第八十七話 火の中の名前
## 第八十七話 火の中の名前
鉛筆の音がした。
さ、さ。
さ、さ。
楠の葉が揺れている。
初夏の匂いがした。
土。
木の根。
少しだけ湿った制服。
遠くの部活の声。
水道の蛇口から落ちる水。
なおは、膝の上に頭を預けていた。
見上げると、光の中に先輩の顔がある。
輪郭ははっきりしない。
でも、声だけは分かった。
「……男の子はね」
ゆっくりした声。
少し低くて、やわらかい声。
「……たまには、目をつむって、お休みしなきゃだめだよ」
なおは、目を閉じた。
手があった。
細い手。
自分の指を包む手。
離さないでください。
そう言ったのか、思っただけなのか、分からない。
先輩の指が、少しだけ強くなった。
「……うん」
心臓の音が近い。
鉛筆の音が近い。
ここにいていい。
そう思った。
その瞬間、煙の匂いが混ざった。
楠の匂いではない。
紙が焦げる匂い。
布が焼ける匂い。
油の匂い。
男は目を開けた。
最初に見えたのは、靴棚だった。
小さな名前が並んでいる。
その下で、煙が床を這っていた。
鉛筆の音は、もうない。
めぐみが、すぐ隣にいた。
玄関の段差。
施設の内側でも、外側でもない場所。
肩が触れるほど近い。
でも、何も掴んでいない。
何も縛っていない。
めぐみの顔が、煙の向こうでわずかに動いた。
「……火?」
男は起き上がった。
眠りからではない。
夢からでもない。
戦場から戻るように、身体だけが先に起きた。
耳が音を拾う。
表。
ガラス。
何かが割れた。
奥の廊下。
職員の息。
子どもが声を出しかける。
裏。
足音。
三つ。
いや、四つ。
男は低く言った。
「火だ」
めぐみの手が、スケッチブックを閉じる。
末安えりは、もう動いていた。
玄関横の壁に掛けてあった職員用の白い布を引き下ろす。
煙を見て、火元を見る。
窓ではない。
表から投げ込まれた。
ひとつではない。
左右から。
逃げ道を絞る火だった。
「全員、声出さない!」
えりの声は低かった。
怒鳴らない。
でも、廊下の奥まで通る。
「子どもを奥。窓に寄せない。名前を呼ばない。番号も呼ばない。手で数える」
職員が動き出す。
走りかけた若い職員を、えりが腕で止めた。
「走らない。煙が上がる。転ぶ。スピードが足りないのは足じゃない、段取り」
職員は頷いた。
えりは続ける。
「二班に分ける。小さい子は西側。歩ける子は倉庫裏。靴は履かせない。靴棚に来させるな。名前が見える」
煙が濃くなる。
玄関の外で、またガラスが割れた。
今度は薬品の匂いがした。
男は表へ目を向ける。
紙で取れなかった。
声も取れなかった。
だから場所を燃やしに来た。
名前が残る場所ごと。
靴棚。
夜間記録。
職員表。
子どもの声。
めぐみの絵。
全部を火で消す。
男は立った。
めぐみも立とうとする。
男は見ずに言った。
「……そこにいろ」
「……子どもたちが」
「あの女が動かす」
「……でも」
男は、ほんの一瞬だけめぐみを見た。
目の奥に、まだ夢の光が残っている。
でも声は現実だった。
「……紙を持て」
めぐみは止まった。
スケッチブック。
夜間記録。
未確認の紙。
消さないための紙。
めぐみは頷いた。
「……うん」
えりが玄関へ戻ってくる。
片手に濡らしたタオルを束で持っている。
「めぐみ、記録持って。絵も。迷うな」
「……うん」
えりは、そこで男を見た。
「あんた、動けるの」
男は答えなかった。
答えないまま、煙の流れを見ている。
「表は?」
えりが聞く。
「囮」
「裏は?」
「本命」
えりの目が変わる。
「子どもじゃないの?」
「宮崎めぐみだ」
えりは一瞬だけ口を閉じた。
表の火は派手すぎる。
見せる火。
施設を混乱させ、職員と子どもを奥へ流すための火。
本命は、裏から入る。
誰を取るか。
めぐみ。
呼称回復者。
男の第三名称に近い人間。
えりは小さく舌打ちした。
「最悪」
「まだ来る」
男は靴棚の前へ動いた。
中には入らない。
外にも出ない。
だが、玄関の境目に留まり続けるつもりもなかった。
火は境目を消す。
守る場所が燃えるなら、動くしかない。
男は椅子から立った。
めぐみが小さく言った。
「……なお」
男の肩が、ほんの少しだけ止まった。
だが、振り返らない。
えりはその反応だけで理解した。
名前ではない。
呼んではいけない何かだ。
男は低く言った。
「今は、呼ぶな」
めぐみは頷いた。
「……うん」
えりは短く息を吐いた。
「じゃあ、入口の男。指示は短く」
男は職員の一人を指差した。
「名札を外せ。全部」
職員が頷く。
「靴棚の前に布をかけろ」
別の職員が白いシーツを持ってくる。
煙で目をこすりかける子どもを、えりが抱き寄せた。
「目を触らない。下を見る。手をつなぐな、服を持て。離れても名前を呼ぶな」
子どもが震える声で言った。
「先生」
「ここ。見て。私の手」
えりはその子の手を自分の袖に掴ませた。
「声じゃなくて、手。行くよ」
廊下の奥へ子どもたちが流れていく。
走らない。
泣き声を飲み込む。
職員が背中を丸めて、煙の下を進ませる。
えりは最後尾に立つ。
振り返って玄関を見る。
男が表を見ている。
めぐみは記録を胸に抱えている。
その二人の距離は近い。
近いが、甘くない。
火の中で、互いの位置を知っている距離だった。
裏口側で、金属が鳴った。
えりが振り返る。
男はもう動いていた。
廊下の角へ。
煙の低い層を避け、壁際を滑るように移動する。
足音を立てない。
呼吸を乱さない。
扉の向こうで、鍵が切られている。
素人ではない。
工具の音が短い。
迷いがない。
男は壁に手を当てた。
振動で数を読む。
三人。
一人は軽い。
一人は重い。
一人は迷っている。
男は低く言った。
「三号」
めぐみの顔が、わずかに変わった。
えりも聞いた。
「三号?」
「来る」
裏口の扉が開いた。
白い煙の中に、白い作業服が見えた。
黒い手袋。
胸元の小さな三。
その後ろに、白班が二人。
さらに外に、もう二つの影。
後詰め。
火をつける者。
回収する者。
連れ去る者。
三号は煙の中で立ち止まった。
視線が、玄関を探る。
子どもではない。
靴棚でもない。
職員でもない。
めぐみを見た。
めぐみは、記録を抱えたまま動かない。
怖がっていない。
ただ、目を細めた。
「……三号」
三号の手が、ほんの少しだけ止まる。
命令。
宮崎めぐみを確保。
呼称回復者を押さえろ。
第三名称を引き出せ。
だが、その命令とは別の場所に、夜の京都の記録が残っていた。
名前未確認。
三号と申告。
記入不可。
消さない。
後ろの白班が低く言う。
「三号」
三号は動いた。
めぐみへ向かって。
男が間に入る。
最初の白班が缶を投げようとした。
男は一歩で距離を潰した。
手首を押さえない。
止めない。
拳が先に入った。
白班の身体が、糸を切られたように沈む。
声は出なかった。
一撃。
それだけだった。
缶が床へ落ちる前に、男の足がそれを蹴り飛ばす。
濡れた玄関マットの下へ滑り込ませる。
二人目が背後から入る。
黒い手袋が、首を狙う。
男は振り返らなかった。
肘。
膝。
足の甲。
動きが短すぎて、見えない。
白班の脚が崩れ、次の瞬間には壁へ叩きつけられていた。
息が止まる音がした。
えりは、その動きを見た。
制圧ではない。
警告でもない。
一回で済ませる動きだった。
めぐみが見ている場所では、男は壊しきらない。
だが、煙がめぐみの視界を遮った一瞬だけ、動きが変わる。
人体の支えを、迷いなく打つ。
拳も、足も、刃物のようだった。
えりは背筋が冷えた。
これは、守っている男ではない。
守るために、殺す側へ戻りかけている男だ。
三号が、もう一度めぐみへ手を伸ばした。
男は怒鳴らなかった。
踏み込んだようにも見えなかった。
ただ、そこに来ることを最初から知っていたように、半歩だけ身体をずらした。
三号の手は、空を切る。
次の瞬間、男は三号の内側にいた。
近すぎる距離。
白い作業服の胸元に、男の肩が入る。
足が床を滑る。
煙の下を、影だけが抜けた。
男が通った後に、人の形をした空間だけが開いていく。
白班の一人が動こうとした。
だが、男の踵が先に膝の裏を抜いていた。
もう一人が手を上げた時には、肘の内側を打たれていた。
声を出す場所。
立つための場所。
掴むための場所。
男はそこだけを打った。
迷いがない。
怒りもない。
力任せでもない。
ただ、人体の支えを一つずつ消していく。
三号が振り向く。
遅い。
男の掌が、三号の顎の下に入った。
まだ打ち抜いていない。
ほんの一瞬、止まる。
止めたのは、えりの声ではなかった。
煙の向こうに、めぐみの顔が見えた。
記録とスケッチブックを胸に抱えたまま、めぐみは男を見ていた。
怯えていなかった。
泣いてもいなかった。
ほんの少しだけ、笑っていた。
安心している顔だった。
その顔が言っていた。
私の前には、なおがいる。
殺す人じゃない。
帰ってくる人が、ここにいる。
男の掌の角度が、わずかに変わった。
打ち抜く角度ではない。
揺らす角度。
短い一撃。
三号の顎が跳ねる。
目が裏返る。
身体から力が抜けた。
男は三号を床に落とした。
頭を打たない角度で。
殺さない。
だが、もう動けない。
えりはそれを見て、息を吐いた。
「……今のも、十分やりすぎ」
男は答えなかった。
めぐみだけを見た。
めぐみは、まだ小さく笑っていた。
その笑顔が、火の中で男を人間側に引き戻していた。
白班の一人が火の缶へ手を伸ばす。
えりが濡れたタオルを投げた。
白班の視界が塞がる。
「今!」
職員が最後の子どもを奥へ押し込む。
扉が閉まる。
鍵はかけない。
閉じ込めないために。
ただ、煙を切るために閉める。
えりは消火器を取った。
「顔を背けて!」
白い粉が噴き出す。
煙と粉が混ざる。
視界がさらに悪くなる。
男は、粉の中でも動く。
音で読む。
床の軋み。
手袋の擦れ。
呼吸。
まだ動こうとした白班の足首を、男の足が止める。
踏み砕かない。
だが、立てない角度。
えりが白班の手首に布を巻く。
「殺してないよね」
「まだ」
「まだって言うな」
えりは三号を見る。
「これは?」
「気絶してる」
「起きる?」
「起こせば」
「起こさない」
えりは短く判断した。
「子どもは?」
「奥」
「全員?」
「二人、確認中」
「行け」
「あなたは」
「残る。ここの火と子どもを見る」
男は、えりを見た。
名前は知らない。
だが、何をする人間かは分かった。
えりは職員の方へ向き直る。
「二班目、こっち! 低く! 名札持つな! 記録は袋に入れろ!」
職員が子どもを抱える。
泣き声が出そうになる。
えりがその子の前にしゃがむ。
「見るのは私。火じゃない。いい? ここ」
自分の胸元を指す。
「ここ見て歩く」
子どもは頷いた。
えりは立つ。
背中で子どもたちを庇いながら、煙の薄い通路へ誘導する。
玄関では、男がめぐみの前に立っていた。
めぐみは記録とスケッチブックを抱えている。
手は震えていない。
だが、唇の色が薄い。
「……今、呼びそうになった」
めぐみが言った。
男は答えなかった。
「……でも、今は呼ばない」
「そうしろ」
「……うん」
めぐみは、煤のついたスケッチブックを胸に抱き直した。
男は、めぐみの腕ではなく、彼女が抱える記録の端を見た。
燃え移りかけた煤がついている。
男は自分の袖で、それを払った。
「ここは捨てる」
めぐみの目が揺れた。
「……ここを?」
「場所を割られた」
「……子どもたちは」
「あの女が出す」
「……記録は」
「持てるだけ」
「……あなたは」
男は、玄関の外を見た。
火。
煙。
雨。
白羽の足音。
ここにいれば、さらに来る。
めぐみがいれば、ここは燃やされる。
めぐみを連れて出なければならない。
それは逃げることではない。
場所を守るために、場所から離れる。
奥から、えりが叫んだ。
「子どもは西の倉庫へ回した! 職員も出す! あんたは、その子を連れて行け!」
男はめぐみを見た。
めぐみは、記録とスケッチブックを抱えている。
煙で髪が乱れている。
頬に煤がついている。
それでも、目は逃げていない。
「……ここを離れるの?」
男は答えた。
「離れる」
「……子どもたちは」
「あの女が出す」
「……えりさん」
「名前は知らない」
めぐみは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……そっか」
男は、外を見た。
裏口の先。
雨。
火の反射。
白班の後詰め。
車。
逃がすための車ではない。
連れ去るための車だ。
なら、奪えばいい。
男はめぐみに向き直った。
「手を離すな」
めぐみの目が揺れた。
楠の下の声が、二人の間に戻りかける。
離さないでください。
でも、今は違う。
男が言った。
「俺についてこい」
「……うん」
「振り返るな」
「……うん」
「転んでも、記録は離すな」
「……あなたは?」
「俺は、お前を通す」
めぐみは息を吸った。
何かを言いかけた。
だが、言わなかった。
代わりに、スケッチブックを胸に抱き直した。
男は先に出た。
雨が顔を叩く。
裏口の外に、白班が二人いた。
後詰め。
連れ去るための車の前で待っている。
一人が通信機へ手を伸ばす。
男は走った。
走ったというより、低く飛び込んだ。
通信機を持つ手が上がる前に、拳が入る。
首ではない。
だが、声を奪う場所。
白班の膝が抜ける。
二人目が刃物を抜く。
男は止まらない。
足が相手の膝を外へ流し、肘が胸へ沈む。
白班の背中が車体にぶつかる。
雨に濡れた金属が鈍く鳴った。
男は相手の手首を捻り、刃物を落とす。
落ちた刃を蹴る。
排水溝へ消える。
めぐみは裏口から出てきた。
男は振り返らない。
「来い」
めぐみは走った。
走り慣れていない。
煙を吸った身体が重い。
それでも、止まらない。
男は白班の一人から鍵を取る。
車の後部座席を開ける。
中には拘束用の布と、黒い袋が置かれていた。
めぐみを入れるための場所だった。
男の目が冷える。
その布を掴み、外へ投げ捨てる。
「乗れ」
めぐみが車に手をかけた。
その時だった。
車内の奥で、黒い影が動いた。
まだ一人いた。
回収役。
座席の陰に伏せていた白班が、めぐみの腕を掴んだ。
黒い手袋が、記録ごと彼女を車内へ引きずり込もうとする。
めぐみの身体が傾いた。
スケッチブックが胸からずれる。
男の中で、火の音が消えた。
「めぐみ、伏せろ」
声が出ていた。
自分でも止められなかった。
めぐみが反射的に身を沈める。
その頭上を、男の拳が通った。
車内にいた白班の顎が跳ねる。
続けて、男の膝が座席を越えて入る。
腹ではない。
胸でもない。
身体の芯を抜く場所。
白班の手から力が抜ける。
男はその手首を掴み、めぐみから引き剥がした。
そのまま車外へ引きずり出す。
雨の中へ落とす。
白班が起き上がろうとした瞬間、男の足が首の横で止まった。
踏めば、終わる。
だが、めぐみが見ていた。
車の中から。
記録を抱え直したまま。
怖がっていない。
ただ、男を見ている。
私の前には、なおがいる。
その顔が、また男を止めた。
男は足の角度を変えた。
首ではなく、顎を揺らす。
短い一撃。
白班の身体が雨に沈む。
男は、すぐに運転席へ回った。
ドアを閉める。
エンジンをかける。
火の光が、フロントガラスに映る。
施設の方角で、えりの声がまだ聞こえた。
「低く! 止まらない! 名前呼ばない!」
男は歯を噛んだ。
戻れない。
戻れば、めぐみが取られる。
ここを離れれば、場所が残る可能性がある。
あの女が残る。
子どもたちが逃げる。
なら、行くしかない。
車が動き出す。
めぐみは後部座席で、記録とスケッチブックを抱えている。
雨で濡れた髪が頬に貼りついている。
「……今、言ったね」
めぐみが言った。
男は前を見たまま答えた。
「何を」
「……めぐみって」
男は黙った。
「……取られたかもしれない」
「ああ」
「……でも」
めぐみは、少しだけ息を吐いた。
「……嫌じゃなかった」
男は答えなかった。
答えれば、何かが燃え残りから崩れる気がした。
車は雨の中を走る。
後ろで、名前のある場所が燃えている。
火の中で、黒崎の紙に新しい線が引かれていることを、男はまだ知らなかった。
第三名称。
反応あり。
呼称。
めぐみ。
黒崎は、火で場所を削った。
男は、火の中からめぐみを連れ出した。
そして、なおはまだ戻りきらないまま、帰る場所から逃げ始めた。




