第八十九話 場所を削る
## 第八十九話 場所を削る
雨が降り出した。
強い雨ではなかった。
屋根を叩くほどでもない。
ただ、玄関の外に置かれた石の色が、少しずつ濃くなっていく。
京都の施設は、夕方の光を失っていた。
廊下の奥では、子どもたちが声を落として過ごしている。
職員は筆談で動いている。
窓は閉め切っていない。
閉じ込める音を作らないためだった。
靴棚には名前が並んでいる。
ひらがな。
カタカナ。
少し歪んだ字。
薄くなって、上から書き直された字。
ジンは、まだ子ども用の椅子に座っていた。
中には入っていない。
外にも出ていない。
玄関の境目にいる。
めぐみは、そのすぐ隣に座っていた。
肩が触れている。
袖が触れている。
それだけだった。
掴まない。
縛らない。
寄りかからない。
それでも、二人の間に隙間はなかった。
ジンは外を見ている。
めぐみは鉛筆を動かしている。
さ、さ。
さ、さ。
その音だけが、玄関の空気を細く支えていた。
えりは、玄関の横に立っている。
外を見ている。
雨。
布。
角。
道路。
沈めた録音機。
どれも動いていない。
だが、黒崎が止まったとは思わなかった。
あの男は、止まらない。
殴れなければ、紙で来る。
見えなければ、声で来る。
声が取れなければ、場所を削る。
えりの携帯が震えた。
音は出していない。
画面には、エレーナからの短い文があった。
正規支援確認書類、移動中。
受領記録注意。
拒否記録注意。
表玄関で受けるな。
えりは画面を伏せた。
その瞬間、ジンが言った。
「来る」
えりは顔を上げる。
「どこ」
「表じゃない」
「裏?」
「裏に一つ。表に紙」
えりは眉を寄せた。
「二方向?」
「違う」
ジンは雨の音を聞いていた。
めぐみの鉛筆の音。
職員の足音。
排水の音。
その奥に、濡れた布が擦れる音がある。
「裏は、人間。表は記録」
えりは小さく息を吐いた。
「嫌な言い方」
「正しい」
ジンの声は低い。
現場の声だった。
めぐみに向ける声ではない。
えりは若い職員に目で合図した。
表玄関へは出るな。
受け取るな。
声を出すな。
職員は頷く。
奥へ下がる。
ジンは椅子から立った。
めぐみの鉛筆の音が、一瞬だけ細くなる。
ジンは振り返らずに言った。
「……止めるな」
「……うん」
さ、さ。
さ、さ。
鉛筆の音が戻る。
ジンは靴棚の前を通った。
中へは入らない。
外にも出ない。
裏口へ続く廊下の角まで移動する。
そこは、玄関を見失わない位置だった。
表の扉。
靴棚。
えりの背中。
裏口の小窓。
全部が細く見える。
ジンは、そこで止まった。
「職員は奥」
若い職員が振り返る。
「窓に立つな。名札を裏返せ。靴棚の前に物を置け」
職員は一瞬だけ迷った。
えりがすぐに指を鳴らす。
「聞こえたでしょ。スピード」
職員が動く。
名札が裏返る。
靴棚の前に、古い段ボールと濡れた傘立てが置かれる。
名前の列が、外から見えにくくなる。
ジンは裏口を見たまま言った。
「子どもは奥の部屋。廊下に声を出すな」
えりが職員に目で合図する。
職員は頷き、奥へ走らず歩いていく。
走る音を立てないためだった。
ジンは、裏口の黒い影を見る。
「えり」
「何」
「鎖は外すな」
「言われなくても」
「顔を見せろ。ただし入れるな」
えりは裏口の扉の前に立った。
小窓の向こうに、黒い雨合羽がいる。
傘はない。
フードを深くかぶっている。
顔は見えにくい。
背は高くない。
細い。
雨合羽の裾から、濡れたズボンと靴が見える。
左足に、半拍だけ遅れがあった。
えりは扉を少しだけ開けた。
鎖は外さない。
「誰」
黒い雨合羽の女は、すぐには答えなかった。
声は低い。
日本語は丁寧だったが、どこか硬い。
「表で、受け取らないでください」
「何を」
「封筒です」
「それを言いに来たの?」
「受け取らないことも、記録になります」
えりの目が細くなる。
「じゃあどうしろと」
「受け取り方を、変えます」
雨の音が、少し強くなった。
えりは、扉を閉めなかった。
だが、開けもしなかった。
「名前は」
「今は出さない方がいいです」
「便利な答え」
「便利ではありません。生き残る答えです」
ジンは廊下の角から見ていた。
「顔」
短く言う。
黒い雨合羽の女が、フードに手をかけた。
ゆっくり上げる。
濡れた髪。
細い頬。
血色の薄い唇。
目の下に、眠っていない影がある。
ジンは顔を見た。
だが、顔だけでは判断しない。
足。
肩。
雨合羽の裾を押さえる指。
左足の遅れ。
右肩を少しだけかばう癖。
見たことがある。
ミーシャの横。
黒い雨合羽。
中部で、血を流していた女。
ジンは低く言った。
「ミーシャの横にいた雨合羽」
女の目が、ほんの少しだけ動いた。
「覚えているんですね」
「歩き方が変わっていない」
「傷は、治りきっていません」
「中部の時の負傷か?」
女は答えなかった。
沈黙が答えだった。
えりが扉越しに見る。
「もう動けるの?」
女は、少しだけ頷いた。
「リハビリを受けました」
「その後、何してたの」
「白羽の内側を見るために、西へ移動していました」
「一人で?」
「一人の方が、紙にしにくい時があります」
ジンの目が冷える。
「途中で拘束されたな」
女は、ジンを見る。
「あなたに一度」
えりの視線がジンへ向く。
ジンは表情を変えない。
「あの時は敵に見えた」
「半分は、そうでした」
「白羽の紙にいたのか」
「はい」
女は雨の中で立ったまま言った。
「白羽の内側では、まだ別の名前で残っています。だから、本当の名前は出せません」
ジンは、少し黙った。
それから低く言う。
「なぜ来た」
「場所を削りに来ます」
その言葉に、玄関の空気が変わった。
めぐみの鉛筆が止まりかける。
ジンは廊下の角に立ったまま、わずかに手を上げた。
止めるな、という合図だった。
めぐみは、鉛筆を動かし続ける。
さ、さ。
さ、さ。
女は続けた。
「人を連れていく前に、場所を壊します」
「正規支援か」
「はい」
「断れば」
「拒否記録」
「受ければ」
「受領記録」
「返答すれば」
「声、筆跡、担当者、時間が取られます」
「返答しなければ」
「不備として、再確認が来ます」
えりは小さく舌打ちした。
「全部罠じゃない」
「はい」
「なら、どうするの」
女は濡れた袖から、小さな防水袋を取り出した。
中には、封筒の写しが入っている。
えりが受け取ろうとした瞬間、ジンが言った。
「手で持つな」
えりの手が止まる。
「毒?」
「違う。触った場所が残る」
ジンは玄関の横に置かれていた古い盆を指さした。
「そこに置け」
えりは舌打ちしそうになったが、飲み込んだ。
女は、防水袋を盆の上に置く。
ジンは職員へ視線を向けた。
「水」
職員が小さな霧吹きを持ってくる。
掃除用のものだった。
「縁だけ濡らせ」
えりが眉を寄せる。
「そこまでする?」
「乾いたままだと、どこを持ったか残る」
女が、少しだけジンを見た。
「あなたは、まだそういうことを覚えている」
「使い道を変えた」
ジンの声は冷たい。
だが、処理の声ではなかった。
守るための声だった。
えりは盆の縁を持ち、防水袋に直接触れずに内側へ運んだ。
「面倒くさい男」
「生き残るには足りない」
「はいはい」
えりは盆を玄関の段差に置いた。
めぐみは鉛筆を止めない。
ジンは、紙の位置を見る。
「開けるのは、えり」
「理由は」
「お前は現場を持ってる」
「それ褒めてる?」
「役割だ」
「ほんと、言い方」
えりは手袋をつけた。
黒ではない。
台所用の薄い手袋だった。
それでも、素手よりはいい。
えりは防水袋を開けた。
白羽の書式に似ている。
だが、正規支援の顔をしている。
生活環境確認。
物資支援継続調査。
通過児童対応。
職員名簿確認。
玄関保全状況。
靴棚管理。
呼称確認。
未確認欄修正。
えりは、それを見て顔をしかめた。
「未確認欄修正?」
女は頷いた。
「空白に戻させるつもりです」
めぐみが、低く言った。
「……空白にはしない」
女の視線が、めぐみに向いた。
初めて、女の表情が少しだけ変わった。
めぐみは玄関の段差に座っている。
ジンのすぐ近く。
肩が触れていた場所の温度だけが、まだ残っている。
ジンは今、廊下の角に立っている。
それでも二人の間には、離れた感じがなかった。
声を張らなくても届く距離。
鉛筆の音が届く距離。
互いがどこにいるか、確認しなくても分かる距離。
その距離を、女は一瞬で読んだ。
だが、何も言わなかった。
「未確認は、いい言葉です」
女は言った。
「空白ではない。確定でもない。まだ探している、という意味になる」
めぐみは頷いた。
「……うん」
「でも、次からは書く場所を変えてください」
「……場所?」
「欄の中だけに書くと、修正対象になります。欄外に経過として残す。日付を分ける。確認者を一人にしない。声では答えない」
めぐみは、スケッチブックの端に小さく書いた。
欄外。
経過。
日付。
複数確認。
声で答えない。
ジンはその手を見ている。
「……書け」
ジンが低く言った。
「……消さないために」
めぐみは頷く。
「……うん」
えりは、黒い雨合羽の女を見た。
「あなたは中に入れない」
「入らない方がいいです」
「理由は」
「私は、白羽の紙にまだ残っています」
「つまり、ここに入った記録を取られるとまずい」
「はい」
「なら、裏口で話す」
女は頷いた。
雨が、雨合羽を濡らしている。
黒い布に、細い水の線がいくつも落ちる。
ジンが言った。
「えり」
「何」
「盆はそこから動かすな。床に置いたまま読め」
「腰に悪いんだけど」
「手順の方が大事だ」
「はいはい」
えりはしゃがみ、盆の上の書類を広げる。
手袋越しでも、紙には直接触れない。
端を竹の物差しで押さえる。
職員がそっと渡したものだった。
ジンは言う。
「写真は撮るな」
「記録しないの?」
「撮った記録が残る」
「じゃあどうする」
「写す。必要な語だけ」
めぐみが鉛筆を動かす。
えりが読む。
めぐみが書く。
ジンが止める。
「そこは書くな」
「……うん」
「問い合わせ番号は下四桁だけ」
「……うん」
「担当部署名は、今は写すな」
「……どうして?」
「部署名が餌の場合がある」
めぐみは頷く。
「……うん」
女は、それを見ていた。
「正しいです」
ジンは答えない。
「呼ばない方がいいです」
女は言った。
誰に向けた言葉か、全員が分かった。
えりは息を止めた。
めぐみは、静かに顔を上げる。
ジンは動かない。
黒い雨合羽の女は続けた。
「その名前を出せば、白羽は三つ目の欄を埋めます」
雨音が少し強くなる。
「名前は、戻すものです。でも、戻す場所を間違えると、鎖になります」
めぐみの指先が、鉛筆の上で止まった。
ジンは廊下の角から言った。
「……止めるな」
めぐみは頷く。
「……うん」
鉛筆がまた動く。
さ、さ。
さ、さ。
めぐみは言った。
「……分かってる」
声は震えていなかった。
「……今は、呼ばない」
女は頷いた。
「それがいいです」
ジンは低く言った。
「知ったように言うな」
女は、ジンを見る。
「知っています」
ジンの目が冷える。
女はひるまなかった。
「呼ばれなかった名前が、人をどれだけ長く生かすかも。呼ばれた場所を間違えた名前が、人をどれだけ早く殺すかも」
沈黙。
えりは、その沈黙を切らなかった。
女は続けない。
自分の話を説明しない。
ただ、雨の中に立っている。
紙にいない女。
白羽の内側に別の名前で残っている女。
ミーシャの横にいた黒い雨合羽。
中部で負傷し、リハビリを受け、西へ向かい、拘束され、それでもここまで来た女。
めぐみは、ゆっくりと頭を下げた。
深く。
玄関の段差に座ったままではなく、少し身を起こして。
「……ありがとう」
女は何も言わない。
めぐみは続けた。
「……あなたが、見てくれていたんですね」
「私は、紙を見ただけです」
「……でも、その紙の中に、この人もいた」
女は答えなかった。
めぐみの声は低かった。
「……あなたがいなかったら、私は今、こうして、この人の温かさを近くに感じられなかったかもしれない」
ジンが、めぐみを見た。
めぐみは女を見ている。
感謝は本物だった。
だが、膝の上に置かれた指先に、ほんの少しだけ力が入った。
ジンに触れてはいない。
それでも、離したくないという力だった。
えりだけが、それに気づいた。
めぐみは顔を上げる。
笑ってはいない。
泣いてもいない。
ただ、目の奥が少しだけ痛そうだった。
「……私の知らない時間にも、この人は、生きてたんですね」
雨音。
鉛筆は止まっている。
ジンは、めぐみから目をそらさなかった。
短く答える。
「……ああ」
めぐみは頷いた。
「……うん。今は、聞かない」
それから、もう一度、黒い雨合羽の女を見る。
「……でも、ありがとう。これは、本当です」
女は、少しだけ目を伏せた。
「感謝されることではありません」
「……それでも」
めぐみは静かに言った。
「……ありがとう」
ジンは、動かなかった。
めぐみも、それ以上踏み込まなかった。
女は、その二人を見ないようにした。
見るだけで、何かを持ち出してしまう気がしたのかもしれない。
えりは、そこで初めて口を開いた。
「話を戻す。表の封筒はどうする」
女は、雨の中で頷いた。
「受け取らないのではなく、受け取り先を変えます」
「ダミー窓口」
「はい。正規支援の確認窓口を別に作る。ここは直接応答しない。表玄関では受け取らない。配達員には、転送先を示す紙だけを渡す」
「声は」
「出さない」
「名前は」
「出さない」
「印鑑は」
「押さない」
「署名は」
「しない」
「写真は」
「出さない」
「靴棚は」
「見せない」
ジンが低く言った。
「未確認で返す」
女は頷いた。
「ただし、未確認だけでは足りません」
「何が要る」
「確認中の理由」
めぐみが、スケッチブックに書く。
確認中の理由。
女は続ける。
「相手の所属確認中。支援経路確認中。個人情報保護手続き確認中。第三者照会待ち。これを並べる」
えりが言う。
「面倒くさい言葉で返すわけね」
「面倒な紙には、面倒な紙で返します」
女の声は静かだった。
「空白で返すと、相手が書きます。未確認で返すと、相手は待たされます。理由付きの未確認で返すと、相手も勝手に動きにくい」
ジンは頷いた。
「場所を削らせない紙だ」
「はい」
女は、初めてジンに向かって少しだけ頭を下げた。
「あなたは、入口から動かない方がいい」
「ラソアと同じことを言う」
「ラソアを知っています」
ジンの目がわずかに動いた。
「どこまで」
「名前だけです」
「十分だ」
「はい。だから、これ以上は言いません」
えりは、盆の上の書類を見ながら息を吐いた。
封筒の表書き。
受領欄。
返送先。
問い合わせ番号。
そして、小さなメモ。
雨合羽の女の字だった。
受け取るな。
拒むな。
転送せよ。
声を残すな。
写真を出すな。
未確認を空白にするな。
えりはそれを見て、息を吐いた。
「優秀すぎて嫌になる」
女は答えない。
ジンが言った。
「使える」
えりが睨む。
「人に言う言葉じゃない」
ジンは少し黙った。
めぐみの鉛筆の音が、すぐ近くで続いている。
さ、さ。
さ、さ。
それに気づいたのか、ジンは言い直した。
「助かる」
女の表情が少しだけ動いた。
「それなら、受け取ります」
えりは、目だけでジンを見る。
今、言い直した。
めぐみの前で。
えりは何も言わなかった。
めぐみも言わない。
ただ、鉛筆をもう一度動かした。
さ、さ。
さ、さ。
玄関の表側で、ベルが鳴った。
全員が止まる。
職員が奥で動きかける。
えりが手で止めた。
ジンは目を閉じた。
一人。
紙袋。
革靴ではない。
雨を避ける歩き方。
配達員。
だが、後ろにもう一つ音がある。
離れている。
壁際。
動かない。
確認役。
「一人じゃない」
ジンが言った。
えりは頷く。
「後ろ?」
「角。見なくていい。見たら、見たことが残る」
「嫌な言い方」
「見るな」
「分かった」
えりは筆談用の紙を取った。
当施設では、該当書類の直接受領を行っておりません。
支援経路および所属確認中のため、以下の窓口へ転送してください。
確認完了まで、個人情報、写真、呼称情報、名簿情報の提出は保留します。
未確認。
えりは、その最後の三文字を見た。
未確認。
めぐみの字ではない。
えりの字だ。
だが、その考え方はめぐみのものだった。
ジンが紙の端を押さえる。
「署名するな」
「しない」
「印鑑も」
「押さない」
「封筒は受け取るな」
「分かってる」
「声は」
「出さない」
えりは表玄関へ向かった。
扉は少しだけ開ける。
声は出さない。
紙を差し出す。
配達員が困った顔をした。
何か言いかける。
えりは、もう一枚の紙を見せた。
現在、声による確認には対応しておりません。
配達員の目が泳ぐ。
角の男が、わずかに動いた。
えりは見ない。
見ないまま、紙だけを置く。
封筒は受け取らない。
拒否もしない。
転送先だけを渡す。
配達員の手が止まる。
えりは扉を閉めた。
鍵はかけない。
ただ、閉める。
玄関に戻ると、ジンが聞いた。
「角」
「動いた」
「取れた」
「何を」
「拒否じゃない。転送」
えりは短く息を吐いた。
「嫌な勝ち方」
「勝ってない。遅らせただけだ」
「今は、それで十分」
裏口の外で、黒い雨合羽の女が頷いた。
「相手は次に、転送先を叩きます」
「そこは」
えりが聞く。
女は答える。
「空の窓口です」
「空?」
「人がいないのではありません。名前がない窓口です」
ジンがわずかに目を細めた。
女は続ける。
「受けるのは紙だけ。声を持たない窓口。担当者名を出さない。受付番号だけが残る」
「お前が作ったのか」
「旧南第三で、教わりました」
めぐみが顔を上げた。
「……健二さんたちのところで?」
女は頷いた。
「名前を出せない人を、どう消さずに置くか。あそこには、その知恵があります」
めぐみは、静かに頷いた。
「……そっか」
ジンは、何も言わなかった。
だが、表情が少しだけ変わった。
旧南第三。
健二。
あの場所は、まだ機能している。
ただ保護する場所ではない。
名前を消さずに置く技術を持つ場所になっている。
黒崎が場所を削るなら、場所は場所で守り方を覚えている。
裏口の外で、黒い雨合羽の女がフードを戻した。
「私は長くいられません」
「どこへ」
えりが聞く。
「西へ戻ります」
「白羽に?」
「はい」
ジンは廊下の角から外を見た。
雨。
塀。
路地。
表の角。
排水溝。
逃げるなら、右ではない。
右は表の確認役とぶつかる。
左は狭いが、足跡が残る。
正面は駄目だ。
ジンは短く言った。
「裏の物干し場」
えりが見る。
「何」
「そこを抜けろ」
女がジンを見る。
「なぜ」
「路地に水が流れてる。足跡が消える」
えりがすぐに動いた。
「職員、物干し場の鍵。あと古い傘二本。色違い」
職員が奥へ走ろうとする。
「走らない」
えりが低く言う。
職員は歩いた。
ジンは続ける。
「雨合羽は一度脱げ」
女は動かない。
「黒いまま出ると、線になる」
えりが頷いた。
「確かに目立つ」
職員が古い紺色の雨具を持ってきた。
サイズは合っていない。
それでいい。
ぴったり合うものは、逆に記録に残る。
女は黒い雨合羽を脱ぎ、紺色の雨具を羽織った。
えりは黒い雨合羽を受け取らない。
床に置かせる。
「これは?」
えりが聞く。
ジンは答える。
「濡れたまま干すな。袋に入れろ。乾いた形が残る」
「どこまで面倒なの」
「まだ足りない」
えりは袋を用意させる。
黒い雨合羽は、濡れたまま袋に入れられた。
女は裏口からではなく、物干し場の細い扉へ向かった。
ジンは動かない。
だが、音を聞いている。
扉。
雨。
足。
排水。
遠ざかる。
もう一つの足音はない。
「尾行は」
えりが聞く。
「今はない」
「今は、ね」
「すぐ来る」
「でしょうね」
えりは携帯を取り出し、エレーナへ短く送った。
黒い雨合羽、接触。
表封筒、拒否せず転送。
署名なし。
音声なし。
防水袋確保。
雨具交換。
物干し場より退出。
尾行現時点なし。
送信後、えりはミントを噛んだ。
「仕事量、多すぎ」
ジンは答えた。
「まだ増える」
「最悪」
「そういう相手だ」
えりは玄関へ戻った。
めぐみは、まだ鉛筆を動かしている。
さ、さ。
さ、さ。
ジンはその音を聞いて、ようやく少しだけ息を吐いた。
表玄関の外では、配達員が去っていた。
角の男もいない。
だが、終わったわけではない。
場所を削る攻撃は、始まったばかりだった。
黒崎は、白い机の前で報告を受けていた。
正規支援確認書類。
京都施設、直接受領せず。
拒否ではなく、転送指示。
声による確認、不可。
署名なし。
印鑑なし。
写真提出なし。
呼称情報提出なし。
名簿情報提出なし。
返答。
未確認。
黒崎は、その三文字を見た。
未確認。
空白ではない。
拒否でもない。
確定でもない。
待たせる言葉。
消さない言葉。
黒崎は赤ペンを取らなかった。
黒いペンも取らなかった。
青い点を一つ、紙の端に打った。
宮崎めぐみ。
末安えり。
福岡仁。
そして、雨。
黒崎は、雨という文字を書かなかった。
まだ早い。
だが、京都の周辺に、もう一つの手が入ったことは分かった。
白羽の紙の内側にいるはずの名前が、外へ水を漏らしている。
黒崎は静かに言った。
「場所を削る前に、雨を止める」
白い部屋の中で、誰も返事をしなかった。
京都の玄関では、めぐみが紙の端に文字を書いていた。
未確認。
その下に、日付。
その横に、小さく、
確認中。
ジンは、めぐみの隣へ戻った。
座らない。
玄関の柱に背を預け、外と裏口の両方を見られる位置に立つ。
めぐみは、その足元近くで鉛筆を動かしている。
ジンの手が、紙の端を押さえた。
めぐみの指先が、そのすぐ近くにある。
触れてはいない。
だが、同じ紙を押さえている。
それだけで十分だった。
えりは玄関の外を見ていた。
雨はまだ降っている。
ジンは、低く言った。
「削りに来る」
えりが頷く。
「来たね」
「次は、もっと正しい顔で来る」
「でしょうね」
めぐみは、鉛筆を止めずに言った。
「……消さないよ」
ジンは、めぐみを見た。
短く答える。
「……ああ」
「……名前は、まだ呼ばない」
「……ああ」
「……でも、消さない」
ジンの指が、紙の端で止まった。
めぐみの指先が、その近くにある。
触れてはいない。
けれど、同じ紙を守っている。
「……それでいい」
外には雨がある。
中には名前がある。
その境目に、二人がいる。
呼べない名前を、声にしないまま。
紙にしないまま。
ただ、体温と沈黙で守りながら。




