


 火の中で見た手。


 車の中で見た手。


 また、その手が彼女に近づく。


 めぐみは一歩だけ下がった。


 でも逃げなかった。


 逃げる場所がなかったからではない。


 逃げれば、男がさらに壊れると分かったからだった。


 黒崎が階段を上がってくる。


 ゆっくり。


 傘を差したまま。


 めぐみの前に立つ。


「宮崎めぐみ」


 標的名で呼ばれた。


 めぐみは答えなかった。


 黒崎は、めぐみの持つスケッチブックを見る。


「それは、もう役に立たない」


 めぐみはスケッチブックをさらに抱きしめた。


「……役に立つかどうかは、あなたが決めることじゃない」


 黒崎は初めて、ほんの少しだけ口元を動かした。


「だから必要だ」


 白班が、めぐみの両側に立つ。


 掴まない。


 まだ、掴まない。


 手続きの形を残している。


 保護。


 同行。


 確認。


 その言葉で、人を連れていくために。


 めぐみは下を見る。


 男は階段の途中で膝をついている。


 血を吐いている。


 肩を踏まれている。


 それでも、こちらを見ている。


 めぐみは叫ばなかった。


 なお、と呼ばなかった。


 呼べば取られる。


 だから目だけで見た。


 動かないで。


 私が行くから。


 あなたは、死なないで。


 黒崎は、その目ごと奪うように、めぐみを傘の下へ入れた。


 男の中で、何かが静かに切れた。


 音はしなかった。


 叫びもなかった。


 黒崎はめぐみを連れて下がる。


「追わせるな」


 三号が頷く。


 犬が吠える。


 ハンドラーがリードを短く持つ。


 黒崎の黒い傘が、雨の中で遠ざかる。


 めぐみの姿が、その傘の下に消えていく。


 なおは、まだ膝をついていた。


 血を吐いた。


 白班の一人が近づいた。


「確保します」


 三号が言った。


「注意して」


 遅かった。


 なおは倒れたまま、動いた。


 立ち上がらなかった。


 低いまま、白班の足元へ入る。


 雨で滑る地面。


 血で濡れた手。


 普通なら不利になるものを、なおはすべて使った。


 白班の膝が、内側から消える。


 身体が落ちる。


 落ちる途中で、顎が跳ねた。


 声は出なかった。


 二人目が動く。


 なおはすでに、その影の下にいた。


 手首。


 肘。


 喉元の一歩手前。


 止める角度ではない。


 三号が息を飲む。


「停止――」


 なおの掌が、三号の顎の下に入った。


 火の中では、そこで角度が変わった。


 めぐみの顔があったから。


 今は、いない。


 短い音がした。


 三号の身体が、雨の中に落ちた。


 胸元の三が、水に濡れて黒ずんでいく。


 ハンドラーが叫んだ。


「行け!」


 リードが外れる。


 犬は一歩だけ前に出た。


 なおを見た。


 雨に濡れた男。


 血を吐きながら立ち上がる男。


 動かない三号。


 倒れた白班。


 犬は吠えなかった。


 本能が、命令より先に動いた。


 犬は背を低くし、白班の横を抜けて走った。


 暗い斜面へ。


 雨の中へ。


 ハンドラーの声を置き去りにして。


 なおは犬を見なかった。


 見ていたのは、黒崎が消えた方角だけだった。


 ハンドラーが腰のものに手を伸ばす。


 なおの足が動く。


 水たまりが割れる。


 次の瞬間、ハンドラーは声を失っていた。


 白い作業服が、また一つ崩れる。


 なおは歩き出した。


 もう、止める声はない。


 もう、笑っている顔もない。


 火の中で人間側に引き戻していたものが、奪われた。


 だから、なおは戻った。


 守るためではない。


 帰すためでもない。


 黒崎を追うために。


 雨が、足元の血を薄く伸ばしていく。


 高台の下には、動かない白い影が残った。


 犬だけが、生きるために走っていた。


 なおは一度も振り返らなかった。


 黒い傘は、まだ遠くに見えていた。


 その傘の下に、めぐみがいる。


 名前を呼べないまま。


 手を離されたまま。


 なおは、雨の中を進んだ。


 足取りは重い。


 身体は壊れかけている。


 血はまだ喉に残っている。


 それでも、止まらない。


 黒崎が奪ったのは、人質ではなかった。


 帰る道だった。


 だから、なおは追う。


 人間の顔を、少しずつ失いながら。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。