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第八十八話 離すな

## 第八十八話 離すな


 車は雨の中を走った。


 ワイパーが、フロントガラスの火の色を左右へ切っていく。


 赤。


 黒。


 赤。


 黒。


 後ろで、名前のある場所が燃えていた。


 靴棚。


 夜間記録。


 子どもの声。


 めぐみの絵。


 そこにあったものが、雨の向こうで小さくなっていく。


 男は前を見ていた。


 ハンドルを握る手に、血がついている。


 自分の血ではない。


 白班のものでもないかもしれない。


 誰のものか分からなかった。


 めぐみは後部座席にいた。


 記録とスケッチブックを胸に抱えている。


 さっき車内から引きずり込まれかけた腕に、黒い手袋の跡が残っていた。


 男はバックミラーを見た。


 めぐみは泣いていない。


 怖がってもいない。


 ただ、息が少し浅い。


 煙を吸ったのだ。


「窓を少し開けろ」


 男が言った。


 めぐみは頷き、後部座席の窓を細く下げた。


 雨の匂いが入ってくる。


 煙の匂いが少し薄くなった。


「それ以上は開けるな」


「……うん」


「顔を外に出すな」


「……うん」


 車内には、拘束用の布と黒い袋が残っていた。


 めぐみを入れるための道具。


 男は、それをミラー越しに見た。


「足元の袋を蹴れ」


 めぐみは足で黒い袋を押した。


「外へ」


「……窓から?」


「いや。扉を開けるな。後で捨てる」


「……うん」


 男の声は低い。


 怒っているようには聞こえない。


 だから余計に危うかった。


 怒りではない。


 もっと静かなものが、身体の奥で燃えている。


 火の中で、めぐみを掴んだ手。


 車内で、めぐみの腕を引いた手。


 その記憶だけで、男は何度でも殺す側へ戻れた。


 けれど、めぐみの顔があった。


 煙の向こうで、安心していた顔。


 私の前には、なおがいる。


 その顔が、まだ男の足を止めていた。


 めぐみが、小さく言った。


「……さっき」


 男は答えなかった。


「……呼んだね」


「……」


「……めぐみって」


 ワイパーの音だけが続いた。


 男は前を見たまま言った。


「出た」


「……取られたかもしれない」


「ああ」


「……でも」


 めぐみは、少しだけ息を吐いた。


「……嫌じゃなかった」


 男の手が、ハンドルを握り直した。


 答えれば、何かが燃え残りから崩れる気がした。


 だから、言わなかった。


 車は暗い道へ入る。


 京都の細い路地。


 雨で光るアスファルト。


 閉じた店のシャッター。


 軒先から落ちる水。


 男はこの町を知らない。


 地図もない。


 だが、逃げ道ではなく、追われる道は分かる。


 広い道は駄目だ。


 信号がある。


 カメラがある。


 逃げる車が見える。


 細すぎる道も駄目だ。


 詰まれば終わる。


 雨が流れている道。


 人の気配が薄い道。


 曲がったあと、後ろを一瞬だけ切れる道。


 そういう道を、身体が選んでいく。


 めぐみが、前の座席の背を掴んだ。


「……どこへ行くの」


「決めてない」


「……決めてないの?」


「決めた道は読まれる」


「……そっか」


 めぐみは、それ以上聞かなかった。


 男はミラーを見た。


 後方。


 黒い車。


 ライトを消している。


 距離を取りすぎていない。


 詰めすぎてもいない。


 白班の後詰めではない。


 見ている車。


 追うためではなく、線を切らせないための車。


「伏せろ」


 めぐみは反射的に身を低くした。


 黒い車の横から、白いライトが一瞬だけ上がった。


 照らすためではない。


 車内を確認するため。


 めぐみの顔を取るため。


 男はハンドルを切った。


 車体が濡れた路面で滑る。


 めぐみの肩が座席に当たる。


 それでも、記録は離さない。


 男は狭い路地へ入った。


 左右の壁が近い。


 サイドミラーが雨に濡れた壁すれすれを抜ける。


 追ってきた車は入れない。


 だが、それは分かっていて入った道だった。


 前方に、もう一台いる。


 白いバン。


 路地の出口を塞いでいた。


 男は減速しなかった。


 めぐみが息を止めた。


「……前」


「見てる」


 白いバンのドアが開く。


 人が一人降りる。


 黒い手袋。


 手には、棒のようなもの。


 止まれという合図。


 男は止まらなかった。


 白班が一歩下がる。


 男はハンドルを切った。


 車体の左側が、路地脇の古い看板を削る。


 金属音。


 火花ではなく、水しぶき。


 白いバンの横を、半分ぶつけるように抜けた。


 バンのドアが弾ける。


 白班の身体が後ろへ飛ぶ。


 めぐみが目を閉じかける。


「見るな」


 男の声が飛ぶ。


 めぐみは目を伏せた。


 男はブレーキを踏まない。


 抜ける。


 ただ抜ける。


 後ろで黒い車が路地へ入れず、一瞬遅れた。


 その一瞬だけでよかった。


 男は次の角を曲がる。


 さらに細い道。


 雨が側溝へ流れている。


 タイヤの跡が、すぐに水で崩れていく。


 めぐみが、少し咳をした。


 男はミラーを見る。


「苦しいか」


「……少し」


「布」


「……どれ」


「濡れたタオル。足元」


 めぐみは足元を探る。


 さっき施設から持ち出した濡れたタオルが一枚落ちている。


「口に当てろ」


「……うん」


 めぐみはタオルを口元に当てた。


 雨の音が強くなる。


 車内の無線が、そこで鳴った。


 低い雑音。


 男は一瞬でそちらを見た。


 助手席の足元。


 白班の通信機。


 火の中で落としたものとは別のもの。


 まだつながっている。


『回収三班、応答』


 男は手を伸ばさなかった。


『対象、宮崎めぐみ。確保状況を報告』


 めぐみの肩が、小さく揺れた。


 男は前を見ている。


『呼称反応あり。繰り返す。呼称反応あり』


 男の手が動いた。


 通信機を掴む。


 窓を少し開ける。


 投げ捨てる。


 雨の中で、通信機が道路へ跳ねた。


 後ろのタイヤがそれを踏む。


 短い破裂音。


 めぐみは、口元のタオルを握りしめた。


「……聞かれてた」


「ああ」


「……私の名前」


「ああ」


「……あなたの、名前は」


 男は答えない。


 めぐみも、それ以上聞かない。


 聞いてはいけない。


 呼んではいけない。


 でも、知っている。


 この人は、なおだ。


 まだ戻りきっていない。


 でも、なおだ。


 めぐみは、胸の中でだけ呼んだ。


 なお。


 声にはしない。


 言葉にすれば、取られる。


 黒崎に。


 紙に。


 火に。


 男はその沈黙を聞いていた。


 呼ばれなかった名前が、車内の空気に残っている。


 それは、声よりも重かった。


 前方に橋が見えた。


 川ではなく、細い水路を渡る小さな橋。


 男はそこでブレーキを踏んだ。


 車が止まる。


 めぐみが顔を上げる。


「……降りるの?」


「ああ」


「……ここで?」


「この車は檻だ」


 男はエンジンを切らない。


 キーも抜かない。


 後部座席の扉を開ける。


「記録を持て」


「……うん」


「黒い袋は置け」


「……うん」


「布は」


「捨てる?」


「持て。煙の匂いが残る」


 めぐみは濡れたタオルと記録を抱えた。


 男は車内を一瞬だけ見る。


 拘束用の布。


 黒い袋。


 白班の匂い。


 めぐみを入れるために用意された空間。


 男はそれを見て、無表情で後部座席を蹴った。


 座席の裏から、小さな黒い箱が落ちた。


 追うためのもの。


 男はそれを踏み潰す。


 めぐみは見ていた。


「……だから、車を捨てるの?」


「車が道を覚えてる」


「……うん」


「走れるか」


「……走る」


「走るな」


 めぐみが少しだけ瞬きをした。


 男は言った。


「足音が乱れる。歩け。早く」


「……うん」


 二人は雨の中へ出た。


 車はエンジンをかけたまま、橋の手前に残る。


 男は運転席のドアを少しだけ開けたままにした。


 逃げた方向を見せるため。


 追わせるため。


 本当の二人は、橋を渡らない。


 水路沿いの細い道へ下りる。


 雨で靴が濡れる。


 めぐみの足元が滑った。


 男の手が伸びる。


 今度はためらわなかった。


 めぐみの手首ではない。


 手を取る。


 握る。


 強く。


 めぐみは、何も言わなかった。


 ただ、握り返した。


 それだけで、男の喉の奥が詰まる。


 楠の下。


 水道の音。


 離さないでください。


 今度は、男が言った。


「離すな」


「……うん」


「俺が先に行く」


「……うん」


「滑ったら、紙を捨てろ」


「……嫌」


 男が振り返る。


 めぐみは、雨の中で静かに言った。


「……これは、捨てない」


「命が先だ」


「……名前も、命だよ」


 男は黙った。


 めぐみの手は細い。


 だが、記録を抱える腕には力があった。


 男は前を向いた。


「じゃあ、両方持て」


「……うん」


 水路沿いを進む。


 上の道路で、車の音が近づいた。


 黒い車。


 白いバン。


 男が捨てた車を見つけたのだ。


 声がする。


 ドアが開く音。


 誰かが叫ぶ。


「車両発見」


「対象不明」


「周辺確認」


 男はめぐみを壁際へ押した。


 押したというより、雨樋の影へ入れた。


 自分はその前に立つ。


 めぐみの身体が、男の背中に隠れる。


 白班の足音が、上の道を通る。


 橋を渡る。


 車の中を覗く。


 誰かが通信機を使う。


 男は呼吸を止めた。


 めぐみも止める。


 雨だけが降っている。


 めぐみの手は、まだ男の手を握っている。


 白班の一人が、水路の方へ近づいた。


 懐中灯の光が下りてくる。


 男の足が、半歩前へ出た。


 めぐみが握る手に力を込めた。


 殺さないで。


 声にはしない。


 だが、伝わった。


 男は動かなかった。


 光が水面をなぞる。


 雨粒で光が砕ける。


 白班は、何も見つけられなかった。


 足音が戻っていく。


 車のドアが閉まる。


 エンジン音が遠ざかる。


 めぐみが、ようやく息をした。


 男も息をした。


「……今」


 めぐみが言った。


「……行くかと思った」


「行けた」


「……うん」


「でも、行かなかった」


「……うん」


 めぐみは、男の手を離さなかった。


 男は、その手を見た。


 雨に濡れている。


 冷たい。


 でも、生きている。


 男は低く言った。


「さっきの顔」


「……顔?」


「火の中で」


「……うん」


「笑ってた」


 めぐみは少しだけ目を伏せた。


「……笑ってたかな」


「笑ってた」


「……怖くなかったから」


「怖くないわけがない」


「……怖かったよ」


 めぐみは言った。


「……でも、私の前には、なおがいたから」


 その名が落ちた。


 雨の中に。


 水路の音の中に。


 男の手が、一瞬だけ強くなる。


 めぐみは続けない。


 呼んでしまったことを、すぐに分かった顔をした。


「……ごめん」


「謝るな」


「……でも」


「今は、もう遅い」


「……取られる?」


「取られる」


「……じゃあ」


 めぐみは、男の手を握り直した。


「……取り返す」


 男は、めぐみを見た。


「何を」


「……あなたの名前」


 雨が落ちる。


 水路が流れる。


 遠くで、まだ火災のサイレンが鳴っている。


 男は答えられなかった。


 名前を取り返す。


 その言葉は、刃物より深く入った。


 取り返していいものなのか。


 戻っていいものなのか。


 自分が戻れば、また燃えるのではないか。


 また誰かが傷つくのではないか。


 めぐみが。


 子どもたちが。


 あの女が。


 それでも、めぐみは言った。


 取り返す。


 男は前を向いた。


「行くぞ」


「……うん」


 二人は水路沿いを進んだ。


 雨が強くなる。


 施設の火は、もう見えない。


 代わりに、町の灯りが濡れた路面に揺れている。


 男はまだ、どこへ行くか決めていない。


 だが、ひとつだけ決めていた。


 めぐみを渡さない。


 それだけだった。


 その頃、黒崎は白い机の前にいた。


 机の上には、焦げた紙が一枚置かれている。


 端が黒く丸まり、中央だけが残っている。


 通信記録。


 回収三班。


 呼称反応。


 宮崎めぐみ。


 そして、ひとつの音声断片。


 めぐみ、伏せろ。


 黒崎は、何度もその音を聞いた。


 声の揺れを聞く。


 呼吸を聞く。


 名前の前に入ったわずかな熱を聞く。


 黒いペンを取る。


 紙に線を引く。


 宮崎めぐみ。


 呼称回復者。


 第三名称への接続強。


 黒崎は、そこで手を止めた。


 赤いペンではない。


 黒いペンでもない。


 青いペンを取る。


 名前の横に、小さな点を打つ。


 まだ消さない。


 まだ動かさない。


 見つける。


 黒崎は、机の向こうへ視線を上げた。


「追うな」


 部屋の隅に立っていた白班が、わずかに動く。


「しかし、対象は」


「追えば、男は壊す」


 黒崎は静かに言った。


「今の男は、追う相手ではない。触れれば、切られる」


 白班は黙った。


「帰る場所を削れ」


 黒崎は焦げた紙を指先で押さえた。


「人は、戻る場所がなければ、名前を出せない」


 白班が頷く。


 黒崎は、もう一度音声を再生した。


 めぐみ、伏せろ。


 白い部屋に、その声が落ちる。


 黒崎は目を細めた。


「次は」


 短い沈黙。


「なお、だ」


 雨はまだ降っていた。


 水路沿いの暗がりで、めぐみは男の手を離さずに歩いている。


 男は前を見ている。


 名を呼ばれたことの痛みを、まだ飲み込めないまま。


 それでも、手は離さない。


 白羽の車は遠ざかった。


 火の匂いも薄れた。


 だが、逃げ道はまだ始まったばかりだった。


 めぐみが、隣で小さく言った。


「……寒いね」


 男は自分の上着を脱いだ。


 めぐみにかける。


「……あなたは」


「歩け」


「……うん」


 少し先に、古い高架があった。


 雨を避けられる。


 人の目も少ない。


 だが、長くはいられない。


 男は足を止めない。


 めぐみも止まらない。


 高架の下へ入る直前、めぐみがもう一度、男の手を握った。


「……離さないよ」


 男は答えなかった。


 ただ、握り返した。


 その手の中に、まだ戻っていない名前があった。


 その名前を、黒崎が探している。


 めぐみが守ろうとしている。


 男自身だけが、まだ受け取れずにいる。


 雨の音が、高架の下で大きくなった。


 二人は、その音の中へ入っていった。


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